Mr.ガーネットより愛をこめて 着ているパーカーの袖を捲り、手に触れたワイングラスの繊細なステムを指先でなぞるようにしてから握る。
滑らかな曲線を描くボウル部分から真っ直ぐに繋がるガラスで出来たそのラインを揺すれば、中に注がれた赤い宝石じみた液体が芳醇な香りを周囲に広げた。
自室に設置している秘蔵のワインセラーから"取って置き"の逸品を出してきたのは、他でもない、隣に居る可愛らしい恋人のご機嫌を伺う為だった。
柔らかな牛革製のカウチソファーに座り、目の前のテレビに投げやりな視線を向けているクリプトの姿を目で追う。肌触りの良さそうな素材で出来た白無地のハイネックと、細さをそのまま象るようなピッタリめの黒スキニーパンツを履いた脚は、慣れた様子で組まれている。
コイツと恋人になってから随分と経っているが、未だに【ゲーム】の後でも俺の隣に当然のように居てくれるのに、慣れない時も多かった。
それでも、クリプトの機嫌の良し悪しくらいは分かる。
今日の【ゲーム】内容自体は非常に良く、俺とクリプト、そうして新シーズンから【ゲーム】に参加する事になったジャクソン……じゃなくて、ニューキャッスルの部隊がチャンピオンを取って、試合終了したのだ。
だというのに、どうにも【ゲーム】の途中からクリプトの機嫌が段々と悪くなっているような気がして、俺はヒヤヒヤしていた。
今回はちゃんとクリプトの指示に従って、一人で前線を走り過ぎないようにしていたし、ドローンで索敵している間のクリプトを守るのも徹底していたというのに。
というのも、同じ部隊になったニューキャッスルは『人を守る事が得意』だとかなんとか自称しているのもあって、クリプトがドローンを展開すれば、すぐさま傍に駆け付けて、クリプトをさりげなく見守っている事が多かったからだ。
【ゲーム】で誰がどう動こうが、別に、勝てるならそれで良い。
分かっている筈なのに、グリーンのスクリーンを眼前に映し出し、無防備な姿を晒しているクリプトを守るのは俺なのだと、妙な対抗心が出てしまった。
そのせいでクリプトがドローンから戻ってきた際、近くにいた俺とニューキャッスルが話している内容を聞かれたかもしれないが、ただの世間話だ。アイツがバンガロールの兄貴である事はバレていない、筈だった。
つけっぱなしのテレビ画面には、有名なイケメン俳優が演じている正義のヒーローが、街を狙う悪役を倒すために、気合の入ったCGやら最新武器やらを駆使して縦横無尽に飛び回りつつ、戦っている姿が映っていた。
それを横目に持っていたグラスに口をつける。
明日も【ゲーム】があるから余り飲み過ぎないようにしないとな、と思いながらも、引っ張り出してきたワインの味は、やはり極上だった。
幼少期から酒に慣らされてきたのもあって、そこそこ強い自信はある。クリプトは顔に出にくいが、俺よりは酒に弱い。
弱い、とはいっても"俺よりは"なので、世間的には普通くらいだ。
二人でならボトル一本は楽勝で空けられるだろう。
「お前」
丁度、画面の中のヒーローが逃げ遅れた民間人の前に立ちはだかり、敵に背中を向けて飛んできた攻撃をその身で受け止めているシーンで、隣のクリプトが声をあげる。
その声にテレビから目を外してクリプトの方へと顔を向ければ、逆に画面から目を離さないままのクリプトの顔面にテレビから発せられる赤い光が映った。
映画を見る時は、俺の一存で室内のライトは控えめにしているからだ。
「……何か、妙な事に巻き込まれて無いだろうな?」
ゆるりとグラスを回しつつも、そう問いかけてきたクリプトは、やっぱり俺を見ない。
レイスと共に様子の可笑しいニューキャッスルを追いかけた先で、マフィアの雇った傭兵集団に襲われ、アイツがバンガロールの兄貴である事を知った。
バンガロールが宇宙空間ではぐれてしまった自分の兄を探す為に【ゲーム】に参加しているのを、レジェンド達の間で知らない奴は居ない。
そうして、どうせ見つからないだろうという周囲の同情の視線を無視して、一人で頑張ってきた彼女の事も。
だからこそ、何らかの理由があるにせよ、バンガロールに自分の事を知らせなかったらしいニューキャッスルに俺も腹が立っていた。
