肌温「うぅ……寒すぎる……!」
当初描いていたプランとは真逆の展開にアナは表情をしかめると同時に寒さでガタガタと震える。
その隣でノースマウンテンのツアーガイドとして雇った(つもり)の山男のクリストフが白い息を吐きながら辺りを見渡していた。
「雪で濡れた衣服のせいだな。低体温症で死ぬぞ?俺達」
狼との激しいレーシングでソリを失ったせいで雪山を徒歩で探索というトチ狂った事をしているのに身に着けてる衣服は雪のせいで湿っていて防寒の役目を全く果たせていなかった。
スヴェンはガタガタ震えているアナを心配しているのか動物特有のフサフサの胴体を擦り寄せてくれている。
「有難う。スヴェン……。優しいのね。どっかの誰かさんと違って」
「その誰かさんって俺か?」
クリストフは振り返る事なく鼻で笑う。
「そうよ。こんな時に“死ぬぞ”とかデリカシーのない事言ってさ!」
「俺は本当の事言っただけさ」
クリストフはアナの挑発をまるで気にしていないようで彼女に視線を向ける事なく相変わらず辺りを見渡していた。アナはそんな彼の態度が気に食わなくて思わず歯を剥き出しにして「いーっだ!!」と言えばスヴェンにしがみついて寒さを何とか紛らせる。
足をすくほどの深さの雪が詰まった山道を歩くこと10分、それまで無言だったクリストフが「おっ!山小屋だ」と嬉しそうに声を挙げたのでアナは思わず彼が指差してる方角を見た。
古びてはいるが、寒さを凌ぐにはうってつけの山小屋にアナは安堵の笑みを浮かべたが其と同時になんだか身体がフワフワして目の前が霞む。グラッと体勢が崩れば視界はいつの間にか真っ暗になっていた。
聞こえたのはスヴェンの鳴き声とクリストフの焦ったような声だった。
なーんだ。心配してくれるじゃん……。
意識を失う寸前、アナはそんな事を思っていた。
◇◇◇
───何だか身体がじんわりと暖かい気がする。
良くわからないけど肌に貼り付くこの感触が何処か心地良い。なんだろう……?
うっすらと目を見開けばオレンジ色の炎が暖炉らしき場所に灯っていてその暖炉か、の炎が心地よい程の暖かさだった。
………ああ、良かった。山小屋で過ごせてるんだ。私。
半分だけ意識が覚醒している状態のアナは安堵から微笑んだつもりだったが頬がひきつってて上手くいかない。どうやら身体が冷えきってしまったせいで身体中の筋肉が硬直してしまっているらしい。
其にしても肌に纏わりついてるのは毛布?なのだろうか。どうもそう思えない。
何だかスベスベしていて皮膚に貼り付いているような………。
ふと、自分の胸元に目をやれば視界に広がるのは大して大きくない自分の胸。
え……?胸……?
次に視界に映ったのは誰かの筋肉質で逞しい胸板で自分はその人物に抱き締められているのが分かる。
待って……。こ、この状況って……?!
自分の顔から火が吹くのを感じる。
今の自分は間違いなく全裸で
そしてそんな全裸の自分を抱き締めてくれているのは紛れもなくクリストフだった。
彼もずっと眠っていたのか、アナの悲鳴で薄く目を開けた。
恐ろしく近い距離で目と目が合う。
いや、今はそんな事よりもこの状況だ!!
サザンアイルズから来た婚約者がいる身でありながら雪山で出会った行きずりの男にまさかの全裸で抱かれている事態にアナは唇をワナワナと震わせる。
「ひ……ひゃッ……んん!?」
生理的現象で叫び声を挙げそうになったアナだったが、焦ったクリストフが左手でアナの口を塞いで馬乗りになってきたモノだから余計に驚きで目を見開く。
「静かにしろ!」
「んー!んんー!?」
「誤解すんな!手なんて出してない。応急措置でこーなってるだけだ。」
だったら馬乗りやめなさいよッ!!
