そのばかぎりのぬくもりを ふわりと柔らかなものが鼻をくすぐった。
ゆるやかに浮上していた意識が、その感触によって一気に覚醒する。重たい瞼を押し上げれば、寝ぼけ眼でまだ焦点の合わない視界に、薄群青が見えた。
カーテンのない部屋の窓からは、明るい朝日が差し込んでいる。光に透ける薄群青は、ふだんのそれよりも色合いを明るく見せていた。
その色合いからか、持ち主にただよう厳しくも美しい冬の雰囲気からか、いや後者はファウストの抱く彼への印象ゆえだろうか、一見硬質そうな緩く巻いたその髪は、印象に反してその実、肌に優しく柔らかい。
昔は首の後ろで結いていて立派な巻き毛だったけれど、いまは巻き毛というには短い。癖っ毛なんだよね、と本人がなにやら可愛こぶって主張していたが、巻き毛と何が違うのか分からなかった。
腕の中にあるその髪、と繋がってる頭をぐいと胸元に引き寄せた。指に絡む毛先を弄びながら、鼻先をつむじに押し付け深く息を吸う。鼻腔を満たすのは静謐な彼の香りだ。
昨夜触れ合ったままになにも身にまとっていない姿のままで抱き合うように眠った。夢も見ないほどの深い眠りを得た充足感が身体を満たしている。睡眠だけの効果ではないかもしれないのだけれど。
ファウストの素肌の腰のあたりに乗せられていた彼の腕がぴくりと動いた。かき抱いた頭部が首で繋がった身体が一瞬息を呑むように強張って、それから呑んだ分の吐息が胸元にかかる。覚醒したのか、それとも覚醒していたのか、どちらでもいいけれど、彼が覚醒していることはこちらに伝わってきているというのに、寝たふりをするつもりらしい。すぐに規則正しい呼吸へと整えていた。
突然へたくそになった狸寝入りが、そういう無駄な行為がなんだか面白くて、ファウストは薄群青に口を寄せてその髪を食みながら声をかける。
「フィガロ」
起きてるんだろ。確信を持って告げれば、腰の上に乗っていた脱力していた腕がもぞと動いた。ファウストが引き寄せた距離をさらに縮めたフィガロが、鎖骨の下に口付け、ちゅ、と可愛らしい音を残して唇が離れる。口づけの際に舐められたようで小さく濡れたところがすうと冷えた。
「猫たちってこういう気持ちなのかな」
「は? 猫とは裸で抱き合わないけど」
彼、フィガロの声は覚醒したてとは思えぬ明瞭で。だというのに、その内容は不明瞭である。
「いや、そういう話じゃなくて。うん、そうだよね」
身じろいで顔を上げたフィガロの不思議な形をした瞳孔がファウストに向けられた。曇天のような錫色の中心にある若葉色。不思議な色合いは昔も今も変わらない。
昔、この目をまっすぐに向けられると背筋が伸びるような気がしていたことを思い出す。
どこまでも何もかもを見通すような、泰然として穏やかなのに厳しい冷たさを含んだまなざし。己の矮小さを見抜かれるような小さな恐怖を抱き、けれども己とはそういうもので、だからこそすこしでも善いものなるために彼に師事するのだと再確認することにもつながっていた。このまなざしの前に立つ自分は、彼が見出してくれたものを、寄せられた信頼を、求められたものを返せる自分でありたかった。
いま、この目がまっすぐ向けられて、あのときの背筋が伸びるような心地はまだあるけれど、それだけではなくなっている。彼に一度見限られているからだろうか、そういう恐れのようなものはない。自分は自分だ。誰が信じたものも関係ない、己がそうだと思っているものだけがすべて。変わらないね、といわれるけれど、自分では変わったと思っている。変わっていてほしい、そうでなければまた、同じことを繰り返すだけだからだ。
自省し、嘆いて、怒って、恨んで、呆れた。それでも彼から与えられたものがファウストを生かしたし、いまも生かし続けている。感謝はしている、けれども苦しいし悔ししさもある。それは幼馴染で親友で戦友であった今は亡き人間に対して、そして過去の己への感情とは、似ているようでまた違っていた。
分からなくて苛立って、苛立つことがまた腹立たしい。処理できない感情をそのままぶつけてしまうのは、やはり頼って甘えているからだろうか。
「どうかした?」
低音の中では少し高い、艶のある声は寝起きでもかすれることなくファウストの耳に言葉を届ける。軽く臀部をなでた指先が、腰骨、脇腹、性感帯となっている胸の先は避けて脇を這い上がり鎖骨から、首の筋を撫であげた。
今度は小さく息をのむのはファウストの番だった。反応に気をよくしたのか、その慧眼を緩く細め、口角を吊り上げたフィガロが、けれどもいぶかし気に首をかしげてファウストのあごに触れる。
「なんでもないよ。おまえの髪、見かけよりも柔らかくて気持ちがいい」