もしも、俺の兄貴達が……生きていたと仮定して、それなのに俺や母さんの前に現れず、全く違う場所で新しい家族を作って楽しく過ごしていたら、なんて。――想像するだけで胸が痛い。
それに、バンガロールに直接伝えた事は無かったが、三人の兄を一瞬で失った自分の境遇と重ねていた部分もあった。
「……なんで?」
「ニューキャッスルを……奴の事を、随分と親しげに呼んでいたから」
俺の言葉に、何故か気まずそうに返事をしてきたクリプトの横顔を眺める。
親しげに呼んでいた? そのセリフに首を傾げ、今日の【ゲーム】を思い出す。
そういえば、からかいがてら『お兄ちゃん』だとか何とかアイツを呼んだ気がしたが、それを聞かれていたのだろうか。
それよりも俺は、クリプトを先に守るのは自分だと思っていたから、そんなに頭を回して話していなかった。だが、端から聞いたら非常に親しげな関係性から来る呼び掛けに聞こえなくは無いだろう。
俺は持っていたグラスをカウチソファーの前にあるローテーブルへと音を立てずに着地させると、座っているクリプトへとにじりよる。
そのまま肩に手を回せば、特に拒否される事もなく、掌にクリプトの肩が収まった。
けれどもこちらを見ないクリプトは、僅かに眉をひそめている。
あぁ、楽しい。俺は自分の意地悪さを隠すフリもしないで、薄い肩先を撫でた。
「『お兄ちゃん』ってやつ? そんなに気になったのか、クリプちゃん」
「……別に」
この場合の否定は肯定だ。
クリプトが無表情を装った下で何を考えているのか、という難問を一体何回解いてきたと思っているのだろう。
まぁ、でも、最近のコイツはそんな問題を解かなくても優しくて素直だった。
現在はエリアの一部と化しているザリガニに似た巨大生物が襲い掛かってきた日の【ゲーム】で、不注意と不運が重なり、腕を折った俺をクリプトだけは探しに来てくれた。
心配してくれたのだと後で気が付き、追いかけて抱きついた時は、顔面がひしゃげる程に押し退けられた。……あれは優しいうちに入るのかは疑問ではあるが。
けれど、腕はすぐに治ったし、その間なんだかんだと言いながらも介抱もしてくれて、悪い気はしなかったから問題は無い。
黙ってグラスを傾けたクリプトの視線の先に俺も目を向ける。
そこには助けた民間人の女性と良い雰囲気になっているヒーローが、今にも熱烈なキスを交わすのだろうというシーンに差し掛かっていた。
やっぱり人間というのは、必死になって自分を守ってくれる相手にグッとくるものなのだろうか。
そんな事を考えながらも、そろりと肩に触れていた手を動かしてそこを摩る。
「お前も、『お兄ちゃん』って呼ばれたい?」
そうして金属デバイスに覆われた耳元に顔を寄せて、出来る限り甘く囁いてやる。
途端に目をこちらに向けたクリプトの眉が歪められ、文句を言おうとした唇を塞ぐようにさらに顔を近づけた。
鮮やかな葡萄の匂い。くどすぎる事も無く、かといって甘すぎもしない。バランスの良い味わいだった。
わざと、チュ、という音を立てて離れる。
相変わらずクリプトの眉は顰められているが、ほんの少しだけ緩められていた。
透明なグラスを握ったままのクリプトの指先が、そのグラスを触れ合ったばかりの唇へと運ぶ。
大好物のオヤツを"待て"されている犬のようだと自分でも思いながら、じっくりとグラスの中身を飲み干すクリプトの姿を目で追った。
その間にも映画は進み、主人公であるヒーローと、ヒロインに昇格したらしい女性の切なげな告白シーンが始まっているのが鼓膜から伝わってくる。
――――そんな事よりも、だ。
グラスの中身を飲み干したクリプトが、勿体ぶった手つきでグラスをローテーブルへと置いた。
「お前みたいな弟が居たら、毎日大変そうだから嫌だ」
「ハハ、……ひっでぇの。そう言うなって、テジュン『お兄ちゃん』?」
ニヤついたままそう呼んでやる。こういう駆け引きは、嫌いではない。
それにクリプトだって、組んだ足の膝に置かれた指先がトントンとリズムを刻んでいる。
こういう仕草をする時、コイツは、次はどうしてやろうかと考えているのだ。
クリプトの膝を打っていない方の手が伸びてくる。そして、顎先を人差し指で掬い上げられた。
素直にその動きに合わせるように顔を上げれば、微かに笑みを浮かべたクリプトの赤い色をした唇が揺れる。
「お前は、『お兄ちゃん』とこんなイケない事をするのか? ……なぁ、『エリィ』?」
