愛の揺り篭 俺にしては、珍しく耐え切れないくらいに気分が悪くなる。
気分が悪いなんて表現をするのも、可笑しいのかもしれない。
けれど、どうにか真っ当な動きを保とうと肺を膨らませる事だけに注力する。
そうして、出来るだけどうでもいい事を考えるのに意識を向けた。
例えば『どうしてドーナツの穴は開いているんだろう』とか『どうして虹は六色なんだろう』とか。――本当に、いつもなら気にも留めないような些細な事を考える。
それでも笑顔を絶やす事はしないまま、とりあえず形だけでも仕事をこなしているように見せる為に、手に持ったシェーカーを振った。
ガシャガシャと普段よりも騒がしい音を立てて振ったその中身は、ペルノにオレンジ・キュラソー、それからアンゴスチュラ・ビターズ。
氷と共に混ぜ合わさったそれをタンブラーへと注ぎ入れ、その上から冷えたソーダを継ぎ足せば、少し濁った黄色味のある液体が透明なガラスを満たした。
アルコール度数はまずまず。ペルノのお陰で若干癖のある味わいではあるが、これまでの経験から嫌がられはしないだろうという算段がついていた。
タンブラーを握りしめ、先ほどまでカウンター越しに軽く相手をしていた常連客にウィンクを一つだけ投げてから、端の方へと座っている人物の前へと向かう。
本当はこうやって客をほっぽりだしてしまうのが良くないなんて、そんなのは分かっていた。
けれども、だ。少なくとも俺は自分の大切にしている店で自分の……"職場の同僚"が絡まれているのを黙ってみている程、冷たい人間では無かった。
「いや……、貴方の申し出は嬉しいが……」
「どうして? そんなに嫌? 少なくとも僕は君の力になれると思うんだけれど」
「……そういうワケでは……」
「っと、お待たせ。クリプちゃん! ほら、頼まれてたやつ」
腕を伸ばし、敢えてカウンターの端に座っているクリプトと、その隣に陣取っている、スーツ姿のいかにも成金じみた見た目をした中年男のあいだに作ったカクテルを置いてやった。
この手の輩にクリプトが絡まれるのは珍しくはあったが、逆に言えば目立たぬように気を付けているクリプトにわざわざ声をかけてくる時点で碌な人間じゃない。
やはり笑顔は絶やさないように心掛ける。それはこの店を選んでくれた客に対する俺なりの礼儀だからだ。
しかし、その笑顔が引き攣っていないかどうかは俺には分からない。
まぁ、パラダイスラウンジの照明は店の雰囲気に合うように少しばかり落としてあるから、そうだったとしても見えやしないだろうが。
困ったような顔をしていたクリプトが俺の顔を見るなり、安心したように微かな吐息を洩らした。
あぁ、ほらやっぱり、コイツはこういう奴なんだ。
じわじわと胸に満ちていく不思議な感覚に身を委ね切る前に、唇を開く。
「そっちの紳士はお知り合いか? 悪いな急に割り込んじまってさ。でも、コイツは結構"悪い男"だから。忠告しにな。――それこそ知ってるか? この間も俺とデュオになったってのに、わざと俺を囮にしたんだぜ! しかも一回じゃなくて二回もだ! 勿論、俺様はデコイがあるから何にも問題無かったけどよぉ……ったく、ごく、ご……とにかくひでぇ奴なんだ」
だからさぁ、気を付けた方がいいぜ? と最後はウィンクと指差しのファンサービス付きで囁いてやれば、呆気に取られた様子の男が俺とクリプトを交互に眺めた。
これ幸いと目の前に置かれたカクテルに手を伸ばしたクリプトが、さも当然とばかりにグラスに口をつける。
その上、余裕めいた流し目を俺に送ってくるのを肩を竦めて受け止めれば、クリプトの隣に座っていた男は自身のまだ空いていないグラスを掴んだ。
「そうなんだ……それは知らなかった。僕、ちょっと人と待ち合わせしてるからそろそろ退散するよ。話せて良かった、クリプト。……それからミラージュも……」
「良いって良いって! パラダイスラウンジは誰にでも開かれてる場所なんだから。また、いつでも話しかけてくれるのを待ってるぜ」
