なにか、大事なことを忘れている気がする。
酔った頭じゃ記憶の引き出しを開け閉めして違和感の正体を探し出すことすら難しい。
「ねぇ、狗巻君。きいてる?」
「ん、ふぅ……っ」
「いぬまきくん、ねぇ」
ファーストキスはレモン味。それは青春の間に初めてのキスをした人だけの特権だと思い知る。だって酒の味しかしない。それに加えてほんの少し、俺の知らない他人の味。
憂太が何かを言っている。でも、理解できなかった。
抵抗できないよう扉に片手と欠損した左腕を縫い付けられながら、何度も何度も繰り返し唇を塞がれて。鼻でうまく呼吸できずに酸欠になりかけているのを見兼ねて、散々俺の中を嬲っていた分厚い舌がやっと出ていった。ふわふわした頭の片隅で警鐘が鳴る。でも、もう何もかも手遅れだ。
「ひどい人だね、いぬまきくんは」
数年ぶりに再会した親友は俺が見たことない男の顔をしながら、俺のベルトに手を掛けた。
◇
「よーし、全員ちゃんと生きてるな。それじゃあ、乾杯!」
真希の物騒な合図と共に同窓会は幕を開けた。高専を卒業してから五年、俺たちはようやくこうして集まることができた。全員のスケジュールを調節するのに手こずって、同窓会の話題が上がってからなんと一年越しの開催だった。
メンバーは真希、パンダ、野薔薇、悠仁、恵。一つ上の先輩二人はどうしても予定が合わず、また別で飲もうということになり、そしてもうひとり──この会に予定を合わせるのが最も困難だった人物は案の定、遅刻で参加することになっていた。
「それにしてもよぉ、お前は全然変わらねぇな。棘」
「しゃけ?」
「あぁ、変わってねぇ。高専時代のまんま、髪型変えようとか思わなかったのか?」
「……ツナマヨ~」
この髪型が一番楽なんだよ、と俺は誤魔化す。真希はそうかよ、と笑いながらぐいっとビールを煽った。パンダはヨッと言いながらもそもそと俺の膝の上に移動してくる。俺達は卒業後も高専を拠点にして活動しているからつい数日前にも顔を合わせたばかりだ。片手で抱き上げて頬ずりする。いつも通りお日様のいいにおいがする。頭をぽむぽむ撫でられると学生時代を思い出す。特に、あの地獄のような二年生の冬。戦線離脱を余儀なくされた俺とパンダはずっと一緒にいて、死地に赴く仲間を見送った。あの時は無力感で圧し潰されそうだった。でも、軽くなった左半身がどうしようもなく重くて、いつも通りを演じることで精一杯で。
久々に味わうあの時の感情を押し込めるように一杯目のビール残り半分を一気に飲み干した。忘れることは弱さじゃない、誰かが言ってくれたその言葉に俺は救われている。
「おかわりするか、棘」
「……しゃけ」
パンダが膝の上で追加注文するためにタブレットを操作してくれる。
大人になって分かったこと、忘れることは罪じゃないこと。自分に都合の悪いこと、目を逸らしたいこと、逃げ出したいこと。生きた年数分だけ蓄積していく感情が呪いにならないように、俺は忘却という現実逃避を覚えた。酒にタバコ、セックス。大人には、辛い過去や不安な未来を無責任に放棄するアソビがたくさんあることを知った。知ってしまった。
考えなきゃいけないことがたくさんあった。一番最初に考えることをやめたのは、逃げたのは、何だったっけ。
「お~! 憂太~!」
「おせーぞもやし! 二時間遅れだぞ!」
ハッとしていつの間にか下を向いていた顔を上げた。
「ご、ごめん……飛行機が遅れちゃってて」
もう到底もやしとは言えない体格をした憂太が座敷に上がってくる。みんなに迎え入れられながらたまたま空いていた俺の隣に腰を下した。
「ゆうたさーん」
「わっ! パンダくん~! 久しぶり、相変わらずふわふわだね!」
「だろ~? 元気だったか、ちゃんと飯食ってるか?」
「うん、ぼちぼちね。ふふ、狗巻君も久しぶり。元気だった?」
「しゃ、しゃけ」
「おい、憂太! お前もビールでいいよな?」
「あ、うん! ビールでお願いします!」
遅れてやってきた憂太にみんなの話題が集中する。記憶の中にあるのとまったく同じ顔でへらへら笑いながら、日本で存命している唯一の特級術師様はすっかりオフモードで楽しそうに話していた。
