それらしい絵を描いて「撒くぞ」
兄がぼそりと告げたのは、一彩から見ればおね~さんと呼ぶにはいくらか以上に老齢の女性から紙に包まれた佃煮を受け取った直後だった。
一彩はいま、ESから電車とバスを乗り継いで一時間半ほどの知らない街にいた。
バスの中から遠くに見えたのは、陽のひかりをきらきらと乱反射させる水面。波の穏やかな海だった。海が見えたことにはしゃぐ一彩に、珍しいもんじゃねェだろ、と燐音は呆れたけれど、ささいなことではしゃぐ理由を知っていれば窓にへばりついている弟のまぁるい後頭部に注ぐ視線だって、まろやかなものになってしまう。一彩がはしゃいでいる理由は単純なもので、目的地は知らされてはいないにしろ、いまこうやってバスに兄とふたりで揺られているのが「デート」と称されるものだからだ。兄弟ふたりでのお出かけではない。兄がはっきりと「デート」と言って誘ってくれたものだったのだ。
それは突然だったから、燐音がふたりの予定をあらかじめ調整した上で誘ったのだとはまったく知らない一彩は、兄の誘ってくれた日が偶然にも丸一日オフで、学校もない土曜日だったことに感謝した。
バスを降りれば、潮風がべたべたと頬を撫でる。波の音がする海辺の街を、一彩とは逆に知ったふうに道を進む兄のとなりを遅れないようにくっついて歩く。けれど道沿いには土産物や地酒、干物や、佃煮を売る店がいくつもあって、一彩にとってはまだ目新しい風景だった。だからつい、キョロキョロとなかを覗いてしまう。その度に兄が欲しいものがあるなら買ってやると甘やかそうとしてくる。いつも金欠だと喚いている財布の紐が弛くなることは、燐音にとって意味も理由もない。しかし、それほど物欲のない一彩はサイダーのアイスキャンディをひとつをねだるくらいしかしてくれない。挙げ句、ちいさく一口だけ齧ったあと、おいしいよと燐音にも食べるよう薦めてくる。そのいじらしさに腹を立てて一気に三分の一ほど奪ってやってもいっしゅん驚くだけで文句も言わずに笑うから、燐音もつられて笑ってしまう。
兄弟水入らずのとき、ふたりの間に流れる空気は意外と静かで、おだやかだ。恥ずかしがってまわりの目を取り繕うように逃げたりオーバーに煽るのも、ばかみたいな大声で愛してるよと人目も憚らずに叫ばれるのも、面倒くさいけれどそれはそれで実は楽しかったりもする。けれど、こうやって、本人にはそういう意識がないのだろうが、燐音が自分から逃げたりしないとわかっているときは。やかましく愛を叫んでこないときは。ふたりに流れる時間はゆるやかなものになるのだ。例えば、陽が昇っては落ちるなかで一日が完結してしまうような故郷で過ごした、おさない頃のそれだ。退屈で仕方のない毎日でも、一彩とおなじ時間を過ごしているときは、いろいろしてやりたかったし、飽きた、退屈だと感じたことのなかった。そんな、燐音にとってのしあわせだった時間をいま、故郷を遠く離れた都会で過ごせている。弟を置いて故郷を飛び出したときには、こんな未来が来るだなんて、想像することすら烏滸がましいと思っていたのに。
だからそこへと、遠慮がちを装ってコソコソ、チラチラと寄せられる視線が邪魔だった。邪魔、と言ってしまっては職業柄に良くないことは、それこそよくわかっている。憧れ、焦がれた職業。アイドルというものをやっているのだ。仕方がないし、喜ぶべきことなのだけれど。
ふたりの女性が声をかけてきたのだ。年のころは一彩より上で、燐音より下かな、というあたり。ファンだと言ってくれるので握手をして、スマートフォンで写真を撮ってサインをして。がんばってください、これからも応援してます。なんていう常套句、と言ってはそれも言い方が悪いけれど、笑って礼を言えばこの場はお別れ。またライブに来てくれよ、なんて言って終わるはずだった。
「兄弟、ほんとに仲良しなんですね」
仲良し兄弟。MDMが終わってから、そう呼ばれることが増えた。いまでこそ聞き慣れたけれど、ほんの数ヶ月前までの一彩には馴染みもなく、縁すらなく終えてしまいそうだった呼ばれ方だった。けれど燐音にとっては、ずっと欲しかったものだった。
