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    凛潔/セフレからの脱却&ハネムーン

    パーペチュアルブルー 薄く透ける素材で出来た白い天蓋てんがいの端に仰々しく取り付けられた金糸のタッセルが揺らめている。
     広く作られた──というよりも、もはや壁一面全て抜かれているに等しいテラスへと続く窓の向こうは、まさに青一色と呼んで差し支えないくらいの絶景だった。
     "地上の楽園"をうたっても遜色ない程の鮮やかなコバルトブルー。
     歩いてすぐの場所にあるプライベートビーチを一望出来るこのリゾートホテルには、潔と凛以外の宿泊客はおろか、給仕する人間の気配すらも感じられない。
     けれど、それもそうかと、潔は燦々さんさんと降り注ぐまばゆい日光の健康的な気配を振り払うのと体液で汚れた体を拭う為、シーツの上でわざとらしく身をくねらせた。

     自宅に凛を招く時。そういう場合はどうせ掃除をするのが自分だからこんな行動は取らない。でも、ここにはかなりの大金を払って泊まっているのだ。
     そうして、本当ならば今頃はオーシャンビューが売りのこの部屋から飛び出し、カリブ海の片隅にて優雅に四肢を投げ出して浮かんでいる筈だった。
     でも潔のそんなご立派な予定など凛にはまるで関係が無い。
     飛行機に乗っている合間も、それから気さくな笑みで出迎えてくれた運転手の運転する送迎車で肩を寄せ合い隣に座っている時も、ずっと凛は眉根を寄せたままだったからだ。
     ただ唯一言葉を発したのは、この部屋まで連れてきてくれたホテルマンに人払いの意を伝えた時だけ。
     低くも明瞭な発音で告げられた簡素なスペイン語を聞いたホテルマンは、ニコリとプロの笑みを浮かべて、さっさとどこかへ消えてしまった。
     と同時に、振り返った凛の海に似た色の瞳が鋭く自身を刺したのを感じた時、潔はこの後自分に降り掛かる全てをその時点で察した。

     眼前に吊られた餌を骨の髄まで喰らうように潔の上に跨っていた筈の凛は、ぐったりとしている潔を尻目に一人シャワーを浴びに行ってしまった。
     それを寂しいと思う気持ちは無くは無いものの、もう慣れたものだと潔は噛み付かれ過ぎて恐らくクッキリと歯型の残っている首筋を撫でる。
     ついでに爪先に付着したぬめりを確認する為に目の前にかざせば、それはこのリゾート地には到底似合わない薄赤色をしていた。
     ぺろりと舌先でそれを舐めた潔の口腔に、凛との交わり以外の匂いと味が上書きされる。
     錆びた鉄に似た味はけして良い物ではなく、ベ、と舌を突き出した潔はそろそろとだるい身体を巨大なベッドから起き上がらせた。
     継ぎ目なく組まれた大理石の床はヒンヤリとしており、何も身に着けていない潔の身体を足先から冷やす。
     流石に何か着ようと周囲を見回して、ベッド周辺の惨事に目を向けた潔はただ小さく苦笑を洩らした。
     解放的な気分を得たいからここまで来たが、それにしたってあまりにも解放感に満ちあふれ過ぎている。

     ようやく拾い上げた上質な絹で編まれているガウンをサッと羽織った潔は、一番景色の良い場所に設置されているテーブル上のガラス皿に盛られたウェルカムフルーツへ視線を走らせた。
     マンゴーにパイナップル、皮の薄そうなマスカットの房は影になっているというのにどれも艶やかに見える。
     客人の口に入れられるのを待ち望むように美しく飾られた果物たちから、カットされたオレンジを選んだ潔は、皮ギリギリまで一気にかぶりつき弾ける果汁で渇いていた喉を潤した。
     想像通り甘みと酸味のバランスが取れたオレンジの皮を皮入れに捨て、(もう一個)と端にあるオレンジを取った潔は再度、眼前に広がる透明度の高い空と海に視線を向ける。
     澄みきった空間に吹く風は生温さはあるが、不快な湿度は無い。
     以前、凛に聞いた事がある鎌倉の海とは様子が全く違うのだろう。
     自分の過去を話したがらない凛が珍しく故郷の話をしたのは、潔の中でずいぶんと印象深く刻まれていた。

     "青い監獄ブルーロック"で初めて凛と出会ってから、潔の人生は大きく変わった。そうして、それはきっと凛もそうだと潔は確信している。
     追い抜いて追い越されて、絶対に負けたくない宿敵ライバル。多分、永遠に並走し続けるだろう男。
     それだけでよかったし、それ以上の感情を潔から向ける気も無かった。
     でも、潔の宿敵ライバルはいつだって潔の思考の上を行く。
     凛はフランスで、潔はドイツでそれぞれ更なる高みを目指していて、"青い監獄ブルーロック"を出てからは特に頻繁に連絡をするような間柄でも無い。
     その筈だったのに、ここ一番の大切な試合で互いの限界を引き摺りだすような戦いを終えた後、さも当然のように自宅に潔を連れ込んだ凛は迷いなく潔を組み敷いたのだ。
     試合に負けて悔しさと怒りの滲む潔の眼を見つめ、上下関係を刷り込む獣めいた動きで潔のプライドを根元からへし折っていった。