気付けば飲み会はお開きになっていて、俺はゆらゆら揺れる暗い夜道を見ていた。
誰かに介抱されている、担がれた片腕にそう悟った。
汗の匂いと、懐かしい匂い。それと、知らない香水のにおい。
こいつ、香水とかそんな洒落たモン付けるやつだったっけ? 何故かイラっとして顔を上げると案の定、そこには十年来の親友の顔があった。
「あ、狗巻君! 大丈夫? 歩けそう?」
「ん……おか、か」
「ちょっとそこの公園のベンチで休んでいこう」
背の高い時計の白い街頭に照らされたベンチに俺を下した憂太は水を買いに近くの自動販売機を探しに行った。
一体何をしてるんだ、そんな自分に対する呆れで虚しくなる。ガラにもなく飲み慣れない酒を飲みまくって泥酔して、久しぶりに会った友達に介抱までさせて。本当に、自分が嫌になる。忘れかけていた自己嫌悪、気分が悪かった。
「狗巻君、大丈夫? お水買ってきたよ」
「つなまよ……たかな……」
「ううん、気にしないで」
キャップを開けた状態でペットボトルを差し出してくれるだけでなく、万が一俺の手元が狂っても大丈夫なように手まで添えて。お前、いつの間にそんな気遣いできるいい男になったんだよ。憂太のくせに、憎たらしい。じぃーっと顔を見つめていると、憂太も少し赤くなった顔で「ん?」と首を傾げた。
「ゆうた、そぼろ、めんたいこ」
「え、そうかな? 僕、かっこよくなった?」
「しゃけ、こんぶ、おかか」
「えー、そんなことないよ? 狗巻君は相変わらずかっこいいよ」
「おかかぁ!」
嘘つけ! と酔いに任せて適当言ってる憂太に大声を上げる。それに「しぃー!」と人差し指を慌てて唇の前に立てる憂太がもっと困ってしまえばいいと思った。俺は今猛烈に酔っている。だから甘えてしまえと思った。
「ゆうた、ツナマヨ?」
「えー、いないよ」
「おかか」
「ほんとほんと、彼女なんてつくる暇ないよ」
「……おかか」
「あはは、信用ないなぁ。僕が一途なの、まさか忘れちゃったの?」
ズキン、と頭の端っこが刺すように痛んだ。咄嗟のことに顔を歪めて堪える。しかし、すぐに痛みの波は去っていった。
「そういう狗巻君はどうなの? 僕と会えなくなってから恋人とかできた?」
「……」
答えたくない、咄嗟にそう思った。何と言っているか分からないふりをして首を傾げる。憂太は乾いた声で笑いながら前の方をじっと見つめていた。
「五年ぶり、だね。会いたかった」
憂太の声に甘さが混じる。また、さっきと同じ場所で頭痛がした。
「ねぇ、いぬまきくん。僕、しばらくは活動の拠点を日本に移すんだ」
「ん……」
「実はここからすぐ近くに部屋借りててさ、もしよかったら泊っていく?」
見慣れたような、それでいて見たことない優しい顔で憂太は俺を見た。
ズキン、ズキン、ズキン──痛みの波が俺の答えを急かしてくる。
「もちろん狗巻君がよければ、だけど」
憂太の冷たい手が俺の火照った首筋を撫でた。
◇
「ん、ふぁ……っあ、ゆう、た」
「ほんとうに、ひどい人」
「あッ、あ、あぁ……っ」
布地の上から揉まれたかと思った次の瞬間には直接触られていた。喘ぐ俺の痴態を嘲笑うように憂太が喉の奥で笑う。
「こんな酔ってるのにキスだけで勃っちゃうんだ?」
「は、ぁ、おか、か……ぁッ」
「おかかじゃないでしょ。合意もなしにいきなりこんなことされてるのに興奮しちゃうんだ?」
「おかか……ッ、おか、かぁ……!」
勝手にこぼれる涙を振りまきながら必死に首を振って否定する。そんなことない、気持ちよくなんかない。ファーストキスも、初めてのエロいことも全部久しぶりに会った友達が相手だなんて。そんなの嫌だ。
『いぬまきくん』
また頭痛がする。憂太の声が聴こえる。
「自分に気がある男の家には簡単に上がり込むもんじゃないよ。それとも、忘れちゃった?」
忘れていた、忘れようとした記憶。
『好きです、』
思い出さないよう必死に押し込めててきたのに、どうして今になって。
「もう遅いけどね、」
そう言いながら腰が抜けた俺を抱え上げて憂太は部屋の中に入っていく。靴を脱ぐことすらできないまま、ベッドの上に乱暴に投げ捨てられた。成人男性二人分の体重にクイーンサイズベッドのスプリングがギシッと音を立てた。