むつくけき隣人 後日、改めてあの試合を最初から最後まで通して見直した。
"支配者"と呼ばれるに相応しいエゴイスティックな動きの数々と、時折見せる大胆不敵な笑み。
けれど、明確な殺意にも似た鋭い眼差しはただ一人にだけ向けられている。
彼がした表現は、確かに言いえて妙なのだなと、私はようやく腑に落ちたのだった。
────むつくけき隣人
彼と初めて出会ったのは忘れもしない、本格的な冬が始まろうとしている時節。
相変わらず仕事をするしか取り柄の無い私は、その日も誰よりも長く職務に従事してから帰宅する最中であった。
本来なら社員に指示する立場ではあるが、どうせ家に帰っても誰も出迎えてくれないなら仕事をしていた方がマシだ。
頭上に広がるのはどんよりとした暗い空。周囲はとうに静まり返り、猫の子の影すらない。
しかしながら明日は久しぶりのオフであり、たまにはゆっくりするのも良いかもしれないと考えていた。
疲れた身体を引き摺って自分の住むアパルトマンへ続く道を歩いていくと、ガラス張りの集合玄関を抜けてエレベーターホールにもなっているロビーの中へ、誰かがとぼとぼと入る後ろ姿が見えた。
借りているアパルトマンは比較的家賃が高めに設定されているのにも関わらず、エレベーターは一基しかない。
元々、少ない住民しか住めないようになっているから仕方がないのだろう。
しかし、住み始めたのはここ数年なのもあって、他の住人を見た記憶が殆ど無かった。
わずかな逡巡の後、若干歩幅を緩めながらもアパルトマンへと向かう。
もうエレベーターが来ていて、その人物が乗ってしまっていますようにと願いながら。
しかしそんな願いも虚しく、閉じたエレベーター扉の前で立っている人物の肩が微かに震えているのが見えた。
酒を飲み過ぎたのか、それとも薬物中毒者か。どちらにしてもあまり愉快なものではない。
エレベーターではなく階段を使えばいいと考えたが、そこまでの気力も無く、警戒を強めながらガラス製の自動ドアを潜った。
ネイビーのコートを着ており、チェック柄のマフラーをしている後ろ姿からはどんな人物かは伺い知れないが、黒髪であるのと、そこまで長身ではない事からアジア圏の人物かもしれない。
わざと足音を鳴らしながら近づけば、音を聞きつけたのか振り向いた相手と目があう。
ファーストインプレッションで最も印象に残ったのは、驚くほどに澄んだ瞳だった。
以前、旅行で訪れたロスカボスにて泳いだ記憶のあるカリブ海に似た青い瞳。
その瞳は彷彿させた海と同じように濡れていて、目尻から頬にかけて赤くなっているのが痛々しい。
元々、幼い顔立ちなのだろう青年が幼子のように涙を零している様は赤の他人とはいえ、哀れに思うには十分だった。
黙ってしまった私に対して、彼は申し訳なさそうにドア前から退く。
見ればまだエレベーターのボタンは押されていない。
とりあえず腕を伸ばしてボタンを押してから、彼から一歩離れた場所に立つ。エレベーターが到着する短い筈の時間がとても長く感じられた。
その間もぐずぐずと鼻を鳴らしている彼に、ついに私はコートの内側に着ていたスーツの内ポケットからハンカチを取り出す。
チン、と軽快な音と共にエレベーターが到着したのを察しながら、彼に持っていたハンカチを半ば押し付けるように渡した。
「え、え……!?」
「何があったかは知りませんが、良かったら使って下さい」
「でも……」
「もう捨てても良い品ですから。そのまま処分して貰って構いません」
掠れつつも明瞭な発音のドイツ語が返って来たが、やはり彼はこちらの生まれでは無いのだろう。
慌てたような素振りをしている彼の手元にハンカチを残し、私は一足先にエレベーターへと乗り込んだ。呆然としている彼の顔が扉に遮られ、見えなくなる。
慣れない事をした緊張感に加えて、彼に渡したハンカチが離婚した妻が最後にくれた品だった事を思い出し、庫内でひとり溜息を吐いたのだった。
□ □ □
二度目の邂逅は予想以上に早かった。
何故なら、ハンカチを渡した翌日の昼には彼が自室前に居たからだ。
玄関モニターに映った少し腫れた目をした彼を見た瞬間、くたびれたニットとチノパンという装いのまま、慌ててドアを開けに玄関に向かったのは言うまでも無い。
