シュガーハイ 背中に当たる固い質感と、好き勝手に口の中を弄る無遠慮な侵入者の両方に意識を持っていかれそうになる。
押し付けられたコンクリート壁に頭もぶつかっている筈だったが、被っている帽子が中途半端にズレているお陰で直接擦れてはいなかった。
うっすらと開いた瞼の先には長い睫毛を伏せた凛の姿。その背後には誰も通りかかる気配が無さそうな薄暗い非常階段がぼんやりと見えている。
こうなるから捕まりたくなかったのに、と自分の逃げ足の遅さを恨んだ。
とかく『青い監獄プロジェクトには金がかかる』のだと、責任者である絵心は言った。だからこそ練習の邪魔にならない程度のサービス精神は必要不可欠なのだとも。
そんなこんなでスポンサー企業に求められるまま、俺達は青い監獄の外に時折出ては、渡された衣服に身を包んで撮影などを行う日があった。
まだ社会を知らない一般的な男子高校生であっても、青い監獄の設備には莫大な資金が投入されている事など重々承知しているし、それを使用している俺達がスポンサーからの要請を断る事が出来ないのも理解していた。それがどれだけサッカーに関係のない"無駄な時間"に思えたとしても、だ。
だから今日も今日とて午前中から巨大な撮影スタジオに呼び出された俺達は、それぞれに手渡された衣装を纏い撮影に臨んだ。
色違いのスーツを着た蜂楽と凪と共に未だ慣れないカメラに向かってシャッターを切られる事、約数十回。
微妙な帽子の角度から始まり、椅子に足を乗せた方が良いやら悪いやら、もっと上目遣いで不敵に笑ってだとか……恐ろしい程の試行錯誤の結果、ようやくカメラマンのオーケーが出た写真を最終チェックという段階で見せて貰ったが、毎回気恥ずかしさの方が上回ってしまう。
でも、我ながら悪くは無いんじゃないかと思ったのも確かだった。その後に現れた凛を見るまでは、だが。
堂々と黒地に白のストライプ柄のスーツと黒のロングコートを着こなした凛は、スタジオに入ってきた瞬間からその場に居る全員の目を釘付けにしたのだ。
非常に不機嫌そうな様子を隠すつもりが無いのは明らかだったものの、逆にその冷たく澄ました顔が元々モデルのような佇まいを増幅させていた。
そして、俺も座っていた豪華な椅子の上で不遜に足を組んで座る姿はあまりにも様になっていて、本当にどこかの国の貴族かマフィアのボスのようにすら見えた。
この点については言い訳をせずに認めよう。──俺は凛のスーツ姿に完全に見惚れていた自覚があった。
だからこそ何度か凛がこちらを鬱陶しげに睨みつけてくるのから慌てて目を反らす、といういたちごっこを繰り返してしまったのだ。
そうして俺達よりもあっという間に撮影を終えた凛達が椅子から立ち上がったのを見た瞬間、さり気なく会話に混ざっていたフリをしていた蜂楽と凪を置いてスタジオの扉を潜った。
逃げる必要があったのかなんて知らない。カッコ良いと思ったなら素直にそれを伝えれば良かったのだが、今日は妙に意識してしまっている自分が居たから。
だから何故かこちらを追いかけてきた凛に捕まって、誰も使わないだろう非常階段へと続く壁に押し付けられた時点でもまだ、俺は真っすぐに凛を見る事が出来なかった。
そんな俺を咎めるように指輪を嵌めた親指と人差し指で顎を掬い取られ、近づいてきた凛をこうして受け入れている。
凛と互いの熱を発散させる為に触れ合うようになったのは、少し前からだった。でも青い監獄はどこもかしこも絵心の監視下だから、本当に限られた時間やタイミングでしかこういう行為は出来ない。
好きだとかいう甘ったるいセリフはどちらも言った記憶が無くて、ただ、そこに凛が居たから。凛だったらいいかと思った。ただそれだけだった筈だ。
そこまで思考している間、ぬるりとした何かが急に唇に当たったのと同時に凛が勢いよく離れる。
舌ではない。だって今の今までこちらの口の中を探っていたのだから。
目を開き、手を伸ばして指先で僅かに付着したそれに触れ、顔の前に翳す。
そこには普段はあまり見ない掠れた赤色。素早く凛の方へと視線を向けると、思わず驚きの声が洩れてしまった。
「! ……え、……大丈夫かよ?!」
何故なら俺の言葉に眉根を歪めた凛の片鼻から、一筋の赤い血が滴り落ちていたからだった。
咄嗟に何か拭くものを持っていないかとポケットの中を探るが、撮影用衣装だったのもあってハンカチすら持ってきていない。
どうしようと慌てふためく俺を尻目に、肩に掛けていたネイビーカラーのストールの端で鼻を拭った凛に今度は別の意味で焦った声をかけていた。
「それ衣装なのに血ぃ付けたらヤバイだろ!」
「うるせぇな」
「怒られてもしらねぇぞ……」
「オーダーだから、終わったら持ち帰って良いって言われただろ」
「え、そうなん?」
明らかに高級品なのが着た時から分かって緊張していたのだが、まさかオーダーメイドだったとは。
しかし持ち帰って良いという情報は知らない。それか俺が聞き逃していたのか。
それよりもムスッとした表情のままストールで鼻を押さえている凛を見ている内に、次第に腹の底から笑いがこみ上げそうになって、どうにかそれを押さえこみにかかる。
だが、俺の感情などお見通しなのか、くぐもった声で怒りを滲ませた凛が囁いた。
「笑ってんじゃねぇ、バカ潔」
「だって……っく……、……いきなり……」
あぁ、ダメだ。我慢しきれなかった笑みが零れ落ちる。
