L’amour triomphe de tout. 赤色のテーブルクロスの上に置かれたカフェラテの表面に描かれているリーフ模様は、左右均等に広がっている。
その美しい模様を勿体ないと思いながらも、まぶしかけた砂糖と共にティースプーンで三度ほど揺するように混ぜれば、ゆるやかに白磁の中で茶色の葉脈が溶けていく。
心地よい日差しの射し込むカフェテリアのテラス席。なんて事の無い穏やかな秋の昼下がりの一幕。
こういう優雅な時間を過ごす事をまさしくオフと呼ぶのだと、心から噛み締める。
そのまま大きめに作られたニットの袖口を擦らせつつカップの取っ手に指を伸ばし、いざ飲もうとした途端、真横から現れた巨大な影に視線を向けた。
想像以上に現れるのが早い。てっきりどこかに出かけているか、クラブハウスで自主トレーニング中かと思っていたのに。
見上げた先には影の本体である凛が立っており、苛立っているのを隠そうともしていなかった。
しかし、黒タートルニットにベージュ系チェックのいかにも秋めいたセットアップを着こなしているのもあって、ユニフォーム着用時よりは圧が少ない。
なるほど、やはり凛も今日は最高のオフ日和だと思っていたようだ。
納得している間に、顰め面のまま向かい側の椅子を引いた凛はそこにどっかりと腰をおろした。
「……んで? 何しにきた」
「なにも? しいて言うならケーキ食いに」
俺の答えにますます眉根を歪めた凛は、テーブルからはみ出している長い足でこちらのデニムを履いている脛を明確に攻撃してくる。
革靴かつ、つま先だとしても凛の蹴りは痛い。ので、どうにか掠める程度にその攻撃を足を手前に引き寄せる事で回避する。
こんな所で足の長さの違いを再認識させられるはめになるとは思いもしなかった。
「帰っていいか」
「やーだ。帰るなよ。ほら、メニュー」
攻撃を回避されたのを理解しながらも、わざとらしく足を引っ込めない凛のお陰で縮こまったままテーブルの端に置いておいたメニューを手渡す。
藁半紙をクリップボードでまとめたそれを受け取った凛は、パラパラと眺めてからまた同じ場所へと戻した。
それだけでオーダーを聞きにやってくるのは、この店舗のスタッフ全てが凛の事を気にかけているからだろう。
相変わらずどこでも注目を浴びる奴と考えつつ、やっと目の前にあるカップを掴んで口元へと持っていく事にようやく成功する。
甘みと苦みが丁度いい塩梅のカフェラテは、俺好みの味だ。そうしてフランスに来る際はよくこの店に足を運ぶ。
最初は凛がオススメしてくれたからというのもあるが、全体的にメニューのレベルが高く、比較的静かに過ごせるというのもあった。
俺がカフェラテを飲んでいる間にジャケットのポケットから文庫本を取り出した凛は、特に断りも無くさっさとそれを開いて文字を追い出してしまった。
これもまぁよくある事なのでもう気にしていない。読んでいる内容は気になるが、恐らくサッカー理論か血で血を洗うような強烈なサスペンスホラーあたりだろう。
深緑色のブックカバーのかかった本の半分程度は読んでいるようで、足同様に長い指先がぺらりとページを捲っていく。
実はそれほど賢くないのにこんなにも本を読むのが恰好つくのがまたズルい。
そんな代わり映えのない凛の姿から目線を動かし、テラスから見える光景を視界いっぱいに映し出す。
歩道まで飛び出るように作られたこのカフェの向かい側には大きな公園の広場の一端が見えており、そこでは様々な人たちが思い思いに過ごしていた。
老年の男性に連れられ、その足元で全力で嬉しさを表現している散歩中の子犬だとか、自転車で過ぎ行くデート中のカップルたち。
ベンチで遅めのランチを摂っているのか眠そうな顔のサラリーマン風の男性と、その人の持っているサンドイッチを少しでも分けて貰えないものかと、足元に纏わりつきチャンスを狙っているふてぶてしい鳩の群れ。
サラリーマンの男性が持っていたサンドイッチの欠片が僅かにでも落ちるや否や、我先にと突きあう鳩の生存戦略の大変さに苦笑している間に、ケーキと凛が頼んだコーヒーがそれぞれの前に提供された。
凛がいつも頼むメニューはブラックコーヒーと、その日によってまちまちだが、今日はコーヒーだけにしたらしい。
かたや俺の前に置かれた白いプレートの上には、つやりとした輝きを放つチョコレートブラウンと繊細な金箔がひとかけら乗ったケーキ。
ガナッシュやバタークリーム、それからコーヒー風味のシロップがふんだんに染み込んだスポンジ生地が七層にも薄く重ねられた断面は見ているだけで心が躍る。
ドイツにもチョコレートケーキは無論あるし、自分がよく行くパティスリーも自宅の近くに何ヵ所か存在していた。
けれどもオペラを食すのならば、発祥の地であるフランスにまで足を伸ばす方が俺は好きだった。
