LOVE IS A MANY-SPLENDORED THING 「誕生日、おめでとう」
飲み口の端が触れ合い、軽い音を立てたシャンパングラスに入ったシャンパンの上品な色。
その中に浮かぶ細かな気泡を照らすように揺れるキャンドルの数々と、照明の落とされた室内。
普段以上に丁寧に施されたテーブルコーディネートと、一番目立つ場所に配置された黄色のガーベラの花束が生けられたガラスの花瓶。
見慣れた筈の光景を塗り替えるような非日常感に、クリプトは唇に含ませたシャンパンだけではない酔いを覚えていた。
普段は素朴なデザインのマホガニー製のテーブルには夕日を思わせるような色鮮やかな赤いクロスが掛けられ、その上には何度食しても飽きる事のないポークチョップが大皿に山ほど盛られている。
それ以外にもアンチョビとポテトのキッシュやアスパラガスとマッシュルームのミモザサラダ、バジルとトマトの冷製ポタージュといったクリプトが一度は食した事がある料理が所狭しと並べられ、家庭的ながらも手の掛けられた料理の品々は赤いクロスに負けないくらいにクリプトの目には眩しく映った。
そうしてクリプトの顔付近まで掲げたグラスの向こうでは、いつもの喧しさをどこかに投げ捨てたかのように穏やかな笑みを浮かべたミラージュがクリプトの持つグラスと同じ形のグラスを口許に傾けながら座っている。
周囲には微かな音量で流れる古いアメリカンポップスの切なさと柔らかさが内包された旋律がテーブル横のプレイヤーから流れだし、二人の耳を楽しませては空へと消えていく。
こういった聞いた人間の心を震わせる音楽をクリプトが聞く回数が増えたのは、間違いなくミラージュのせいだった。
グラスをテーブルの上へと音を立てずに着地させたクリプトは、自分の前へとセッティングされているフォークとナイフを手に取ると、どれから手をつけようかとテーブルの料理達に目を走らせ、結局は蜂蜜の照りが美しいポークチョップへとフォークを伸ばす。
そんなクリプトの選択を、キャンドルの仄かな灯りの中、変わらぬ穏やかな目でジッと見つめていたミラージュへと顔を上げて視線を合わせたクリプトは、場の空気を乱さぬように静かに声を上げた。
「あまりそうやって見つめられると食べにくいんだがな、小僧」
わざとからかうような色も乗せたその言葉に、ミラージュが普段と同じく、そんなつもりではないと返してくるのをクリプトはどこかで期待していた。
そうでもしなければ、この濃密で、肺腑を満たすような甘だるい空気感に堪えられないと思ったからだ。
けれどクリプトの思惑とは異なり、グラスから口を離して子供っぽく顔を傾げたミラージュは整った造形を崩す事なく、丁度、愛する人への切実な想いを歌う曲を背後にしながら、口髭に囲われた厚い唇を動かした。
「いいだろ、今日くらいは」
そのまま厚みのある唇は緩やかな弧を描き、目尻の僅かに垂れた柔和な瞳が細まる。
たったその一言がクリプトの頬を染め、比較的低くなりがちな体温を上昇させた。
飾り気のない、ミラージュの本音を聞いた気がして、クリプトはついに目を合わせていられなくなり、ナイフとフォークを差し込んだままのポークチョップへと視線を落とす。
しかし、何の抵抗もなくフォークの先端を埋め込ませたポークチョップの仕込み時間を考えてしまって、またもやクリプトの手足を落ち着かなくさせた。
ミラージュがクリプトの本当の誕生日を聞いてきたのは、今でも二人にとっては忘れられない思い出となっている、ミラージュがクリプトの真実を知ってしまったあの事件から少し経ってからだった。
事件の前から恋愛関係になりそうでならないという微妙な距離感を保っていた二人が愛を確かめあい、その身体を寄せ合うようになってから日は浅い。
クリプトの真実を知って、ミラージュとクリプトの距離はようやく一足飛びに縮まったと言える。
それはクリプトがミラージュを好いているからこそ、自らの秘密にミラージュを巻き込まないようにと常に自らに枷を掛していたというのも理由の一つであり、それが意図せずとはいえ明らかになってしまえば、ミラージュへの愛情はクリプトの中で抑えきれない程に膨らんでいった。それこそ誰かに押されれば簡単に綻びを見せてしまうくらいには。