双方の事務所がふたりを仲良し兄弟枠として売り出すことはしないけれど、たまにいっしょになるテレビ番組での兄弟の掛け合いをはじめ、雑誌のインタビュー(これは主に一彩だが)やSNSにお互いの話題が出たりもする。世間はきほん、ちょっと仲違いしてた時期もあるけど、いまはすっかり仲良しな天城兄弟という認識である。
「ウム! だからい」
だからいまもデート中だよ! と、はしゃぐ弟が素直に告げそうになるのを遮ったのは、デートだと公言されるのを嫌がったからではない。仲良し兄弟だ。オフの日にふたりで出かけることをデートだと称しても、ファンは喜ぶだけだ。まぁこれが、ふつうのカップルなんかのするデートと同じような意味も持つものだと知ってしまった場合は違うのだろうけれど。ともあれ、燐音が遮った理由は燐音自身のイメージのためだった。
一彩が燐音に愛を伝えている場面は、メディアにもたまに映り込む。だから、かわいい弟を甘やかしていっしょにお出かけをしている兄だと取られてもおかしくない。いや、じっさいそうなのだけれど、燐音がファンに売るキャラクターとしては、そういう弟に甘いお兄ちゃん像が広まってしまってはいけない。一枚も二枚も上の、危なげでちょっとイタズラっぽくておとなでスキャンダル。天邪鬼な面倒くさいお兄ちゃんっぷりは弟だけが知っていればいい。なんて、思っているのは見知った仲では周知だったけれど。
「そ。俺っちたちいまお忍びデート中なの。だァから」
一彩の肩をわざとらしく抱き寄せて密着させた燐音は、空いているほうの手の人さし指をくちびるの前で立てる。
「コレな」
しぃー、っと。ライブ中などに煽るようなのとは別の、たとえば、雑誌なんかでかたちとして見せるふうを用いて、彼女らをそうやって色づかせた。
そのまま筋書き通りに彼女らと別れてデートへと戻ったふたりは、潮風で錆びた看板が趣のある店へと立ち寄った。ふたりを誘った甘辛い匂いの正体は、数種類の佃煮だった。ガラスケースの向こうのお婆さんが、いらっしゃい、と迎えてくれる。さらにその奥、のれんの向こうには白い湯気がちらりと見えて、なるほど、だから外まで香っていたのだと知る。
「こんにちは、おね~さん」
燐音が被っていたキャップを取り、サングラスも外してシャツの襟にかけるのを見て、一彩も傚う。一彩の変装はキャップだけだけれど。何気ないふうをしながらも礼儀を欠くことのない燐音は、おね~さんと呼ぶにはいくらか高齢の、店のお婆さんと話しはじめた。一彩ははじめて訪れた佃煮専門という店内に目移りしてきょろきょろと、なかでも、のれんの奥が気になって首を伸ばしてしまっていた。
「一彩、試食させてくれるって」
間抜けにも口を半開きにしてしまっていたところへ、兄から声がかかる。小ぶりなタッパーから、これまた小さなプラスチックのスプーンをお婆さんが出してくれている。お婆さんおすすめのもの、燐音が気になったもの、どれか気になるやつあるかい? と訊かれた一彩が選んだもの。三種を試食させてもらう。一口、二口と舌鼓を打ち、三口目は一彩の選んだ山椒の佃煮だった。
「お、酒に合いそォ」
「いいご飯のお供になりそうだね」
ほぼ同時に口にしたけれど、おおよそ真反対の反応にお婆さんは笑う。
「でも兄さん、お酒に合うからといって飲み過ぎないでほしい」
へぇへぇ、と適当に相づちを打つ燐音に、店のお婆さんは笑うたびに寄る笑いじわをさらに寄せて目を幸せのかたちへと、小さくする。
「兄弟、仲良しさんなんだねぇ」
「うむ。だからいまもお忍びデート中なんだ」
ちょっと前に言った燐音のお忍びデートという単語を気に入ったのか、一彩は明朗に告げる。自分たちのことを知っていそうにない相手にわざわざ取り繕うことはしない燐音は一彩に好きに言わせているが、そう、デートなのである。デートなのだ。燐音がこうやって一彩を外に連れ出してやれる機会は以外と少ない。だから燐音だって楽しみにしていたのだ。今日、顔が浮腫んでしまわないようにとゆうべは酒だって控えたくらいだ。それをいくら大事なファンだからといって他人に邪魔されたくはない。というのも、さっき別れたファンだという女性が、あのあともずっと付いてきているのだ。本人たちは気づかれていないと思っているのかも知れないけれど、燐音たちには気配が丸分かりで、しょうじきに言ってしまうとそれがうるさくて堪らない。
「じゃ、おね~さん、このみっつで」