ドア前に立っていた彼は私を見ると、照れたような顔をして持っていた紙袋を差し出してきた。
「これ、ありがとうございました」
「……どうして私の部屋が?」
「端の方にイニシャルが刺繍されていたのと、エレベーターの停まった階が……俺が住んでいるのと同じ階だったので。念の為、コンシェルジュの人にも確認しましたけど」
朝から夕方にかけてフロントでコンシェルジュを勤めている陽気な女性の顔を思い出す。
コンシェルジュに会う事はあまりなかったが、この青年にならば情報を話しても問題無いと考えるのは分からなくはない。
それに同じ階というセリフを考える限り、彼は私の住んでいる階の住民だという事が察せられた。
疑いの目を向けた私の疑念を一つ一つ払拭するように説明をしてくれた彼と見つめ合う。
今日はマフラーをしていないのもあって、しっかりと表情を見る事が叶った彼はやはり幼く見えた。
丸っこい形の頭頂部には双葉のような毛が跳ねており、印象的な青い瞳は濡れてはいない。
どうやら昨日見た彼の姿の方がイレギュラーだったらしいと脳内で判断を下す。
「捨てても構わなかったのに」
「それは無理ですよ! イニシャルが入っているなら、大切な品かもしれないと思いましたし」
「……そうか」
申し訳無さそうな彼の言葉に、受け取った袋の重みが増した気がした。
そのまま何も言わない私と、様子を窺っている彼との間に沈黙が続く。こういう場面で明るい話題を提供出来ないのはいつもの事だ。
しかし、昨晩の彼の姿を思い出すとどうにも落ち着かない気持ちになる。
勿論、理由を聞くような間柄ではないが、せめて気晴らしにでもなれればと考えてしまう。
それはきっと、彼がもう久しく会っていない息子と年齢が近く見えるからかもしれなかった。
「もしよかったら、これからランチでもどうだい? こんなおじさんとの食事が嫌じゃなければだが」
「勿論! よろこんで」
花のように笑った彼に年甲斐もなく安堵の念を抱いたのは、自分だけの秘密だ。
昼間はカフェ、夜はレストランとして営業している店舗内には心地よい音量でジャズミュージックが流れている。
私が座っているソファー席の向かい側には、何故か一度部屋に戻り黒縁の眼鏡をかけてから戻ってきた彼が座っていた。
木製の大きなテーブルには、ランチメニューであるラム肉のラグーソースを使用したパスタと、キノコのソースがかかったシュニッツェルが乗っていた空になった皿がそれぞれの前に置かれている。
アパルトマンから近い場所にあるこの店は、私のお気に入りだ。
そこまで混雑してはいないが味は確かであり、ヴィーガン志向で無い限りは満足出来る店だと信じている。
そして我々の前に置かれた皿をウェイターが下げたかと思うと、ブルーベリーと苺の乗ったタルトレットが乗った皿が彼の前に提供された。
私は特段甘い物はあまり好みではないのもあって頼まなかったが、色鮮やかなフルーツのタルトは美味しそうに見える。
「うわぁー、おいしそう!」
私が思ったのと同じ感想を口に出しながらニコニコと笑っている、彼──イサギ君の反応を見ながらこの店を選んで正解だったと改めて思った。
そのまま自分の前に提供されたエスプレッソが入ったマグカップを手に取りながら、先ほどまでの会話の続きをしようと唇を動かしていた。
「でも、日本とドイツでは生活の勝手も違うから大変だろう? 酒飲みも多い国だ」
「そうですねぇ。でも、なんだかんだでもう渡独してから数年経ちましたし、日常会話にも慣れてきたので楽しく暮らせていますよ」
「あぁ、確かに君のドイツ語は上手だ。最初に見た時はまだこちらに来たばかりの留学生か何かかと思ってしまったけれど……申し訳なかったね」
「いえいえ。若く見られるのは慣れているので」
彼の名を聞いたついでに、年齢を聞いた際、驚いてしまったのを隠せなかった。どれだけ高く見積もっても、二十なりたてくらいかと思っていたのだ。
しかし考えてみればあのアパルトマンに居を構えている時点で、それは可笑しいのだと気が付くべきだった。
あのアパルトマンは広さはあるものの単身者向けのものであり、ある程度の身元が証明出来なければ借りる事もままならない。
