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    凛潔/死ネタ

    Oxygen toxicity 燦々さんさんと降り注ぐ太陽光を避けるように路肩に停められたタクシーに乗り込む。
     必要以上に冷房の利いた車内は、まるで小さな冷蔵庫のように酷く冷え切っていた。
     バックミラーに映った俺の姿を見てこちらに気が付いたのか、初老の運転手の目がほんのわずか見開かれる。
     けれど、運転手も不必要な言葉を交わすつもりは無いのか、宿泊先のホテルの名を告げて黙り込んだ俺に話しかけてくるなどという愚行はしてこなかった。

     『出来る事ならば、彼の人柄に合わせて多くの方に笑って見送って欲しい』
     『でもきっと全員を招くのは無理だから、仲の良かったお友達や家族だけでお別れをしたい』

     そのような連絡をマネージャーを介して送ってきたアイツの両親は、とても柔和で穏やかな人物だという事が初めて会ったというのにすぐに分かった。
     真新しい喪服に身を包み、憔悴しきった様子ではあったが、気丈にも一人一人に頭を下げていた二人の皺のある目尻が赤く腫れていたのに気が付いたのは、きっと俺だけでは無かったのだろう。
     俺の前に潔の両親と話していたおかっぱは、いつものうざったいくらいの明るさなど鳴りを潜め、隠しきれないくらいにやつれた表情をしている潔の母親の両手をただ静かに握り締めて泣いていた。

     無意識に膝の上で握り込んでいた拳を緩ませ、外へと視線を向ける。
     閑静な住宅街を滑らかに移動する車窓から見える景色は、この冷えた箱とは異なり蒸し暑そうだ。
     そのまま信号に従って停止線で止まった車の傍らにある電信柱を眺める。
     掠れた金属板に掲示された住所はこんな事が無ければ、けして訪れなかったであろう場所。
     再度動き出した車に合わせて移動していく視線の中、建物の伸びた影が歩道を行く人々の上に重なって、ありふれた日常が営まれているのを目の当たりにする。

     超越視界メタ・ビジョンの使い過ぎによる過度な脳疲労──からの血管破裂。
     病院に運ばれた時にはもう手の施しようがない状態になっていた潔は、最期の最期までサッカーという競技に身を焦がして死んでいった。
     自分が死ぬのを分かっているのに、炎に飛び込んでいく羽虫のように。
     それをバカだという人間の方が恐らく大多数なのだと思う。
     でも、俺はアイツの行動が最後までブレなかった事に特に驚きは無い。何故なら、もしも奴と同じ立場に置かれたとしたら、俺にとっても選択肢はひとつしか無いからだ。
     死んだらサッカーが出来ないと周りは言う。
     けれどそれは、サッカーが出来なければ死んでいるような俺達には、何も響かない。

     ただ、唯一心に残っている思いがある。
     狭く白い棺の中に入って、色鮮やかな花に取り囲まれ、思い出の品々を傍らに置かれた潔の眠っているような顔を見た時。
     もうこの男の青い眼差しが俺を刺す事は未来永劫無いのだという、そんな未練。
     涙など出る筈も無い。俺と奴は友人ではなかったからだ。
     友人などという甘っちょろい関係など結んでいない。
     だからこそ、ずっと鼻の奥で漂う焼香の匂いから巻き起こる吐き気を堪え続けていた。

     □ □ □

     薄いガラスコップの中に入れたアイスコーヒーを持ち、ソファーに腰かける。
     久々のオフなのもあって出掛けるよりも疲弊している肉体を癒すのを優先して、今日は一日自宅に居ると決めていた。
     アイツが死んでから一年という月日が経ち『選手たちの健康管理を徹底すべき』というサッカー界の意識改革が起こったが、実際はそこまでの変化は無い。
     センセーショナルに報道されていた当初と異なり、今では奴の事を話す人間もそこまでおらず、各々が変わらない生活を送っているのだろう。
     どれだけ著名な人間が死去しても、大多数の奴らにはさしたる変化は無い。
     深く嘆き悲しんでも、次の日になればケロリとして自分の人生を生きていく。
     それは間違いではない。世界は結果的に自分自身の為に回っている。

