FWB... 右を見て、左を見る。
それから、本来なら死角になっている筈の背後すらも掌に忍ばせたコントローラーを使用してドローンに確認させる。
けして"奴ら"に気取られないように無数の帰宅パターンを用意して、漸くたどり着いたセーフハウスのドア前。そのままドアノブに伸ばしかけた手を止めた。
――――もしも、この部屋の中に俺を狙う敵が待ち構えていたら?
この部屋に戻るまでの道すがらも用心は怠っていない。仕掛けているセキュリティに異常は無く、侵入者の形跡や通知もない。
分かっているというのに、この瞬間だけはいつだって喉の奥が干上がる感覚から抜け出せなくなる。
常に誰かに狙われているという事実に慣れてきているとはいえ、それでもやはり、自身のテリトリーが安全では無い可能性を少しでも考えると流石の俺でも堪える時があった。
意を決して生体認証付きのドアノブに手をかける。
改造を加えたそれは特に何の違和感もなく滑らかに開かれ、覗き込んだ室内は外よりも一層暗い。
そんな中、セキュリティの機械から発せられる微かな淡緑のライトだけが、ポツポツと遠い所で漂う星のように灯っていた。そこでやっと、深いため息を吐く。
何故、今日はこんなに気分が滅入っているのかの理由が自分でもよく分からなかった。
【ゲーム】での戦績が悪かったワケでもない。特に問題無く過ぎた一日だった筈だ。
これから簡単な食事を摂って、普段通りにミラの行方や、自分達を陥れた犯人の情報を求めて広大なネットワークの世界に没入する。
明日も当然のように【ゲーム】があって、明後日もきっと俺はどこかのアリーナの地面を必死で駆けているんだろう。
それが当然になったのは、いつからだっただろうか。
ただのシステムエンジニアとして生活していたのが本当に遠い過去のように、【クリプト】としての生活が身に染み付いていた。
見落としが無いように、血走った目で右を見て、左を見て、常に万全に戦えるように整備しているウィングマンをポケットの中で握って。
「……あぁ」
ふ、と唇から失笑が漏れる。
単純な事だと気がつく。今日は俺がクリプトになって丁度二年だった。
ドアを蹴破る勢いで部屋に入ってきた"奴ら"に追われ、何も分からないまま持てる荷物だけを掴んで故郷を逃げ出したあの日。
大切な人と簡単には会えなくなったのを理解し、絶望の淵に立たされ、それでもなお戦う事を選んだのは己だ。
顔を変え、戸籍を変え、情報を書き換えて乗り込んだAPEXという戦場。
分かっている。弱気になる段階などとっくに過ぎ去っている。
そもそも、弱気になって何かを得られるなら、俺はその分だけのモノを得ていなければおかしいだろう。
何もかも理不尽な世界に放り出されて、不条理さに悩まされても、それでも生き抜くのに歯を食い縛っていく覚悟を決めるのだって、簡単な事では無かったのだから。
ドアを閉めたせいで、暗い室内にただひとり立ち尽くす。
自動追尾機能が働いているハックが俺の背中付近で微かな駆動音を立てていた。
こういう時はさっさと寝てしまう方が良いのだとこれまでの経験から知っていた。
それなのに、ポケットに入っているスマートフォンに伸びる手を止める事が出来ない。
掛ける相手なんて居ない。万が一に居たとしても、それが必要な事とは思えなかった。
何一つ、論理的ではなくて、合理性に欠ける行いだと脳内で警鐘が響く。
アイツと寂しさの埋め合いのようなやり取りをしたいワケでは無かったのに、気がつけばたまに飲むような仲から、次第に互いの身体に触れる仲になるのに躊躇いが無くなっていった。
程よい酩酊感を言い訳にして、磨り減った精神をぬるま湯に似た交わりに身を任せる事でほんの僅かだけ満たす。
甘い言葉のやり取りなんて気味が悪くて出来ないというのに、アイツが重ねてくる唇も触れてくる指先も何もかもが優しいのだ。
そのお陰なのか、擦過傷めいた痛みを感じる心が一時だけでも穏やかになって、俺はそんな行いを止める事が出来ないままでいた。
そんな事をしている場合ではないのに、と心の奥底で嘲笑う自分の影をアイツの背後に見つつも、結局は"もう一度"を望んでしまう。
ワンコールだけ。たったそれだけ。
それで出ないならば、今夜はもう眠ってしまおう。
半ば無理矢理に登録させられたアイツの番号を選択する。向こうから何度もかかってくるから、いつの間にか画面に映っている番号を諳じられるようになっていた。
無機質なコール音が響く。まぁ当然出る筈も無いだろうと切ろうとしたタイミングでプツリ、とコール音が切れた。
『……』
確かに電話の向こう側にアイツが居るという気配は感じられる。
それはこちらの動きを窺うような吐息が耳元で聞こえるからだった。
実際、掛けたのは俺からではあったが、どう話を切り出すのが正解なのかが導き出せない。
人間関係や感情の答えは、コードとは違って明確な答えなんて無いのだと痛感させられる。
そこでやっと、普段会っている時に話の主導権を握っているのは向こうなのだと今更な事を思った。