ひらりと手を振り、男がデコイの隙間を縫って本来座っていた筈のテーブル席へと帰っていくのを見送る。
そうして黙ったままグラスを煽っているクリプトへと顔を戻せば、疲れた様子で前髪を掻き上げているのが見えた。
いつもならもっと上手く躱すクセに、今日はそんなに疲れていたのだろうか。それともアイツがしつこかったのか。
――――どちらにしても、あの男の顔は覚えた。
「……助かった。少し面倒な相手だった」
「別にどうってこたないさ。俺の店で血を見たくなかったからな」
「そこまで俺は血気盛んじゃない」
「どうだか。【ゲーム】の時だって、ハックでぶん殴ってくるだろ? その内にアイツの頬をぶん殴るんじゃないかとハラハラしたぜ」
ムッとした顔をしてグラスから口を離したクリプトは、俺が既に提供していた食べかけのカボチャとナスのグラタンへ置いてあったフォークを取って突き刺した。
冷えて固まってしまっているらしいチーズを引き延ばしているのを眺めていると、苛立ったように呟く声が聞こえる。
「食ってる途中だったのに」
「え? あぁ、本当だ……冷たくなっちまったんだな。あっため直してやるから貸しな」
「ん」
大人しくカウンターからグラタン皿を持ち上げたクリプトの手から、底だけに生温さを宿したそれを受け取る。
もう一度温め直せば、ホワイトソースのまろやかさも復活するだろう。
サッとオーブントースターへとそれを入れてタイマーをセットし、スイッチを着けた。
何よりもコイツが俺の作った料理を当たり前の顔をして、出来るだけ最高の状態で食べたいのだと示してくれるだけで、随分と心が晴れやかになる。
この店で過ごす時間だけではない。【ゲーム】だろうがなんだろうが、クリプトという男が少しずつ俺の前でしか見せない表情をする度に、確かに気を許されているのだと実感出来た。
「なぁ、クリプちゃん。またお前が好きそうな酒を仕入れたんだ、多分明日には届くと思うんだけど……どうだ?」
「明日?」
「そう、明日。……ま、明後日でも良いけど、この間言ってた料理もどうせなら準備しようかなと思って」
俺の言葉にクリプトが返事をする前に、背後のオーブンのタイマーが終わった音がする。
素早く振り向いてオーブンの蓋を開けば、湯気の戻ったグラタンが中央に押し込まれていた。
使い込まれたオーブンミトンでそれを取り出してクリプトの前へと運んでやる。
すぐさま、ふんわりとした湯気の戻ったグラタンに噛り付くようにフォークを刺したクリプトに思わず笑ってしまう。
「熱いんだから気をつけろよ、おっさん」
「わかってる」
「ならいいけどさ」
ふと、店内に顔を向けると、あの男が俺とクリプトの姿をテーブル席から眺めているのを見つける。
誰かと話している風でもないその姿に、さらに笑みが深まった。
瞳は反らさないまま、目蓋を細めれば、先に男の方が視線を外す。
これでキチンと理解出来ただろう。俺の方がコイツの事を良く知っている。
「んでさぁ、明日で良い? どうせ俺が食わせなきゃちゃんとした物、食べないだろ。お前」
再び弾力を取り戻したチーズに息を吹きかけ、それを頬張るクリプトへと視線を戻せば、ただ頷きだけを返してくる。
俺達はただの"同僚"だが、少なくとも俺の前でクリプトに粉をかけてくる相手を追い払うのは、俺に与えられた権利の一つだ。
絶対に、誰にも触れさせたりなんてしない。冷たいように見えて仲間思いな部分も、時たま見せる穏やかな笑みも、誰にも見せてやるものか。
もう残りが少なくなりつつあるカクテルを確認して、黄色みがかった酒がクリプトの体内に殆ど収められた事に満足する。
「さぁ、次は何が飲みたい? 今度はちゃーんと、お前のリクエストを聞いてやるよ」
あんなに悪かった機嫌はとっくに治っていた。
そうして、手に嵌めていたミトンを外しがてら、そっと微笑みつつ目の前に居るクリプトに向かって優しく囁いてやった。