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    凛潔/目の見えなくなった潔と諦めない凛

    Wish upon a star 受付に居た職員に手際よく案内されたのは、最上階角部屋の番号。
     降り立ったエレベーターから続く廊下は清掃の行き届いたリノリウム張りで、窓から射し込む光によって一層眩しく感じた。
     外は数分出ただけでどっと汗ばむ暑さだというのに、ここはヒンヤリとした冷気に満ちている。
     それから、いかにも"清潔"を彷彿ほうふつとさせる匂いが鼻を通り抜けるのがささくれだった心を余計に急かした。
     履いているスニーカーはさほど足音も立てず、通りかかる人間もいない。
     恐らく誰も居ないワケでないのにシンと静まり返っている様は、いつも仕事をしているフィールドとは全く違う。
     あの場所では常に歓声や野次、勝利への渇望や、自分が一番である事を世界に認めさせる野望。そういった様々な感情が入り混じって坩堝るつぼと化している。
     そんな激情や熱狂に煽られ続けた精神は、多少の事ではびくともしない自信があった。
     だが、この場所に立っている自分は、確かに緊張している自覚がある。
     極限まで膨らませた風船の表面を針先でゆっくりとなぞるような、そういったモノに近い。

     あっという間に辿り着いてしまった部屋のネームプレートを目でなぞってから、スライド式の扉を開く。
     滑らかに開いた扉の奥にある部屋は、廊下で感じたよりもさらに病室らしい匂いがして自然と顔をしかめてしまう。
     けれど流石、年棒億越えのプロフットボーラーというべきか。室内は広々としており、必要な物は一通りそろっているように思えた。
     そんな部屋の中心──カーテンの開け放たれた窓辺から覗く青々とした空を背景にして、白いベットで上半身だけを持ち上げ、外を見ている男の姿を認識する。
     エアコンから響く排気音や備え付けの冷蔵庫の駆動音、ベッド脇に飾られた名も知らない美しい花束の活けられた花瓶の鮮やかさと、ペットボトルに入った水の乱反射。
     それらを意識する間に背後で自然と閉まった扉の音を聞き取ったのか、僅かにパサついている黒髪を揺らしてベッドの上にいる潔がこちらに振り返った。
     「……誰?」
     背後からの光に輪郭を縁取られた潔は、普段の不遜さが嘘のように頼りなげに見える。
     何よりも、いくら年齢を重ねてもガキっぽさの拭えない顔の中で、もっとも目立つパーツだった深みある青い瞳は、その焦点を上手く結んでいなかった。
     キィン、と耳鳴りがする。ここには存在しない風船を思いっきり引っ掻いたような音が脳内で無数に響く。
     一歩、二歩。鉛を吊り下げたごとき重みを感じている足を動かす。
     まだ誰が訪れたのか分からないらしい潔は耳を澄ましているのか、黙ったままこちらをボンヤリと眺めていた。

     完全な面会謝絶が五日。それからさらに一週間が経ってようやく俺はこの病室を訪れた。
     もっと早く来るべきだったと分かっていたのに、足が竦んだのだ。
     それに、自分以外の人間が入れ替わり立ち代わり潔の元を訪れているだろうという予想もあった。
     俺と潔は恋人でも友人でもなんでもない。
     だが、定期的に潔から連絡が来ては、気が向いた際に会うのを頻繁に繰り返していた。
     サッカー以外の繋がりを断ち切るのはきっと簡単で、俺と関わり合いにならずとも潔には多くのぬるい人間が纏わりついているのを知っていた。
     それでもこの男は俺との関係を細い糸を紡ぐように、つかず離れずの距離でずっと保ち続けている。
     勿論、フィールドで会う時はどこまでも苛烈に点を奪い合う。
     そうしてプライベートではマヌケ面で酒や料理を食らっては、楽しそうに笑い、頬を赤く染める。
     ────正直に言うと、形容しがたいその関係性が驚くほど居心地がよかったのだ。

     そんな中、潔が急に倒れたという知らせは潔の親から、本人のスマホを通じて送られてきて、俺はその時フランスで次の試合に向けたトレーニングを終えたばかりだった。
     調子が悪いと時々零していた潔は、タイミングよく日本に帰国している際に倒れたのもあってすぐに病院に担ぎ込まれたのだという。
     『精密検査を行うので、それらが終わったらまた連絡します』とだけ書かれた白黒の文字の裏側に、潔の両親の焦りを感じてこちらまで動揺が抑えられなかった。
     ほぼ同い年のもっとも近しいと感じていた人間が倒れた場合、どういう反応をし、どのような手順を踏んで周囲に説明し、いつ日本に赴けばいいのか。
     冷静さを装うのに長けている筈の自分のフリック入力をする指が震えているのに気が付いた時、俺は己の無力さをつくづく実感した。
     そうして今も、迫りくる無力さの中で足だけを動かす。
     三歩、四歩と大股で近づいた辺りでベッドに座っている潔が再び口を開いた。