『……クリプちゃん? だよな? 急にどうした? お前から電話かけてくるのは初めてだよな』
「……あぁ」
再び訪れる静寂。何を言うべきなのか上手く口が回らなくて、言いあぐねているこの状況の無駄さ加減にイライラした。
コイツに電話をして、それからどうしようと思っていたんだろう。
やはり間違えてしまったんだと言い訳をして、切ってしまえばいい。
「悪い。間違え……」
『なぁ、よかったら……』
今度は同じタイミングで話し出した俺達の声が、電波越しに混ざりあって霧散する。
また沈黙が続くかと思った俺の予測とは異なり、逆に語気を強めたように感じられるミラージュの声が耳に響いた。
『……仮に間違えたんだとしても、今のお前は暇ではあるんだろ』
疑問ではない、俺の状況など見透かしているんだとばかりの断定的な言い方に、反論仕掛けて止める。
確かに俺は暇だから、余計な事を考えた。暇だから、本来なら意味の無い行動を取っている。
余裕なんてモノがあるから、考えなくて良い要因を無駄にぐちゃぐちゃと考える。かき混ぜて、必要以上に頭を濁らせている。
そんな風に混ざって上手く整理しがたい脳内を、電波を通して聞こえるコイツの声が少しずつ冷静にさせてくれた。
それがマズイ事態なんだというのを、主張する自分を無視する。
コイツが居るから息がしやすいだなんて、そんな世界に生きているのは【クリプト】にも【テジュン】にもあってはならない事なのに。
『呑みに来いよ。暇ならさ。……店も客が少ないし、お前が来た時点で閉めちまうから』
「別に、暇ではない」
ハハ、とすぐさま向こう側からこそばゆい笑い声がする。
"素直じゃなくて仕方がない奴"だとでも言いたげなその笑みに、勝手に眉をしかめてしまう。
どうせ見えやしないのに、そんな無駄な動きをしてしまう自分には、またもや気がつかないフリをした。
『んで? 来るのか、来ないのか? それによっちゃこの後の動きが変わるんだが』
「行くには行くが、少し時間がかかるぞ」
『あ? なんで?』
「シャワーを浴びてから行く」
ふつりと軽やかに続いていた会話が途切れる。
下手くそなアプローチだと思いながらも、この会話で向こうも少しは焦れたらいいんだと思ってしまった。
だが、想像していたよりもミラージュの反応は薄いものが返ってくる。
『んー……そっか、了解』
「……嫌だったか」
『嫌じゃねえよ』
俺達の繋がりなんて、それしか無いだろうに、反応の薄さに背中に寒い感覚が走る。
けれど、嫌か? という問いに返ってきた言葉は素早くて、嘘のひとつも混ざっていないのがよく分かった。
けして抱き心地が良いなんて傲慢な自負があるのではない。だが、悪い思いをさせてはいない筈だとこれまでの会話から導き出していたのだ。
俺が黙っている理由をミラージュが察したのかは知らないが、そのまま続けて耳奥に柔らかな音が降り落ちてくる。
『俺は別にさぁ。……うー……なんだろうな。上手く言えないけど、お前が来る理由が"それ"だけじゃなくても良いんだよな』
電話を当てる耳を変えたのか、微かにごそごそと音がする。
きっとミラージュは店のカウンターに立っていたのだろうに、すぐにこちらの着信を取って、今は誰も居ない店の奥側に引っ込んでいるのだろう。
そうでなければ、こんなにハッキリとコイツの声だけが聞こえてくる筈が無かった。
『……お前が、俺に会いたい時に来てくれる方がいいんだよ。それって何もおかしい事じゃないだろ? お前にとっちゃ、そういう"俺"の方が都合が良かったのかもしれないけど』
急に投げ掛けられた豪速球に、反応が出来ない。
それにこんなタイミングで、そんな言葉を言われたらダメになってしまう。――とっくにダメになっていたのかもしれないが。
『とにかく、そういう話だから。……いつもの席空けて待ってる』
こちらの返答を聞く前に通話ボタンを押したのか、ブツ、と無情にも通信が途切れた。
俺達は都合のいい存在で、何の後腐れも無く、湿っぽさも無くて互いに楽だった筈だ。
甘い言葉のやり取りなんてしなかった。だが、その分だけ行われる気安い冗談のやり取りが心地よかった。
友情よりかははみ出していても、恋人にはなれないというボーダーライン。それを越えるつもりも無かった。
それなのに。寂しい時に、辛い時に、会いたいと脳裏に浮かぶのはいつだってアイツの顔だった。
「……ッチ」
何に対してなのかも分からない舌打ちが洩れる。
"それ"だけじゃなくて良いとアイツは言ったが、今の俺にとっては"それ"が欲しくて堪らなかった。
自己嫌悪や慚愧の念に潰されかけるなど何千回もしている。その上で、触れたいと願うのは、もう。
とにかく早くシャワーを浴びるなら浴びて、それからアイツの顔を直接見てやらなければ気が済まなかった。
玄関口で立ったままだった俺は、電気もつけずにスマートフォンを握っていた手を壁面へと伸ばす。
途端に、背後にあるドローンの光だけだった世界を照らすように、仄かなオレンジ色の明かりが一斉に灯った。