新設本丸のバグ話(神無月の兄者)立ち上げたての機関というものは、往々にして不具合が多発するものである。
本丸の庭木も色づいてきた十月。
神無月だか神在月だか、高尚な神様達は忙しい時期なのだろうが、刀だろうと鍋釜だろうと数多の付喪神には何も変わらない毎日だ。
非番で万屋街に来ていた髭切は、表通りでふと、あちこちから上がる悲鳴を聞いた。
何だろうと周りを見回してみれば、何振りかの男士達が光っている。転送装置を使ったときのものだ。
もちろん万屋街の往来を歩いているときに突如発生するような現象ではなく、飛ばされそうになっている物達は一様に慌てた様子で、聞いた悲鳴は彼らから発せられたものだと分かった。
「ありゃあ?何だろう、あれ」
何だか分からないけど大変そうだなぁ、でも僕は早く帰らないと。朝から遠征に出ている弟がそろそろ帰って来るから、出迎えてあげなきゃね。と、のんびり踏み出した足元には、地面の感触がない。
あれっ、と自分の体を見回すと、周囲の男士達と同じ光に包まれていた。
しまった、自分も巻き込まれていたのかと、今更ながら焦ったが、もう遅い。あっという間に視界も白い光に覆われて、街の喧騒が遠くなっていった。
「ありゃ?飛ばされたと思ったんだけどなぁ」
わずかののちに足元に地面の感触が戻った。光が晴れたら何が見えるのだろうと目を凝らしていると、なんの事はない、本丸屋敷の門の前だった。
なーんだ、僕はちょうどよく帰ってこれたんだ。運が良かったなぁ♪と門をくぐる。けれど、玄関で靴をしまいながら、外廊下から庭を見ながら、髭切は自分の記憶力と戦っていた。
おかしい。何かおかしい。何もおかしなところは見えないのに、何かが違う。
さっきの下駄箱。一振二段ずつの戦用と内番用の棚に、戦用の靴が無かった。すれ違った刀に、見覚えのない子がいる。万屋に行ったたった一時ほどの間に顕現したのだろうか?そのわりには周りが活気づいていない。
どうしよう、何だか気味が悪い。主に聞きに行こうか。いや、でも弟の下駄箱に戦用が戻っていたから、もう遠征から帰っているのだ、先にちょっと顔を見て…そうだこの違和感も弟に聞いてみれば、と思った瞬間、背後から叫び声が上がった。振り返ると、愛しい弟がそこにいる。こぼれ落ちそうに目を丸くして。
「やあ、弟。もう帰ってたんだね、遠征お疲れさま」
その様子にふわりと笑い、歩み寄ってさらさらの頭に手を乗せてやったら、叫んだまま固まっていた弟の唇がわななき、みるみるうちに目が水で覆われた。
ありゃ?そんなに嬉しい?
「あにじゃ…兄者、、待っていたのだ…!今、顕現なさったのか!?なんと、俺が畑に行っている間に…迎えて差し上げられなくてすまない、…ああ、兄者…良かった…!!」
例えば対になる兄弟が決まっていたとして、先に顕現した方が相手を引き寄せるようなことが、本当にできるのだろうか。
本丸が星の数ほどある中で、正確に対が訪れることなどあり得るのだろうか。
訪れたところで、必ず顕現してもらえるのは最初の一振りだけで、本丸には複数の同一本体が在庫になっているものだ。
もしかしたらその在庫の中に、練結資材や刀解資材の中にこそ己の兄弟がいることは?
刀は折れてしまうこともある。代わりに顕現された兄弟を迎えて、ああ兄よ、もしくは弟よ、また会えて嬉しいなどということだってあるだろう。もし折れた刀が対だったのならば、その代わりの兄弟は自分の対ではないとお互いに分かってしまうはずだし、折れた刀が対でなかったのならば、この兄弟は違う…と思いながら最初の日々を過ごすことになる。もちろん、ずっと折れなければずっとそう思い続けたままで。そんな心中複雑な状態で遡行軍との戦いや本丸の団結など、やっていけるのだろうか?
更には、他本丸に顕現している、他本丸の在庫になっていることはないのだろうか。もしや演練で、向こうの本丸のあの子は…なんてことになる可能性は、本当に無いのだろうか。
…無いのだとしたら、この状況は起こり得ないことだろう。
僕を見て、輝く金の瞳に涙を煌めかせるこの弟は、一体どうしたことなのか。
考えられることはひとつ。己の対は決まっていないということだ。
せめて、自分達には分からないということだ。
しかし僕は、この弟にとんでもない事をしてしまった。
自分もあの突発的な転送に巻き込まれて、どこか別の本丸に飛ばされてしまったのだと、この弟を見て理解した。この本丸に既視感があったのは、きっと自分の本丸と同じぐらい新しく設置されたものだからなのだ。まだ審神者が自分好みに増改築をしていない、貸与されたままの屋敷だから見覚えがあって、でも入手した刀は違うから見覚えのない子がいた。
あの場で巻き込まれた刀達はおそらく、最近できた色々な本丸の物達で、不具合の連鎖で不特定に飛ばされ合ったのだろう。そして、僕はたまたま髭切がまだいない、弟が先に顕現していた本丸に来てしまったのだ。
…どうしよう。違和感はあったくせについ頭を撫でてしまった。この子の兄にはなれないのに、取り返しのつかないことをしてしまった。
内番の間に兄が顕現したと、喜ばせてしまっている。
不具合の修正は早ければ数刻、長くても数日だ。またさっきみたいに突然、ものを言う間もなく飛ばされるかも知れない。今すぐ誤解を解いて、ここの主に状況を聞きに行かなくては。
「あの、えーーっと……」
なまえ、名前で呼んであげなくちゃ。軽々しく弟と呼んではいけない。さっき呼んじゃったけど!