あんなに周囲の目を惹く凛が。男から見ても正直叶わないと思うくらいに最高にイカしている男が、まさか俺とのキスの間に鼻血を出すなんて誰か想像出来るだろう。
青い監獄に居る時だって凛は常に余裕があって、大抵の事には動揺を見せない。まさにストイックの化身のような生き物で、唯一、抱き合っている時だけは普段よりもこちらを見る目がほんの僅か熱っぽく蕩ける。
幾らサッカーが一番であっても、年相応の性欲はあるんだと凛のその顔を見て安心している自分が居たくらいなのに。
そっと手を伸ばし、艶のある黒髪を撫でる。
凛とは反対側の親指に着けるように指示された指輪に嵌った淡い緑色をした石が、蛍光灯の反射で瞬いた。
「──そんなに俺とキスすんの、興奮した?」
挑発するように笑った俺を見ていた凛の瞳が細まって、ストールを押さえていた手が動く。
そのまま近づいてきた凛の白い歯が見えたと認識しきる前に、鋭い痛みが鼻先を貫いた。
「いっっ、てぇ!! バカバカバカ!! 痛いって!!」
「……テメェが無駄な事言うからだ」
「おっ、お前、本気で噛む奴があるか!! しかも血、口の中入ったし……!」
二度ほど本気で鼻先に噛み付かれ、半ば叫ぶような声を上げて凛の胸元を数回叩いた。
ついでに地面からも二回は飛び上がっただろう。
もう殆ど止まっているようではあったが、凛の血が口に少し入ったのもあって鉄錆の味もしている。
もしかしなくとも鼻にクッキリと歯型がついている気がして、ゾッとした。
「もー! これどうすんだよ。痕消えるまで待つか、鼻隠して戻らなきゃじゃん」
「フン……ちったぁマシな面になっただろ。感謝しろよ」
年下のクセに心底生意気なエゴイストの暴言にため息で返す。
先にからかったのは自分の方であり、これ以上の問答は無意味だと知っているからだ。
その間に完全に鼻血が止まったのか、ジッとこちらを観察してくる凛を見つめ返した。
ストライプスーツの下には瞳と同じ色のターコイズブルーのシャツを着込み、黒いネクタイが襟元を飾っている。
俺も黒いネクタイをしているのに、こうも印象が違うと、やっかむ気持ちにもならない。こっちの衣装はサスペンダーで、凛達の衣装はスリーピーススーツなのもあるからだろう。
「……お前、撮影の時もウザイくらいにジロジロ見てやがっただろ」
「……んー……そうだったか?」
「誤魔化せると思ってんのか」
消えかけていたと思った火種が再び息を吹き返す。
凛の指先がこちらのネクタイにかかって、『洗いざらい吐け』と促されているのを察した。
自分は絶対に言わないのに、俺には言わせたがる節がある凛にズルさを覚えなくも無い。
けれど思ったのは事実なのもあって、見つめ合っていた瞳を反らし、呟く。
「……凛のスーツ姿、めちゃくちゃカッコいいなって。そう思っ……ッ……」
強引に手繰り寄せられたネクタイに付随して、体が凛の方へと寄った。
そうして勢いのままに唇が触れ合い、傾いていた帽子が地面に音も立てずに落ちていく。ぷちゅりと濡れた音が頭に響いて力が抜けそうになるのを凛に縋りつく事で堪えた。
暫し口の中を好き勝手に蠢いていた舌先が引き抜かれ、透明な橋が合間にかかる。
凛とこういう関係になってから知ったものの一つに、態度も始め方も乱暴で大雑把なクセに、実際に施されるキスやセックスは丁寧だという事だ。
まぁ、凛以外の他人とキスもセックスもした事が無いから、比較対象が居ないのだが。
「りん……、あと十分以内には戻んないと居ないのバレる……」
「……チッ」
「舌打ちしたってダメだってば……。みんな探しに来ちまう」
澄んだ色の瞳が獣のようにギラついて、その虹彩の中心には焦れた顔をした自分の顔が映っている。
本当はここで何も考えずに、久方ぶりの快楽に身を委ねてしまえたらどれだけ良いだろう。
でもそれは出来ないのもよく分かっていた。いきなり居なくなってしまった俺を蜂楽たちが心配して探しに来てくれるのは予想出来るからだ。
分かってはいるけれど、離れた凛の俺よりも高い位置にある頭に手を伸ばす。
離れていた距離がグッと縮まり、互いの荒い呼吸が空気を通して混ざり合った。
「でも、せめて鼻の痕が消えるまでは付き合えよ。……お前のせいだろ」
そう、全部コイツのせいだ。だって俺は逃げたのに、追いかけてきたのは凛の方。
しかも素直に俺は言葉にしたのだから、その分だけ行動で返して貰わなければ。
文句を言いたそうに唇を開いた凛の歯並びのよい白い歯が唇の隙間から覗く。さっきこちらを傷つけたそのエナメル質が色っぽく見える時点で、相当頭が可笑しくなっている。
キスひとつするのだって逃げまどって追いかけ回して。挙句の果てには二人揃って血を流す羽目になるのがなんとも俺達らしい。
「人のせいにすんじゃねぇ」
忌々しげに囁いた凛の大きな掌がネクタイから外されて、頭の後ろに回る。
折角セットして貰った髪が指先でかき乱されていく感覚が頭皮越しに伝わって、何度も組み敷かれた記憶が勝手に背筋を震わせた。
負けたくはないが、かと言ってコイツに見惚れたのを認めない程、野暮でも無い。眼前に凛の顔が迫る中でそんな風にぼんやりと思う。
近づきつつもわざとらしく擦りつけられた鼻先に鈍い痛みを感じるが、結局、再度噛み付くように塞がれた唇はそんな痛みなど全て忘れさせるような陶酔をすぐに齎していった。