ぼんやりと香る夏めいた匂い。
肌を満たす熱さが、本来ならもう少しマトモな筈の脳を酩酊させた。
けれど考えてみれば、ここは常に真夏のようなものだったとカーテンの向こうから透ける日差しを見遣る。
泥のように眠っていた。そう認識するのにそこまでの時間は必要ではなく、シーツを掻くように動かした足先はしっとりと汗ばんでいる。
これで、何度目だったか。
そういう数を数えるのは億劫になって、忘れてしまおうと思った筈なのに、実際の所は十一度目だと酷く記憶力の良い脳は忘れられずにいた。
欲しい物を正しく手に入れる事は難しく、その代わりに、おぼろげな形を適当にそれらしく縁取るのは容易い。
そういう所ばかりが大人になって、どうしたら良いのかも、自分自身で分からなくなっていた。
口から出る言葉よりも肉体言語に頼るのが大人なのかと言えば、恐らく違うような気もする。
けれど、正直な話をするならば、言葉にした所でどうにかなるような問題にも思えなかった。
ボタンの掛け違いのような、とはよく言ったもので、人間は人間の考える事を全て理解するのは不可能だ。……この男相手には余計に。
隣で死んだような顔で眠るミラージュの寝息にそって上下する、何も身に付けていない厚い胸板を目でなぞる。
普段は口喧しい唇は薄く開かれ、ざらついた質感のヒゲはいつもよりも少しだけ伸びていた。
そっと身体を起こす。ギシ、とベッドのスプリングが軋んだ。
ミラージュ側にあるサイドチェストの上にあるエアコンのリモコンを取ろうとしたタイミングで、覆い被さるような格好になっていたミラージュの目が開かれる。
さっきまで熟睡していたように見えたのに、瞼を開けたミラージュの目はギラギラと光を帯びて、群れから置いていかれる事を怯える狼のようだった。
「……帰るのか」
「……帰って欲しいのか?」
掠れた声が問うてくる。意地悪な質問をしたと自覚していた。
けれど先ほどまで好き勝手にさせてやっていたのだから、この程度は許して貰わねばなるまい。
答える代わりに手を伸ばして身体を抱き締めてくるミラージュの、同じく汗ばんだ肌が触れあって、やはり全部コイツのせいだと責任転嫁じみた考えが浮かんでは消える。
けれど、どちらかと言えば、自分の方が九分九厘悪いのは分かっていた。
「まだ足りねぇもん。……もう少し居たら?」
「寝転けてたクセによく言う」
「お前が先に寝落ちしたから」
「疲れるんだよ。こっちは」
「でも悪くは無いって顔、してたけどな」
言い返そうと開いた唇から言葉が出る前に、上下が反転する。
もう一度、軋むスプリングの音は、押し潰された柔らかな布団の中で聞こえる微かな悲鳴のように思えた。
今日は折角のオフで、こんなに天気も良いのだからという話をすべきタイミングは、見失ってしまった。
何もかも手遅れなのだろう。頬を擦る手付きは優しくも有無を言わせぬ力がある。
最初の頃、キスなんてしたくない、そう言った俺の口をすぐさま塞いだミラージュの唇は、やっぱり想像していたよりも柔らかかった。
それから何度重ねてもコイツの唇は柔らかくて、キチンとケアされている事が伝わってきてむず痒い。
「なぁ、もっかい」
こちらの返答を待たずに首もとに擦り付けられた顎先のざらつきが、甘えるように囁かれるのと同時に肌を引っ掻く。
好きだとか愛しているとか、そんな話をしないまま、ここまで来て。
じゃあ今さら真面目な顔をして向き合って――なんて、そんな日が来るとは到底思えなかった。
話し合った所で、自分がどうしたいかも、一寸先の未来の事すらも想像出来ないのに。
だから黙って視線をサイドチェストの上へと向ける。
こちらの視線の意図を察したのか、上に跨がったままのミラージュがリモコンへと手を伸ばし、スイッチを入れられた途端、ゴウゴウと部屋の中を涼しい風が走り始めた。
「これでいい?」
それにも答えは返さない。代わりにミラージュの肩へと両手をかければ、顔を寄せてきたミラージュと唇を合わせる。
やはりそこは嫌味なくらいに柔くて、かさついた自分の唇とは違う。その上、唇を撫でる舌先の熱さに、全く違う生き物と交わっているのだという事実が脳を這う。
あと何度過ちを繰り返すのかという疑問は、結局今日も放棄されて、ベッドの下へと転がり落ちていった。