弟の名前をよく忘れるのが髭切、というのはここの弟もよく分かっているようで、頬にこぼれる涙を煌めかせながら、にこりと笑った。
「膝丸だ、兄者」
まずい、何だこの、これが極上の笑顔というやつか。兄に再会できた喜びに興奮して赤く染まった頬、僕しか映していない輝く瞳、こぼれるたびに煌めく涙、呼吸がままならなくなっていて、薄く開いた口から吐息が漏れている。
この名前のやり取りすら嬉しいというように、はにかんで名乗るこの弟に、いやこれは不具合で僕はここに顕現したんじゃないしもう弟がいるんだなんて、言える髭切は絶対にいない。
「ひ…ざまる、主はどこにいるかな?」
これはもう審神者に丸投げするしかないと居所を聞いたら、
「主?今会っていたのでは?あぁ、顕現の間と主の部屋は違うからな。兄者、まだ本丸の案内が済んでいないのなら、俺が案内しよう」
嬉々として僕を先導し始める弟。案内してもらわなくてもきっと迷わない…と思える屋敷を、弟の弾む声を聞きながら歩く。ここを曲がったら主の執務室で…と言われた先から、床板を破りそうな足音が響いてきた。
「あっ、膝まr……!!ひ、髭切!!!!!」
血相を変えて走ってきたのは、ここの主だった。
そして、今、弟の…ここの弟と髭切の部屋に、二振で鎮座するに至る。
僕が入っては気分が良くないだろう、と言ったのに、構わないからと座布団を勧めたのはこの子だ。うーん、同じことを僕のあの子がしたらちょっと嫌なんだけど…と思ったのが顔に出ていたのか、大丈夫だ、その座布団は俺が使うから自分の兄に別の兄者が座ったものは使わせないから、と言ってきたけど、それはそうだけどどこかの僕が使ったものを弟が使う、だなんてのも複雑だ。まず、どこかの僕の方が先に自分と弟の部屋に入ったなんていうのが気分が良くないと思うんだよね。髭切としては。嫉妬は良くないって僕も言うけど、それはそれこれはこれだ。
とはいえ廊下で押し問答しているわけにもいかないから座らせてもらったけど、顔を上げてもくれなくなったこの子がいたたまれなくてならない。
ここの主が広間に皆を集めて不具合の説明をしていたときのこの子の顔。どんどん血の気が引いて、あんなに赤かった頬が真っ白になってしまった。正座に置いたこぶしが震える様がかわいそうでかわいそうで、手を握ってあげたくなったけど、なんとか耐えた。髭切というのは自動で弟を庇護したくなる刀なのだ。でもこの弟にそういうことをしていいのは僕じゃないから、さすがの僕もそこは大雑把にはできない。
審神者の説明だと、今回の件は刀剣男士(付喪神)の数が少なく神気の弱い新設本丸に限って、このお偉い神様たちが大移動する神無月の時期によく発生する現象だそうで、政府も対処を分かっているから明日のうちには元の本丸に戻れるだろうと言っていた。僕の弟にも心配を掛けているだろうなあ、遠征から戻ったら兄が外出先で行方不明だなんて。一晩でよかった、僕の弟にもここの弟にも。
それでも、この子の意気消沈した姿は見るに堪えない。
「…あー…えーっと、うーん、あ、膝丸、その、ごめんね…?僕、さっきよく分かってなくて、お前の頭、撫でてしまって…」
お前の兄より先に、と伏せた顔を覗き込んだら、堰を切ったように大粒の涙をこぼしだして、僕はとんでもなく慌てる。
「わ!ごめん!本当にごめんよ、お前、ずっと自分の兄に思い焦がれていてくれてるんだね。同じ髭切としてものすごく嬉しいよ」
ああもう、今すぐ抱きしめてぐしゃぐしゃになるまで頭を撫でて、涙を拭ってやりたい。泣かなくても良いんだよと、いずれ必ずお前の兄は来るから安心をし、と背をさすってやりたいのに、よそんちの子、という一点でなんとかそれを押し留めるのは、相当きつい。明日のうちになんて、保たないよ僕の精神力…。
と、途方に暮れそうになっていたら、この子がようやく口を開いた。
「…っ……すまない、ずっと、なっ…泣いてばかりで…」
久しぶりに聞いた声にほっとする。
「いいんだよ、とんでもない事態になっちゃったんだもの。何かほら、うーんと、ほら、ここにちゃんと髭切が顕現したときの予行演習だと思ってさ?」
なんとかしてあげたくて、普段は大雑把な頭をひねった。
「予行演習…」