セキュリティーの観点からあの場所を借りたのだから当然ではあるが、会社に居る時間の方が多いのもあって失念していた。
「君が気分を害さずにいてくれてありがたい。私はどうも若い子を不愉快にさせがちな面があるようだから」
「……そうですか? そんな風には思いませんけど……」
「それはきっとイサギ君が話しやすいからだ。いつもは無愛想だと言われがちだし、あまり会話は得意ではない方なんだよ」
この言葉は本心だった。人と会話をするのは嫌いではないが、世間話がすらすらと出来る程の柔軟性があるかと問われると疑問が尽きない。
仕事に関してであれば幾らでも議論出来るが、こうして人と向かい合って食事をしながら楽しく話をするなんて何年振りだろう。
それもひとえに、イサギ君の柔和な笑みと、例え上手く話題を見つけられなくても受け入れてくれる雰囲気のお陰なのだと、すぐに察する事が出来た。
「全然無愛想なんかじゃないですよ! 俺、本気で可愛げのない人間を知ってて慣れてるから……こうやってちゃんと話が出来る時点で無愛想じゃないです」
誰かを思い浮かべているらしいイサギ君が、持っているフォークを苺に突き刺す。
彼らしくない一瞬浮かんだ憤りの表情を見逃さずにいられたのは、これまでの人生経験からだろう。
昨夜の彼が泣いていた理由にわざと触れずにここまで来たのだが、その"可愛げのない人間"とやらが今回の出会いの発端になっている可能性が高い。
あまり踏み込み過ぎるのは良くないと認識しながらも、私はついつい彼に向かって問いかけてしまっていた。
「君が泣いていたのは、もしかしてその人が理由なのかい?」
口の中に苺を放り込んだイサギ君の動きが止まる。
やはり答えにくい事を聞いてしまったかと思った私に向かって、ゆったりと苺を咀嚼しきったイサギ君が微笑んでみせた。
けれどその笑みは寂しそうな気配を色濃く滲ませており、私の背後にあるガラス窓から射し込む光に照らされた彼は憂いをたたえている。
もしも何か力になれるのならば、手助けをしてあげたいと思うくらいに儚げな空気を醸し出す姿に思わず目がくらんだ。
「あー……まぁ、そうですね……あんな姿を見せてしまってお恥ずかしいですけど……そんな所です」
「そうか……不躾に聞いてしまってすまなかったね。私が役に立てる事がなにかあればいいんだが……」
「昨日、実は結構参っていたので……ああやって声をかけて貰えたの凄く嬉しかったんです。だから、その……助かってます。今日も一緒に食事が出来て良かった」
照れたように笑う彼の顔を見て出た言葉は本心だった。
続けて言われた言葉に明るい視界がさらに眩しく感じて、手元に持っていたカップに口をつける。
苦みのあるエスプレッソ。いつもよりも風味豊かに感じるそれを喉奥で感じてからカップをソーサーへと戻した。
「こちらこそ君のような隣人と知り合えてよかった。また機会があればご馳走させてくれないか? たまには誰かと食事をしたいんだ」
「はい!俺なんかでよければぜひ!」
君だから誘ったのだ、と言いかけたセリフは、喉奥へと押し込め出来るだけ固い表情筋を動かして笑みを形作る。不格好ながらもどうにかマトモな笑顔を作れていればいいのだが。
「このお店、料理が全部美味しくて、こんな素敵な場所も知れて良かったです!」
嘘偽りがないのを証明するかのように、眼前にあった赤と紫色のタルトもあっという間に彼の胃袋の中に収められてしまった。
顔に似合わずというのは失礼かもしれないが、どうやらイサギ君はよく食べよく飲むらしい。
そうして、近くに立つと細身に見えるが、着痩せするタイプのようにも思えた。きっと鍛えているのだろう。だとしたら奢り甲斐もあるものだ。
だから彼がトイレに立っている間にその日は会計を済ませ、恐縮されながらも特に問題無く別れたのだった。
□ □ □
彼を三回目に見たのは、雑誌の中でだった。
社員の一人が持ってきていたサッカー専門誌の表紙に、彼の姿があったのだ。
雑誌の見出しには【次世代を担うエースストライカーたち】とあり、イサギ君以外にも数名の青年たちがフィールドを駆ける姿が切り取られている。
まさかの文面に思わず社員の持っていたその雑誌を借りて、隅々まで読み込んでしまった。
