ハロウィンが記念日「トリックオアトリート」
高専の廊下の真ん中で五条からそう言われた伊地知はポケットからコンビニで買った小さなチョコレートを出した。
「これでも良いですか?」
「なんで用意してんの、イタズラできると思って声かけたのにさ」
「そのイタズラを防ぐために持ってたんです。まだ申請が残っているので、すみませんがこれで」
五条を通り過ぎ、事務所に入るとテレビが点いていた。
『こちら渋谷ハロウィンの様子です。たくさんの方が仮装して街を歩いています』
人混みを映すテレビを見て、今日ここに任務が無くて良かったなと思いながらテレビを消す。
「トリックオアトリート」
「ふへっ!?」
背後から聞こえた甘い低音に驚いて情けない声を上げてしまう。急ぎ振り返ると七海がそこに居た。
「な、七海さんでしたか。驚かさないで下さい…」
「驚かすつもりは無かったんですけどね」
そう言って封筒に入った書類を手渡される。中身を確認すると綺麗な字で書類は彩られていた。
「いつもありがとうございます」
席に戻ろうとすると七海が立ちはだかった。
「すみません」と言って左に動くと七海も左に動く。
らしくない行動に「?」を浮かべながら顔を見るとサングラス越しの目が自分を見ていた。
「七海さん?」
「伊地知くん、トリックオアトリート」
七海がこんなイベントに興じる人間とは思わなかった伊地知は背中に冷や汗が垂れたのを感じた。七海の分のお菓子は無い。試しにポケットに手を入れてみたが案の定なにも無かった。
「すみません!七海さんの分のお菓子を用意していなくて…」
頭を下げて謝っている間に「どうしよう」の5文字が頭の中を埋め尽くす。
「お菓子を貰えなければ何をするかわかっていますね、伊地知くん」
「っ…そ、れは……」
「顔を上げてください」
答えはイタズラだと分かってはいるが、七海の場合はお叱りだろうと顔を恐る恐る上げて叱られる心の準備をする。
「伊地知くん」
「はぃっ…!」
「私と付き合って頂けませんか」
2人の間の時間が止まる。青ざめていた伊地知の顔は赤くなっていく。対する七海の表情は変わらない。
「えっと……それが、イタズラなんですか?」
「いえ」
七海が伊地知に近付く。いつも先輩にあたる七海とは近からず遠からず、パーソナルスペースを保っている為、後退しようとするも背後の机が腰に当たりそれを許さない。
普段は微かに香る七海の香水がはっきりと鼻腔で感じ取れて水色のワイシャツの細かな皺まではっきりと見える距離になった所で情報処理しきれなくなり、ぎゅっと目を瞑る。額に柔らかい物が触れた。
「これが私のイタズラです」
七海が離れた気配がして目を開けた。額に柔らかな感触が残っていて、ここに口付けられた事を伊地知は悟る。
「で、伊地知くん。先程の返事を聞けますか」
「な、なんで、私なんですか」
同性を好きになるにしても、もっと良い人が居るでしょうと続けようとしたが七海の返事でそれは妨げられた。
「君を好きという感情は、根拠になり得ますか」
サングラスを外した素の薄緑の瞳が伊地知の心を捕らえる。
「本当に、私で良いんですか」
「勿論。昔から君しか見てないんです」
「えぇ……」
書類を持っていない腕を引っ張られ七海の胸に飛び込む形となり、抱き締められる。
「伊地知くん、今日からよろしくお願いします」
輝かんばかりの七海の微笑みを伊地知はこの日、初めて見た。
渋谷事変まで、あと365日