泣き腫らした目がやっとそろりと上がってくる。
「そうそう。ね、お前、兄者と一緒にしてみたいこととか、兄者にして欲しいこととか、あるだろう?言ってみてよ。大丈夫大丈夫、演練と同じだよ、何事もぶっつけよりさ?」
話すだけでも楽にならないかな、それとも思いが募るばかりかな、と思って言ってみたら、この子はぐっと息を詰めて、眉を寄せて、小さな声を絞り出して、
「…兄者と……だが、あに…あなたには、あなたの本丸に俺がいるのだろう、そんな、他本丸の俺の世話など…」
世話、と自分で言って今のありさまも世話を掛けていると思ったのか、握りすぎて白くなったこぶしで乱暴に目元を拭う。押し上げていた内番の袖を引っ張ってなんとか涙を止めようとするこの子の姿に、今度は僕が息を呑む番だった。
僕は何を勘違いしていたんだ、この弟はずっと、僕を気遣ってくれていたんだ。青ざめる顔も、震える握りこぶしも、こぼれる涙も、本当は頬を包んで欲しくて、手を握りしめて欲しくて、涙も嗚咽も兄の胸に吸わせるほど掻き抱いて欲しかったのに。僕に弟がいると気付いて、我慢していたんだ。戻ったあとの僕を煩わせないように、僕の弟に疑心を抱かせないように。
なん、なんてこの子は…僕の弟、という刀は…
「大丈夫だよ、僕達は二振一具の刀なんだから、僕とお前がこの姿で星の数ほど在ろうと、“髭切”は“膝丸”の兄なんだよ。どこの僕とか、お前とか、個体差とか、そんなものどうだっていい。髭切は膝丸の兄で、膝丸は髭切の弟だ。唯一無二の兄弟だ。それだけだよ」
そうだろう?
「……っ、…」
僕の弟と同じ目が僕を見つめる。
そっと手を伸ばして濡れた手のひらを引いた。
右目を隠す前髪を払うように指で涙を拭いて、火照ってしまった頬を包む。
「あ、あに、…あ…」
「いいんだよ。呼んで、兄者って」
そっと背を抱き寄せて髪をかきまぜた。
促すように、その耳に囁く。
「……弟。」
「!…ぁ、ぁ…、」
「うん、弟」
「あに、じゃぁっ……」
うぅ、と唸って僕の肩に額を押し付けると、腕におさまった体が震えだす。
「あにじゃ、兄者…!どうして俺のところには顕現してくれぬのだ…!俺がまだ弱いからか?兄者が見つかる戦場にまだ俺が行けぬからか?ここの主力部隊もまだ検非違使には手こずるほどだからか!?…鍛刀ではお気に召さぬからかっ…」
兄者、あにじゃ、もう待てぬ…それとも演練で、万屋で、兄者と一緒の俺を見て、兄弟睦まじい俺達を見て羨んでしまう俺を嫌ってか……
「そんなことない!!」
思わず叫んでしまった。だって、あり得ないことを呟くんだもの。
「いいかい、お前、よく覚えておいて。どんな僕でも、お前を嫌いになんてならない。絶対にならないからね。」
心を込めて頭を撫でた。
荒げた声に驚いて固まっていた体が、ふにゃりと柔らかくなる。
「よしよし、いい子。びっくりさせてごめんね」
背中を叩いてやると、押し付けたままの頭をぐりぐりと振って、ずっと握りしめていた両手がようやくそろそろと僕の背に回ってくる。
「兄者……兄者…」
「うん、うん、弟。」
良かった。やっと涙は止まったみたいだ。
ホッと息をついて、僕も緊張していたことに気付く。
温かい体が気持ち良くていつまでもくっついていたかったけど、
「…ねぇ、弟」
「ああ、兄者」
「お腹すいたね」
「喉も乾いた」
「あはは、あれだけ目から水を出して、お前、干物になっちゃうかと思ったよ」
「うぅ…恥ずかしいところをお見せした…///兄者、きっと昼餉を取っておいてくれていると思うから、厨に行ってくるから少し待っていてくれ」
泣き虫な弟の顔はもうひとりぼっちの迷子のようではなかったけど、
「それなら僕が行ってくるよ」
「え?いやそんな、兄者に、」
「お前の目、まだ赤いから」
そう言ったら弟は目を丸くして、首まで赤くして、消え入りそうな声で呟いた。
「すまない…」
「ふふ、いいこいいこ。あ、そうだ、これ」
万屋の買い物、上着に入れてたんだった。弟が遠征から帰ったら一緒に食べようと思って。
「これ食べて待っておいで」
「え、でも」
「すぐ戻るからね」
焼菓子をひとつ握らせて、厨に向かった。
弟が言っていたとおり残しておいてくれた昼ご飯とお湯をもらって足早に部屋に戻ったら、茶器の用意をしていてくれた机にさっき渡した菓子が置いてあった。