     「凛、なんだよな? 来てくれたんだ。……こないかと思ったのに」
     見下ろしている潔の顔が上を向き、シーツを伝うように手が伸ばされる。
     瞬間的に掴んだ掌はかさついていて、冷たい。
     言葉が出ないというのはまさしくこの事だと、接着された唇の奥で微かな唸りをあげる。その間も瞬きはしているのに、やはり潔と目が合わない。
     事前に知らされてはいたが実際に目の当たりにすると、事実だと理解してしまって益々どんなセリフを言うべきなのかを迷った。
     そして俺は潔の姿を見た時、これがあの"潔世一"なのかとほんの一瞬でも考えてしまったのだ。──無論、病人を冒涜するつもりはない。
     ただ、いつも煩わしいくらい俺を真っすぐに見つめてくる潔が、ボールを蹴るという事だけを生きるよすがとしてきた男の面影が、ゆっくりと消えていくように思えてならなかった。

     「もう母さんから聞いてると思うけど、ビックリさせたよな。いきなりで俺も本当にビビった」
     答えるかわりに握り込む力を強めた手を潔は緩く握り返してくる。
     カラリとした笑みを浮かべているつもりなのだろうが、射し込む光によって影になっている潔の表情は硬い。
     「無理して笑うな」と言いかけて止める。その笑みはどう考えても潔なりの防衛反応だと、分かってしまったから。
     「今後、視力が戻るかどうかは二割くらいらしい。二割ってマジで微妙でさ、医者から伝えられた時に『それって良い方なんですか?』って思わず聞いちゃったよ」
     ハハ、と潔の空笑いがエアコンの音と混ざる。

     生きているだけでよかった。例えその先にサッカーをする未来が無くなっても、命さえあれば。
     きっと潔はこの白く清潔で穏やかな監獄に閉じ込められてから、訪れた人たちに口々に言われたのだろう。
     目の下に浮かぶクマの濃さに近づいてようやく気が付いた。
     閉じても開いても追いかけてくる闇は一体どれほどの恐怖なのか。俺には想像もつかなかった。
     「……凛。もっとこっち寄って」
     手をひかれ、潔の言葉に従う為にベッドに腰かける。
     そのまま空いた手で肩に触れられ、首筋の後ろに指を宛がわれて引き寄せられた。
     ぶつかる額と額の温度差を直で感じ、ゆるりと動く睫毛の奥に潜む瑠璃を手繰り寄せるように、自然と手を繋いでいない方の手で潔の頬を撫でていた。
     柔い頬は程よい空気の入った風船にも似て、ひとつ間違えれば割れてしまいそうな危うさを孕んでいる。
     乾いてひび割れた唇が開かれ、震えを帯びた声が耳を通っていく。
     「ごめんな……俺、もうお前の事、みえないよ凛。……お前の目、綺麗で大好きだったんだけどなぁ」
     ふ、と全てを堪えるように息を吐いた潔を見つめる。
     「なぁ、ちゃんとそこに居る? 居るなら……いるなら、……なんか言ってくれよ……りん……」
     世の中全てに対して生じたやるせなさと、急に訪れた理不尽に向かって発せられたそれは、潔の心からの叫びだった。

     頬に触れていた手を動かし、その背を掻き抱く。肩口に頭を寄せた潔からは泣き声すら聞こえなかったが、着ているシャツが濡れる感触がした。
     この男の可能性をこんな場所で潰えさせるワケにはいかない。コイツにはまだやるべき仕事が山ほど残っている。
     それは俺の隣で俺が世界一になるのを見届ける事であり、万全の状態で俺に潰されるという使命だ。
     ならば、それを終えるまで絶対に俺だけはコイツを諦めたりしない。
     「潔」
     抱きしめた背に浮かぶ肩甲骨を撫でる。
     俺よりも一回りほど小柄だが、トレーニングのお陰で入院着の上からでも分かる筋肉の付き方が一朝一夕で取得出来るものではないのが窺えた。
     名を呼んだ途端に息を詰めたのか、肩に当たっている呼気が浅くなる。
     「……二割もあるんだろ。なら、その二割を引き当てろよ」
     「……凛……」
     「テメェには、サッカーしか無いだろうが。……それに、俺の隣はもうお前しか立たせないって決めてる」
     顔を上げた潔と目があう。薄ぼけた虹彩が確かに俺をみている。
     例え見えなくとも、この男の闘志はまだ燻り消えてはいないのだと改めて理解した。
     そして"大好き"だなんて呪いを俺にかけたのだ。ならば俺も相応に潔を呪い返してやらなければ気が済まなかった。
     「お前は、この先もずっと俺の隣で俺が世界一になるのを見届ける。……その未来を勝手に諦めてんじゃねぇ。諦めるなら、俺がお前を今すぐにここで殺してやる」
     目尻から落ちた水滴が頬を伝い、顎先へと流れ行く。
     涙の跡を消すように親指で拭ってやれば、今日初めての笑みを見せた潔が今度こそしっかりと俺の手を握り返しながら嬉しそうに囁いた。
     「馬鹿言うな。……俺が、世界一になるのをお前が見届けるんだよ。凛」
     遠くに消えてしまったように思えた美しく青い星が微かに輝きを帯びる。
     この星を再び取り戻す事が出来るのならば、俺はどれほどの労力や金を使っても惜しみはしないだろう。

     陽光の透けるガラス窓の向こう側、冷えた室内を羨むように死にかけた蝉の声が響いていた。
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