そんなクリプトの背中を押したのは、他ならぬミラージュだった。
逃れようのないくらいに追い詰め、幾重にも頑丈に守っていた筈の奥に秘めた弱さをついに見せたクリプトの首筋をクリプト自らに差し出させて、牙を立てた。
呆気ないくらいの簡単な狩りに、自分の詰めの甘さをクリプトが後悔するくらいの見事な手際。
けれど狩り取った愛を見せびらかすでもなく、逆に大切に懐にしまい込むような慈しみ方をするミラージュに、クリプトはどれだけミラージュがクリプトを想っていたのかを嫌が応にでも毎日自覚させられる羽目になった。
誕生日、という響きはクリプトにとってそこまで楽しみにするようなイベントではなかった。
勿論、養母であるミスティックや妹のミラ、そうして施設に居た他の子供たちに毎年のようにささやかなケーキと共にお祝いの言葉を受け取るのはクリプトにしてみれば、確かに嬉しいイベントの一つではあった。
しかし、それはあくまでも日常の延長線に過ぎず、掛けられる祝いの言葉に述べる感謝のセリフは、どこか白々しく幼少期のクリプトの耳へと響いていた。
誕生日。
自分がこの世に生を受けたことを示す、一年の中でも重要な一日。
でもそれは自分の記憶がまだらにしか無いくらいの年頃の時点で、周囲に同じような孤児ばかりだったクリプトにしてみれば、本当に正しいのかも知らなかった。
ミスティックが後から調べたのだと言っていたが、もしかしたら、自身の誕生日すらも知らない哀れな孤児の一人に心優しい養母がついた優しい嘘である可能性の方が高い。
その点に関してクリプトは、その方が良いとすら思っていた。
産まれた日がいつであろうとも、ミスティックが自分を見つけてくれたあの日から自分の人生は始まりを迎えたと考えているからだった。
そうして、そんな穏やかな人生が急な終わりを迎えかけたタイミングで、クリプトは自分の全てを書き換えて第二の人生を始める事にした。
APEXに参加するには嘘の戸籍が必要になる。
だからキム・ヒョンという架空の人物を作り上げ、その人物の誕生日はミスティックが自分を見つけてくれた運命の日に設定したのはクリプトにすれば当然の話だった。
忘れないように、失わないように、どんな時でも彼女達の愛を傍に置く為に。
だから、ミラージュに改めて誕生日を問われた時、クリプトは二つの日付を告げた。
パク・テジュンが産まれたとされる自分の中ではあまり重要視出来ない日と、一人の孤児がミスティックに見つけられてパク・テジュンとして生き始めた日。
それを聞いたミラージュが、祝う日が多くて良いな、とだけ囁き笑ったのはクリプトの脳内に今でも強く焼き付いている。
そうして今日は、パク・テジュンが産まれたとされる日の方だった。
正直な所、こちらの日は祝う対象にしなくても良いとクリプトは思っていた。
そもそも、この歳になって大々的に誕生日を祝われるというのも気恥ずかしい。
それなのにミラージュはそんなクリプトに向かって、それだけは外せないのだと言った。
愛する人が産まれた日は、絶対に祝いたいのだと惜しげもなくその眩しい笑顔のままにそう言ったミラージュに、何故この男はここまでするのだろうと疑問を覚えたのはクリプトだけの秘密だった。
□ □ □
清潔に整えられたベッドに背を預け、綿雲のような質感のマットレスに包まれる感覚がクリプトを満たす。
そんなクリプトの上には相変わらず優しげな笑みを浮かべたミラージュが体重をかけないように上体を起こした格好で跨がっていた。
ミラージュが少し前に揃いで買ってきた色違いの寝巻きを着た二人の視線は、じわりと滲み出すような熱を帯びて絡み合う。
「……身体冷えてない? 大丈夫?」
スルリとミラージュの掌が閉められたボタンの上を撫でる。
サイドテーブルに置かれたテーブルランプと、その下に置かれた小さなアロマディフューザーから流れ出す白い靄はクセのある甘い香りがして、クリプトの思考を鈍らせた。
普段ミラージュがつけている香水とはまた違ったその匂い。
そうして、ミラージュの家に泊まった時にだけ自分に纏わりつく自分では絶対に選ばないであろうシャンプーとボティーソープの匂い。
それら全てが混ざって、その上でミラージュ自身の匂いが降り落ちるこの瞬間が、クリプトの固く閉じた心と身体を解きほぐしていく。