「ただいま。ご飯もらってきたよ」
「ありがとう、兄者。あの、兄者、これ…」
そろりと顔色をうかがいながら、弟が菓子を手に取る。食べてなかったのかと僕が不満に思ってはいないだろうか?って顔だ。そこにさっと朱が差したと思ったら、
「よければ、半分ずつ食べてはと…」
ああもう、ここの弟は。
「かしてごらん」
大事そうに差し出された焼菓子を二つに割ってやる。
あの子が顕現したときも、こうやってひとつの菓子を分けたなぁ。おやつが配られたあとに来たから、あの子の分がなくて。
半分の大きさになった菓子がこんなに美味しいなんて、って驚いたんだ。
「ここのところがね、カリカリしておいしいんだよ」
本当に等分かどうかわからない歪な片方を、弟の口元に差し出す。このまま口を開けてよ、って意味をこめて微笑んだら、驚いた目をあちこち彷徨わせたあと、おずおずと口を開いた。
「どうかな?」
「…うまい…」
「よかった。おすすめなんだコレ」
ご飯の前におやつをつまむなんて行儀が悪いけど。久しぶりに弟と半分こした菓子はやっぱりいつもより美味しかった。
弟がお茶を淹れてくれて、お昼を食べる。ここの眼帯くんのご飯も美味しい。
…あの子はちゃんとご飯を食べただろうか。きっと周りが何を言ってもうわの空だろうなぁ。ああ、早く帰ってあげないと…。
非番の一日はゆっくりと過ぎていく。
今回の不具合はどこかの本丸同士で交換になっているのではなく、飛ばされた物がいない本丸に飛んでいたり、一振りいなくなった所に二振り三振り別々の本丸の物が行っていたり、完全にバラバラらしい。僕の本丸には誰も飛んでいないって話だったから、あの子はどこかの僕を身代わりにすることもできないんだ。かわいそうなことをしてしまった。僕が巻き込まれてしまうなんて。
「兄者?」
きょとんとした声で呼ばれて、ハッと我に返ると、ここの弟の頭に手を置いていた。さらさらの髪の感触が手のひらをくすぐる。
…兄のいないこの子を慰めてあげてるつもりが、それは僕の方もなんだって気付いた。そうだ、だってここに飛ばされてこの子がいなかったら、僕は今どんな顔をしていただろう?
「弟、ありがとう」
「?」
ひたむきに兄を想うこの無垢な瞳が、僕を救ってくれている。
ねえ、この子の兄者。早く来なよ。この子が側にいてくれるだけで、数百年の辛苦なんて一瞬で吹き飛ぶんだから。
兄者と一緒なら何でも嬉しいと言うから、手合わせに誘った。さっきまで泣き腫らしていたのが嘘みたいに目を輝かせて打ち込んでくる姿に、ああやっぱりどこの弟も何をしていても可愛くて格好良くて愛おしいなぁなんて思っていたら、急にムッとした顔になって、兄者!真面目にやってくれ!なんて言われちゃって。弟の事で不真面目だったことなんてないのに。心外だなあ。
夕餉のとき、近侍の子が食事は部屋に運ぶかと気遣ってくれたけど、広間で皆と食べさせてもらった。
不具合発覚の後に帰城してきた刀達には、へえこれがあの源氏の重宝…ちゃんと目にするのは初めてだ…と珍しがられて、それからそう言った物みんな弟の方を見て、いつも言うように勇ましく美しい兄上だな、自慢するのも分かるぞ、とか言うから。この子は兄自慢をばらされて恥ずかしいのと、兄を褒められて嬉しいのとでまた顔を真っ赤にした。
「兄者、これ新しい物をおろしたから使ってくれ。寝間着は全員で共有だから、我慢してほしいのだが…」
「うん、うちも共有だから構わないよ。用意ありがとう」
布団の支度をしておくから先に風呂へと勧められて、正直ホッとした。だからそんな、ただ手拭いと着替えを渡すだけで目線をそらして頬を赤らめないで欲しい。僕が午後の時間を過ごすのに手合わせを選んだ意味も、夕餉は大勢の中に混ざった意味も、霞んでしまうじゃないか…。
大…とは言えない浴場で湯船に足を伸ばして、物珍しそうに話しかけてくるここの皆と話をしながら、あの弟の待つ部屋にどういう顔をして帰ればいいかちょっと頭を悩ませていた。
どこの僕達もそういう感じで、どっちがどっちとかの個体差はあるけど、ここの弟は僕の感じた通りで正しいと思う。いや、正しくなかったとしてもさすがに…ねぇ?
