今日は俺にしては珍しい平日休み。先輩方の兼ね合いもあり、なかなか消費するタイミングを掴めなかった有給をやっと使うことが出来たのだ。
窓から見える青空には太陽が昇りきっている。こんなにもゆっくりと寝れたのは何ヶ月ぶりだろうか。
いつもより少し遅めの朝食は、同僚から土産で貰ったココナッツ風味のバターを塗ったトースト。
このバターはSNSによると、とある家の従者が主人のために作ったものらしい。そしてそれを主人がいたく気に入って商品化した結果、熱砂の国で大変爆売れしたとかなんとか。
トーストの上にじゅわりと溶け広がっていくバターからは、ほのかに甘いココナッツの香りがする。……それはあの人と同じ香りだ。
太陽のような笑顔、慈愛に満ち溢れた赤い瞳。
学生時代に仄かな恋心を抱いたあの人は、いつも好物であるココナッツの香りを纏わせるていた。
ココナッツなんて不意にどこかで嗅ぐ機会はあるはずなのに、どうして今になって思い出したのだか。
するとなんとなく流していたワイドショーのニュースが妙に気になった。
『最近魔法医学が発達し、男性同士でも子供を授かることの出来る研究が進んでいることはご存じでしょうか?』
へぇ、そんな研究があるのか。ニュースなんて久しぶりに見たから、気づかない間に時代は驚くより早く進歩してるもんだな。
トーストに歯を立てるとバターのコクが舌にじんわりと広がっていく。
バターを模したマーガリンと違って、やはり高そうな味がするな……などと素人の舌だからこその陳腐な感想しか思い浮かばない。だが、とにかく美味しいことはたしかだ。
さあもう一口、と口を大きく開いたその時だった。
『そしてその研究を支援し、自ら被験者に名乗り出たアジーム家当主であるカリム様がお子様をお披露目になりました』
「は……?りょう、ちょう?」
心臓がうるさく鳴り出し、バターはパンの耳を伝って俺の手に滴り落ちていく。
寮長が被験者って、寮長が子供を産んだ……ということか⁉︎
今から液晶が映し出すのは、俺が昔に恋をしたその人。そしてその人が誰かとの子を抱く姿なのだ。
俺はトーストを皿に置いて息を呑む。
……寮長の姿を見るのは何年ぶりになるだろうか。
そして映像が流れ出した瞬間、昔と変わらない笑顔を浮かべた寮長がアップで抜かれた。
「みんなにお顔見せてくれないか?……恥ずかしがりやさんなのかな?」
寮長は聖母に見間違えるような微笑みを、自身の肩に顔を埋める柔らかなかたまりへと向ける。
そして寮長が抱き直すと赤子の髪の毛がふわりと揺れた。
……顔なんて見えなくても、寮長が誰のとの子を産んだかなんてすぐに分かった。
光を全て吸収するような漆黒の髪。今は短いけれど、きっとその後ろ髪が長くなればあの人により似るだろう。
赤子は寮長の肩へイヤイヤと言うように横に首を振るとより顔を埋める。すると何を思ったか不意に頭を上げ、寮長の肩を越えて遠くに手を伸ばした。
そしてそれに気づくと寮長は赤ん坊の頭をそっと優しく撫でた。
「パパに抱っこしてもらいたいのか?あ、でも護衛の仕事中だからダメって……あぁぐずっちゃいそうだな」
赤子は小さな嗚咽を上げ、そして泣き出す……かのように思えたが突然、寮長の肩に何者かの手が置かれた。
その男の指先は愛する者に安心出来る料理を提供するために爪が短く切り揃えられており、何度も愛する者を守ってきたがゆえの古傷が残っている。
そして寮長は振り返ると、背後の男に赤ん坊を託したのだった。
表情は見えないけれど、きっと寮長は花開くような笑みを浮かべていたのだろう。……学生時代もあの人のことが大好きだ!って誰からも分かるほど、可愛らしい表情をその顔に描いていたのだから。
「お前はパパの三つ編み引っ張るのが好きなんだよなぁ」