     手を伸ばして、テレビのスイッチを入れた。
     ずっと見られなかった新作ホラー映画がサブスクで配信されているのを昨夜見つけたからだ。
     しかしテレビ画面に映ったのは、何故か潔の姿だった。
     半端なホラー映画よりも胸を貫くその映像に目が奪われる。

     味方に向かって横柄にも見える態度で指示を飛ばす姿。
     ボールを追って走り抜け、当然のように自分が決めたゴールに不遜な笑みを浮かべている。
     誰にも縛られず、サッカーという仕事に殉じた愚かなストライカー。
     画面の向こうに居る潔がこちらを見据える。忘れかけていた、迸る稲妻のような煌めき。

     ブルブルと震えた手のせいで零れたアイスコーヒーがラグに染み込んでいく。
     急いでローテーブルに置いたグラスのかさは減っていた。
     呼吸が覚束ない。閉じ込めていた筈の何かが弾けようとしている。
     覆い隠していたモノがひび割れて、隙間から這い出てこようと画策していた。
     俺と奴は友人ではない。親しくしたつもりも、覚えも無い。
     だが、誰よりもフィールドの上では奴の思考を理解出来た。
     それ以外の事は何も分からないのに、アイツが使う戦術も、狙っているパスコースも、求めている位置も。

     隣に居るのが当たり前だと思っていた。奴が居ない未来など想像した事も無い。
     まるで空気のように気が付けばすぐ傍に存在しているのが、潔世一という人間だった。
     吸って吐いて、肺を酸素で満たすのが自然の摂理であるように。心の奥で燃える炎の勢いをさらに煽るモノとして、俺はずっとあの男の存在を認めていた。

     フィールドの上で敵として対峙していたアイツの最期を思い出す。
     ピンと張ったか細い糸の上を渡る緊迫に、内側から食い破られそうな感覚。
     どちらが勝っても可笑しくは無い五分五分の試合の中で、俺と視線が合った潔は、全てを悟ったのかうっすらと微笑んでいた。
     途端に真っすぐに立っていたその体から不意に力が抜けて、ぐにゃりと糸の切れた人形のように緑色の芝生に倒れる瞬間の呆気なさ。
     試合中にボールの行方を意識しなかったのは生まれて初めてだった。
     走り込んで潔の元に駆け寄った時に確認出来た、伏せられた瞼とイビキにも似た可笑しな呼吸の仕方。
     これはもうダメかもしれない。──そう脳裏に過ぎった自分をすぐさま叱責し、医者が走ってくるまでの間にレクチャーされた応急処置を行う己をどこか遠くに感じていた。

     「……っ、ぅ……グ……」
     買いたくも無かった新品のスーツに染みついた煙の匂いと、赤い目をした潔の母親に述べられた感謝の言葉。
     他の連中は泣いていたのに、ただ一人涙ひとつ零さない俺に向かってただ微笑みだけを向けた彼女は確かに潔の面影があった。
     感謝など、される理由がない。俺はアイツの不調を察しきれなかった。
     フィールドでなら、俺は"潔世一"という男の全てを知っていると信じていたのに。

     せり上がってくる吐き気を押さえる為に顔を覆った掌が何故か湿っていく。
     テレビに映っていた潔の追悼番組。名も知らないアナウンサーが神妙な顔で解説する言葉など耳に入ってこない。
     ラグに広がった黒いシミの上に、さらに水滴が落ちた。(なんだこれ?)と自問する声が聞こえる。
     酸素を失った魚のように通っていた筈の気道が狭くなって、思考がバラバラと巡っては消えていく。

     あの夏から、俺はずっと自分を満たす為の存在を探し続けている。
     そうして腹の中央にぽっかりと開いた空虚を埋める相手を求めていた。
     時々、深い傷口に重ねるように盛りつけた"冷静"という名のパテが剥がれる。
     でもそれをまた繰り返していけば、その内に全て遠い過去になって、俺はアイツの全てを忘れていくのだろう。
     どんな風に笑って、どんな風に俺の言葉に返して、どんなプレーをしていたか。

     いつまでも掴まえておきたいと願うのは簡単なのに、酷く難しい。
     それこそ本当に空気のような男だったと、未だうるさいテレビを消す為にリモコンに手を伸ばす。
     訪れた静寂の中、閉じた瞼に残る青い光だけが尾を引く流星のようにいつまでも輝いていた。
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