ブレーカー・ブレーカー 三十度を容易に超える、風ひとつ吹かない熱帯夜だった。窓の無いせせこましい部屋で、オレたちは火照った身体を擦り合わせていた。
最中は暑さのことなど忘れてしまうのに、出すものを出し切ってしまうと、空調もろくに効かない安ホテルのベッドの上でいつまでも溶けたキャンディみたいにべったりくっ付いている気にはどうしてもなれない。オレは腰の立たなくなったケチャップを置いてシャワーを浴びることにした。ボイラーの具合が悪いのか待てど暮らせどぬるい湯しか出てこないが、しかし今はこの温度が丁度良い。全身にへばりついたアイツの体温を洗い流してくれる。
事が終われば、空っぽになったソウルはすぐに元の形を取り戻して、平然と胸の真ん中に収まる。まるで何事も無かったかのように。なのに、指の先に、口の中に、アイツの灼けるような体温がいつまでもちりちりと残るのだ。念入りにぬるま湯をかぶり、身体の表面からその残り香のような熱を拭い去る。
すっかり汗が染みてしまったバスローブにもう一度袖を通すのは気持ちが悪かった。しかしそれもあと数時間のことと諦める。
「なぁ、ちょっとゲームでもしてみないか」
さっきまでオレの下で乱れていたのが嘘みたいにあっけらかんとした声で、ケチャップはバスルームから出てきたオレをソファに誘った。奴の着ているバスローブに残る皺だけが、さっきの情事が幻でないことを証明している。
時計を見る。チェックアウトまであと二時間弱といったところだ。とうに性欲は空になっていたが、かと言って早く帰らねばならない理由がある訳でもない。暇だけはいくらでもある。オレは一も二も無く頷いた。
「ゲームってなにすんの」
ケチャップの細い肩に凭れる。いまこのときだけの距離感。服を着てホテルを出れば、オレたちはまたただの悪友に戻る。
「テレビ台のところ漁ってたらトランプ見つけたんだよ。ポーカーでいい?」
「いいんじゃね」
「せっかくだし、何か賭けようか」
手札が見えるから離れてくれとすげなく引っぺがされたところで、ケチャップが悪戯でも思い付いたような顔で提案した。そりゃやるからには何か賭け代があった方が甲斐があるというものだが。奴の人の悪い笑みがどうにも引っかかる。
「何を賭ける気だ?」
「オイラが勝ったら付き合ってくれよ」
奴の手の中で、光速でシャッフルされるカード。その慣れた手さばきを見ていると、まるで自分がその中のトランプの一枚になったような錯覚に襲われる。女王の手の中で転がされ、首を刎ねられるトランプの兵隊。ぱちん、とカードが揃えられる音にはっと顔を上げれば、したり顔のケチャップと目が合う。
「そんな顔すんなって。たかがゲームなんだからさ」
硝子のローテーブルの上にカードが配られる。ケチャップは「チェンジは一回な」と告げ、残りのカードを山にして二人の真ん中に置いた。
「オレが勝ったら?」
「もう一回抱かせてやるよ」
「出るもんねぇよ、もう」
指先で手札を引き寄せる。自分の手札を口元まで寄せたケチャップは、横目でオレの表情を観察しているようだった。心理戦は奴の得意分野だ。正直負ける気しかしない。
ケチャップとはずっと身体だけの関係だ。月に何度か待ち合わせて、飯を食って酒を飲んで、気分が良くなってきた頃合いでホテルにしけこむ。ヤることヤってスッキリしたら解散して、またお友達に戻る。行ってしまえば恋人関係のいいとこ取りだ。余計なすれ違いも浮気したのされたのも無い、わずらわしいことだけ削ぎ落した、シンプルで居心地の良い関係だ。そしてこの関係に胡坐を掻いていたいと思っているのは、オレよりもアイツの方だと思っていた。だからこそ、奴の提案には動揺した。
僅かな気持ちの揺らぎは葛藤を生む。ワンペアを捨ててフラッシュを狙うべきか、オレの手は少なからず迷った。それをケチャップが見逃すはずもない。
「アンタはいつだって安牌だもんな」
呆れたような吐息がその声に混じる。三枚のカードを掴みかけていた手は、僅かながらその台詞に怖気付いた。しかし奴の手も、三枚のカードを既に摘まんでいる。
「オレは、負けるくらいなら最初から安牌でいい」
結局、掴んでいた三枚のカードをそのままテーブルに伏せた。山札から三枚引く。オレに続いて、ケチャップもカードを引いた。捲ったカードを眺めて笑みを深めている。
窓などないのに、がたがたと風が窓を叩いているような音が聞こえる。多分胸のざわめきの音だ。こんな感触を味わいたくないから、いつだって安牌を切ってきたというのに。お前だってそうだろう、ケチャップ。しかし送った視線はその艶めかしいまでの笑みに捻じ伏せられる。
「さ、ショウダウンだ」
宣告の声に従って、手札を開示する。結局オレはワンペアのままだった。それも6のワンペア。勝率は極めて低い。
しかしケチャップがその手の内から明かしたのは、何の役も揃っていない手、要はブタだった。拍子抜けしてソファに背を預ける。先の笑みはハッタリか。すっかり遊ばれたという訳だ。
「底意地の悪い奴」
「ごめんごめん。そんなにオイラと付き合いたくなかったとは思わなくてさ。意地悪してやりたくなっちゃったんだよ」
「チッ……分かってんだろ」
「うん。勿論分かってるさ」
本当かよ。しかし問い詰める前に口を塞がれる。なし崩され、うやむやにされ、黒々と渦を巻いていた感情はすべて熱に変換されていく。こびり付く奴の体温を引き剥がせないまま、蜘蛛の巣に囚われた虫けらのように身動きも思考も出来なくなっていく。
「本気にするなって。所詮はゲームじゃないか」
奴が言っているのは、多分ポーカーのことではない。悔し紛れに噛み付いた舌から血が滲んでも、ケチャップは嗤っていた。
帰り際、ちらと奴の捨て札を盗み見た。硝子のテーブルに打ち捨てられていたのは、Aのスリーカードだった。