腕の中にある頭部を抱きしめると、今度は肩口に口づけられた。柔らかな唇が触れるのは気持ちがいい。昨夜与えられた、上も下もわからなくなるような、身体がバラバラになりような快楽とは違う、小さく息を吐きたくなるような心地よさ。顎のラインをなぞった指先が、耳朶に触れ、そしてファウストの髪に触れた。
「きみの髪も、見た目よりも張りがあって素敵だよ」
「べつにおまえの髪を素敵だとは言ってない」
「ええ~、これだけ愛でておいてそういうこと言う?」
「愛でてない」
ファウストの緩く巻かれた髪を指先に絡めていた手が、うなじを通って背中を這う。先ほどの指先とは違い手のひらはしっかりと肌を撫でていった。
「よいしょ」
背中に添えられた手のひらに支えられ、絡んだ脚と、ベッドに沈んだ反対の手によって、並んで寝そべっていた状態から、フィガロがファウストの上にのしかかるような体勢になる。なすがままに従ったのは、抵抗するのが億劫だったからだ。
ファウストの背中をシーツの上におろしたフィガロがずり上がる。頭部を抱いていた腕がはずれて、自然と彼の両肩に手を置くような格好になった。腕を落としてしまえばいいのに、もう少し、彼に触れていたいと思っているのだろうか。
曇天のような錫色の目、中心の瞳孔は煌めく若草色。その表面にはファウストを気遣う色があった。それは形だけのものではないだろう、何を考えているのかわからないが、優しいひとだと知っている。けれどそれだけではないのではないかと勘繰って、素直に受け取ることができない。
僕は恐れているのか、なにを。もう一度、彼のやさしさを受け止め心の柔らかいところに入れて、そうしてまた捨てられることを。求められていると勘違いして、またその勘違いを実感することを。
酷薄にも優しくも見える笑みを浮かべた顔はわずかに傾けられる。ひどく整った容姿が朝日に照らされ、雪国生まれらしい白い肌の鼻梁に、光の筋がはいった。
胸の奥、心臓の近く、頭の芯、心の在処であるどこかがきしむ。
「よく眠れた?」
「……おかげさまで」
シーツについた左手で自重を支えたフィガロの右手。水仕事や、武器を握って戦うことなどなかったであろう、うつくしい指の背がファウストの前髪を払う。あらわになった額にまた、口づけられた。
「よかった」
「世話をかけた」
「そんなことない、楽しかったし気持ちよかった。いつでも言って」
いつでも、ともう一度甘さをにじませた声が耳に吹き込まれる。ふるり、と耳から背筋に落ちたものが背中を震わせた。喉の奥で笑った彼の右手がそのまままた、ファウストの身体を撫でていく。
「身体にも不具合はないみたい」
「……っ勝手に、診るな」
下腹部のきわどいところを避け、けれども腿の内側には触れる。中途半端で決定的ではない刺激。思わず腰が跳ねそうになって、身をよじってその手を避けようとするも、フィガロの脚の間に挟まれた状態では大した抵抗にもならなかった。
「もうひと眠りする?」
「朝から盛る趣味はない」
「俺は眠るか聞いただけなのに、盛るだなんて。期待されてる? 明るい中っていうのも結構いいもんだよね。全部見える」
誘惑する甘い甘い声。振り払うように首を振る。
「期待してないし、そんなもの見たくもない」
フィガロの手が、ファウストの脚を持ち上げやけどの跡の残る脛、ふくらはぎを撫でてきたのでその手のひらを蹴った。脚癖、と笑った彼の手が離れていく。
「そう、残念」
さしてそう思ってもいなさそうな口調で言葉を吐いたフィガロが身を起こすに合わせてシーツが捲れ落ち、細く引き締まった体躯があらわになった。実用的な筋肉は薄い、けれども美しく整った裸体だった。朝日が縁取る白い肌、その背中には、白さに不釣り合いな赤い筋が幾本も入っている。
昨夜しがみついたファウストがつけたものだろう。些細な傷だ、息を吸うように魔法を使う彼からしたら残しておくものでもないだろう。現にいろいろなもので濡れた身体は清められている。なのに、どうしてそれだけ。
フィガロが床の上に足を下ろし、ベッドの上に腰かけた。めくれて、ファウストの膝から下を覆うだけになったシーツで、外気にさらされた身体が冷える。体温調整の魔法をつかってこれ以上冷えないようにしながら、フィガロの背中と自分の爪先を交互に見やっていたファウストもゆっくりと身を起こす。
腰の奥の違和感に一瞬、息をつめた。なにかが挟まったままのような、埋まっていたものを失ったせつなさのような感覚に、寒さからではなく身震いすると、ふわりとなにかが肩から掛けられた。
フィガロが日中に羽織っている白衣だった。肌寒かったわけではないのだけれど、明るい部屋の中でただ素肌を晒しているのは心もとなかったので、ありがたく借り受けることにする。
彼自身と、日中に彼が纏う香油の香りが鼻腔をくすぐる。昨夜の名残に誘われるように顔を寄せかけて、なにをしようとしていたのか自分は、と我に返った。そして、その一部始終をフィガロに見られていて、揶揄うような言葉もなしにただ向けられる生ぬるい視線が、くすぐったい。
