汝は人狼なりや? 淡い光を放つ満月が空の中央に昇っている。しかし薄雲が風に靡いて、その忌まわしい月に影を落とした。
雑多な匂いの中でもひと際肺に染み込んでくる湿った香りに、背中まで覆う尻尾がぶわりと膨れ上がる。
元より利く鼻と耳に加えて、この暗闇ならば、全てはこちらの思うがままだ。
しかしそんな事よりも、最期に俺を庇って追手の目を引いたアイツの姿だけが瞼の裏に強く眩く焼き付いていた。
必死に伸ばした手よりも先に、大柄な猟師の手に握られた無骨な猟銃が火を噴く方が先で。
火花が散って、柔らかく笑んだアイツの青い瞳から落ちた雫は透明なのに口から零れた血は恐ろしいほど赤かった。
俺達は誓って──それこそ何もしてはくれないゴミみたいな神とやらに誓って、何もしていない。
時々山から下りてきては、自分達で獲った品を売りに来る程度の交流しか無かった。
でも、人々は姿をさらす事を望まない俺達の正体を邪推して、勝手に疑心暗鬼になって。
山で子供や老人が野生動物相手に下手をうって襲われるのは、ハッキリ言って不注意であるのと同時に当たり前の事象だろう。
動物だって生命を脅かされそうになれば反撃に出るし、実際の所、死者は出ていない。
逆に子供が迷子になっていたのを、それとなくヨイチが助けたのは何度もあった。
それなのにその恩すらも奴らは無に帰したのだ。
他の場所よりも少しだけ低い垣根を飛び越える。
無論、人間であれば到底届かない高さだっただろう。賊除けに作られているとすれば十分だったが、人ならざる生物に対しては有用では無い。
牛皮をなめして作ったブーツはしなやかに曲がり、土煙すらも立てずに地表へと着地する。
松明の明かりすら届かない薄がりに身を潜ませ、体勢を出来るだけ低く保つ。
そこまで豊かではないが温かみのある村。そんな村の端の方を見つからないようにゆっくりと歩く。
途中でまだ部屋の明かりが薄く灯っている家の中から、楽しそうな笑い声が聞こえて思わず唇を噛み締めた。
そのまま家の横を通り過ぎ、段々と濃くなっていく匂いの元を辿る。
「……っ……」
理解したくない物を認識した時、流石に声が洩れるのを抑えきれず噛み締めていた唇に傷がついて、血が流れ落ちていく。
牛舎近くに打ち捨てられた古い飼葉桶の中、まるで醜いものを隠すように無理矢理詰め込まれたヨイチの肉体は脱力しきり、あらぬ方向へと四肢が曲がっている。
垂れ下がった耳と尻尾は血で濡れており、乾いた部分がどす黒く固まっていた。
あの後、拷問されるほど生きてはいなかったと信じたいが、星を散らしたような青い瞳にもう光は宿っておらず、半分だけ開いているそこを閉じてやる。
もう生きてはいない死者の匂い。鉄錆とわずかな酸っぱさの混じったそれは、やがて土に還っていくのだろう。
全てが終わったなら、コイツが最も好んでいたあの丘の一番空が綺麗に見える場所に埋めてやってもいい。
弔い合戦などというご立派な題目を掲げるつもりは無かった。だが、何かを奪った人間が何も奪われないのは不公平だ。
よく言う輪廻転生などクソ喰らえで、今後どうなろうと知った事ではない。
単純に生命の危機を感じた獣が全てを壊すだけ。
だが、必要以上に表立って行動するのは得策ではない。腹の底で叫び怒り狂う怨嗟は、ある一線を越えてしまえば逆にどこまでも静寂を齎すのだと初めて知った。
正確に。かつ、冷酷に。罰を追い求めるのは不条理を正す事であり、戻らない命を嘆き乞うよりも自分に出来る事をする方が良い。
どうせ元から地獄めいた世界だ。これまで少しばかりマシに感じていたのが嘘だったかのように、全てがドブ川の如く濁って見えた。
「バケモノっ……やめ、……ゆる……ぐ……ぎゃぁあ……!!」
最後の一人の喉元を伸ばした鋭い爪で掻き切る。なんて呆気ない幕引き。
せめてもの情けで出来るだけ痛みを与えないようにしてやった。
全身に染みつく臓腑の匂いが吐き気を催す程に苦く、顔に飛び散った血を袖口で拭うものの、着ている服すらドロドロになっていてまるで意味が無かった。
これでもう終わり。何もこの手の中には残っていない。
復讐に意味があるかどうかなど、途中から問うのすら止めた。
命乞いも慟哭も、ぽっかりと穴が開いたような心には入り込んでこず、耳を抜けても意味のある言葉には思えなかった。
同じ言語を使い、心を通わす事だって出来なくはない生き物。でも、少しの違いのみで俺達を簡単に迫害したアイツらの方がバケモノでは無いのか。
そうして俺自身もヨイチを弔ったら、今後生きる意味を失ってしまうのに気が付く。
何十人もの命を摘んだ事など微塵も悔いてはいなかったが、あの場でヨイチと一緒に死ねなかった方が何百倍も悔いが残っていた。
さっさとヨイチの亡骸を運んで帰ろうとした時、村の一番端の方からかすかな物音が聞こえた気がして目を向ける。
あの家の連中はもう済んだ筈だ。まだ誰か残っていたのだろうか。
ゆっくりと、だが着実に足を動かしその家へと向かう。
壁に取り付けられた木の扉が開いた時にキィキィと歪んだ音を立て、狭い居間を抜ける。
ここの奴らはぐっすりと眠っていたから、ベッドの上に複数の血だまりが出来ているくらいで状況としてはさほど凄惨では無いだろう。
だが、そこでようやく気が付く──寝室の最も奥に存在するベビーベッドで何かが泣いていた。
先ほどは身動きもしなければ泣きもしなかったのもあって、その存在を察知できなかったのだろう。思わずそっとベビーベッドに近づき、中を覗き込む。
柔らかそうなベッドの上でふにゃふにゃの赤ん坊が白い寝巻を着せ掛けられて、小さく声を上げている。
こんな儚い命、わざわざ手を下さずとも、一日程度放っておけば勝手に死ぬだろう。
しかしジッと見つめていると俺の存在に気が付いたのか、赤ん坊は泣くのを止めてこちらに視線を投げかけてくる。
まるで澄んだ夜空のように透き通って純粋な青。生え揃ってもいない髪は黒く、体からはミルクに似た甘ったるい匂いがした。
こちらは真っ赤に汚れた姿なのに、赤ん坊は何故かキャラキャラと笑い声を発する。
────どうしてなのか、この子供はヨイチによく似ていた。
無言のまま人差し指を差し出す。このまま飢えで死ぬより、いっその事何も分からないまま殺してやるのが温情だろう。
だが、自分に向けられた殺意も分からずに赤ん坊は笑ったまま汚れた指を掴もうとしてくる。咄嗟に引っ込めた指は、もはや無意識の行動だった。
その後、たっぷりと数分ほどどうするべきかと逡巡し、赤ん坊の周りに敷き詰められた布ごと持ち上げていた。俺はきっとあの日から正気を失ってしまったのだ。
仮にそうで無くても、一時の気の迷いで、人間のガキなどすぐに殺せる。
そう考え、もう他には何の気配も感じない死んだ村を俺は赤ん坊と、ヨイチの亡骸を抱えて後にした。