結局なにもまとまらないまま廊下を戻っていると、向こうから弟がやってきた。
「兄者、布団敷いておいたぞ」
「ありがとう。お前の風呂が遅くなっちゃったね」
「それは構わない。…ま、待っていなくて良いから、どうぞ先に休んでくれ…今日は疲れただろう」
「…あ、ああ…そうだね」
ぱたぱたと足早に風呂場に向かう弟を見送り、思わず頭を抱えた。だから、その可愛らしい態度はだめだってば…
「兄者?起きていたのか?」
僕が一計を講じて寄り道した厨から戻ってきたのと、弟が風呂から戻ってきたのはほぼ同時だった。お湯でほんのりと染まった肌は、顔だけでなく首も手足も桜色になっていて、あっやっぱりこれを見る前に寝ておけばよかったかなと思ったけど。
「うん。弟、ちょっとこっちにおいで」
端に寄せられていた座卓の前に手招きする。この子は易々と近寄ってきて、隣に腰を下ろした。
「一杯どうぞ」
「兄者…」
厨からもらってきた酒を勧める。弟刀は蛇の逸話のおかげで酒が嫌いという物はいない。この子も自然に杯を手に取る。
「僕は明日のうちに僕の本丸に帰るから、ここのお前と過ごす夜は今日が最初で最後だからね」
もう少し、お前と話をしたいと思って。
「あ……」
僕に慣れてくれたのは、髭切(兄)としてすごく嬉しいけど、お前の兄は僕ではない。という事実に蓋をさせないように。可哀想だけど、はっきりと口にする。桜色の頬から色が落ちてしまったのは分かっていたことだ。途端に目を潤ませたのを見て、僕も胸が痛んだけど。
「ごめんね、お前を泣かせたくて言ってるんじゃないんだよ」
頭を撫でるのを拒否されるかもと思ったけど、大人しく撫でさせてくれた。
「…わかっている…兄者は優しいからな…」
湯気の立つ燗酒を啜って、弟はひと息つく。
頬に色が戻り、酒を含んだ唇が艶々と光った。
「兄者は…俺と兄者は、どこの俺達でも同じと言った」
「うん?うん、言ったね」
空いた猪口に次を注いでやると、今度はひと息に飲み干した。きらきらと濡れ光る目が僕をじっと見ている。
「…兄者は、膝丸(俺)を、侮っている」
「侮ってる?」
ありゃ?何かもっと穏やかな話をするつもりだったんだけどな?だけどこの子が今何を考えているのか、どうやら本音を聞けそうだから、大人しく聞くことにする。
「…俺も、最初は、俺とあに…あなたのところの俺は違う物と思っていて、みっともないところを晒してしまったが、あな…兄者が、どの俺も兄者も同じ二振一具だと言ってくれて、兄者と呼ばせてくれて、っ、…っ…」
ぽろりと珠玉がこぼれた。
「ああ、そうか、って…っ…どこの俺も同じ俺なら、きっと…自分の兄者がよその俺に情けをかけても、さすが俺の兄者、慈悲深い惣領、俺を救ってくださって感謝のしようもない…と、思う、はず、だろうと、…っ…っ」
ぽろぽろと、綺麗な水の珠がいくつもいくつも弟の頬を伝っていく。僕は応える言葉を失っていた。
「…っ、つ、都合のいい解釈だろうかっ…たとえそうでも、…俺は、俺は、兄者のもっと…お側にいきたくてっ…!」
じり、と弟が膝を進めて、膝頭がぶつかった。可哀想なくらいに震えている手のひらが、遠慮がちに僕の腿に添えられ、ぎゅうっと寝間着に皺を寄せる。
「でも、でも、、兄者が、この俺を守ってくださっているのも分かるのだ……でも!どうしようもなくて、全部わかっているのにどうしようもなくて、膝丸(俺)が兄者を想う気持ちは、どうしようもなくて…」
がくり、と伏せた顔から落ちた涙が、僕の寝間着に吸われていく。腿に置かれた手が、そろそろと僕の手を掴んだ。
「だから、お願いだ兄者…せめて今夜、この手を離さないでいてくれないか……!」
…たまらず、手も体も潰す力で抱き締めた。憐れな弟は言いつのる。
「…っ本当は、寝るのも嫌なのだ…寝たら明日になってしまうっ…明日になったら兄者はいなくなってしまう……あにじゃはおれのではないのに、でもおれのあにじゃはいつ…っ…いつ…!!」
押し殺して唸る泣き声が、顔を押し付けた胸から直接響く。弟の心が痛いほど伝わってきて、僕の目からも涙がこぼれた。
「ごめんね、ごめんね弟。僕はのんびり屋だから、お前の手も皆の手も主の手もたくさんたくさん煩わせてしまってごめん。待ちきれなくさせてごめん。怒ってくれていいよ、お前の兄が来たら、遅いって、のんびりもいい加減にしろって、たくさん怒って」
「あにじゃぁっ……!」
「…ごめん、弟。僕の方が手だけじゃ足りない。このまま抱き締めて眠らせて」
力一杯抱き寄せたまま布団に押し込む。弟は途端に慌てて、一層顔を赤らめた。
「あっ!あっ、あにじゃ、それは、それは…っ」
