マルゼンスキーの走る姿が好きだった。いつも大人びてみんなのよきお姉さん然としたマルゼンスキーが、まるで幼い少女のように無垢な笑顔で走る姿が。
「あたしね、もう引退しようかと思うの」
マルゼンスキーがまるで明日の予定でも話すかのようにそう私に告げたのは数ヶ月前のことだった。
「足がね、もうダメみたいなの。走っててもそればっかり気になっちゃって…それって、なんだか楽しくないでしょ?」
元々彼女の脚部は激しいトレーニングに耐えられるほど強くはなかった。トレーニングの最中に脚を痛めてしまったこともあり、近頃はなるべく足に負担がかからないようなトレーニングを行ったり、レース前後には念入りに脚部のケアを行なっていた。それでも私が彼女の足について大丈夫なのかと問えば、彼女は大したことはないと私の不安を一蹴してくれていたのだけれど。
「んもう、トレーナーちゃんってばそんな顔しないの!」
「でも…」
楽しくないと言われてしまえば、私はもう何も言い返すことが出来なかった。私はただ、ずっと見ていたかっただけだったからだ。勝ちへの執念や矜持すらも超えた先を走る、マルゼンスキーが何よりも楽しそうに笑うあの横顔が。
「トレーナーちゃんには感謝してるの。あたし、本当に楽しかったわ。だから泣かないで?」
可愛い顔が台無しよ、とマルゼンスキーは私の頬に流れる涙を拭ってくれた。
マルゼンスキーの走る姿が好きだった。いつもみんなのよきお姉さんでいるあなたが隠している、本当のあなたがそこにいるような気がしていたから。
マルゼンスキーたっての希望で最後のレースはこのトレセン学園で、華やかに執り行われることになった。マルゼンスキーを慕ってくれているたくさんの後輩たちは、マルゼンスキーの最後の決断に涙を流したり、もっと一緒に走りましょうと説得したり、名残惜しげに納得したりと様々で、そのどの気持ちも痛いほどに共感できた。
「あたしってば幸せものだわ。トレーナーちゃん、今日はありがとね」
「楽しんできてね、マルゼンスキー。私は先に観客席に行ってるから」
これが正真正銘、マルゼンスキーにとって最後のレースだ。最後は一人で考えたいこと、集中したい時間も欲しいだろう。私はマルゼンスキーに手を振って控え室の扉を閉めた。マルゼンスキーもいつものように笑い返して手を振ってくれた。
用意してもらった最前列の観客席につき、三脚を準備してスマホをセットした。位置を何度も微調整する。マルゼンスキーの最後の走りだ、今までで一番綺麗に撮ってあげたい。
パドックもつつがなく終えて、出走者たちが続々とターフの上に現れ始めた。最後にマルゼンスキーが赤いスカートを翻し颯爽と地下バ道から姿を見せると、観客席から一際大きな歓声が溢れかえった。
マルゼンスキーがチラリとこちらを見る。私は小さく手を振る。するとマルゼンスキーは何故かこちらに向かってツカツカと歩いてきた。その顔はどことなく不満気だ。
「トレーナーちゃん!」
マルゼンスキーは私の傍に立ててあった三脚からスマホを外してしまうと、私に向かってポイと放り投げた。慌てた私がなんとかスマホをキャッチすると、マルゼンスキーはあからさまにムッとした膨れっ面を私に向けている。
「マ、マルゼンスキー…?」
「今日は録画はいらないわ」
マルゼンスキーは私にそう告げると、細い人差し指をピッと立て、そして私の胸の真ん中にその指先を突き立てた。
「今日のレースはね、トレーナーちゃんのここに、しっかり焼きつけてほしいのよ」
そう言ったマルゼンスキーはウインクを一つして、呆気に取られた私を残し長い髪を靡かせてターフへと戻っていった。
これ以上、何を残すというのだろう。初めて見たときから忘れたことなんてない、すっかり焦げついて痕が残ってしまったこの胸に、これ以上何を。
ゲートに入ったマルゼンスキーはただただ前だけを見据えていた。私は心臓の高鳴りが指先を伝ってマルゼンスキーに伝わってしまったんじゃないかと、今更ながら少しだけ恥ずかしくなってしまった。