コンコンと、控え目に戸を叩く音が二回。
「雲さん、夜分遅くにすみません。少しよろしいですか?」
戸を隔てた先からくぐもった声が聞こえて、よいしょと立ち上がる。ドアノブを捻り内開きの戸を開くと、部屋着姿の雨さんがスマホを片手に立っていた。
「いらっしゃい、雨さん」
同じ家に住んでいるのに「いらっしゃい」はおかしいかも……? なんて自問自答をしてみるけれど、雨さんと目が合って、その端正な顔がほころんだ瞬間に、細かいことはどうでもよくなった。
薄紫の頭の上にはピンッと立った犬耳が、細い腰のあたりにはブンブンと左右に揺れる尻尾が見えるようだ。あくまでイメージで、実際に犬の姿をしているわけじゃない。雨さんは俺と同じ、『ひと』の姿形をしている。
──まるで待てが得意な犬みたい。俺は別にご主人様でもなんでもないんだけど。そもそも俺が雨さんのご主人様なんかになれるはずがないし。
「お邪魔します」
「勝手に入ってきてくれていいのに」
雨さんは目を見開いて、「いけません」と手の平を突き出した。
「同居人といえども、ぷらいばしーは守らなければ。親しき仲にも礼儀あり、ですよ」
「でも、雨さんは俺が雨さんの部屋に突撃したって嫌な顔しないよね?」
「私はいいのです。そんなことよりも雲さん」
雨さんは瞳を輝かせ、「わんっ!」と吠えた。
「……! わん」
俺も負けじと応答する。
犬ではない、決して犬ではないのだけれど、犬の鳴きまねを交わし合うのは、お互いにだけ通じる秘密の暗号のようなものだ。
「わんっ」
「わん!」
「ふふ……今日も、たくさんの季語と出会えましたよ」
穏やかに目を細め、スマホの画面をタップする雨さん。その横顔を眺めているとどうしようもなく幸せで、嬉しくてたまらなくて、なのに少しだけ苦しくて息が詰まる。
「教えて、雨さん」
教えてほしい。雨さんが出会った、素敵なもの全部。
◇
俺と雨さんの出会いは遥か昔。なんと物心がつく前から一緒にいる。一緒にいるのが当たり前すぎて、出会いだとか第一印象だとかの思い出がないのは少し寂しいんだけどね。今は学部こそ違うものの同じ大学に通っていて、互いに実家を離れルームシェアをしている。
築年数そこそこのマンションは、リノベーション済で内装はとっても綺麗。時には隠しきれない年季を感じる部分もあるんだけど、雨さんに言わしめると全部「季語」らしい。シャワーが壊れて銭湯に通った春も、暖房が壊れ毛布の二人羽織で過ごした冬も、全部季語。
毎回トラブルに見舞われる度、この世の終わりだ〜! ってくらいに落ち込む俺を励まして、前向きな気持ちにさせてくれる雨さんには感謝してもしきれないや。
雨さんは、どちらかといえばもの静かで、忍者ごっこが大好きな男の子だった。それが年齢を重ねるごとに美しく成長して、ビジュの完成度は高まる一方。その上頭も良いし、眉目秀麗という言葉は雨さんのためにあるんじゃないかって思う。
学内でもちょっとした有名人で、俺の学部の人達からも「五月雨さんと友達なの? 紹介して!」とか「飲み会に連れてきて!」と頼まれることもあり、ちょっと困っている。何かと理由をつけて断ってはいるんだけど、その度にお腹がキリキリ痛んでしまう。
だって、俺なんかのエゴで雨さんの交友関係を狭めているってことだし、でもでも、飲み会で女の子に挟まれて連絡先を交換する雨さんを想像したら涙が出そうになるし。
俺って心狭い! 嫌だ! でも雨さんを取られたくない! 取られたくないっておかしくない? 雨さんは俺のものじゃないのに……!
