本日も良い日和のようで朝食の匂いも漂ってこない早朝。
木葉が風に揺らめく音と、早起きな小鳥の羽ばたきしか聞こえない人気のない中庭で、ファウストは古書を読み耽っていた。
しかし真剣な眼差しとは裏腹に、頁を捲る指は鈍い。
ファウストは戦いの最中だった。化石のような古書の難文と、肩にしなだれかかる柔い熱に毒されないよう、いままさに戦っている。
いつもより少し早く目覚めてしまっただけの、ありふれた朝のはずだった。
部屋の窓から覗く中庭に猫が何匹か寝転がっていたから、たまには外でモーニングコーヒーでも飲もうかと柄に無いことをしたのが悪かったのかもしれない。
読みかけだった古書と、仕込み中だったシェフに淹れてもらったコーヒーを手に。くつろぐ猫たちと共に過ごしていた時、ふらりと晶が現れたのだ。
うつろな瞳とネクタイのない首もと。晶は誰から見ても寝起きの表情をしていて、その珍しくぼんやりとした雰囲気に驚いている内に、ファウストは逃げ場を失ってしまった。
「……賢者」
隣に腰を落とし、ファウストの肩へ頭を傾けたまま無言の晶へ囁くが、返答はない。
もはや手を添えるだけになっていた古書を閉じ、晶を覗き込む。
「晶」
半分ほど閉じ掛けている瞼は、見るからに重そうだ。それでもファウストの声に反応して、鼈甲色の瞳は滑る。
「眠いなら寝直しなさい。朝食まで時間はある」
「……ファウストは?」
「僕? ……僕は眠らない、ここにいる」
「じゃあ、私も」
ここにいますと口をまごつかせた晶は、今度こそ目を閉じた。
腕が絡め取られ、肩への比重がぐっと増え、熱の範囲も広くなる。
晶ひとりの身体など簡単に支えられるが、それよりも吐息の擽ったさが気になってしまい、ファウストは少しだけ身動いだ。
ほんの照れ隠しのつもりだった。けれど、そのわずかな戸惑いを晶は敏感に受け取り、微睡みから醒めた表情で顔を上げてしまう。
「ごめんなさい。…お邪魔でしたね、戻ります」
「いや、構わないよ」
「……本当ですか?」
「ああ、きみの好きにしなさい」
晶は他人の心の動きを読みすぎる嫌いがある。
けれど、ファウストと共に過ごしているときだけは、やけに自由で素直だった。
ファウストは自分の前でしか見せない気安さを悪くないと思っている。晶にとって自分は、糸を張り詰める必要のない存在であると証明してくれているようなものだから。
たまにその喜びが照れに負けて、上手く糸を緩めてあげられないことがあるが、そんな場面では素直になるべきだと、ファウストは知っている。
「ほら、おいで」
立ち上がりかけた晶の手を引いて隣へと戻せば、ほっと息を吐かれ肩へ熱が戻る。
今度は身動ぎなどしないように気を付けながら、晶の小さな頭を撫でた。
「今日は早起きだな」
「ほんとは、二度寝しようと思ったんですけど…。窓からファウストが見えて」
「僕のせいだったか。わざわざ起きてこなくても、朝食の時に会えただろうに」
「……朝からつれませんね」
「…照れているんだよ、分からない?」
「ふふ。分からないので、ちゃんと教えてください」
自由な晶は無邪気に笑う。
ファウストはほろ苦いコーヒーを飲みながら、いじらしいお願いを聞こえないふりをした。
ふたりきりの中庭で、数匹の猫があくびをしている。雲間から指す朝日は柔く、心地いい風が頬を撫でた。
コーヒーの香り、古書の乾いた紙の匂い。キッチンから流れ始めた油の弾ける音に、肩をくすぐるごきげんな笑声。
今日も、自分には不釣り合いな穏やかで優しい一日が始まる予感に、ファウストは帽子の鍔を深く下げて笑った。
(おまけ)
「賢者、ネクタイは?」
「部屋ですね」
「…ベストは?」
「部屋です」
「……《サティルクナート・ムルクリード》」
「わ、すみません。ありがとうございます」
「僕しか居なかったからいいものの、きみは女性なんだから男所帯で気を抜いては……──」
「(小言を言いながらネクタイを結ぶなんて器用な人だな)」
「おい、聞いてるのか」
「ええ、はい。そもそもファウスト以外の前で、こんな格好しませんよ」
「……それなら、まあ、いいか」
「(いいんだ)」
おわり