Slow life 世の中には数多くのふあ……ふ、……不可解な出来事が存在している。
昨日の【ゲーム】で俺が参加していたチームの勝利予想が二割を切っていたり(結果としては、実際のところ悪かったが)、食べたくて買っておいた筈のお気に入りブランドのチョコレートが、今朝見た時には空き箱だけを残して綺麗さっぱり無くなっていたりだとか。
そんな散々な事件を振り払うように家中の掃除を終えて、やっとの事で溜め息混じりにリビングにあるソファーに腰を落ち着けていた――筈だった。
「……重いんだけど」
右肩に全力でのし掛かってくる生き物に、そう声をかける。
しかしソイツは特に何も言わず、片膝を立てたまま、もう片膝に置いたラップトップのキーボードを素早く叩いているだけ。
こちらが掃除している間に起きてきた男……クリプトは、【レジェンド】とは別で請け負っている仕事に起きてすぐさま取り掛かったらしく、未だに灰色のスウェットのまま細身の銀フレームで出来た眼鏡をかけていた。
いつもなら、起き抜けに腹が減ったと声をかけてくるのだが、俺が朝からあくせくと働いていたのもあったからか何も言ってはこない。
だが、その分、こうして黙って寄り掛かってくる。こういうのを無言の圧力とでも言うのだろうか。
チラリと見える画面の中ではセキュリティシステムのプログラミングでもしているのか、様々な文字が踊っていた。一行記述するのに一秒とかかっていない勢いなのが怖い。
そんな感想を抱きながらも、約一時間程この状態のままだ。流石に身体が痛くなってきたのもあって、軽く身動ぎをする。
その際に少しだけ凭れ掛かってきていたクリプトが身体を浮かせるが、すぐさま上手い具合にフィットする位置に舞い戻ってきた。
ちょっと休憩するだけのつもりだったから、そろそろ腹も減ってきたし、昼飯の準備をしたい。
隣の男だって、この時間くらいになると我慢が効かずに腹を空かせたドラ猫のように鳴き出す頃なのだが。
「なぁー、クリプトぉ。それまだやんの? 俺そろそろ飯作りたいんだけど」
「作ればいいだろ」
素っ気なく返ってきた言葉とは異なり、着ているトレーナーとデニム越しに伝わる重みも温かさも何ら変わらない。
もしも俺がここでいきなり立ち上がったら、コイツは勢いよくソファーの背凭れに激突するか、座っている所に横倒しになるのだろうか。
そんな空想をしながら、仮にそうなったらきっと『退く前に言えよ』だとか何とか言うんだろうなと予想がついた。
俺の隣に座り込む時にいちいち許可なんて取りやしないというのに。
ソファーの前にある木製のローテーブルの向こうでは、『なるべく大きい画面が良い』と俺がごねて購入した壁に掛けるように設置された六十インチサイズのテレビモニターがある。
そこに映っているのは、見慣れたアリーナで戦うレジェンド達の姿だ。
昨日の試合で上手くいかなかったのは、ほう、……"報連相"がダメだったからよ、と同じ部隊になったローバに言われたのを捕まっている途中で思い出したからだった。
確かに、自分が被弾して回復をしている最中に、後ろから敵部隊が来ているのを報告するのが遅れた。
無様に負けた上に、過ぎ去った試合を見返すのは余り好きじゃない。
けれど、そういう物をしっかりと見直す事で得られる情報は多いのだと昔、母さんが言っていた。
画面には俺達の部隊では無く、クリプトの部隊が的確に落ちてきたジブラルタルの空爆から逃れる為に、物陰へと次々に飛び込んで一息ついている場面が流れている。
残り部隊は数少なくなってきているが、周囲では数多くの銃声が響き渡り、位置的にクリプト達の部隊は余り良い場所を取っているとは言い難かった。
しかし、仲間であるラムヤとパスに声をかけ、頬に傷を作りながらも不敵に笑った画面内のクリプトは、素早く背中にあるドローンを取り出して操作し始めた。
クリプト達の部隊もチャンピオンまではいかなかった筈だが、この後に連続して二部隊倒していたのを俺は既に送られた【ゲーム】用の医療施設で見ていたのを思い出す。
そうして、再び隣に視線を移せば、相変わらずキーボードを叩いているクリプトのつむじが見えた。
買い直すのが面倒だからと襟首のぐだついたスウェットを着ているコイツが、画面の中で次々と敵を倒している男と同一人物だとは到底思えない。
だから、ついつい目の前にあるつむじを左の人差し指で押し込んでみる。
サラリとした質感の髪の毛の奥、固くなっている頭皮に眉をしかめた。いつもいつもパソコンと睨めっこしているから、その内にコイツは禿げるんじゃないだろうか。
そのままグリグリと押す手を止めずに居ると、身体を動かしたクリプトがこちらを睨み付けてくる。
レンズの奥から飛んでくる鋭い眼光に怒鳴られるかと身構えるが、その口が動くよりも先にキーボードに乗せられていた手の片方が素早く動いた。
「ぎゃあ!!」
止める間も無く脇腹の辺りをつねられる。
堪らず発した悲鳴にニヤリと皮肉な笑みを浮かべたクリプトは、そのまま愉しげに囁いた。
