Rose背中にヒタリと這う手のひらが気持ちいい。長湯で火照った肌に、ボディークリームの冷感とローズの香り。それを塗るのが大好きな人の手のひらだからなおのこと、優しさに包まれている気分になる。風呂上がりは至福の時間だ。
「いつも思うけど、いいにおいだよね」
「だろ? 彩子のおすすめだと」
「そりゃ間違いねぇや」
殺風景な六畳一間にボディークリームなんて洒落たものが登場したのは、ちょうど1ヶ月前のことだった。持ち込んだのはもちろん三井さん。どうして急にこんなものを? 疑問をぶつけると「お前の肌、粉吹いてるから」と言われ、はじめて自身の乾燥肌に気が付いた。言われてみれば、毎年この時期は肌がパリパリと痛い。保湿なんて自分には不要と思っていたけれど、実は結構重要らしい。
でも実は三井さんも保湿なんて無頓着で、空気が乾燥しはじめた初冬、敏腕マネージャーに肌がガサガサになってしまったと悩みをこぼし、すすめられたボディークリームを毎晩欠かさず塗るようになったらしい。体育館のいつもの定位置で、例のボディークリームを俺も使わせてもらってすごくよかったのだと彩子さんに伝えたら、「三井さんはアンタのために塗ってるのよ」と内緒話をしてくれた。たまらなかった。いつもスベスベなのが当たり前だと思っていた三井さんの肌。俺の知らないところでコツコツとメンテナンスをしていたのだ、俺のために。かわいすぎるだろ、俺の彼氏。
「うし、終わり」
「ありがと。交代ね」
「おう」
基本的には自分で全身に塗るけれど、背中はなかなか難しいからと互いに塗り合うのが習慣になった。毎日三井さんがうちに泊まりに来るわけではないからこそ、週に1、2回だけ味わえるこの時間が、俺達は気に入っている。
服を着る俺とは反対の動きで、一度着たシャツとスウェットをいっきに脱ぐ三井さん。目の前には鍛えられた逆三角の背中。ウエストはキュッと締まり、肩から腕はたくましく筋を作る。あんなに重くて大きいボールを操っているのだ。日々の努力がこの肉体を作っている。毎日頑張っているね、偉いねと、心も体も大切にしてあげたいと思う。
「ひぅっっ…!? オイッ!」
「ごめんごめん」
「もーほんとにお前は毎回毎回…」
「ごめんって」
三井さんの背中は敏感だ。なにも言わずに触れると擽ったさに驚いて体が強ばる。そんな反応が楽しくて、俺はいつからか何も言わず、音もたてず、気配も消して、ソッと背中に触れるようになった。そんな俺に悪態をつきはすれど、三井さんは本気で怒ったりはしない。楽しんでいる俺を背中に感じて、口元が笑んでいることを知っている。ほら、後ろから見るほっぺたが今、キュッと上がった。冷たいボディークリームを手のひらで伸ばしていくと、強ばった背中からゆるゆると力が抜けていく。
「髪の毛、伸びてきたね」
「なぁー、卒業式までに切るかなー」
そう言って三井さんはサワサワとうなじに触れた。卒業式という単語に胸がギュンと苦しくなる。出会ったときは顎まで長いロン毛だったのに。バッサリ切って、バスケを取り戻して、今その髪の毛が少しだけ伸びてきて。月日の流れを認めざるを得ない。三井さんは今年、サッパリと短い髪で春を迎えるのだろう。桜の木の下で春風になびくサラサラヘアーも、綺麗だったろうなと思う。俺の知らない三井さんだ。
「……伸ばせば?」
「は?」
「またロン毛にしたら? 俺三井さんのロン毛、あの日しか見たことねぇもん」
「おまえなぁ……」
瞬時に俺の方に振り向き、心底嫌そうに顔を歪めた。
「もうやんねぇよ」
「ははっ、冗談だよ」