身体を他人の前で開くというのは、自分がいつ殺されても文句は言えないと言う事だ。
常に様々な事象に追われ続けるクリプトにとって、何もかもを忘れてしまうくらいの快楽は余りにも無防備で、一歩間違えば這い寄ってくる不快感と隣り合わせだった。
自分が自分をコントロール出来ない事、自分が他人の前で惜しげもなく感情や嬌声を洩らす事。
それに対してクリプトが想像以上に恐怖心を抱いているのを知ったミラージュは、クリプトの気持ちを和らげる事に尽力した。
餌を待つ雛鳥に親鳥が餌を与えるように、過不足なく、そうして惜しみ無く愛を与えては、配慮を施した。
そうして、身体を受け止めるふかふかとしたマットレスも、寝心地の良くなるように肌触りの良い寝巻きをプレゼントしてきたのも、日によって変わるアロマディフューザーの香りも全ては自分の為なのだとクリプトが気が付いた頃には、もう戻れないくらいにミラージュはクリプトという人間を溶かしていた。
じわじわと身体にけぶる熱が背筋を煽り、クリプトを浅ましい気分にさせる。
もっと深く溶かしてくれたらいい、荒っぽくてもそれでもミラージュ相手ならば構わないと思える。
それなのに今日は特にミラージュの手付きが緩慢としていて、クリプトは遂にボタンに触れているミラージュの手を掴んでいた。
「寒くない、から……はやく……」
しかしクリプトの懇願は、ミラージュのヘーゼルの瞳に見つめられたまま、アロマディフューザーから出ている煙と同じく空間に広がるばかり。
「うん……そうだな。……でも、今日はゆっくりしたいから、もうちょっと我慢してな」
まるで自分に与えられた欲しくて堪らなかったプレゼントの包装紙を開けるように、ミラージュの切り揃えられた爪先がパールがかったボタンを一つ一つ外していく。
ダイニングで流れていた音楽はもう聞こえない筈なのに、愛しくて堪らないのだとミラージュの全身から発せられるメッセージが余りにも恥ずかしさを増幅させて、クリプトは思わず腕で顔を隠した。
「顔、隠さないでくれよ。……なぁ、テジュン……見ていたいんだよ、お前が俺の事、好きだって顔で見てくれるのが嬉しいから……見せて?」
前を止めているボタンが全て外され、開かれた先にある肌に触れる前にミラージュの手が衣服越しのクリプトの腕を擦っていく。
そうして様子を窺うように顔を寄せてきたミラージュの気配を感じて目を合わせたクリプトは、掠れた声で小さく囁きを発する。
「……なんで、今日は……、いつも以上にそんな……」
「丁寧にするんだって? ……今日は、お前が産まれた日だろ? だから感謝してるんだよ。……お前の親御さん達にも、お前自身にも」
目の前でミラージュがそう言って微笑む姿がクリプトの虹彩へと映り込み、鼓膜から入った言葉を脳が咀嚼する。
顔も、名前も知らない本当の両親。それから、育ての親であるミスティック。
その存在と、クリプト自身が産まれた事に感謝したいと言ったミラージュの目は真剣そのものだった。
本気でクリプトが産まれた事、そうして、出会えた事をミラージュが嬉しいと思っているのだというのを理解した途端、クリプトの中に今までに感じた事のない思いが芽生えていた。
自分はこの男の為にきっと産まれてきて、パク・テジュンという人間が産まれたのは間違いではなかったのだと、確かにそう思えた。
スオタモの路地裏で寒さと飢えに震えた夜も、あらぬ疑いをかけられて慌てて飛び出し、大した準備もしないまま慣れないソラスの地で一から全てに復讐をしようと誓った夜も、誰からも本当の自分を理解して貰える事は金輪際無いのだろうと一人、寂しくなった夜も。
それら全てがこの男の腕の中で過ごすあまやかな夜の記憶へと書き換えられていく。
太陽の日溜まりのような、それでいて、どこか翳りを帯びた月のような二面性のあるこのエリオット・ウィットという人間が自分を新しく形作ってくれるならば、価値の無いと思っていた"今日"が何よりも大切な日になるような気がした。
「テジュン?」
「……エリオット……。……俺も、お前に出会えた事に感謝している」
「……あぁ」
クリプトの渦巻く感情を込めた言葉に、ただそれだけを返したミラージュは、たくさんの愛を受け渡す為にゆっくりとその唇にキスを落とした。