「ウィット。……お前、太ったんじゃないか? 贅肉がついているようだが」
「はぁ!? そんなワケあるか! っいてて! 離せって! 昼抜きにするぞ!」
その言葉を返した瞬間、脇腹を掴んでいた手が離れていく。
『太ったんじゃないか?』なんて、本当に失礼な奴だ。少なくともあれだけ毎日動いている上に俺のプロ、プ、……健康管理に対する意識は、少なくとも目の前の男よりはしっかりしている。
だが、そんな思いとは裏腹につむじを押していた手の動きを変えて、片手で全体を揉むような動作に変えれば、それは嫌では無いらしくしかめられていたクリプトの眉が微かにほどかれる。
それと同時にこちらを見上げているクリプトに向かって口を開いた。
「知ってるか、クリプト」
「なんだよ」
「世の中では"報連相"ってのが大切らしい。あぁ、野菜の方じゃないぜ? 報告・連絡……相談! それが【ゲーム】での結果を左右する時もある」
「……ふぅん?」
「ここで一個問題を出そうじゃないか。俺はこれから昼飯の準備に取りかかるつもりだが、冷蔵庫にはお前が好きなメニューと、あんまり好きじゃないメニューを作れる材料がある」
「ほう」
「つまりは俺の匙加減ってやつだな? そんでもって、今のところの俺のご機嫌はー……あんまり良くないかなーってくらいなワケ」
頭を揉んでいる動きから、今度はグシャグシャになった髪を整えるように撫でる動きに変える。
レンズの向こう側で黒い瞳が細められ、どう返すかを探っているのが分かった。
初めは無表情で何を考えているか全く分からない男だったが、今ではある程度の思考が読めるくらいには近しい存在になっている。
――――皮肉屋で頑固な所は昔からそんなに変わってはいないが、そこが大幅に変化する事は恐らく無いと思うので諦めていた。
暫しの沈黙の後、ラップトップの蓋を閉じたクリプトはジッとこちらを見つめてくる。
可愛く色仕掛け作戦か? と期待しつつも、見つめ返せば、先に目を反らしたのはクリプトの方だった。
「昨日の夜に食べたのは、謝る」
「うんうん」
「夕方の買い出し時にグレードの高い物か、同じのを二個買う事で手を打たないか」
「んー。今日はチョコレートじゃなくて、違うの食いたい気分なんだよな」
「……じゃあそちらも買うというので問題ないな」
ちらりと反らされていた顔が上げられ、視線が絡む。
叱られた後に甘えながらこちらの機嫌を窺う猫のようなその表情に、緩みそうになる顔をどうにか引き締める。
別にそこまで怒っていたワケではないが、少なくとも勝手に人の物を食べた事に対して、この男にも罪悪感というものが存在しているのを知ったのは良い気分だった。
「うぐ」
だが、クリプトの言葉に返事をせず、代わりに勢いよく立ち上がれば、ボスンというソファーの沈み込む音と微かに洩れた呻き声。
くるりと前を向いていた身体をソファーへと戻せば、想像通りソファーに上体を転がせたクリプトの眼鏡が僅かにズレて、間抜けな姿を晒していた。
先程まで触れていた黒髪がクリプトの額へと被さり、目元を隠している。
その髪を指先で払ってやれば、不満げな表情のクリプトがこちらを睨み付けていた。
「おい。退く前に言えよ」
「お前が全体重を預けてくるのが悪い」
「ったく……"報連相"が大事だと説教を垂れたのはお前の方だろうが。これで俺のラップトップが万が一にでも壊れたら、修理費を請求するからな」
「そんだけ大事に抱えてたら大丈夫だって。ちなみに今日の昼飯のメニューは、テンジャンチゲ! それでもって俺のご機嫌はまぁまぁから上々になったって感じ。他に聞きたい報告はあるか?」
「……どのくらい掛かる?」
一気に話した俺の言葉を噛み締めるように頷いたクリプトは、ポツリと呟きを落とす。
初めは夜更かしや不規則な食事のせいでどちらかといえばパサついていた髪の毛は、今では艶々とした髪質に変化しており、その変わりようが嬉しくもある。
それだけ、俺と一緒に居るのだという証明のひとつに思えるからだろうか。
「お前が手伝ってくれたら早く終わるさ。これは報告じゃなくて相談? それとも連絡? になるのか? どっちでもいいけど」
「そこまで言うなら仕方がない。この俺の味見テクニックを見せてやるよ」
「バカ。今さら味見なんて頼まなくても、お前の舌に合わせて作るなんて朝飯前なんだよ。昼飯だけどな」
「あ? そんな事は知っているが?」
シレッとした顔でそう返してきたクリプトに思わず苦笑を溢す。
なんなんだコイツ、と思いながらも結局はこのアホみたいなやり取りがなんだかんだで楽しいのだから、自分もクリプトと共に居るようになってから確実に可笑しくなってしまったのだろう。
「はいはい。じゃあさっさと起きろよ。おっさん。俺は先に準備してるからな」
髪を撫でていた手を離し、キッチンへと向かう為にソファー前から動き出す。
背後でのそのそとクリプトが起き上がっているらしい気配を感じ取りながら、どうせなら夕方の買い出し時には俺が一番好きなアイスクリームを二つ、買って貰おうと小さく笑った。