「なんだ」
「なんでもない」
目を細めた彼の感情は読めない。なんて、いつだって彼の感情を読めたためしはないのだから、いつものことなのだけれど。
「背中」
「ん?」
「僕が治そうか」
ひざを折りシーツに手をつき、四つ這いでそろりと彼の背中に近づいて、足を少し開いた崩れた正座で座り込む。その傷を左の手のひらで撫でた。動くことで肩から落ちそうになる白衣の合わせは右手で掴んでおく。
裾からのぞくファウストの膝をひと撫でしたフィガロは、大した傷じゃないから、と首を振った。大した傷じゃないから簡単に治してしまえばいいのではないか。やっぱり何を考えているのか分からなくて、いたずら心と意趣返しとばかりに手のひらで撫でていたその傷に軽く爪を立ててみる。
「いった!ちょ、ファウスト」
「ほらみろ痛いんだろ」
「爪をたてられたらそりゃ痛いよ。傷だけならちょっとひりつくくらいなのに」
「治したほうがいい。綺麗な背中がもったいない」
「なんだって?」
「は?」
「俺の背中」
「だから、きれいな……」
言わされかけて、ファウストは言葉を途中で切った。こういうところが、本当に。
羞恥に腹立たしいけれどそれだけではなく、己に沸き立つ感情がなんであるのか、ごちゃごちゃしていてよくわからない。とにもかくにも、これ以上からかわれるのはごめんなので、ファウストは問答無用で治癒魔法を使うことにした。
「あー……」
残念そうにあげられた声は無視する。背中の傷が綺麗に消えたことを確認がてら、すべやかな背中をひと撫でしてから、そっと床に足を下ろした。
重心を脚に乗せ、立ち上がる。大丈夫だ、違和感は残っているけれど痛みも不具合もない。腕や胴体、目に見えるところに真新しい傷も痕もない。
「よし」
「よし、じゃないよ。情緒がない」
「ここで情緒が必要か?」
肩からかけた白衣を脱ぎ、持ち主であるフィガロの膝にかける。堂々と全裸で立ったファウストは手を振って散らばっている服をかき集め身にまとった。
一連の動きをつぶさに見られているのは感じていたが、あられもなく脚を開いて身体の奥まで晒したあとだ。陽の光の下で、フィガロのように美しいわけでもなく、焼けただれた傷跡の残るこの身体を眺めたところで楽しいことも何もないだろうに。
服を脱ぐ際に魔法を使えばすぐに終わるにもかかわらず、一枚ずつ剥ぎ取りたがった昨夜のフィガロに同じようなことを言われたことを思い出した。その昔、師事したてで魔法をまだ特別な力だと認識していたファウストに、日常の些細なことにも魔法を使うようにと、魔法使いの日常の中に魔法はあるのだと教えたのは彼だったはずなのに。
「まあこれも、きみらしくていいんだけどね」
独り言のようにつぶやかれた言葉に振り返れば、若草色が煌めく錫色の目がまっすぐに向けられていた。
「答えになってない」
「厳しいなあ。そうだね、セックスしたあとのあま~い雰囲気みたいなさ」
「あま~い……」
「雰囲気」
ファウストの言葉を補足したフィガロが立ち上がる。手を振るまでもなく一瞬で服を身にまとった彼の手が、ファウストの髪に触れた。
「いつでも俺のところにきてよ」
安全安心、夢もれ防止の結界だって完璧に張ってあげるから。
「夢なんて見られないくらい、あま~い時間をあげるから」
そう言って、フィガロは笑う。言い方が気に入らなかったが、昨夜が甘い、どろどろに溶けるような時間であったことは事実なので、ファウストは半眼で睨め付けるだけに留めた。事実ではあったけれど、素直に肯定はしたくなかった。ただの意地のようなものだ。
「おまえの寄越すものは、どうせ苦いよ」
そうだ、甘いだけではなかったことだってまた事実だ。
片眉を跳ね上げたフィガロから視線を外し、鏡で己の姿を確認してから、最後に帽子をかぶる。部屋のドアノブをひねりながらまた、彼を見た。窓からの光を背に受けるフィガロの表情は逆光でよくわからない。自室の暗さが恋しくなるまぶしさに目を細め、ファウストは軽く帽子をあげる。
「あらためて礼を言う。おまえのおかげてよく眠れた」
言って、フィガロの部屋を出た。自室に戻る階段に向かって廊下を歩む。
昨夜、いつもひんやりとしていた手が、熱くなって体温で溶けていくのを感じた。汗ばむ生え際に濡れる髪を初めて見た。いつだって泰然としている彼の、眉間に寄った皺と切羽詰まった声と。けれどもどこかに余裕があるかのような、どこか取り繕ったろうなまなざし。甘さと熱のにじむ、自分を呼ぶ声が耳の奥に残っているようだ。
軋むのは胸の奥、心臓のそば、頭の芯、心の在処であるどこか。
でもこの行為にはなんの感情もない、持たない。
片や夢も見ないほど深く眠るため、片や頼られたいという願望を満たすため。そんな互いの利害の一致によって至った結果でしかないのだから。