試食をさせてもらった三種を買い上げた燐音は、ほがらかに笑うお婆さんに代金を支払う。一彩はなんでも驕ってくれたがる兄を立てて、満足げに微笑んでいた。そこへと、燐音が告げたのだ。「撒くぞ」と。
お婆さんに手を振って店を出て、二つ目の路地に添うように追ってくる気配をそこで振り切る。室外機や空き箱なんかが乱雑に放置されている、薄暗さが変に落ち着く狭い場所にふたりして座り込む。じ、と息を潜めるけれど、ふたりが一般人から気配を消すことくらい簡単だ。背の高い燐音が身を丸めるのにはちょっとばかり窮屈だったかもしれないけれど。
ふと、一彩は既視感を覚えた。薄暗くて、狭くて、兄とふたりっきりで誰かから隠れるというシチュエーション。これは前にも体験したことがある、気がする。
「…子どものころにも、こんなことあったよね」
「あン? あったっけ?」
「正確には覚えてはいないんだけど」
おさない記憶にある。隙間から入る陽がほこりをきらきらと舞わせていたのは、はっきりと覚えている。
燐音もまったくのぜんぶではないけれど、そのときのことは覚えている。あのとき燐音は一彩が退屈してしまわないようにと、饅頭だったり手作りのおもちゃだったり、読み聞かせてやれる本をいくつか持ち込んで、弟を天城の屋敷の隅にある納屋へと誘い込んだのだ。かくれんぼしよう、と言って。ろうそくもちゃんと用意して、辺りが暗くなってしまっても対応出来るように準備していた。最初のうち一彩は誰にも邪魔されず兄といっしょにいられる時間を喜んでいたけれど、そのうち、もう戻らなきゃいけないんじゃないかとソワソワしはじめる。それをどうにか宥めて、この納屋というちいさな空間に弟とふたりっきりで過ごせる時間を堪能したがった記憶は、ずるり、と燐音に知らず知らずに蔓延っていた。
『にいさん、もうもどらなくちゃ』
『みんなにいさんをさがしてるよ』
『にいさんが出て行かないとみんながこまるよ』
外では陽が沈みはじめ、暗くなってきた納屋のなかでろうそくに火を灯したばかりのころは一彩も滅多に出来ない体験に喜んでいた。けれど、兄と自分を探している声がちらちらと耳に届きはじめると、燐音のたのしい時間を取り上げようとしてしまう。
「もうちょっとだけ、お兄ちゃんのかくれんぼに付き合ってくれよ」
そう燐音がお願いすれば、渋々といったふうに傍にいてくれたけど、もう純粋に楽しんでくれている一彩はいなくて、うまくいかない自分に眉を下げる。しかし燐音の目的はこれだけではなかったし、いよいよ外では松明を持って山へとふたりを探しに行こうとしている気配がしはじめて、ここまでか、と観念した。燐音とて、そこまで里を騒がせるつもりもない。ろうそくの火を消して、持ち込んだ物を風呂敷に包みはじめるとあからさまに一彩がホッとしてみせるものだから、やはり、ままならない。冷えないようにと肩からかけてやっていた毛布を取って、一彩に手を伸ばす。そうやって握った、一彩のちいさくてやわらかな手を引き上げて燐音は、弟をひとりじめする時間を終わらせたのだ。
「こうやって隠れて、僕はなんだか兄さんとイケナイコトをしてるんじゃないかって、ワクワクしたような気がする」
ワクワクしてたのは、最初のうちだけだったくせに。おそらく一彩の記憶のなかで都合よく残った部分なのだろう。けれどあの故郷で、一彩にひとつでも楽しいと思い出に残る時間を与えることが出来ていたのだと知り、燐音は自分のわがままに弟を巻き込んでしまったとばかりだと思っていた荷が、すこし軽くなった気がした。回りくどい言い方をしなければ、嬉しかったのだ。
「えー、じゃあいまからお兄ちゃんとイケナイコトする?」
ないしょ話をするように、耳へとわざとらしく吹き込んでやれば、素直で純粋だったばかりではもうない一彩は、燐音の言ったイケナイコトになにを想像したのかは知らないが、いや、それくらいわかるようには成長している一彩は、おおげさに肩を弾ませて唾を飲み込んだ。
「なァに想像してンだよ」
いたずらにおでこを指先で押して、からかっただけだと、燐音は着いてきていたファンの気配を探る。弟はとなりでかわいくモジモジしていればいい。それなのに、燐音のシャツをクイッと引いて、弟はかわいく言うのだ。