アナは心の中で叫んだ。
そんなアナの心の叫びが届いたのかクリストフは割れに返った様子でアナから手を離せば引き続き全裸の彼女を抱き止めて暖炉の炎を見詰めた。
「え……?どーゆー事?」
「君は低体温症で死にかけてたんだ。当たり前だよな。衣服は濡れてたし、なにより外が寒すぎた」
クリストフの視線が濡れた衣服を指すのでアナも視線を暖炉で乾かしてる最中の衣服に向ける。これは当分乾きそうにない……。
クリストフは罰の悪そうな表情でアナと目を合わせると「すまない」と呟いて身を離すと一緒に被っていた毛布をアナの身体に巻いてやる。
「さ、寒くないの?」
そう呟いたアナだったが初めて見る男性の裸体に思わず息を呑めば慌てて毛布に頭を突っ込んだ。
婚約者よりも先に見てしまった男性の裸体(幸いにも下着は身に付けている)は知り合ったばかりの無骨で無愛想な山男のモノだった。
山男のクリストフの身体は見た目通りの大柄で分厚い筋肉はその大柄に見合う逞しいモノだった。
「どうした?出会ったその日で婚約してるんだから男の裸なんで屁でもないだろ」
「ちょッ?!」
彼の言っている言葉の裏に込められたセクハラにアナは顔を赤くさせて思わず視線を反らす。クリストフはそんなアナに構わずに暖炉の側で暖めたグロッグが入ったカップに注げばアナに手渡す。
「この山小屋は親切な人のモンでね。スヴェンなら干し草タップリの納屋で休んでるよ」
クリストフ曰く今自分達がいるのは2階部分なのであまり騒がしくすれば1階で寝ている家主に迷惑が掛かるから静かにしろとの事だ。
「スヴェンも無事なんだね。良かった……」
アナはそう呟いて温かいグロッグを口にした。ラム酒特有の味と香りが口の中で広がる。お酒を飲むのは初めてだったが氷のように冷えた身体を一瞬で温めてくれたので正直助かる。
クリストフは小さな口でチビチビとグロッグを飲むアナを見詰めていたが次に暖炉の火に視線を向けた。
「毛布なくても平気なの?」
心配して声を掛けたアナだったがクリストフの返しで心配した自分が馬鹿馬鹿しかった事を自覚する羽目となる。
「パンツ一枚同士で抱き合っても平気なのか?」
振り返らずに放ったそんな返しにアナは顔を真っ赤にして怒ればグロッグが入っていたカップをクリストフの頭目掛けて投げたが呆気なくキャッチされてしまう。
「おーおー……乱暴だねぇ。これだけ元気なら心配ないな」
嫌味ったらしく笑うクリストフにアナは更にムカムカと来たが、何をしてもあしらわれてしまうので何だか怒るのがバカらしくなってくる。
「クリストフの馬鹿!」
アナは苦し紛れにそう悪態を付けば毛布を被ってマットレスに横たわった。
婚約者がいるのに裸にされた上にからかわれている。最低だわ。
そう毒づいてマットレスに顔を埋めた瞬間、クリストフの大きなクシャミが室内に響き渡ったのでアナは驚いて軽く飛び上がった。
体格が大柄だとクシャミも大きいのだろうか?にしても分厚い筋肉って防寒にならないんだな……。そんな事を思いつつアナはクリストフに「大丈夫?」と声を掛けるも彼からの返答はない。
「ねぇ、聞いてる?」
「………色々と限界だから放っといてくれ」
クリストフは素っ気なく応えれば自身の腕で若干震える身体を抱き締める。端から見ても寒そうだ。
「こっち来て。凍え死ぬよ?」
「室内だから死なない」
「風邪でもひいたらどうするの?」
「俺は風邪なんてひかない」
「え?つまり馬鹿なの?」
「…………」
アナの精神攻撃が聞いたのかクリストフは罰の悪そうな顔をしたまま大人しく毛布に入るとアナから背を向ける形で横たわった。
「温かいでしょ?」
「…………うん」
「暇だからお話しない?」
そう言ってクリストフに近づけば彼は大きく溜め息を付いて仰向けになると両手で自身の顔を覆った。
「君は馬鹿だ」
「馬鹿とは何よ」
クリストフからの馬鹿発言にムッとすれば身を乗り出して彼を睨む。
確かに互いに衣服も身に付けてない異常事態ではあるがこんな寂しい雪山では他に話し相手がいないので彼には話相手になってもらいたい。
何でそう思うかは分からないけれど、今はそんな気分だった。もしかしたらグロッグのせいで酔っているのかもしれない。多分。
暫しクリストフと見詰めあっていれば彼は降参と言わんばかりの溜め息を吐くと「で、何の話をするんだ?」と聞いてきた。
あれ?確かに何の話をすれば良いのか……?
