Pomme d’amour 例えば、目の前に真っ赤に熟れた林檎があったとして。
それをどういう風に食べるかは、人それぞれだろう。
甘く煮てもいいし、そのまま齧りついてもいい。幾層にもパイ生地を重ねたアップルパイにしてみてもいい。
それ以前に手を出すのを選ばないのだって、一つの選択肢だ。
艶々としたそれを捥いで食してしまえば、あとは消えて無くなるだけ。
だったら、最後まで触れないままでいた方がいいような気もする。
でも、放っておけば腐り落ちてしまうから、そうなる前にどうにかすべきなのだとも思う。
肌を刺すような冷たい夜風が、歩いている道を通り抜けていく。
頭上にある巨大な月から発せられるおぼろげな光が、繁華街から一歩入った雑多なこの路地裏を照らし出していた。
月の光と混ざる空気は濁り気味だ。この街はお世辞にも治安がいいとはいえない。
だが、珍しく路地裏の片隅には家を失くした浮浪者も、建物の影から酒を飲みすぎて朦朧としているアホを狙う物盗りも居なかった。
ただ、俺の前をいつもの白いジャケットを纏った背中を少し丸めて歩く男の姿があるだけ。
道の端には表通りに出店している飲み屋が使用しているダストボックスがあり、ビルの壁面には、誰も探しやしないお尋ね者の手配書や、いかがわしい店のチラシが貼られていた。
なんでこういう状況になったのかを考えながら、パッタリと静かになってしまったクリプトの背を見つめる。
夜の静寂。その隙間を俺とクリプトのアスファルトを踏む靴音だけが響く。
饒舌になりがちな自分の舌も、今夜ばかりは余り上手く動かない。
きっとこれも寒さのせいだからと、胸元を掻き抱くように着ている黒いモッズコートの前を閉める。
パラダイスラウンジで二人して深酒一歩手前まで飲んでいたのは良かった。それはまぁ、よくある事ではあったからだ。
でも、いつもと違うのは、なんと無しに俺が『今日はクリプトの家に行ってみたい』と囁いた点だった。
にべもなく断られるだろうと考えていた俺の思考を裏切り、『構わない』と言ったクリプトの頬は少し赤みを帯びていた。パラダイスラウンジのうすぼやけた照明の中でもハッキリ分かるくらいに。
俺とクリプトが最初に身体を重ねたのは、【ゲーム】に換算すれば、もう何シーズンも前の出来事だ。
どちらかが積極的に誘ったというワケではなく、ただ、そうなるだろうなと互いの目を見て思ったのを今でもハッキリと思い出せる。
俺だって仮にも【レジェンド】という立場で、パラダイスラウンジに立てば、キラキラとした目で"俺のファン"だと言ってくれる可愛らしいお嬢さんや美しい女性はたくさん居た。
だから、別にわざわざ同じ職場の同僚で、かつ、何を考えているのか不明で、煮え切らない態度の同性を相手にする必要なんて露ほどもなかった筈だったのに。
それに店を出てからこちらを振り向きもしないで狭い路地をズンズンと突き進むクリプトだって、認めたくは無いがクールな立ち振舞いや切れ長の目に魅了されているファンは多いだろう。
勿論、被害妄想の強いコイツがファンに手を出すなんてリスクを冒すとは到底思えなかったが、やろうとすれば出来ない話ではなかった。
では、何故? という疑問は常に俺の上に渦巻いている。
それは殊の外、俺の下でいつもの不遜さを保ちきれなくて甘やかな声を上げる姿であったり、全てが終わったら何事もなかったかのようにふらつく身体で帰ろうとするのを引き留めれば、不思議そうな顔をされたり、その癖、俺の出す料理を穏やかな表情で頬張る顔だったり。
そういったモノが少しずつ蓄積していって、その上で、コイツとのセックスが驚くくらいに良かったから。
――――コイツが、触れ合う度に、とても安心しきったような顔で俺を抱き締め返してくるから。
柔い光の中、速度を保っていたクリプトの歩幅が遅くなる。
それを見て、俺は逆に足を動かす速度を変える。
思えば、コイツと歩く時は大体追いかける側だった。クリプトは、いつも"奴ら"に追われるのを恐れているから歩く速度が速いのだと知ってからは、そんなに時間が経っていない。
そのまま、すぐ隣に並べば、俺を見ないクリプトの襟で隠されたままの横顔は何も無い筈の薄汚れた地面へと向けられていた。
多分、もうコイツのセーフハウスは近いのだろう。その上で、迷っている気配を感じ取れた。
空気を吸い込むだけで酔いが回りそうな酒気に満ちた店からは、結構な距離を俺達は歩いてきている。
今まではそういう雰囲気になったら、パラダイスラウンジの仮眠室か、すっかり御用達になってしまった近場のホテルに行くのが普段の流れだったから。
酔いが覚めつつあるのかもしれないし、急に冷静になったのかもしれない。
俺には俯いているクリプトの考えている事など、何一つ分からなかった。
店の年季の入ったカウンターで俺と酒を飲み交わして、段々と赤みを帯びていくクリプトの頬は見た目通りに滑らかだ。
白いシーツの上、俺の手を握って、こちらが与える快楽に溺れていく姿は危うさを感じさせると共に、こちらを満たしてくれる。
でも、今日はそれ以上に、ほんのりと期待に満ちた目をして潤み始めていた瞳が美味そうだったから。
それを、他の誰かに盗られたくないなと、ふと、強く思った。
胸元を掻き抱いていた手を動かして、白いジャケットに手を突っ込んだままのクリプトのポケットに自分の手を滑り込ませて指を絡ませる。
しまい込まれて温かくなっているかと思ったクリプトの掌は、ひんやりとした手汗を掻いていた。そうして、ビクリと震えたクリプトの顔が持ち上がる。
合わさった視線は、やっぱり互いに先を望む気配を宿していた。
「なぁ、寒いからさ、帰ったら一緒にもっかいシャワー浴びよ」
「……俺の家のバスルームは、ホテルより広くないぞ」
「いいぜ、それくらい我慢するさ。頑張ってギュウギュウに詰め込んだら入るだろ。多分」
「詰め込むってお前……」
ふ、とクリプトの唇にたまに垣間見られるようになった自然な笑みが乗る。
ぽってりとしたその唇は、まだ店で見た時と同じく、淡いピンクの色素を保ったままだった。
ポケットの中で握り返された手に、そういえば俺の方が冷たくなっていたのだと、分け与えられる体温に実感する。
これを実らせるなんて、考えもしていなかったのに、俺はいつからこんなに欲張りになってしまったんだろう。
「ほら。早く帰ろうぜ。二人して風邪ひいちまう」
「……ん……」
今度は俺が一歩、先に踏み出せば、躊躇うような顔をしていたクリプトがそろりとその足を動かしていた。