「まだデートの途中だから、もっとちゃんとデートをしてから」
「シてェって?」
「ぅむ。あとで、ゆっくり、したい」
一彩の言う、もっとちゃんとデートの定義は燐音にはわからないけれど、弟の期待には応えてやりたい。だってお兄ちゃんだから。自分の欲望をちゃんと言えるようになった弟の頭を一撫でして、燐音は立ち上がる。近くに彼女らの気配はもうない。それでも一応、路地を抜けた反対の通りから行くか、と一彩に手を伸ばした。その手を取る一彩を引き上げて、燐音はまた弟をひとりじめする時間を取り戻したのだ。
兄に置いて行かれないよう、となりにくっついて歩く。
「ねぇ、まだ目的地は教えてくれないの?」
わざわざこんなところまで来たのだ。街をぶらつくことが目的ではないのだろう。ちらりと兄を見上げれば、目深に被ったキャップとサングラスのせいで目元はよく見えないけれど、やわらかにその口元がほぐれた。
「弟くんといっしょに行きてェなって思ってたトコ」
それがどこだかを訊いているのに、兄は教えてくれない。けれど一彩は、ふと、あの日の夜を思い出した。となりの布団にもぐる兄が、なぜだか謝ってきたのだ。二組の布団からそれぞれに向き合って、でも一彩はなにも話せないでいたとき。
『ごめんな、一彩』
『俺のせいでお前まで叱られちゃって』
そうだ、あの後、心配したおとな達に厳しく叱られたのだ。当たり前だ。兄に至っては次期君主なのだから、ほんとうに無事でよかったという意味も込められていたのだろう。一彩は、お前が着いていながら、と叱責を受けたけれど、自分が誘ったから一彩は悪くないと、燐音が何度も庇ってくれた。
『一度でいいからさ、一彩といっしょに叱られてみたかったんだ』
燐音はそれまで一度だって、弟といっしょに叱られたことがなかった。だから羨ましかったのだ。里の子どもが姉や弟といっしょに叱られていることが。いっしょにいたずらをしたり、怠けたり、ふざけたりして、いっしょに叱られていることが、羨ましかった。だから、燐音は一彩といっしょに叱られる方法を考えて、実行した。そして、成功した。しかし燐音はひとり満足だったけれど、兄とはいえ、当時まだおさなかったから、ちゃんと出て行こうと言ってくれた一彩はなにも悪くないのに、理不尽に叱られることの辛さまでを考えることが出来なかった。
兄がどうしてそんなことを思ったのか、一彩はいまも昔も知らないけれど、おなじだったのだ。やわらかにほぐれる口元が。あの日の夜の一彩は、おとなに叱られて、泣いちゃいけないとわかっていても次から次へと溢れる涙が堪えきれなくて、拭う度に赤くなった目を腫らして、きっとひどい顔をしていたのだと思う。だからかな。兄が言った。「お詫びになんでもひとつ、一彩の言うこときいてやる」と。なんでも、だなんて。兄は基本的に、一彩が言うことはぜんぶ聞いてくれてるのに。たまに、おとなに逆らうときはそうでもなかったと、いまになっては思う。
あのとき、僕はなにをお願いしたんだっけ。たぐり寄せるには、記憶のなかの一彩はまだおさなすぎた。ああ、でも、たぶん。
「兄さん、手をつなごうよ」
せっかくのデートなのだから、その方がそれっぽい。一彩が都会で学んだことのひとつだ。
「繋ぐわけねぇっしょ」
燐音がそうやって返してくることも、てぃぴぃおう、だとか、照れ隠しなのだと知った。けれどやっぱり兄は一彩を喜ばせる術をこの世でいちばん知っている。
「…着いたらな」
すこし、兄の歩幅が広くなる。ちょっとでも早く着きたいのかな、と思うのは図々しいだろうか。どうしたってゆるむ頬を引き締めるけれど、ニヤニヤすんな、と小突かれてしまうのだ。
『じゃあ、ねるまで手をつないでもらってほしいよ』
おず、と布団から差し出された手を握った。あたたかくて、ふかふかだ。
『こんなの、言うこと聞くうちに入んないぞ』
『ううん。ありがとう、にいさん』
寝るまでなんて言わずに、朝までだって繋いでてやる。燐音は眠りに落ちた一彩の手からちからが抜けていくのを繋ぎ止め、夜中に何度も、取りこぼさないようにちいさな手を握った。寝返りを打って離れてしまったそれさえ追いかけているうちに、燐音は一彩の布団に潜り込んでしまっていた。ちいさな寝息が、たまらなく愛おしくて、こころが凪いだ夜だった。
-----
おしまい