意味のない約束「僕の美徳の一つは、約束を守ることです」
仰々しいその口ぶりに、反吐が出そうだった。簡単に言ってくれるな。約束なんて、気軽にするものではない。
鳴海は舌を打ち、保科の薄笑いを浮かべた顔から目を逸らした。ついさっきまで嘘くさい愛の言葉を囁いていたその口は、今はただ鳴海に請願するように「信じて」と宣う。まだ互いの体温が身体に残ったままではあったが、鳴海の心は冷め切っていた。
何の根拠もなしに信じるなんてあり得ないだろう。況してや、他部隊の副隊長でありながら、気安く鳴海にまとわりついて来るようなこんな男のことなんて。
「ほな僕、そろそろ帰ろかな。家着いたらメールしますね」
「知るか。黙って帰れ」
「そう言わんと。今日もありがとうございました」
保科は少しも気を悪くした様子がなく、いつも通りの声でそう言った。ここまであっさりされると、却って嫌味なくらいだ。鳴海は、部屋を出ていく保科のことを見送らなかった。
それから、約二時間後。鳴海が風呂上がりで眠気に微睡みかけていたところ、スマートフォンが通知に震えた。SNS依存の性だろうか、惰性でつい手を伸ばして画面を開いてしまう。その通知の送り主が保科であることに気がつくと、鳴海は欠伸混じりのため息をついた。
『まだ起きてます?』たった一言、それだけだ。
——本当に送ってきやがった。
キーボードに指を滑らせるも、送信寸前で止める。『家に着いたのか?』そんなことをわざわざ訊いてやる義理は、無い。
けれど既読を付けてしまった以上、返事をしないわけにもいかない。
「はぁ……」
鳴海は躊躇った末に送信ボタンを押すと、頭を掻いた。瞬時に既読がつく。画面を開きっぱなしにでもしているのだろうか。それとも、鳴海がすぐに返事をくれると思って、待っているのだろうか。明日も仕事があるのだから、さっさと寝ればいいのに。
『着きましたよ
鳴海サン、心配してくれとったんですね』
『ばか
そんなわけないだろ
早く寝ろ』
そこまで送信して、スマホをベッドへ投げ落とす。そのままうつ伏せで枕に沈み込むと、程なくして急激な眠気に襲われた。
少し前まで、保科がここにいた。もう彼のぬくもりは残っていない。けれど少しだけ、鳴海にとっては慣れない匂いが——恐らく、彼のシャンプーの香りだけが、辛うじて感じられた。
心地よい、なんてはずはない。けれど、一度鳴海を捕まえた睡魔は、鳴海を手離そうとしなかった。
視界の端で、スマホの画面が光る。
『おやすみなさい』
保科は、無理に会話を続けるつもりはないらしい。
『また週末に連絡しますね』
鳴海はゆっくりと目を閉じた。
以前に保科と体を重ねてから、ちょうど1週間が経過した。日曜日の夕方、非番だった鳴海は自宅でゲームに勤しんでいた。つまらない休日だった。早く今日を終わらせるために、さっさと風呂でも済ませてしまおうかと考えていたところ、保科からのメールでスマホ画面が光った。
『言うたでしょ?
週末に連絡するって』
明らかに多忙な業務に追われているくせに、保科はまるで暇人なフリをしてそう告げた。字面だけでは、真意は汲み取れない。鳴海は眉根を寄せると、ソファの上に寝転がった。
『何の用だ』
本当は、用事なんて何でもよかった。むしろ、奴が律儀に連絡を寄越してきた事こそが不可解でならなかった。過密なスケジュールの合間を縫ってまで、鳴海にメールを送ってくるのは何故だろうか。
『来月の頭にちょっとまとまった休暇を
取れることになりました
鳴海隊長、ご都合どうですか?』
『なぜボクに聞く
ボクはいつも通りだ』
『休みありません?』
『土曜か日曜なら休みだが
どちらかは出勤する』
『ほんなら土曜日に会いましょう
迎えに行きます』
『迎えに、て
出かけるのか?』
『ダメですか?』
そこまで会話を繰り広げて初めて、鳴海は画面から顔を上げた。休日に出かける、のか。保科と二人で。
『日頃の疲れを癒すのに
うってつけの場所があるんですよ』
そうして保科は、癒し系らしきキャラクターのスタンプを送ってくる。
——なんなんだ、これは。
鳴海は妙な感覚を覚え、画面から目を背けようとした。しかし、通知の音が鳴るたびに、つい気になってメッセージアプリを開いてしまう。
『その日は丸一日予定空けていただけますか?
