指先から伝熱爪の先が欠けている。
──ふと、夕食のスープを掬う、スプーンを握る指先が荒れていることに気が付いてしまった。
月に愛された世界へやって来てから、ろくに手入れも出来ていなかったなと、先ほどまで透き通ったスープに舌鼓を打っていた心が、急に引き戻された感覚になる。
いくらか自由に使えるお金は支給されているが、この辺りでハンドクリームやネイルケアなどの品は取扱いはあっただろうか。
いくら良くしてもらっているからといって、魔法使いたちには聞き辛い。きっと優しい彼らの事だ、余計な気を回させてしまうだろうから。
晶はくだを巻きそうになる思考を押し込み、努めて爪先を見ないように目を伏せる。
そして、わずかに温くなってしまったスープを、またひとくち掬った。
***
「──手伝わせちまって悪いな」
最後の食器を洗い終えた時、ネロの気まずげな声が掛かり、晶は手を拭って振り返る。
「いえ、これくらいさせてください。ネロには毎日三食お世話になってるんですから」
夕食の後にネロから「仕込みに人手がほしい」と頼まれたものの、晶が手を貸せたのはシンクに溜まった食器の片付けくらいだった。
本当に少しだけお手伝いをしただけの範疇で、ネロが申し訳なさそうにする理由はない。
あまり気負わせないようにと普段通り笑えば、ネロは一瞬だけそらした目を戻し、笑い返してくれた。
作業台でネロが行っていた仕込みも終えたようで、ボウルやトレーの上にナフキンを掛けて、ネロはぐっと伸びをする。
「よし、おわりっと。ありがとな、賢者さん。お礼になんか飲んでけよ」
「いいんですか?」
「見合った報酬は必要だろ? ──ミルク? ハーブティー?」
茶目っ気な声音に「ミルクで」と答えるのと同時に、ネロはエバーミルクの入った瓶を掲げていた。晶が夜にはホットミルクを好むことを覚えていてくれたらしい。
繊細に他者の心を覚えている人だなと、晶は密かにほころんだ。
ミルクを沸かす背中を、作業台近くの椅子に掛けて見つめる。シュガーを溶かしたミルクをヘラでかき混ぜる手は、文句無しに綺麗だ。
食材を扱う手先は殊更、清潔に保っているのかもしれない。晶はつい自分の手と見比べた。優劣など言うだけ野暮だ。
明日も、明後日も。向こう一週間は働き詰め。
バザールで晶の傷口を塞いでくれる品を、探す時間はしばらく取れないだろう。
「賢者さん、出来たよ」
ぼんやりと自分の指先を見つめていた晶は、すぐ近くまで差し出されていたマグカップに気付けなかった。
「すみません、ありがとうござ──あ、つっ」
「ああ、ほら、熱いって言っただろ?」
どうした、さっきからぼんやりしてるな。
ネロはそう言って笑いながら、晶が受け取り損ねたマグカップをテーブルへと寄せた。
どうやら先ほども話しかけられた様子だが、聞き取ることすら出来なかったなんて、自分はほとほと疲れてしまっているらしい。
晶は曖昧に笑いながら、ひりひりと熱い手を擦り合わせる。ささくれも出来てしまっているのか、やけに手が痛むような気がした。
「悪い。手、痛かった?」
「ああ、いえ、大丈夫ですよ」
「あんたの『大丈夫』はあんま信用できねえんだよな。手、借りるぞ」
否定も遠慮もする間もなく、ネロが晶の手を掬った。
爪も欠けて、案の定ささくれも出来てる。
そんなかさついた手を見られたくなくて引っ込めようとしたが、ネロの微笑みがやけに静かで、手から力が抜けてしまった。
「……指の先まで、がんばってるあんたらしい手だな」
労るような、撫でられているような。そんな柔い呟きだった。
なんと返答すればいいかも分からず、晶は情けない心情が溢れそうになった口元をぐっと堪えるだけにとどめる。
ネロは力の抜けた晶の指の節をなぞりながら、ぽつりと呪文を唱えた。ネロの膝の上に現れたのは小さな箱だった。
「なあ、ミルクが冷めるまで、手入れしていい?」
『手入れ』の意味がよく分からなかったが、善意の滲むネロの言葉に反射的に頷く。
晶から了承を得たネロは、小箱を開けて細長いやすりを手に取った。
汚れの欠片もない綺麗なやすりが、自分の爪へとやわく宛がわれるのを、どこか不思議な気持ちで晶は追う。
「晶はさ、猫の爪を切ってやったことある?」
目線は爪先へ落としたまま、ネロが何でもないように話し出す。つられて、晶も口を開いた。
「何度か手伝ったことはあります」
「俺も前に頼まれて手伝わされたことあんだけどさ、あいつら凄い剣幕で暴れるよなあ。あちこち引っ掛かれてひどい目にあったよ」
ぽつぽつと交わされる普遍的な日常の思い出に、知らぬ間にくたびれていた心が大きく息を吐いた気がした。
マグカップから漂う甘い香り。爪を撫でるやすりの音。指を握る少し固い手の温度。ネロの静かな声。
キッチンに満ちるすべての音や色が心地よい空気を纏っていて、ネロが手際よく晶の指先全部を整えてくれた頃には、心身ともにすっかり暖まっていた。
「よし、そろそろ仕上げといくか」
またもや囁かれた呪文によって、今度は小瓶が目の前に現れる。
ネロは小瓶のコルクを抜き、「魔法薬だよ、嗅いでみな」と晶へと差し出した。
いわれた通りすんと鼻を鳴らしてみれば、どこか懐かしい甘い花の薫りが抜ける。
以前、どこかの任務先で晶がいい香りだと言った、姿も名前も知らない花に似ている匂いだった。
「ネロ、この香り……」
「本物の花じゃないけどな。できるだけ似せてみたんだけど、どう?」
「好きな香りです。すごいですね、ネロ」
「気に入ってくれたならなりよりだ」
クリーム状の魔法薬を掬い取った指が、晶の手を滑る。
薄く軽やかに伸びるクリームはネロの手によって指の間や爪の先まで、丹念に塗り込まれていく。
さすがに羞恥心がぶり返し始めたが、今さらになって遠慮するわけにもいかず、ネロが満足するのをじっと待った。
「──うん、こんなもんだな。この魔法薬を三日も塗ってりゃ、ささくれも綺麗さっぱり無くなるだろうよ」
ぴかぴかになった丸い爪と、潤い香る指先を見て、晶は微笑む。やはりこの人の気遣いは、とことん優しくて静かで柔らかい。
ネロは一仕事終えたような表情で、カップを煽った。それに倣って晶もホットミルクに口を付けるが、程々に放って置かれたはずのマグカップは冷めることもなく適温を保っている。
恐らく長く放置することを見越して、最初から熱く淹れていたのだろう。
ネロはいつから晶の『手入れ』をすることを目論んでいたのだろうかと、晶はひとり目尻を緩めた。
「ありがとうございます、ネロ。……いつから、気に掛けてくれていたんですか?」
「いつから? さて、なんのことだか」
素知らぬ顔で目を伏せるネロの優しさが詰まった花の香りと、甘い湯気を胸いっぱいに吸い込む。
晶は今までで一番美しく磨かれた自分の手を眺めて、優しい策士へと微笑んだ。
おわり