寮長が背を向けて赤子に話しかけると、カメラは徐々に下から上へと"パパ"と呼ばれたその男の姿を映し出した。
子を抱く腕はしっかりと鍛え上げられており、編み込んで前側に垂らした後ろ髪は小さな手でくいくいと引っ張られている。
そして昔よりもさらに色気を増させた端正な顔立ちに……柔らかく笑みを浮かべるチャコールグレーの瞳。
副寮長ってあんな顔で笑えたんだな、と俺は思わず驚く。
そして赤子はいつのまにやら副寮長の腕の中で、キャッキャッと楽しげに声を上げていた。
「ふふ、とーちゃんの方向いて?あっ、こっち向いてくれたな。……ほら、パパに似てイケメンだろ?」
副寮長の髪を引っ張って満足したらしい赤子が寮長の方に、それからカメラの方へと顔を向ける。
そして寮長が赤子の顔と並ぶように軽くしゃがむと、二対のガーネットがそっくりな笑顔を浮かべた。
「いや、俺よりもお前に似てるから笑顔が愛らしいんだろ」
「オレの笑顔、そう思ってたのか⁈」
「なっ⁉︎別にそういうわけじゃ、いやそうなんだが……ああ、もう‼︎」
「分かってる!ジャミルがオレたちのことす〜っごく、だいすきだって‼︎オレたちもジャミルがだいすきだ‼︎」
寮長はぎゅ〜っ‼︎と二人に抱きついて、満面の笑みを浮かべた。
それに対して副寮長はいつものようにやれやれと思っているのだろうが、その唇の動きで幸せを噛み締めているのが分かる。
そして二人の思いが伝わっているのか、副寮長の腕の中で楽しげに声を上げる赤子に寮長は柔らかな声音で話しかけた。
「なはは、もう少しおっきくなったらパパに絵本の読み聞かせをしてもらおうな?すっごく上手なんだぜ!そうだ、お前たちもその時は聞きに……」
「駄目に決まってるだろ‼︎……それでは本日は皆様、お集まりいただきありがとうございました」
「え、もうそんな時間か⁉︎みんな集まってくれてありがとう!これからもオレたちのこと見守ってくれよな‼︎」
そして寮長がにかり、と笑いながら手を振る姿を最後に衝撃の数分は幕を閉じたのだった。
『以上、お披露目会のVTRでした。カリム様とジャミルさん、そして愛らしいお子様の仲睦まじい様子が伝わってきましたね!ではコメンテーターの皆さんいかがでしょうか?」
テレビは熱砂の国から再びワイドショーのセットを映し出す。
すると経済評論家らしい、ゲストとして呼ばれたコメンテーターが嬉々として語り出す。
『そういえばお二人といえば最近熱砂の国で話題のココナッツバターは、ジャミルさんがカリム様のために作られた話で有名ですよね〜!』
コメンテーターのセリフに思わず吹き出しそうになった。そして未だ皿の上に乗っている食べかけのトーストを見つめる。
いや、熱砂の国には寮長と副寮長のような関係性の主従が他にもいるんだなとは思ったが……まさかお二人だったとは。
近くに置いていたブラックコーヒーを一口含んで、俺は過去の大切な記憶に思いを馳せる。
『なぁ、お前の説明ってすっごくわかりやすいよな!お前がもしうちに商人としてやってきたら、お前が紹介した商品を絶対買っちまうぜ‼︎』
学生時代に寮長に言われたその言葉。それがずっと嬉しくて、俺はアジーム家とも取引しているこの会社に就職したんだ。
もし俺が訪れることが出来たら、寮長は俺を覚えてるだろうか?……きっと副寮長には何度も牽制されたことがあるから顰めっ面を浮かべられるだろうな。
でも、俺は貴方の言葉のおかげで頑張ってこれたんだと直接伝えたいんだ。
「よし、アジーム家の取引に行かせてもらえるように頑張らなきゃな!」
自らの頬を叩いて喝を入れる。
今は小さなあの子がどれくらい大きくなったくらいになるかは分からないけど、絶対に叶えてみせるんだ!
そして俺は再び最高に美味しいトーストに齧り付いたのだった。