花屋の君⑤「ただいま戻りましたっス!」
「お疲れ様です、新田さん」
時間はお昼の一時を過ぎたところで彼女、新田が戻ってきた。
伊地知が勤務する花屋には従業員が彼を含めて3人おり、そのうちの1人が新田である。
「配達ご苦労様でした。休憩どうぞ」
「伊地知さんも行ってないんじゃ…」
「新田さんが戻るまでの間にチョコレートを胃に入れましたので心配に及びません。この後も配達が控えているので、よろしくお願いします」
そう言いながらもリボンを作る手を伊地知は止めない。今月は花屋の中でも一二を争うくらい忙しい時期なのだ。
「そういう事なら了解っス。ちなみに次の場所は?」
伊地知は配達先が書いてある伝票を新田に差し出しリボンを花束に結んだ。
「よし、終わった。今出来上がった花束を15時に10階にあるオフィスに配達です、受付で必ず伝票に書いてる担当者の方の名前を言ってください」
「はいっス!休憩行ってきます!」
奥のスタッフルームに入る彼女に目もくれず伊地知は注文の伝票に目を通す。
3月には花を贈るイベントが主に2つある。
卒業、そして異動だ。
注文の7割は上司や同僚が異動するから花束をサプライズで渡したいというもの。残り3割は学生が先生にお礼として渡したいというものだった。
花束やアレンジメントを作れど作れど注文が入り終わりが見えない状態である。
「はぁ……」
疲れが滲むため息を吐いて眼鏡を外してハンカチで汗を拭い、傍に置いていた水筒に口をつけ、ひと息つく。
「もうひと頑張り…ですね」
水筒を置いてキーパーの中の生花に手を伸ばした時だった。
「すみませーん」
見ると黒い帽子を被った青年が立っていた。
「はい、いかがされましたか?」
「この、花を籠にまとめたのって…配達してもらう事できますか」
「あぁ、アレンジメントですね。いつのご希望ですか?」
「今日の夕方…16時以降とか。急で申し訳ないですけど」
「お届け先にもよります。どちらにお届けでしょう」
住所を聞けばこの後、新田が行く配達先と近かったので伊地知は彼の注文を受けた。
「あの、花とか初めて頼むんで頼み方とか分からなくて…」
「構いませんよ。いくつかお聞きしますね」
どんな花を選べば良いか分からないと言われたら伊地知は渡す人の年代、関係性を聞いて方向性を定めるようにしているのでその通りに彼にヒアリングする。
渡すのは会社の上司、自分がいる場所から異動になるため日頃お世話になっているお礼で渡したいそうだ。
「イメージカラーとかありますか?お花の色で合わせられますが」
「うーーん…水色のワイシャツよく着てるけど水色の花なんて無いし…あ、金髪だから黄色とか?」
「金髪なんですか?」
「どこかの外国とのハーフ?クォーター?らしくて。根本から金色なんスよね」
大雑把な回答に内心笑いながら、黄色のバラを手に取る。
「それでは黄色中心でいきましょうか。先程水色のワイシャツをよく着られているとの事だったので、ラッピングは水色の生地を使いましょう」
「おぉ〜それめっちゃ良いですね!」
予算を聞きその範囲内で黄色の薔薇やガーベラにオンシジューム、葉物の切花をオアシスに刺して飾りつける。
「メッセージカード、書かれます?」
「あ、はい!ありがとうございます!」
カードが入っている箱を出して彼に見せるとキラキラした目でカードを手に取って見ていく。
「これも良い…これも、これも…」と言いながらカードをめくり、およそ10枚目のカードをめくったところで「お!」と声を上げて、それを机に置いた。
薄いクリーム色の下地にフランスパンとクロワッサンが黒い線で描いてあるメッセージカードを見て伊地知は「本当に?」と内心驚いて思わず話しかけてしまう。
「こちらですか?」
「パンが好きなんスよ、その人」
その答えを聞いて腑に落ちた。それならこのカードは適任だ。
ラッピングの布材を裁断している間に青年は胸元からペンを出しメッセージを書き始めたが、すぐに悩み始めた。
ラッピングを終え、伊地知がレジを打っていると青年から話しかけられる。
「すんません、時間かけちゃって」
「いえいえ。改めてとなると書けないものですよ」
「めちゃくちゃお世話になってて、めちゃくちゃ尊敬してるんです。何か決める時、その人が指針になるくらい。でも他所の支社に移るって聞いて…俺、これから1人頑張ってかなきゃなんですけど…あー、なんて書けばいいんだろ」
「その方に直接渡されるんですか?」
「はい」
「カードに書く分は最低限で良いと思います。後はお客様の口から伝えられた方がその方は喜ばれると…私は思います。たくさんの想いはカードには収まらないと思うので」
青年は照れ笑いを浮かべて「そっすね」と言ってさらさらとカードを書き終えた。
「それでは、16時以降に猪野様宛でお届け致します。カードはアレンジメントのラッピングに貼り付けておきますね」
「はい!よろしくお願いします!」
青年、猪野は颯爽と去った後にテーブルに置かれたメッセージカードを貼り付ける。
『七海さんへ 今までお世話になりました!』
その文面を見て伊地知は固まった。七海、その名前の知り合いを彼は1人だけ知っているからだ。
彼と会った初日に貰った名刺を引き出しから取り出し、そこに記載してある住所と届け先の住所を確認すると同じ場所だった。
「七海さんが…異動?」
***
「え!?他県に異動じゃないんですか!?」