あまりの勢いに、社員達からは『社長、ついにサッカーに興味持ったんですか?』などと聞かれる始末。
ドイツでサッカーは国民的スポーツだったが、私は子供の頃からそこまでサッカーに興味が持てなかった。
勿論、話題作りの為に情報取集はしているものの、だからといって各チームの選手個人の顔や名前を全て把握しているワケではない。
それに加えて"エゴイスト"と名高いイサギヨイチ選手が大人しそうな彼と同一人物だとは思えなかったのだ。
これは大変だとそわついてしまい、その日は仕事がほぼ手につかなかった。
「あはは! だから初っ端に謝られたんですか。俺」
「笑いごとじゃないよ……まぁ、君が怒っていないなら良かったけど」
衝撃の出来事から約二日後。前回座ったのと同じ席に座っているイサギ選手……もとい、イサギ君は暖かそうなモスグリーンのニットとスキニーデニムを着ており、前髪をセンターパートに分けて細い銀フレームの眼鏡をかけている。
どうして前回の時にわざわざ眼鏡を掛けに部屋に戻ったのかという疑問も、解消された。
彼は今をときめく有名人なのだ。だからこそ、自宅近くの店で変装もせずに堂々と食事をするワケにもいかなかったのだろう。
もう彼を食事に誘うなんて不可能だと考えていた私の前に、何も変わらぬ朗らかな笑みを浮かべて現れたイサギ君に驚いてしまったのは言うまでもない。
「俺は本当に気にしてないですよ。バレてないなら、それはそれで良いかって思ってましたし」
今日は時間帯が遅いのもあって、カフェではなくレストランとして営業している店の中はほんのり薄暗い。
テーブルの上にはフライドポテトやプレッツェル、ブラットヴルストなどが並び、互いの前にはヴァイツェンビールの注がれたジョッキが並んでいる。
フォークを使ってフライドポテトを口に運んだイサギ君は、頬を膨らませてそれを美味そうに食す。
さらにジョッキを口元へと持っていったかと思うと、豪快な飲みっぷりでそれを呑んだ。本当に気にしていないらしい。
「まぁ早めに分かってよかったよ。そうじゃなければ、君にさらに無礼な態度を取ってしまったのを悔いてセップクする所だった」
「切腹? はは、それは困ります! 俺が変な意味で有名になっちゃうし……というかよくそんな言葉、ご存じですね?!」
ケラケラと笑う彼の顔を見て、私もようやく肩の荷が下りたと持っていたジョッキを唇へと当てた。
日本という国の文化をそれほど知らなかったが、イサギ君が日本出身だと分かってからネットで調べるくらいには関心を得ていたのだ。
まだ若い身でありながら、単身ドイツに渡ってきた彼のルーツを少しでも知れたらとも思った。
「君が日本出身だと知ったから調べてみたんだが、とても興味深い国だ。いつか行ってみたいものだよ」
「そうだったんですね。日本に興味を持って貰えたならすごく嬉しいです! 強い選手が数多く出てきてますから、そっち方面にも興味を持って貰えたらさらに嬉しいかな」
「はは、それは次回までにしっかりと勉強させて貰うよ。次は、スター選手が隣に立っていてもすぐ分かるようにね」
冗談めかして飛んできた言葉に、ジョッキを掲げつつ返す。
他の人間ならば皮肉っぽく聞こえそうなセリフも彼が言うと、愛嬌めいた風に聞こえるから面白いものだ。
そんな事を思う私の前に座っているイサギ君が、急に驚いたように身を動かした。
どうやら電話が鳴っているらしく、バイブ音が聞こえてきている。目だけで私に了承を取った彼にそっと頷きを返す。
すると、デニムのポケットから取り出したスマートフォンの画面を見たイサギ君の目が丸くなったかと思うと、すぐさま眉が顰められた。
けれど、嫌な相手からというよりは、どこか痛みを感じているかのような複雑な表情をしている。
しばらく鳴っていたスマートフォンを握っていた彼が震えの止まったそれをポケットに戻そうとした瞬間、またもや小刻みに震えだす。
急ぎの用事なのかもしれないと、私はジョッキをテーブルに置きつつ彼を促すように声をかけていた。
「私は構わないから、電話なら出た方が良いんじゃないかい?」
「……いえ……良いんです。大したことじゃない筈なんで」