アナは困ったようにマットレスに顔を埋めるとチラリとクリストフを見る。そんな彼は無表情で此方を見ているのでアナは無意識に頬を赤く染めた。
何だかよく分からないけど、恥ずかしい。何故だろうか?
「なんか……恥ずかしい」
「そりゃお互いに裸だもんな」
「そ、それは言わないで……」
「その日で婚約したんだから互いの裸を見る事はしただろ」
「してないッ!!」
クリストフの相変わらずのデリカシーの無さすぎる発言にアナは顔から火を吹けば思わず上半身を起こして叫んだが、自分が上半身を起こした拍子で毛布が取れてしまったのでアナの上半身が露になってしまった。
室内にクリストフの驚く声とアナの悲鳴が響き渡った数秒後───
2人は互いに背を向ける形で寝転がっていた。
アナからすればここ数日の間で色んな事が起きすぎていた。
遠い国の王子からプロポーズされ、姉に結婚の話をしたら王国は吹雪、でもって姉に国へ帰ろうと提案したら見事にお断りされてしまった。
そして極めつけは知り合って間もない山男に裸を見られたのだ。幾らなんでも何もかもが急展開過ぎる。
一番の謎はこの山男と一緒にいると何処か安心できる事でアナにはその理由が分からない。
ハンスみたいに紳士でもないし、無愛想だし、何かと口は悪いし。
でも、狼に襲われた時は守ってくれたし、ソリが壊れた事に関しては一度もアナを責めてこなかった。
雪にアナの下半身が沈んで埋まる度に彼は文句一つ言わずにアナを引き上げてくれていた。
低体温症で死にかけた時は介抱してくれてもいた。思えば何かと助けられている───。
もしもクリストフいなかったら私は雪山で遭難して死んでたかも………。
そう思えばアナの身体は自然とクリストフの方へと向く。彼は相変わらず背を向けているがアナはその背中に向かって恐る恐る手を伸ばせば逞しいその背中に手を置く。
クリストフの背が一瞬だけ震えた気がしたが構わずに今度は自身の頭を彼の背に寄せれば小さな声でお礼を言ってみた。
「その……有難う。色々と」
アナの口から放たれたお礼の言葉にクリストフは口元を微かに歪ませる。
こんな風にお礼を言われるのは初めてなのだ。
「………その、悪かった。色々と。デリカシー無さすぎたよな」
相変わらず振り返らないが声は何処か気まずそうで小さい。
「私を助ける為にこうなったんでしょ?良いのよ」
アナは照れ臭そうに笑うと両腕で彼を抱き締めて身体を寄せる。
どうしてこんな事をしているのか自分でも分からないけれど、気落ちして小さくなっているクリストフが何故か可愛く思えて気がつけば抱き締めていた。
背中越しから彼の力強い心臓の鼓動が聞こえる。
思い返せばハンスに対してハグなんて自らしてなかった。あの時の自分はハンスの甘い言葉に流されて流れのまま浮かれていたのかもしれない。
「出会ったばかりで婚約とか、確かに馬鹿だったね」
「出会って数日の男に抱き付くとか馬鹿だな」
クリストフは素っ気なく言うと首だけを動かして自分に抱き付いているアナを見る。
可愛い顔をしていながら世間知らずでワガママで残念な王女。そんな王女にクリストフは密かに惹かれていた。
其を悟られたくなくてワザとデリカシーのない事や乱暴な物言いをしてきたが、こうして背後から抱き締められている今、もう誤魔化せそうにない。
「………全裸な上に抱き着くとか自分がしてる行動の意味、理解してるのか?」
「………一応、でもクリストフに触れるのは心地良い」
クリストフが起き上がった拍子に毛布は床に広がり、アナは今自分を組み敷いている彼から視線を反らさずに見つめる。