     全てが終わっても悪びれた様子が一切無かった凛に、潔は確かな殺意すら覚えていたけれど、結局は自分が弱かったからダメなのだという結論に至ってからは、もう何も言わなかった。
     一歩間違えれば流血沙汰になり兼ねなかったその夜から、明確に二人の関係性は変化した。
     血を沸き立たせるような激しい試合の後、体にはびこる熱をぶつける相手に凛は潔を選び、潔も凛を望んだ。
     始まりが猟奇的だったのもあって、試合の延長線に似た行為は他人に言うのがはばかられるくらいにどちらも傷だらけになる。
     だから、潔は(もう会わない)と思いながらも、結局はどちらかが堪えられなくなって連絡をする──その繰り返し。
     恐らくこの関係が途切れる事は無いし、今後変化する事も無いのだろうと考えていた潔にとって、今回の誘いはまさしく寝耳に水だった。
     誘いとは言っても、急に送られてきたメッセージはオフシーズン期間のどのタイミングが空いているかどうかを問うだけの短文だったのもあって、まさかこんな場所まで来る事になるとは当初考えてもいなかったが。

     オレンジの薄皮が舌の上で破れて溢れんばかりの果汁がしたたる。
     皮を捨て、さて次は何を食べようかと潔がまたもや並んだフルーツに視線を向けた辺りで、背後からペタペタと素足で床を踏む足音が聞こえた。
     鍛えられた体幹によってブレのない重心移動ながらも、普段よりは少し大股で隙のある足運びは凛にしては珍しい。
     当たり前のように背後に立った凛の影が潔の身体を覆い隠し、巨大なテーブルに映るシルエットをさらに色濃くさせた。
     「凛もなんか……た……っぅ……」
     伸びてきた指が潔の顎先を捕らえ、遠慮なく振り向かせる。
     重なった粘膜の上を這ったぬるい舌が狭い場所に押し入る蛇のように、薄く閉じられた唇を割り開いて侵入した。
     何もかも喰らい尽くしたいというのを真っ向から主張してくるねちっこい舌使いを無意識に期待して、そっと身を預けた潔の鼻先を甘いボディソープの匂いが掠める。
     けして普段の凛が使わないだろう香りを纏っているせいでより南国の雰囲気を漂わせているのが、ここが確かにリゾート地である事を改めて潔に知らしめた。
     「ん、ぅ……っは……ぁ……」
     少しの隙間もないほど触れ合ったのに、まだコイツは足りないのか。
     しかし、収まった筈のくすぶりにもう一度火をつける前に、ズルリと潔の口腔内から不埒な舌が出ていく。
     次第に曇りいく思考にそのまま身を任せそうになっていた潔のぼんやりとした視界には、どこか不機嫌そうに眉根を寄せた凛が至近距離で映っていた。
     「何食ったんだよ、お前」
     「え?」
     「……すっぱい」
     目の前で瞬くターコイズブルーは拗ねた子供の色が見え隠れして、長い睫毛がふわりと揺れる。
     勝手に口を塞いできて味に文句を言うなど、これが天下の"糸師凛"でなければ許されない所業だろう。
     けれど、本当の姿を知らない人間からは比較的完璧超人に思われがちな凛の苦手な味を知っているのは気分が良かった。

     ふ、と笑んだ潔はそのまま凛の腕の中で向きを変えると両手を伸ばして凛の肩に引っ掛ける。
     "青い監獄ブルーロック"を脱出し、プロになってからも埋まらない体格差はもうとっくに諦めていた。
     「ざまぁみろ。勝手にキスしてくっからだ」
     「? 俺のモンをどうしようが俺の勝手だろ」
     「はぁーあ、そういう事、言うんだ? 俺は海で遊びたかったのに?」
     身勝手の極みのような言葉を吐き出した凛は、それでも少しふらついた潔の腰をそろりと支え、首筋についた歯形を一瞥する。
     深い青が緑がかった瞳の中で緩やかに細まって、じっとりと凛の思考を覗く。
     付き合いが長くなるにつれ、無言の凛が何を考えているのかを理解出来るようになっていった。
     だから今回の件に関しても、何となくではあるが凛の意図が察せてしまう。
     でもそれをすぐに口に出しても凛は絶対に否定するのだというのも、潔にはまた見通せる未来だった。
     「……どうせあと一週間は居るんだから、そのうち入れんだろ」
     「絶対、傷に染みるじゃん。しかもお前がそう言う時は大体そうならないし」
     「グチグチうっせぇな」
     白い歯で軽く潔の鼻先を噛んだ凛から逃れるように潔が振った頭にそって、髪が揺れる。
     「……なぁ、凛。それよりもさ、俺っていつからお前のモンになったの」
     もう誤魔化しは許さないと肩に乗せた両腕で凛の頭を固定した潔の眼は、フィールドで敵を見据えるそれだった。