大した事じゃないと言った彼の顔は、どう見ても暗くなっている。
そこでピンと来た私はお節介なのは重々承知の上で、未だ震え続けているスマートフォンを握っているイサギ君を見据えた。
「もしかして、例の人から?」
「んー……まぁ、そうですね」
「……これは聞き流してくれていいんだけど、あまりにもしつこいなら拒否してもいいんじゃないのかい」
チラリとまだ振動を繰り返している機器に視線を向けつつそう囁けば、彼は同じように持っている携帯に視線を向ける。
やがて私よりもさらに小さな声量で懺悔でもするかのように囁くのが聞こえ、青い瞳は伏目がちになっていた。
「別に、全然嫌では無いんですよ。アイツが無遠慮だなんて知ってたし、俺も大人げないって分かってはいるんです」
「……その人は君にとって、大切な人なのかな?」
「大切な人っていう表現で合ってるかと聞かれると……難しいですね」
息をゆったりと吸って思考を纏めているらしい彼の顔を眺める。
睫毛によって瞳の色彩が濃く変化しており、光すらも呑み込んでしまう深海のようだった。
「多分、傍に居なくてもお互い生きてはいけるけど、最期に見るならアイツの顔がいい──かな。そういう意味では唯一無二なのかも」
遠い目をしてその人物に思いを馳せているらしいイサギ君の虹彩が、透明なレンズの奥で止まっている。
恐らく、ただの愛や絆などという言葉で一括りに出来ないような複雑な関係性なのだろう。
「大切な人なのか?」という問いの返答を聞く限り、彼が確かに相手に対して強い想いを抱いているのだけは理解出来た。
アルコールが回り始めたからだと言い訳をして、もう少しだけ野次馬になっても良いだろうと表面が濡れたジョッキを持ち上げた。
「離れていても、その人の事を思い出してしまうなら、きっと大切なんだろう」
「向こうは違ったんです。……それに、勝手に俺が近くなったと思ってただけで、これが正常な距離なんですよ」
「でも相手は君にご執心なんだろう? 追ってくるというのは、気がある証拠だ」
「執着っていうんですかね。これ。自分のモノが手元から失くなってキレてるだけな気がしますけど」
意外にも意固地なイサギ君に内心驚く。その相手と彼の間に何が起きたのか私には知る由も無い。
しかしながら、人当たりのよい彼がここまで言うのならもう私に出来る話は無いだろう。
かわりにもう空になりつつあるイサギ君のグラスと、自分のグラスを見比べると残っていた分を一気に飲み干した。
「私はもう一杯飲むけど、君はどうする?」
「じゃあ、俺も飲みます」
「今日も私の奢りだ。じゃんじゃん頼んでくれ」
その言葉に驚いた顔をしているイサギ君の伝えたい事は分かる。
彼はドイツ国内でも特に優秀なプロスポーツ選手であり、私などよりも遥かに稼ぎが良い筈だ。
だが、私と飲む時の彼には、ただの年若き隣人で居て欲しかった。
「君と私では天と地ほどに年の差があるからね。私と居る時は、年上を立ててくれると助かるよ」
「……分かりました。ありがとうございます!」
持っていた携帯をポケットにしまい込んだ彼の零れんばかりの笑みが、頭上で煌々と光っているダウンライトに照らされている。
未だに鳴っているらしいスマートフォンの向こう側の相手は非常に気の毒だとも思うが、その人物が居なければ私はこうして彼と飲む機会など生涯無かっただろう。
あっという間に届いたビールのジョッキを今度は二人して傾ける。
そうしてこんな楽しい時間がずっと続く事を祈っていた。
□ □ □
街はそろそろクリスマスシーズンに向けて、装いを新たにしている。
四度目の食事会は、たまたまタイミングが合って向こうから誘われる形だった。
というよりもイサギ君が忙しいように、私もそれなりに忙しさの佳境に入っていたから先々の予定など立てられなかったのだ。
今日は珍しく何の変装もしておらず、厚手のパーカー姿の彼は、前に見た時と同じくブルーベリーと苺のタルトレットを突いている。やはり甘い物が好きなのだろう。
既に自宅でランチを済ませてしまっていた私は、イサギ君が目の前でチキンのトマトグラタンを食べ終え、今度はデザートを食べる姿を眺めながら、いつも通りエスプレッソを啜っていた。
