私たちの間には、いつも少しだけ距離がある。
「スカイ!待ってぇ…!」
「トレーナーさぁん!早くしないとおいてっちゃうよぉ」
「ちょっと!ほんとにっ…もう何なのこの自転車!」
気晴らしに学園近くの小さな山まで走り込みをしようと、トレーナーさんは先輩トレーナーだという人から見るからにオンボロな自転車を借りてきた。サビだらけのアルミに、乗ると響くギーっという鈍い音。大丈夫なのそれ?と思わず口にするも、トレーナーさんは呑気に首を縦に振って笑っていたのだけれど。
山の麓に差し掛かりさぁこれからってところで、オンボロ自転車は突然パンクしてしまったのだ。まあどのみちこの長い坂を運動不足のトレーナーさんが自転車で登るというのは無理に等しいとは思っていたけれど、自転車を押しながらひいひい情けない声を上げるトレーナーさんが面白くって、ついつい悪戯心をくすぐられてしまう。
「頂上まで先についた方の勝ちってことで」
「頂上?!無理無理!もうギブだよぉ…!」
半べそ気味のトレーナーさんをからかうのは面白いけど、そろそろ本当に限界みたい。なだらかな坂道の途中に小さな休憩スポットがあったから、そこで少し休んでいくことになった。
「もう…帰ったら絶対文句言いに行く」
小さなベンチに二人並んで腰掛ける。間に少しの距離。トレーナーさんはタオルで汗を拭いながらシャツの前をパタパタと仰いでいる。
「まあ、私はのんびりできるからいいけどね」
「はぁ…本当面目ない」
ボソリとつぶやいた言葉にトレーナーさんがわかりやすく頭をもたげるのでつい笑ってしまうと、今度はそんなに笑わないでと頬を膨らませた。
「慣れないことはするもんじゃないね。明日は大人しくグラウンドで走り込みしよう」
「走り込みかぁ…トレーナーさんもお疲れなことですし、明日の練習はなしということには…」
「ダメっ!もう、スカイはすぐそうやってサボろうとするんだから」
トレーナーさんの表情がころころと変わるたび、私の頭はくるくると回転する。どうしたらもっと翻弄できる?どうしたらもっと近くでその表情を見られる?答えのないその問いかけに、頭の回転も止まることはない。
怒った顔は見飽きたな。そう思って私とトレーナーさんの間にある距離をぐっと詰めてみた。少し下からトレーナーさんの顔を覗き込むと、トレーナーさんはわかりやすく顔を赤くして、たじろぐように身を引いた。
「な、なに、スカイ…」
さて、ここは押すところ?それとも我慢のとき?トレーナーさんの瞳をじっと見つめてみる。照準は決して見誤らない。さて、と狙いを定めた瞬間、トレーナーさんの瞳が向かって左についっと逸れた。
「ねぇ、トレーナーさん」
私は姿勢を戻して人差し指を立てて見せた。途端にトレーナーさんの表情が緩んで、首を傾けて不思議そうな顔をした。
焦らない。まだここは仕掛けどころじゃない。そう自分に言い聞かせて、言いかけた言葉とは別のセリフを口にする。
「勝負のこと、忘れてません?」
「え?!頂上は無理だよ!」
「じゃあ学園まで先に着いたほうが勝ちっていうのは?ハンデ1分、私が勝ったら明日の練習は休みってことで」
するとトレーナーさんは意地悪そうにニヤリと笑った。
「いいの〜?私パンクしてるとはいえ自転車だよ?」
「いいですよ〜」
トレーナーさんは私の返事を聞くが早いか否か、ぴょんとベンチから立ち上がった。
「私が勝ったら購買部の新作スイーツおごってねっ」
まるで子どもみたいにそう言って、トレーナーさんはまたオンボロ自転車に跨った。ギギッとフレームが軋む鈍い音。トレーナーさんがグッとペダルを踏み込むと、途端にガタガタと、大袈裟なほどに自転車もトレーナーさんも上下に揺れた。
「スカイー!やっぱり無理かもー!」
トレーナーさんがケラケラと笑いながらそう叫んだ。誰もいない静かな山道にその声だけが響いていて、トレーナーさんの背中と一緒にだんだん小さくなっていく。
心の中でゆっくりとカウントする。追いかけるのは性に合わないけど、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。
「さて、行きますか」
遠い背中に向かってそう呟いたら、らしくもなく少し本気になってみる。今は目下、明日の休みを勝ち取るためにとわかりやすく自分を誤魔化してみた。
待っててなんて言わない。勝算はきっとある。例え今は届かなくたって、いつか必ず捕まえてみせる。だから見ててね。今はこの距離丸ごと、愛してみせるから。