     ベッドの上以外で落ちた今日初めての沈黙に、凛の唇が軽く歪む。
     言わなくていい事を言ったと思っているのだろう。これもまたリゾートの力なのかもしれない。
     潔はそれでも迷わず凛を眺めていると、腰に沿っていた両手が骨盤付近を力強く鷲掴んだ。
     食い込む指は先ほどまで潔をなぶっていたのと同じくらいの強さで、思わず息が詰まる。
     そのままずり下がっていく大きな掌がすっぽりと潔の臀部を覆って、まだ下着を身に着けていない暴かれたばかりの場所をガウン越しに押し込む。
     「ひ、……っちょ、っと……質問に答えろって……!」
     「最初っからだろ。……勝手にワケ分かんねぇ写真すっぱ抜かれやがって……お望みなら今すぐここで殺してやるよ」
     ギラギラと刺すような視線が潔を貫く。天に浮かぶ太陽よりも高い温度のそれを一心に受けて、嫌でも凛の指の感覚に体が反応を示した。
     傍若無人、それとも唯我独尊。どちらにしても、最初に人をねじ伏せるように抱いた男が言うセリフではないだろう。
     けれど、ここまで独占欲を滲ませた事の無い凛の真っすぐ過ぎる言葉は、ゾクゾクとした興奮と共に脈拍を速める。
     ────へぇ、凛ってこんなかわいい所あったんだ。知ってたけど。
     本気の殺意を向けられている合間も潔の脳裏にはそんな感想ばかりが浮かんでいた。

     下世話なゴシップ誌が数枚の写真を元に潔の熱愛報道をしたのと、凛からの珍しい誘いはほぼ同時期だった。
     そうして、潔にとってはただの下衆な勘ぐりに過ぎないその記事を否定も肯定もしなかったのはわざと。
     別に妬いて欲しいと考えたのではなく、そこまで否定するほど信憑性のあるものでも無かったというのが本音だった。
     要は面倒だったのだ。向こうの仕事とは言え、日夜追いかけ回されるのにいちいち反応を示していられるほど暇人でも無い。
     それに、度々凛にもスキャンダル(とも言いがたい眉唾物ばかりではあった)が発生していたものの、凛はやはり否定も肯定もしなければ、潔に言い訳もしなかった。
     堂々とした立ち振る舞いに加え、試合の内容以外に余計な無駄口を叩かない凛にどれだけインタビュアーがマイクを向けようと、その内にそんな報道があった事すら忘れ去られていく。
     しかも無駄話をけしかけたインタビュアーがことごとく取材禁止となれば、凛を狙うパパラッチなど自然と少なくなっていった。
     だからこそ、潔は凛にその噂になった記事のどこからどこまでが真実なのかと問う事も無く、時折、ホテルの部屋番号や集合時間だけを伝えてくるメッセージに既読をつけるに留めていた。

     「ふぅん。じゃあ、お前も俺のモンって事?」
     凛の殺害予告などまるで無視をして、まだ湿り気の残る黒髪をかき乱す。
     こうやって言葉でこの不可思議な関係性を確認しあうのは初めてだった。
     肉体でのコミュニケーションはもう数えきれないくらい繰り返してきたのに、言語野を失ったように潔に対して凛は何も言わなかったし、潔もそれで良いと考えていたから。
     潔の問いに凛の眼が揺れる。戸惑いというよりも躊躇いに近いそれを白昼の元に引きずり出したくなって、さらに続けて言葉を紡いだ。
     「そうじゃないなら、お前にあげる物なんか一個も無いよ」
     「……ッチ……お前、本当にムカつく」
     「どっちが」
     忌々しげに舌打ちを零した凛の腰に触れていたうちの片手が潔の後頭部に回り、汗ばんだ頭皮の形をなぞるように掴む。
     窓辺から射し込む青を内包した光が大理石の床をぼんやりと温めている。
     日常から隔絶された非日常的な空間で誰にも邪魔されずに二人っきりで過ごすのを心待ちにしていたのは、何よりも凛の方だったのをもう潔は悟っていた。
     「なぁ、夜は海を見に行こうぜ。別に泳がなくても良いからさ」
     「……ん」
     今度は素直に頷いた凛の薄い唇がそっと潔の唇に当たる。
     ちゅ、ちゅと軽く響くリップ音と先ほどよりもずっと柔い触れ方から、確実に上昇している機嫌に思わず微笑む。
     この場所に居る間は求めるままに余すところなく触れ合って、互いに欠けた部分を補うような休暇になるのだろう。
     自堕落で不健全ながらも、悪くは無い。それを凛が望むならば。
     「いさぎ」
     「なに」
     「もっかいさせろ」
     「……あとで風呂まで連れてってくれんなら、良いよ」
     いつもは聞いても来ないのに、ちゃんと先をねだってくる凛はただ小さく頷きだけを返してくる。
     さながらこれは蜜月ハネムーンだ。
     その事実にようやく気が付いた潔は体に刻まれた傷の痛みすらも忘れてしまうくらいに周囲がチカチカとまばゆくなって、思わず凛に縋りついていた。
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