「もうそろそろクリスマスだね。流石に君もオフなんだろう?」
「はい。……とは言っても冬の間はやっぱり忙しいので、あまり休みも無いんですけど」
「私もクリスマスくらいしか休みが無いよ。働き過ぎだと自分でも思う。特に誰かと過ごす予定も無いし構わないんだけどね」
ハハ、と自嘲する私に同調するように、苦笑だけを零したイサギ君に向かってさらに言葉を紡ぐ。
「そういえば、一昨日やっていた君の試合を見たよ。仕事中だったのもあって、全ては追えなかったが……後半で打ったシュートは素晴らしいコースだったのに、残念だったね」
「……カットされるのを読みきれなかった自分のミスですね、あれは」
気だるげに溜息を吐いた彼は疲れているのかいつもより口数が少ない。
試合には勝っていた筈だが、やはりストライカーというのは自分のシュートが上手く決まらないと勝った気にならないのだろうか。
それよりも、あれだけドイツ国内を沸かせるプレイをした彼が変装もせずに外から見える位置に座っているのはマズいのではないかと、いまさらな事を思った。
「なぁ、イサギ君。ずっと思っていたんだけど、君がこちら側の席の方が良いんじゃないか?」
「え?」
「ほら、そちら側に座ると外から顔が見えてしまうだろう」
本当にいまさらだと思いながらも提案するが、ゆるりと首を振った彼はどこか楽しげに微笑んでいる。
そんな事態など端から予想している──彼の目はそれをハッキリと物語っていた。
どこからかバイブ音が聞こえ、青い瞳に吸い込まれるように奪われかけていた意識を取り戻す。
音の出所は、イサギ君がパーカーのポケットから取り出したスマートフォンからだった。
チラリと画面を一瞥した彼の目が細まり、狙いをつけた獲物を捕らえる直前の獣を連想させる表情に、思わず息を呑んだ。
彼の事を理解しているなんておこがましい思考をしていたつもりは微塵も無かったが、目の前に座っているイサギ君はこれまで見た事が無い雰囲気を漂わせている。
だから「電話に出たらどうだい?」という言葉が胸奥へと引っ込む。それとほぼ同時に背後で響いたドンッ、という鈍い音に体が硬直した。
慌てて顔を後ろに向ければ、ガラスの向こう側で背の高い男が長い睫毛に囲まれたターコイズブルーの瞳を爛々と輝かせ、こちらを睨みつけている。
私の事など視界にも入れていないのか、男はただ真っすぐにイサギ君だけを見つめていたかと思うと、ロングコートの裾を翻して窓の前から姿を消した。
どうなっているんだと混乱する私に向かって、スマートフォンをポケットにしまい込んだイサギ君は悠然とまだ残っているタルトレットにフォークを刺して一口食べた。
そうしてたっぷり時間をかけて呑み込んでから、私を見つめて優しく笑った。
「すいません。ちょっと騒がしい奴が来るんでビックリさせてしまうかもしれないです」
「いや……それは……構わないけれど……」
「よかった! 絶対に貴方に手出しはしないように言ってあるんで安心して下さいね。……正直、思ったより来るのが早かったから、俺も驚いてるんです」
釘を刺されていなければ、手出しされるような状況なのか、私は。
これは面倒な事になったぞと思うものの、全く気にもしていない様子のイサギ君の後方にある店のドアから勢いよくこちらに向かってくる人物の姿が見える。
私は彼の事を知っていた。彼も一昨日の試合に出ていたし、なんなら以前読んだ雑誌にも載っていたからだ。
首元まで覆っている青みがかったグレーのタートルネックにデニムとロングコートというシンプルな服装なのにも関わらず、ファッション誌の表紙を飾っても可笑しくは無いくらいの端正な顔立ちと体格。
やはり、一昨日の試合中にイサギ選手渾身のシュートを間一髪でカットしたイトシリン選手に間違いなかった。
殺気立っているイトシ選手は私を射殺さんばかりの目で見たかと思うと、そのまま一言も話さないでタルトの最後のひと切れを味わっているイサギ君を見下ろす。
同じ空間に有名なサッカー選手が二人も揃っていれば誰かしら声をかけそうなものだが、あまりにも緊迫した空気に全員黙ったままだ。勿論、私も。
二人のうち、先に動いたのはイトシ選手からだった。
恐らく日本語で話しかけているのだろう、私には分からない声掛けをしながらテーブルへと片手を付く。