あの髪型を選んだのは三井さん自身なのだろうけれど、きっと本人にとっては黒歴史そのもの。長い髪の毛と一緒に憑き物も落としたような、そんな気分だったのかもしれない。でも、あの綺麗な髪の毛に一度でいいから触れてみたかったなと思う俺がいるのも事実。同い年だったら、触れるチャンスがあっただろうか。怪我で苦しむ姿を支えることができただろうか。三井さんの過去を変えられただろうか……そんなことを思うときがある。それでも現実は変えられないから、たくましい背中にもどかしさを感じてしまう。卒業まで、あと少し――切ない思いを胸にしまって、スベスベの背中にペチッと軽く両手を添えた。
「はい、終わり」
「おぅ、サンキュ!」
今夜の塗り合いっこはおしまい。右手を伸ばしてスウェットを手繰り寄せる三井さんのクネッとカーブした背中に、なんだかイタズラ心がわいた。
「おわっ!? ぶわははははは! ちょっ、みとぉやめろっての!」
「ほらほらほら、どうだどうだ?」
「はははははっ、はぁーあー降参! 降参って!」
素肌の脇腹を思い切り擽って、ジタバタと抵抗しながら崩れる三井さんに覆い被さる。ヒーヒー言いながら、もう無理、降参、と繰り返すその顔は大きく笑い、目に涙が浮かんでいた。楽しい涙をチュッと吸い取る。なんの味もしなかった。
「ハァー、ハァー…もうやめろよ…擽るな」
「もうやんないよ」
「ん、んむ…みと、、服」
「いいじゃん、またすぐ脱ぐんだから」
俺は三井さんの目元から口元に唇を移動させた。俺の背中に回された手がギュッとスウェットを握る。キスひとつで声が漏れてしまうところとか、顔が真っ赤になってしまうところとか。全てがかわいくて、愛しくて、頭のてっぺんが熱くなった。苦しいくらいに好き。そんな感情を知ることができたのは、この人に出逢えたからだ。
「………なぁ」
「ん?」
「してやってもいいぞ」
「なにを?」
「ロン毛……」
キスの合間にそんなことを言う。ちょっと気まずそうに目をそらし、再び俺を見る薄茶色の瞳。綺麗だなと思った。
「え、嫌じゃないの?」
「いやまぁ…あの頃の自分はやっぱりバカだったなって思うし許せねぇけど……別に嫌な思い出だけなわけでもねぇし、あん時はあん時で楽しいこともあったから」
「………」
「手入れはちょっとメンドイけど…」
少し伸びた短髪にクシャリと指を絡め、小さい頭を優しく撫でてやる。三井さんは気持ち良さそうに目を閉じた。
「ううん、いい」
「え?」
「三井さんが好きって思える三井さんでいてよ」
「みと…」
「俺に合わせてくれるのは嬉しいけど、俺はどんな三井さんも大好きだから」
驚いたように目を見開いて、そのまま眉が歪み泣きそうな顔になった。長い髪に触れてみたかったと思う気持ちもあるけれど、三井さん自身が楽だとか、好きだとか、自分でそう思える状態がなにより大切で。そうして笑顔でいてくれるのが、俺の幸せそのものだ。
「俺は…水戸の願いも叶えてやりてぇって思う」
「え、そんなのいいのに」
「だって…俺は水戸が好きだから」
「……」
「水戸が俺を好きでいてくれるなら、どんな俺でも好きでいられる……気がするし……」
「三井さん……」
こんなに幸せなことがあっていいのだろうか? 俺が好きな三井さんを、三井さんは好きになれる。もう俺、死んでもいい。いやいや、死んだら恋人を悲しませてしまうから、なにがあっても地獄の底から這い上がるけれど。次から次へとわき上がってくる愛情は、いったい何処から来るのだろうか。俺にはそれを止めることなんてできなくて、衝動のまま目の前の唇にむしゃぶりついた。上品で心地よいローズが、夜の香りに変化する。
「なぁ…」
「ん?」
「…ヤんの?」
「だめ?」
「ん、いい……」
普段は偉そうに見下ろしてくるくせに、俺の下にいるときは上目遣いで甘えてくる。卒業しても、大人になっても、そんな顔は俺にしか見せないって誓って欲しい。俺も誓うから。あんただけを、一生涯愛し抜くと。
「好きだよ」
「おれも」
互いを想う気持ちがこんなにも伝わってくる。重なる手のひらの熱が心地よかった。