…僕の脚に押し付けられるかたちになったこの子の体の中心が、真っ赤な頬よりも熱くなっている。えっ、と驚いて、思わず手で触れた。
「ひゃぁっ!ぁ、ぁ、あにじゃ、っ」
「お前、これ、いつから…」
「…ゆ、夕餉のあとから…」
「えっ、夕餉のあと!?だってじゃあ、風呂のときお前、」
「あのくらい遅ければ入る物も少ないから…」
もじもじと落ち着かなさそうに身をよじる。
…だから僕と風呂の時間を分けて、それにあんなに早風呂だったのか。おかしいと思った。酒を一合レンチンするのに5分もかからないのにもう戻ってきて、それなのに肌が火照っていたのは風呂のためだけじゃなくて元から溜め込んでいた熱のせいだったんだ。
「お前、これでよく手だけ握っててなんて言ったね」
一晩どうして過ごすつもりだったんだろう。
「ぅぅ…」
「お前の兄には内緒だよ?手伝ってあげる」
「えっ、あにっ…ぁ、ぁ、あっ…!」
…ねぇ、僕の弟。褒めてくれるだろう?こんっっっなに魅惑的なお前を前にして、僕が奉仕だけに徹したことを。ここの弟が、感極まって意識を飛ばしてくれて助かった。達したあとに見つめられて、あにじゃ…なんて呼ばれでもしたら、僕もお前に内緒ができてしまうところだったよ…。
「じゃあ髭切、用意はいいか?」
「うん、いいよ。ここの主も、皆も、弟も、僕を温かく受け入れてくれてありがとう。突然のことで迷惑を掛けてしまったけど、皆のおかげでいい一日を過ごせたよ。僕が飛ばされたのがここでよかった。また演練や万屋で会ったら、よろしく頼むよ」
修正完了の通達は、思っていたより早く来た。
作業のために政府の力で閉鎖されていた表門。今は再び審神者の一存で開けるようになって、そこをくぐれば僕は僕の本丸に帰れる。昨日、万屋から帰るはずだった、僕らが好きな菓子を用意して、弟の遠征をねぎらうはずだった僕の本丸に。
ここの主と皆に挨拶をして、僕は視線を足元に落とす。そこには、すでに立っていられなくなっていたここの弟が、震えながらうずくまっている。僕もしゃがみ込んで、その肩をそっと抱き寄せた。
「兄者…行って……帰って、しまうの、だな…」
「うん、弟…世話になったね」
弱々しく首を振るこの子。
「ねぇ、弟、約束するよ」
「約束…?」
涙でべしょべしょの顔を上げてくれる。そっと頬を包んだ。
「うん。僕は、お前の僕は、もうすぐそこまで来てるって。お前が呼べば、心から呼んでくれれば、すぐ目の前に現れるって」
「兄者…そんな…」
「信じてくれるね?」
唇を噛み締めてうなづく弟に、微笑んで
「いいこ。」
僕から目を離すまいとする左の瞼に、そっと口付けた。
「!あにじゃ…!」
「じゃあね、元気で」
「ぁにじゃっ…!」
ぽろぽろと、いつまでも降る雨。大丈夫、きっと晴れるから
「お前の兄が来たら、僕のおすすめ教えてあげてね」
菓子を割るしぐさをして、にこりと笑いかける。
「あ…!」
ふふ、僕はずるいだろう?ちゃっかりお前に、僕を覚えさせたんだ。
立ち上がって、門の方を向く。審神者の霊力が徐々に高まって、重い門をゆっくりと開いていく。隙間から漏れ出る転送の光に向かって、僕は一歩を踏み出した。
「〜〜っ!!あにじゃ、あにじゃぁっ…!嫌だ、嫌だ行かないでくれっ…!!」
弟の、悲痛な叫びが背に突き刺さる。どんな敵より妖より僕の心を斬り刻むけど、歩みは止められない。
「っ、置いて行かないで、俺をひとりにしないで、またひとりにしないで……!!」
大丈夫、お前は大丈夫だから、
「…!!嫌だ、あにじゃ側にいて、、、ここにいて兄者ぁ!!!」
ほら、光りに包まれて門が閉まる直前、振り返って見た悲壮な弟の顔の向こう。
「ここにいるよ、僕の弟」
霊力に煽られた花弁が一枚、門をすり抜けて、僕の内番にそっと舞い降りた。
「たd…グフッッ!「兄者ぁあああぁぁぁあ!!!!!」」
転送の光が晴れてきて、薄ぼんやりと人影がたくさん、ああ皆が迎えてくれてるんだな…って思いかけた瞬間、もと来た光の中に押し戻されそうな衝撃を受け、強烈に首を絞められた。
「あにじゃ、兄者ぁぁ!!!ああ良かった!無事に戻られて!!ああもう、もう…!!どうしようかと…俺っ…」
大きな体で小さな童のように声を上げて泣きすがる僕の弟に、僕の涙腺も弛みそうになる。周りを短刀と脇差が囲んでいなかったら確実に泣いてた。
「髭切さん!おかえりなさい!」
「本当によかったです!無事に戻られて」
「大変だったんだぜ、膝の旦那。完全に我を忘れちまって」
「とうとう一睡もしねぇで玄関の置物みてぇになっちまってよ!」
「泣きすぎて干からびちゃうかと思ったよ!」