それに対してフォークを皿に置いたイサギ君は彼を見上げながら、何かを伝えていた。
苛立った様子で店に入ってきた筈のイトシ選手はイサギ君の言葉に片眉を上げて、小さく舌を打つ。
そんな二人の様子を見ながら、どうやら私はずっと彼の事を見誤っていたのかもしれないとボンヤリ考えていた。
若い彼にどうしても息子の幻影を見てしまっていたが、彼は息子よりも可愛らしい顔をしているのに、随分としたたからしい。
人は見た目で判断してはいけないと理解していても、これだけ大人しそうな容姿の彼が駆け引き上手だとは思わないだろう。
私が考え込んでいる合間に二人の間で話が一旦纏まったらしい。
そうしてこちらに向かって軽く頭を下げたイサギ君が流暢なドイツ語を話し出した。
「驚かせてしまってすいません。えっと、コイツは……」
「イトシ選手だろう。流石に私でも分かるよ」
「あはは、そうですよね。試合見てくれたって言われてましたし」
イトシ選手は私が発声した自分の名前にピクリと反応していたが、ただ黙ってこちらを見てくるだけだ。
これは確かに私など比較にならないくらいに無愛想かもしれない。最も、彼に私がどういう存在として伝わっているのか知らないが。
ここで無駄な事を言うつもりは無い。短い期間ではあったが、私は確かに楽しい時間を過ごさせて貰ったのだから。
でも、イトシ選手は恐らくドイツ語までは習得していないだろうと考え、これは最後のお節介だと口を開く。
「イサギ君。言いたい事は素直に言わないと私みたいになるよ……って後で彼にも伝えてくれるかい? ちゃんと店を出てからね」
「あぁ……やっぱりわかりました?」
「分かるさ。……それに、少なくとも彼にとって君は十分に"大切な人"に見えるけどね」
雑誌に掲載されていたイトシ選手のインタビューは、どれだけ甘く採点しても大衆やメディア受けしないものだった。
というよりも、恐らく興味が無い対象に関しては、心底関心が無いのだろう。でもそんな彼が必死になってイサギ君を追いかけている。
今だって内容の分からない会話をしている私たちを観察している彼の目は険しい。
チラリと私の視線の先を見たイサギ君は、仕方が無いなとばかりにわざとらしく肩を竦めてから、椅子にかけていたコートのポケットより財布を取り出した。そうして数枚の紙幣を出すとテーブルへそっと置く。
「今日は俺に奢らせて下さい」
「……ありがたく受け取らせて貰うよ。さぁ、もう行きなさい。彼がお待ちかねだ」
どんどんと滲みだす圧が強くなっているイトシ選手はまだ黙ったままだ。
「凛」
しかし、私の声に立ち上がったイサギ君がコートを着ながら彼のファーストネームを呼び掛けた途端、漂わせている威圧感がほんの僅か緩んだ。
ただ名を呼んだだけだったが、その響きは聞く人が聞けば分かるくらいの甘さを含んでいるからだろう。
そうしてイサギ君はイトシ選手の肩を手の甲で軽く叩いてから、私に向かって一礼だけしてドアへと向かっていく。
「よいクリスマスを」
連れだって歩く二人の後ろ姿を見送りながら呟いたその言葉は、もう誰も座っていない空間へと落ちていった。
あんな風にぶつかりながら、それでも自分の気持ちを真っすぐに伝えられていたなら、私の未来も変わっていたのかもしれない。
でもそれは叶わない夢であり、もう戻れない過去だ。
久しく着けていないのに、まだ薬指に残る指輪の跡を撫でながらそんな事を思う。
自身の投影先にするつもりなど毛頭無いが、私の存在を利用したのなら、あの二人にはぜひとも収まる所に収まって貰わなければ割に合わない。
ふと顔を上げた目線の先には、空になった白い皿と紙幣が残されている。その紙幣は今日食べた品物の代金を払ってもまだまだお釣りが来る金額だ。
それならば、たまには私も甘い物を食べてみてもいいかもしれない。
まるで幽霊に化かされたかのような気分であったが、彼と先程まで共に食事をしていたのが現実なのだと確認したくもなっている。
だから彼が好んで食べていたブルーベリーのタルトレットと、ぬるくなってしまったエスプレッソのお替りを頼むため、まだ呆気に取られているウェイターに向かって声をかけた。