「……あー……、それ、やっばい……」
敢えてしているのだろう慈愛に満ちた微笑みでも隠しきれない程の欲の気配に、デニムを履いた腰がジクジクと重くなり始める。
普段は、おっさん と 小僧 なんて呼び合っているから、こういう呼ばれ方はされた事が無かった。それに、呼ばれ方だけではない。
コイツは俺と一歳しか違わないクセに、どうにも俺を甘やかすのが上手いのだ。元々、妹がいる兄貴だからかもしれないが。
それでもまだ、噛み付くワケにはいかないと、負けず嫌いが顔を出した。
「んまぁ、でも、お前は『お兄ちゃん』ってより、『お姫様』って感じだな。我儘お姫様。そうして俺はそんなお前を守る『白馬の王子様』ってやつさ」
「……はぁ? なんでそういう話になる」
クリプトの膝を叩いていた指が止まった。それが愉快で、俺はそのまま肩に触れていた手を刈り上げられた後頭部へと移動させる。
『お姫様』なんて形容するには、流石に無理のある触り心地の良いそこを撫でていると、暫し考え込んでいたクリプトが、この話の発端である人物を思い出したのか苦々しげな顔をした。
ニューキャッスルの展開するキャッスルウォールは、その名の通りに巨大な城壁めいている。そんな城壁を見て、俺が発した冗談を思い出したらしい。
「お前みたいなお喋りで髭面の『王子様』が居るかよ。白馬が泣いて嫌がるぞ」
「分かんねぇだろぉ、こういうのがトラ、……トル、……トレンドかもしれないし」
「……トレンドって、何のだ」
「んん? "白馬界"のだよ。当然だろ。真っ白いお馬さん達は、セクシーでユーモアのある王子様を大募集中らしいぜ。……あぁ、でも残念な事に衣装は白タイツ固定らしい。今の時代にはちょっと、……クラシック過ぎるよな」
肩を竦めて真面目な顔でそう言った俺を見ていたクリプトは、一瞬黙り込んだ後、思わず吹き出したのか顔を反らした。
恐らくド定番の『王子様』の格好をした俺が、白馬に跨がる姿を想像でもしたのだろう。
勝った、とその姿に内心でガッツポーズを決めながらさらに言葉を続けた。
「そんでぇ、そんなセクシーさが売りの『王子様』は、全然素直じゃない、年上の『お姫様』をご所望ってワケ」
「……だから、お前は『王子様』ってキャラじゃないだろ」
笑いを収めたクリプトがまた顔を戻し、俺と見つめ合う。
そう言いながらも、サリサリと音を立てて俺の髭を撫でる手付きは優しい。
もうそろそろ限界が近い。早くこの可愛い男の、もっと可愛い姿を見たくて堪らなかった。
「んじゃ、仕方ねぇな。俺がお馬さんになってやるから、上手に乗りこなしてくれよ。『王子様』」
「言う事を聞くような競走馬でも無いのに乗りこなせって? ……無茶苦茶だな」
「……でも、立派に馬の務めを果たせるってのは、お前が一番よく知ってるだろ?」
にんまりと下品な笑みを顔に浮かばせて囁く。アルコールも入っている上に、あんな風に煽られたのだ。どうせなら、たっぷりと構って貰わなければ。
俺の顔を見て、すぐさま呆れた顔をしたクリプトの唇が、バカ野郎、と囁こうとする。
だが、その言葉を全て言い切る前に、もう一度顔を寄せて柔らかな唇を塞いだ。
耳に聞こえるのは映画のエンディングテーマと、興奮に濡れた互いの浅い呼吸音だけ。
こうして煽れば、なんだかんだとクリプトは俺の余裕を崩そうと必死になって乗っかってくるのは、これまでの経験から分かっていた。
今夜はいい思いが出来そうだ、とニヤける顔を隠さないまま、カウチソファーの上に無抵抗のクリプトをそっと押し倒していた。
□ □ □
口の中に勝手に入り込んでくる苦みのある草を吐き出す。流石に死にかけの体でも雑草を食べる程、血迷ってはいない。
地面についた四肢を動かして、力の抜けていく体をズルズルと引き摺るようにしながら、どうにかチャージが失われている敵のキャッスルウォールの後ろに潜り込んだ。
海に近い場所特有の、じめつきと磯臭さの感じられる空気。それから、服越しに腹を擦る固い草の質感に加えて、鼻腔を満たす血と泥の匂い。
俺とクリプトとライフラインの部隊と、ニューキャッスルとバンガロールとオクタンの部隊がダウンドビーストとノースパッドの境目辺りで戦闘になったのはまだいい。