あっそれ僕も昨日向こうで思った…ふふ。
「そうだったのかい。弟がだいぶ世話をかけたみたいだね。皆ありがとう」
「いいってことよ!あんたが一番災難だったんだからな。よう、兄ちゃん帰ってきてよかったな!」
太刀より大きな赤い幕末刀がばんばんと弟の背を叩き、カラカラと朗らかに笑う。迎えてくれた皆も口々におかえり、無事でよかった、大変だったねと言ってくれるけど、戻って行く背が心底ホッとした空気を漂わせていて、この子がどれだけとんでもない状態だったのかひしひしと伝わってきた。し、うん、今さっきのあっちのこの子を思い返しても…うん、そうだよね…皆ほんとにありがとう…。
僕の首に絡みついてしゃくりあげる弟の背を撫でて、あにじゃ、あにじゃと呟く声を聞いて、ああ、帰ってこれたんだな、と思った。
僕の弟の、さらさらの髪を撫でる。
「弟、ただいま。お前より遅くなってしまってすまなかったね」
「…っ、遠征から戻ったら兄者がいなくなっているなど、思いもしないではないか…!!菓子を買って待ってるよと言ったのに、ちょっと万屋まで出掛けてくるからと言ったのに、ちょっと、って…!!ぅぅっ…っ…!」
昨日の衝撃を言葉にして余計に衝撃を受けてしまったのか、僕を離すまいとする腕に一層力が籠る。
「こんな不具合、もうたくさんだ…!あにじゃがいなくなってしまうなんてっ…!」
「ごめん、ごめんよ弟、変なことに巻き込まれて本当にごめん。お前に心配をかけてごめん」
「もう!もう、潰れてしまうかと思った…!またひとりに、ひとりにされっ、、」
がくん、と抱きとめた体が重くなった。縋り付く弟の膝が崩折れて、立っていられなくなっている。
「ひとりになんてしないよ、悲しかったね、よく頑張ってくれた」
「嫌だあにじゃ側にいて、置いて行かないで、俺をひとりにしないで……!ここにいて兄者ぁ…っ!!」
この、言葉……。
「…ここにいるよ、僕の弟。いいこで待っていてくれて、ありがとう」
「ぅぁぁぁっ……!!」
もうまともな言葉にならないこの子を抱え上げて、一日ぶりの僕らの部屋に戻った。
薬師の子が、弟は完全に我を忘れていて大変だった、って言ってたとおり、誰かに手を焼いてもらった形跡があちこちにある。修正完了は今日だってこの本丸にも通達があっただろうに、僕の布団まで敷かれているのはこれは弟がやったんだろう。でもどっちの布団もきれいなままで、この子の方だけ掛布の上から綿が潰れた跡があるから、きっと眠れずに一晩中座っていたのだ。
「一睡もしてないの?」
抱えてきた体をそっと降ろす。わずかに離れるのも嫌だというようにすり寄って、小さくうなづくこの子。
「心配で心配でとても眠れぬし、ここにいても落ち着かぬし、でも真夜中にうろうろすることもできぬから、日の出からはずっと玄関で門を…」
ごめん、僕は寝てた。でもちょっと、頑張ったんだよ?僕も。全然別のことでだけど。
「じゃあ、今のうちに寝ておいで」
「え?そんな、せっかく会えたのに!」
髪を撫でて、そのまま不満そうな頬を撫でた。
「今夜は寝かせてあげられないから」
「!!」
頬を撫でた指で、可愛い唇を押し潰す。
だってさ、本当に頑張ったんだから、僕。まず、向こうのお前を弟と呼んでもいいのか?ってところから、頑張ったんだから。
一瞬で真っ赤になったこの子は、僕の指で開けられた唇の間から熱い息を吐いて、
「それなら…今からでも…///」
なんて、とんでもなく可愛いことを言ってくれる。自分から口を開いて、唇をもてあそぶ僕の指をくわえた。
そしたら。
ぐぅぅ〜〜………
「「…………」」
「やっぱりご飯も食べてないんだね…」
「ぅぅぅうわぁぁぁ!すまない兄者!だって、だって何も喉を通らぬから…!」
ふふふ、ああ可愛いなぁ。自分で誘ったのに自分でぶち壊して、別の恥ずかしさに顔を真っ赤にして。
「あははは、もう、お前は!あ、ほら、これをおあがり」
内番のポケットから、あの焼菓子を取り出す。
「お前の分だよ」
また昼ご飯の前だけど、この子はきっと昨日の昼からまともに食べてないのだろうし。
「あ…ありがとう…」
「お茶を淹れようね」
干からびちゃうかと思われてたんだものね。
茶器を用意しておくからお湯を貰ってきてと言っても、じゃあお湯を貰ってくるから茶器を用意しておいてと言っても首を横に振る弟を、結局腰にぶら下げたまま行ったり来たりした。お茶を淹れるだけでずいぶん骨が折れたけど、離れがたくさせてしまったのは僕だから何も言えない。
「あの、兄者、」
「うん?」
「これ…よければ、半分ずつ食べてはと…」
「………」
ああもう、僕の弟達は!
