庶民のみかんの話「新しく買った袋入りのみかんが、全部甘い当たりだったことですかね」
「はあ?」
内容に合わせて控えめな私の発言に対して大仰な態度でのけぞってみせたのは、その話を切り出した張本人ではなかった。私だってささやかすぎることはわかっているのだから、わざわざ身体まで引いてみせなくても、と思っても口にはださない。まち針で刺されるから。
「あれ、神楽、今日なんだか機嫌いいね」「今悪くなった」といつもの一悶着を終えて、「玲ちゃんは最近なにかいいことあった?」なんてかろやかに言ってのけた当人は平然とグラスを傾けている。どうやら今度は対象に私も加えられたらしい。なんのって、おそらく酒の肴の、だ。
そうとも知らない神楽さんは、というか毎回律儀に全力で羽鳥さんのからかいに応えてしまう性分らしい彼は、器用に片眉をあげている。
「どういうこと。みかんは甘いでしょ」
「いやいやそりゃ神楽さんのおうちのみかんは選りすぐりでツヤツヤのオレンジ色をされていて、きれいに皮をむいて白い筋をとって甘いかどうかの毒見をしてくださる使用人さんがいらっしゃるのかもしれませんが!」
「いやいないし、っていうかみかんはオレンジ色でしょ」
「庶民のみかんは違うんです! 黄色や緑がまばらですし傷がついていることもありますし、袋にすしずめ状態なんです。酸っぱいことも味があまりしないこともあるんですよ。食べるまで誰にもわかりません」
私が拳を握って力説するのを神楽さんはたったひとこと「うわ」と顔をしかめ、隣の槙くんは肩を震わせていると思ったら笑っているらしい。いつもの席に彼らの戴くリーダーは本日不在である。羽鳥さんが悠々と長い脚を組みながら口の端を上げた。
「へえ、じゃあみかんひとつとってもドキドキできるね」
結った髪の毛先がゆらゆらする様を目で追ってしまい、言い方ひとつとってもこの人が言うと語弊があるように聞こえるのはなぜだろうかと思わず目を細めそうになる。
間髪入れずに神楽さんが切って捨てた。
「そんなドキドキいらないから」
「でもはずれのみかんがあるからこそ、当たったときの喜びといったらなくてですね」
「そこもう広げなくていいから」
「じゃあどこを広げたらいいんですか」
「どこも広げなくていい! この話はおしまい!」
神楽さんが声を大きくして無理やりに話を打ち切ってしまった。なんという理不尽。私はただ慎ましく生きるいち庶民の身の上に舞い込んだ小さな幸せを共有しただけなのに。大人しく押し黙る。
不服を示した私の唇を見てか、苦笑して助けてくれるのはいつも槙くんだ。
「そういえばみかん、あんまり食べないかもな。前食べたのいつだろ」
「ええっ」
「うわ、なに。うるさいんだけど」
「あっスミマセンつい……」
思わず動揺が声量に出てしまい、神楽さんがまた盛大に顔を顰めた。槙くんは首を傾げている。
「そんな驚くことか?」
「いやだって、冬といえばこたつにみかんでしょ……」
「そんな当然みたいな顔されても、こたつなんかうちにないし。泉の周りだけじゃないの」
「たしかに私の周りは庶民だらけ……ってこともないな」
友人たちより毎日顔を合わせる課の面々を思い浮かべて語尾が弱まる。というかこたつのある家ってもしかして珍しい? このままでは本当に私が少数派になってしまう。救いを求めるように羽鳥さんをうかがおうとして、求める先はそちらじゃないなと思い直す。
「と、とにかく、こたつに入ってみかん、これは冬の醍醐味です。譲れません」
「別に誰ももらおうとしてないから。そのままひとりじめしておきなよ」
「奪おうとしてくださいよ、そのくらいの価値があるんですよ……!」
「はあ? なんなの?」
「それさ、桧山は喜びそうだけど」
言い争う私たちの間に声がするりと割って入る。飲み込もうとするより早く槙くんが受け取る。
「こたつにみかん?」
「というより、玲ちゃんの言う袋に入ったみかんの当たり外れのほう。みんなで持ち寄って、どのみかんが当たりか楽しむ……ロシアンルーレットみたいな」
「ああ……たしかに。興味持ったらやろうって言い出すかもな。それこそそんなことになったらこたつの設置から始まりそうだけど」
「和室のある旅館でやればいいんじゃない?」
ぽんぽん交わされる一段も二段も上の階層の話に頭がついていかない。
「待ってよ、僕はそんな遊びやらないからね」
「いやあの、遊びでもないんですが……」
「ちょっと、桧山くんに変な遊び教えないでよね!」
「私のせいなんですか……」
この場合確実に桧山さんに伝えるのは私じゃないはずだが、間接的に私が教えたことになってしまうのだろうか。収拾がつかなくなってきた。私はただ、最近あったちょっといいことを話しただけだったのに。セレブ怖い。
数日後、当然のごとく御用達らしい旅館が開催場所として決定したことや、「みかん持参で」とご丁寧に持ち物まで記されたメールを受け取って再度震えることになったのだった。