猪野が室内に響くくらいの大きな声で驚いたので「静かに」とたしなめ、言葉を続ける。
「部署の異動なので支社は変わりません。君は辞令を見てないんですか」
「…完全に見間違えましたね」
猪野は汗をハンカチで拭った。
「猪野、1階でお前宛に届け物来てるぞー!」
「はい!七海さん、一旦失礼します!」
部署の上司から呼ばれ、猪野は1階へと降りて行くのを見送り片付けを再開する。
自分の机の上に置いてある物を段ボールへと入れてゆく。業務のファイル、ノートパソコン、そして黄色の花で彩られたハーバリウム。
割れないように緩衝材を巻きつけ中に入れると机の上には何もなくなった。
すると仕事用の携帯が鳴ったので見ると知らない番号が表示されていたので一旦着信を無視する。
その時、猪野が部署の中に飛び込んできた…アレンジメントと一緒に。
「七海さん!俺、七海さんのこと尊敬してます。他所の部署に行ったとしても俺の指針になるのは七海さんです。明後日から俺1人でも大丈夫です!今まで俺をここまで育ててくれてありがとうございました!」
礼をして差し出されるアレンジメントを手に取る。猪野が自分の下について数年経ち、明後日から同じ会社には居るとしても彼は自分なしで業務をこなさなければならない事に一抹の不安があった。
だが、それも今の言葉を聞いて無くなった。
「ありがとう、猪野くん。明後日から1人で頑張ってください。ちなみに、こちらのアレンジメントは?」
「いつも会社から花を頼んでいる所で頼みました!店員さん、男性の方だったんスけど一緒にラッピングとか花考えてくれて…」
伊地知だと七海は分かった。そしてその時、先程かかってきた電話を思い出した。
アレンジメントを机に置き、伊地知から貰った名刺を名刺入れから取り出して電話番号を携帯の履歴と照らし合わせると花屋の番号と一致する。
「猪野くん、その店員さんに私が異動する事は伝えましたか?」
「え?あぁ…他所の支社に移るって話しちゃいました。でも、七海さんの名前出してないですよ」
メッセージカードに大きく書かれている「七海さんへ」を見つけて猪野にバレないよう小さくため息をついた。
七海が異動する。
その事を知った伊地知の調子は瞬く間に狂い、あれから作る予定にしていた花束に手をつけられなかった。
休憩から戻った新田に配達の追加を伝えアレンジメントを渡して見送る。彼女には配達が終わり次第、退勤していいと許可を出し自分は締め作業の準備に取り掛かる。
だが作業をしていても「七海の異動」という言葉が脳にこびりついて離れなかった。
「あれだけお世話になった七海さんに、自分は何もお礼を言わずに別れてしまうのか」と自問自答し、思い切って名刺に書いてある業務用の携帯電話番号に電話してしまったのだった。
「やってしまった…」
店は既に閉店時間となったので出入り口には既に鍵がかけてある。誰も入ってこない空間で1人、伊地知はその場にしゃがみ込んで懺悔していた。
「電話する奴がどこに居ますか…」
ため息を吐いて立ち上がると同時に店の電話が鳴った。ディスプレイに表示されているのは先程かけた番号だった。
恐る恐る受話器を取り、耳に当てると「もしもし」と店頭で聞くのと同じ声色の声が聞こえ開口一番に「すみません」と切り出す。
『構いませんよ。どうしました?』
「異動されると聞いて…日頃うちに来て頂いたお礼を言いたく電話しました」
『律儀ですね、君は』
「いえ…七海さんには、たくさんのものを貰いましたので。直接お会いできなかったのが名残惜しいですが、異動先でも健やかに頑張ってください」
一通り言い終えて伊地知は深呼吸した。会った時から先日のバレンタインを思い返すと本当に七海から貰ってばかりだと思い返す。もう少し話したかった、またお会いしたかったと思うと涙が出そうになる。
『ありがとう。ちなみに紙とペンは近くにありますか?』
丁度机の上に2つともあったのでペンを持つと数字を言われる。数字をメモすると電話番号だった。
『私のプライベートの番号です。今度から私宛にかけるなら、そちらに』
「分かりました」
『そして伊地知くん。私は異動にはなりますが、支社は動きませんので』
「え?」
間抜けな声が出てしまい、空いた口を伊地知は閉じる事が出来なかった。
「え、でも猪野さんが他の支社に異動って」
『彼が間違えてたんですよ。支社ではなくて部署異動です…なので、伊地知くん今後ともよろしく』
伊地知は急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして七海に向かって叫んだ。
「早く言ってください!私が恥かいただけじゃないですか!」
くっくっと笑ってる声が聞こえる。また七海さんに会える…会えるが先程まで色々考えていた自分が馬鹿みたいだなと思い呆れて笑えてしまう。
『すみません。からかいすぎましたね』
「本当ですよ…改めて、これからもよろしくお願いします」
『ええ…あ、伊地知くん。最後にひとつお願いが』
「な、なんでしょう」
『君の電話番号、教えてください』
これからも会えるのに私の番号なんているのかなと思いつつ、伊地知は自分の番号を教えた。
電話を切り、締め作業を終えエプロンを脱いで帰り支度をしているとスマホにSMSが入る。
『先程伝えそびれましたが、お花ありがとう』
メッセージには猪野が撮ったのであろう七海がアレンジメントを両手で抱え、わずかに微笑んでいる写真が添付されていた。