「かしてごらん」
あの子と同じしぐさで差し出された菓子を、同じように二つに割って。
そうしてかじった半分は、やっぱりとびきり美味しかった。
「ねえ、君」
自分と同じ声に呼びかけられて振り向くと、同位体の刀が立っていた。
「あ、」
「僕は、君の神気…君の主の霊力を知ってるよ」
髭切お決まりの微笑みを浮かべた同位体の僕に、僕も同じ笑みで応える。
「僕も君を知ってる」
「僕の御札にまじないをかけたのは君だろう」
「うん。思いつきだったんだけど、うまくいってよかったよ」
「呼んでくれてありがとう。僕の弟がたくさん迷惑を掛けた、みたい、だけど、もちろん君はそんなこと思っていないよね」
にやりと口の端を吊り上げて目配せするその顔。本当に鏡みたいだ。
「もちろんだよ。君も、もし僕と同じ目にあったら、同じことをするだろう?」
だから、あれもこれも恨みっこなしだよ?って。僕もにやりと歯を見せる。
…あの飛ばされた翌日の朝。審神者に太刀を鍛刀するように言って、希少刀の確率を上げる札に神気を込めた。本当にただの思いつきだ。そうやれば髭切を鍛刀できるという実証があるわけでもない。でも、どうにかなるという自信はあった。あの子を泣かせたままにしておけないと思う一心だったから、きっとこの、弟の幸せだけを切に願う心を込めれば、必ず兄を呼べるはずだって。
「兄者!待たせた……あ!」
万屋の買い物袋を抱えて出てきた弟が、こぼれ落ちそうなほど目を丸くした。
「やあ、久しぶりだね。覚えててくれたみたいだね」
「あ、あ…!」
驚きのまま固まっていた弟の唇がわななき、みるみるうちに目が水で覆われた。
「ありゃ、ごめん、君の弟また泣かせちゃった」
「大丈夫大丈夫、僕がたっぷり慰めてあげるから」
「言うね!」
軽口を言い合う僕達の横で、輝く金の瞳に涙を煌めかせるこの弟は僕を見て、つい、と袖を引っ張った。
「あ、あにじゃ…神無月の、兄者…」
「おや、ずいぶんといい響きで呼んでくれるね」
「ふふ、僕を呼んでくれたんだから、神在月の方がいいんじゃない?」
「なんか舌を噛みそう!」
「兄者、あの、ありがとう…!」
また馬鹿な話になりかけていたら、この子は深々と頭を下げて、地面にぽつぽつと水玉を作った。その様子に、心が温かくなる。
「…お前が信じて呼んでくれたからだよ」
ね?と、この子の僕を見遣る。この子の僕はさっきまでの下品な笑い顔を引っ込めて、自分の弟の伏せた頭に手のひらを乗せた。
そこへもうひとつ、洟水をすする声が…
「兄者ぁっ…、ぅぅっ……どこかの俺を泣かせているだろうっ…」
「「ありゃ」」
…どこのお前も同じとは言ったけど、こんな連鎖反応をするとは思わなかった…。
じゃあまたね、と、それぞれ泣きっ面の弟を抱えて手を振りあう。背を向けあったところで、向こうの僕の「あ、」という声を聞いた。
「?」
思わず振り返ると、向こうの僕に促されてあの子がちょこちょこと近寄ってくる。
「あの、神無月の兄者、これ…」
「あ、」
「俺達も好物になった」
嬉しそうな笑顔、あのとき見せてくれた極上の笑顔で、僕が薦めた菓子を差し出す。
「兄者も買われたかもしれないが、貰ってくれ。俺達からの礼だ」
ひとつ。今、僕達も兄弟二振でいるのに、ひとつ。
「あはは、ありがとう」
分けてくれって、ことだね。
ありがたく受け取って、いいこいいこと頭を撫でた。
隣で僕の弟がうつむきだしたから、両手で弟達の頭をかき混ぜてやったら、向こうの僕が声を立てて笑って、いいな!僕もやりたい!って突進してきたから。源氏の重宝が兄弟四振、万屋街の往来で盛大に転げて、土埃にまみれて爆笑しあうという珍事が起こったけど、居合わせた他の刀達は、ああまた源氏が何かやってるな…って顔をして、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
おしまい。
※お気に入りの焼菓子は鳩サブレです笑
「カリカリしておいしい」とこはクチバシです笑