だが、開けた場所での戦闘は、キャッスルウォールやローリングサンダーの効果が十分に発揮される条件が揃っていた。
先撃ちされる形でバンガロールのローリングサンダーが襲いかかってきて、オクタンのジャンプパッドと、それで飛んできたオクタンを追いかけるようにニューキャッスルのキャッスルウォールが次々と展開された野原は、すぐに銃弾と煙が飛び交う戦場と化した。
ライフラインのD.O.Cの力を借りつつ、どうにか三人でその攻撃を堪えしのぎ、今度はこっちの番だとクリプトのEMPを皮切りに反撃へと打って出たが、俺とライフラインはオクタンとバンガロールと相打ち状態になってダウンしてしまった。
だから後は、ニューキャッスルとクリプトの一対一の勝負にかかっている。
このメンバーなら、俺かライフラインがダウンしないように心がけるべきだったが、バンガロールの初撃を完全に躱しきれなかったのが響いていた。
ライフラインがダウンしてしまったのも、ジャンプパッドで飛んできたオクタンの攻撃から俺を庇おうとしてくれたからだ。
そうして先にダウンしたライフラインは、バンガロールの手によって既にバナーにされてしまっていて、少し離れた場所に彼女の刻印が入ったデスボックスが落ちていた。
視界が少しずつ暗くなっていく。まだ銃撃音が響いており、腹を掠めた銃弾によって出来た傷口から戦闘服に血が染みる感覚がする。
これはもうダメかもしれない、と思ったタイミングで、銃声が止まった。
強制的に施設に送られていないから、ニューキャッスルとの勝負をクリプトが制したのだろう。
だが、もう時間が無い。最悪このままバナーになってしまったとしても、ノースパッドのリスポーンビーコンでリスポーンして貰えばいいか、と薄れつつある意識の中で考える。
「ミラージュ!」
そんな俺の意識を呼び覚ますように、切羽詰まったクリプトの声がする。
汗ばんで張り付いた前髪が視界を塞いで邪魔をするが、どうにか顔を上げれば、キャッスルウォールの隙間を軽やかに飛び越えるクリプトが見えた。
俺と同じくらいに汗を掻いているのか、クリプトの体からは薄い靄がしっとりと立ち上っている。その上、頬を弾が掠めたのか、昨夜も散々キスを落とした泣き黒子の下辺りから赤い血が垂れていた。
直ぐに身体を仰向けにさせられ、見上げた俺の視界には、澄み切った青空をバックに黒い髪を揺らめかせながら俺の胸元に向かって、蘇生用シリンジを打ち込むクリプトの姿。
昨日も俺はクリプトを見上げるような格好をしていたが、それを連想させるような呼吸の荒さに色々な意味で心臓が脈を速めた。
自分の回復もまだなのに、俺を助ける為に必死でここまで走ってきてくれたのだろう。
はぁはぁと荒い息のまま、こちらの視線に気が付いたらしいクリプトが、その口端を微かに上げて笑った。
「迎えにきてやったぞ、……『お姫様』」
そのまま手を握られ、引き上げられる。
俺達は互いに血や、潰れた草の汁でボロボロの状態で、当然の事だが、毛並みの良い白馬なんてここには居ないし似合いもしない。
『お姫様』だとか『王子様』だとか、そんなキラキラとしたモノとはほど遠い。
でも、俺の前で握ってくれていた手を放し、回復をし始めたクリプトは、光の加減なのか普段以上にカッコよく見えた。
映画のヒロインが、自分を救ってくれたヒーローに一目で恋する気持ちが理解出来てしまって、妙に気恥ずかしい。
夜はあんなに可愛らしいクセに、戦いになればこうも良い男だなんて、どこまでも"持っている"男だ。
「……つ……次は、俺がお前の『王子様』になってやるよ」
でも、素直に認めるのはなんだか悔しくて、離れた指先を目で追ってからクリプトを見つめる。
俺だって、コイツが倒されそうな時にはカッコよくその前に立ち塞がって、敵の銃弾からクリプトを庇い、尊敬と熱の混ざった潤んだ瞳で見つめられたい。
だが、そんな俺の態度に呆れたように肩を竦めたクリプトは、昨日見た映画のヒーローとは全く違う。
「良いから、バカな事言ってないでさっさと回復しろよ。小僧」
それこそ、映画のクライマックスでよくあるような情熱的なハグと熱いキスは飛んでこない。
代わりに、そう言ったクリプトは、近頃ドローンを投げているせいで強肩気味になっているらしい腕を存分に使って、俺の顔面ド真ん中へとフェニックスキットを投げつけてきたのだった。