テーブルに置かれたカトラリーケースからやや大きめなフォークを取り出し、早速その艶めいた表面を切り取るようにフォークの側面を当てる。
シロップ漬けになっているからタルトなどのように硬さは無い。しっとりとしたそれを一気に下まで切り分けると、上から容赦なく刃先を突き立てた。
オペラというケーキは、"一口で全ての層を楽しめる"ように三センチ未満に高さを調整しなければならないらしい。
以前、この店で食べたオペラの美味さに感激した際にスマホで調べた時、無駄な豆知識がついてしまった。
その知識を頭の片隅に残しながら、切り取った芸術品を存分に味わう為に一息に頬張る。
鼻に抜けるコーヒーの風味と、くど過ぎないがしっかりとした甘さのあるチョコレートの味わい。やはりここで食べるオペラは美味い。
でもこれだけ美味しいのなら、もう倍くらいの高さはあってもいいのに。
あふれ出る笑みを隠さないまま二口目の切り込みを入れようとした俺は、さっきからこちらを注視している視線にやっと顔を向けた。
淡い陽光を反射して、キラキラと輝きを放つターコイズブルーが本の向こう側からオペラを見つめている。
チョコレートのグラサージュに負けず劣らずな魅力あるその光に引き寄せられたのは、数えるのを忘れたくらい昔の話だ。
それから言われなくても凛の願い事を察してしまう癖がついたのも、これもまた結構昔の話。
だから二口目を切り分け、フォークを突き刺す。
そのまま凛の方へとそれを向ければ、僅かに眉根を解いた凛が黙って数瞬だけ見ていたが、あっさりと掲げていた本を下ろして魚のようにオペラに喰らい付いた。
後には何も残っていない銀色の輝きを放つフォークと、何度か瞬きをする長い睫毛に、心なしか満足げな顔をした凛。釣果としては上々だろう。
「あめぇ」
「そりゃそーだよ。ビターでもチョコレートだもん」
「……お前ずっとチョコ好きだな」
もう用事は済んだとばかりにコーヒーを飲んで再び本に視線を向けた凛がページを捲る。パラ、と微かな紙と紙が擦れていく音。
自分はあまり本を読む習慣も無い上に、電子書籍派なのもあってこうやって凛と会う時くらいしかページを捲る音というものを聞かない。
けれどそれが凛と会っている特有の物な気がして、それはそれで好きだった。
「俺、前にチョコ好きだって話したっけ?」
「チョコの海で溺れたいやらなにやら……くだらねぇ話をしてたろ」
「……あぁ! 覚えてたんだ」
「あまりにもくだらなすぎた」
「無駄に俺の脳のリソースを使わせるな」続けてそう言った凛を無視して、三口目のオペラを口に運び込んで咀嚼する。
やはり美味い。美味いけれど、その分無くなるのも早い。
青い監獄で凛がチョコを山のように貰ったのに全て返したという話題から、そんな流れになったような気がする。
自分でも忘れていた思い出を凛がなんだかんだで覚えていてくれるのは、些細な出来事でも結構嬉しいものだ。
特に凛が自分が"どうでも良い"と思った他人に一切の興味を示さないのをよく知っているからこそ。
一度口直しに飲みかけのカフェラテを傾ける。流石に泡立っていたラテ部分はすっかり消えてしまっていたが、ミルクの新鮮さはちゃんと口腔内に広がっていった。
「最近はその夢が叶いそうなくらいにはチョコ貰えてるからなぁ。人間、願い事は口に出して言ってみるもんだって事だよ」
ふふ、と笑って四口目。これで最後だが、また食べたければいつでも来ればいい。
名残惜しくも口の中に放り込むと、いつの間にか一羽の鳩が近くにやってきていて、足元でポーポーとくぐもった声を上げていた。
残念ながらお前にあげる分は無いんだよな、と何故か勝利者の気分を味わいながら飲み込んだ辺りで、カップを唇に当てていた凛と目が合う。
細まった瞳に胸中を見透かされている感覚がして、それでも敢えて目は逸らさない。
「……じゃあ口に出すんだな」
呆れたようにそう言った凛はすっかり空になったカップをソーサーへと置いた。
駆け引きをしてもいいけれど、今日はいい天気でケーキは美味かったし、それに急な呼び出しになんだかんだ応じてくれる凛に俺は甘えている。
そうして、いまさらもう一つや二つくらい我儘を言っても許してやるという事だろう。
「今夜は帰りたくないの。……最高に素敵な場所に連れてってよ、ハニー」
「キメェ」
「ひっど」
可愛い子ぶりつつそう言った俺を一刀両断した凛は、持っていた本に栞を挟んでジャケットのポケットにしまい込むと颯爽と立ち上がった。
座った状態で見上げる凛はやはり想像以上に大きく見えて、なかなか笑える。
そんな感想を抱いた俺に向かって肩を竦めた凛は、やはり呆れたように囁いた。
「さっさとしろよ」
それから会計を終えて店から出てきた俺に向かって「そもそもなんでお前がそっち役なんだよ」と言った凛の態度は、チョコなんかよりずっと甘ったるくて、俺はついに大きな声で笑ってしまった。