絶対鳴海サンを満足させてみせます』
『はぁ? なんの話だ』
『んー
なんでしょうね』
保科は言葉を濁し、それからしばらく続きを送ってこなかった。かと思えば、十分もしないうちに画像が送られてくる。
『鳴海サンってこういうの好きですか?』
トーク画面の真ん中に表示されたのは、独特な顔をした小動物だった。うさぎに似ているが、多分違う。毛玉のようだ、と鳴海は思った。
『なんだこれ』
『モルモットです
嫌いですか?』
少しだけ、躊躇う。小さな生命というのは、人間よりもはるかに繊細で脆弱だから恐ろしい。
『嫌いじゃない』
鳴海は迷った末にそう答えた。すると、まるで鳴海の胸中を見透かしたように、保科はすぐに返事を寄越した。
『普段怪獣ばっか相手にしてると
逆にこういう小さい動物が
怖くなりますよね』
「ふん……」
鳴海は少しだけ胸が熱くなったことに気付かないふりをした。目を擦る。眠くなってきた。このまま寝落ちて、返事はしないでおいてやろう。
そう思ったものの、結局鳴海が眠りについたのは、それから数時間経過した後だった。
◆
「緊急怪獣警報! 緊急怪獣警報!」
早朝、けたたましい警報音が鳴り響く。
緊急アラート。対象エリアにお住まいの方は、速やかに避難してください……その聞き慣れた音に意識を呼び覚まされ、鳴海は飛び起きた。
週末の夜。ついさっき、眠りについたばかりだ。金曜の晩に起こった怪獣災害の処理を終え、自宅へ帰り着いてから、まだ二時間も経っていない。
「ったく……仕方ねぇな」
基地からの連絡を待たずして、鳴海は家を飛び出した。ここから基地までは三十分もかからない。
睡魔を振り払い、車を飛ばす。まだ薄暗いこの時間は、交通量が少ない。けれど、着実に迫り来る怪獣による災害の気配が、街をざわつかせていた。
「東雲、立花。お前らで現場を指揮しろ」
無線に向かって告げると、程なくして二人から返事が来る。鳴海はそれ以上言葉を返すことなく、有明りんかい基地へと向かった。
その後、鳴海が再び自宅へ帰り着いたのは、日がすっかり高くなってからだった。疲労が全身にのしかかり、それに反して興奮で熱っぽくなった頭が、鳴海を奇妙な気分にさせた。時刻は午前十時。世界が「日常」を開始する頃だ。
——流石に寝たい。
家に帰ってしまうと、きっと全ての気力を失うだろうと思い、基地で風呂は済ませてきた。執務室に置きっぱなしにしていた私服のまま、布団の散らかったベッドへ倒れ込む。頭が痛い。寝不足には慣れているけれど、重めの討伐が立て続けにあると流石にきつい。
一つ深い呼吸をして、目を閉じる。ようやくゆっくり眠れる……しかし、何か忘れているような気がしてならない。
その忘れている何かが一体なんなのか、今の鳴海には考える余裕が無かった。引力ほど力強い睡魔に、だらりと体の力を抜く。
そうしてほんの一瞬、微睡んだ。
——つもりだった。
次に鳴海が目を開けた時、少し赤く焼けた陽光がカーテンの隙間から差し込んでいた。何が起こったのか理解するまで、数秒。ああ、寝過ぎてしまったのだと、日の傾き具合で理解する。
ベッドの上に放置したはずのスマートフォンを探す。瞼がまだ開かない。半分目を閉じたままシーツの上を弄っていると、不意に何かに腕を掴まれた。
「ん……?」
「鳴海サン、起きました?」
聞き覚えのある声だ。鳴海は手の動きを止める。無防備な手首が、少しひやりとした体温に包まれた。
「おまえ……」何でここに、と言いかけたが、声が掠れて続きが紡げない。
「ふふっ、僕の特技や言うたでしょ」
それでも、声の主——保科は、鳴海の言わんとしていることを汲み取ったようにそう言った。
「おはようございます」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、ようやくはっきりと目を開ける。すると、ベッドのそばで床に座り込んでいるらしい保科が、鳴海に向かってにこやかな笑みを浮かべていた。
「おい……不法侵入だろ」
辛うじて吐き出した言葉は、それだった。しかし、保科はくつくつと笑ったまま、手を離そうともしない。
「鍵開いてたんで。……それに、迎えに来るって約束したから」
ああ、そうだった。今になってやっと、鳴海は自分が何を忘れていたかを思い出した。一週間前、こいつが一方的にデートの約束を取り付けてきたのだった。
「迎えって……今何時だと思ってんだよ」
それは保科の台詞だろう、と鳴海はすぐに思った。何とか目を動かして、壁にかけた時計を見やる。時刻は、すでに十七時を回っていた。
「もうどこにも行けないではないか」
「そうですねぇ」
ごめん、とは言わなかった。何せ、悪気はなかったし、約束を承諾した覚えも無かったのだ。
約束を果たす気が無かった、と言えば嘘にはなるけれど。
「いいんです、待ち合わせなんて大した意味もないんですから」
「そうかよ」
「はい。それよりもね、僕が約束したこと覚えてます?」
保科は立ち上がると、鳴海の隣で寝転んだ。すぐそばで、覗き込むようにして視線を合わせてくる。鳴海は黙ったまま、保科の双眸に宿る柔らかな光を眺めた。
帰ったらメールしますね。また週末に連絡しますね。満足させてみせます。迎えに来ますね……。
数え始めたらキリがないくらい、この二週間で保科はたくさんの口約束を鳴海にした。
「小っちゃい約束でもね。積み重ねていくと」
保科の手が、鳴海の頬に触れる。ひんやりしていて、心地よい。思わず目を閉じると、その隙に瞼へキスを落とされる。
「欲しいもんに手が届くようになるんです」
保科はゆっくりと鳴海の首筋を撫で、胸元までを辿った。その感覚を追うようにして、鳴海は息を詰まらせる。
「お前、ばかだな」
この男はたぶん、鳴海の中に芽生えたある種の安心感を見抜いているのだ。鳴海にとって「約束を守る」ことがどれだけの意味を持つのか、きっと保科は知っている。