「………拒否るなら今だぞ?さっきも言った通り色々と限界だ」
ああ、漸くクリストフの言葉の意味や素っ気ない言動の意味が分かった。分かった途端にアナの頬は赤く染まって気恥ずかしそうに頷く。
世間で言えばこれは浮気なのだろうが、クリストフに対して気持ちが向いている今、今までハンスのしてきた紳士さと甘い言葉が実は偽りだったんじゃないか?という疑いが膨らんでいた。
後だしジャンケンみたいな返答に妙に馴れ馴れしい甘い言葉。
特に理由なしのプロポーズ。
思い返せば思い返す程に彼の薄っぺらい対応の裏が読み取れて気持ちが冷めていく。
だからだろうか?今は身体を張って自分を守ってきたクリストフしか見えない───。
「抱き締めてもいいか?」
遠慮がちに聞いてきたクリストフにアナは少し照れ臭そうに笑みを浮かべると彼の頬にキスをする。
彼はてっきり返事だけされると思っていたらしくアナからの頬へのキスに一瞬で目を丸くすると今度は恥ずかしそうに視線を反らした。
「あ、あれ?嫌だった?」
喜んでくれると思って頬にキスをしたつもりだったのに視線を反らされる程に嫌だったのだろうか?
「………嫌なワケないだろ。嬉しすぎて照れてんだよ」
ジト目のクリストフが自身の口元に手を当ててそう言うとアナは目を丸くさせて彼を見上げる。
口が悪くて無愛想だと思っていたけれどクリストフってこんな仕草するんだ。何だか可愛い。
ボソッと「可愛い」と呟けばクリストフは「可愛いのは君だ」と言い返せばアナの身体を優しく抱き締めた。穢れを知らない滑らかな肌に曲線美のある柔らかな身体。
少し細い気がするが自分の腕にスッポリと入っているアナが可愛くて思わず首筋に唇を寄せた。
「へっ!?い、いきなり……首……?」
クリストフは戸惑うアナに構わずにリップ音を経てながら首筋や胸元にキスを落とす。
恥ずかしそうに顔を赤らめているアナの口からか細くて甘い声が漏れる。
抱き締めても良いのか聞いてきた割には素肌に唇を寄せるクリストフの行動に頭が混乱してしまうが嫌悪感なんて微塵も感じない。
寧ろ、もっとして欲しい────。
左腕でアナの身体を抱き締めながら身体中にキスを落としては手慣れた様子で胸を揉むクリストフにアナは「なんか……慣れてるね?」と言うが彼は敢えて無視をしているのか胸を揉みながらアナの唇に己の唇を重ねた。
初めてのキスにアナは驚いて目を見開くがクリストフはそんな彼女の後頭部に左手を添えれば器用に角度を変えつつキスをする。
キ、キスってこんななの!?
唇をスライドさせながら時折角度を変えるキスにアナは驚くも何だか息苦しくなって────
「ぶはっ!!」
盛大に口から息を吹き出せばアナとのキスを堪能していたクリストフが目を大きくさせて呆然としていた。
「ご、ごめん……」
何処か大人な雰囲気を感じるキスをしている最中にギャグとも思える息の暴発をさせた自分が恥ずかしくて堪らない。
アナは思わず両手で自分の顔を覆ったが今度はクリストフが「ぶふっ!!」と吹き出したので驚いて両手を顔から外す。
「ご、ごめん。で、でも……面白くて……」
先程のがクリストフのツボにハマッたのか彼は子どものように笑っている。
「そんなに笑わないでよ!」
頬を膨らませて言えばクリストフは何度か深呼吸をして再びアナを見詰めた。
「キスをする時は鼻で息をするんだ」
クリストフは言い聞かせるようにそう言うと人差し指でアナの鼻の頭をツンツンとさせて弄ぶ。
「で、どうする?」
「もっとキスする……」
頬を赤らめて言えばクリストフはまた面白そうに笑ってアナの唇にキスをすれば、暖炉の炎に照らされた二つの影が静かに重なった。