そんな俺の葛藤なんか何も知らない雨さんは、モテている自覚の欠片もないみたいで、のほほんと生きている。そういうところが好きだから、どうかそのままでいてね、雨さん。
雨さんの部屋は畳張りの和室だ。雨さんは家の中で部屋着で過ごしていてもビジュが崩れることはなくキラキラしているんだけど。そんな格好良いひとが座布団の上でちょこんと正座をして、ちゃぶ台に乗せたパソコンに向かって課題に取り組む後姿は、なんだかかわいい。これがギャップ萌えってやつなのかも。しかも世界中でたった一人、俺しか知らない光景なんだって思うと、優越感に浸ってしまう。
ちなみに、俺の部屋はフローリング。腹痛を起こして自室で休むことが多いから、部屋の中はできるだけ優しい色味で統一している。最近のお気に入りは、桜の香りのアロマディフューザー。あとは雨さんの髪の色みたいなもこもこのクッションと、座り心地の良いゲーミングチェア。どれもこれも、体を労るようにと雨さんの意見を受けて選んだものだ。
雨さんは毎晩、スマホを片手に俺の部屋へ遊びにやってくる。とある日課を行うためだ。
雨さんは俺の部屋へ入ると、迷わず床に正座をする。俺一人ゲーミングチェアでくつろぐのは居心地が悪くて、俺も雨さんの隣に腰を降ろす。手狭な部屋では肩同士がにくっついてしまうけれど、嫌な気はしない。むしろ触れ合った個所から伝わる体温が、疲れをほぐして癒やしてくれるみたい。
──もう少しだけ、いいかな。
こてんと頭を傾けると、雨さんの肩にもたれかかる体勢になった。シャンプーの香りと、少しだけ高い体温。お風呂上がりの雨さんの癒し効果は絶大だ。どれだけ高機能な癒しグッズを集めたところで、結局雨さんの温もりに敵うものはないんだ。
「お待たせしました。こちらが本日の季語です」
手にしていたスマホが差し出される。この部屋で毎晩行われる日課。それは、その日に雨さんが出会った季語の発表会だ。
「わ! 向日葵だ! え、なんか大きくない……?」
「花びらも大きいですし、茎の長さも私の身長に届きそうでした。良い句が浮かびそうです」
「どこで見つけたの?」
「町中の植え込みに一輪だけ咲いていました。近所のお子さんが学校で貰った種が紛れたのかもしれませんね」
雨さんは画像編集アプリを立ち上げると、慣れた手つきで明るさや彩度を調整し、今度はSNSを開いた。ぽちぽちと俳句を打ち込み、画像と共に投稿ボタンを押す。数秒も経たない内に、「投稿が完了しました」の文字が表示された。
「雨さんの投稿、増えてきたね」
「はい。雲さんが勧めてくださったおかげです」
「俺は何も……雨さんが撮る写真が素敵だから、沢山の人に見てもらいたいと思っただけ。あ、もうコメント付いてる」
「『向日葵素敵ですね、雨さんとのツーショットも見たいです』だ、そうです」
「あはは、それなら今度撮りに行こうか!」
明るく振る舞いながら、心の中で溜息をつく。
──顔出ししてから、ずっとこれだ。
俺にとって、「雨さん」は自分だけの特別な呼び名のはずだった。それが、インターネットの世界で顔も名前も知らない人達から呼ばれ、憧れの気持ちを寄せられている。誇らしいようで複雑だ。
「はぁ……やっぱり世の中顔なんだ……」
「雲さん、お腹が痛いのですか? 顔色が芳しくありません」
「お腹は平気……だったけど、たった今痛くなってきたかも」
「すぐに良くなりますよ」
俺を落ち着かせるように、優しくお腹をさすってくれる雨さんを横目に見る。
──う、顔がかっこいい。
じっと見とれていると、視線に気づいた雨さんが「?」と小首を傾げる。今度はかわいい。ああもう、感情が忙しい。
これ以上余計なことを考えないように、ぷるぷると頭を振る。気持ちを入れ替えよう。早く腹痛を治さなくちゃ。
──悪意があるわけじゃないんだ。雨さんのファンの人達って治安は良い方だし。コメント欄だって愛に溢れている。雨さんのことが好きだから顔が見たいって思うのは、ごく自然なこと……。
「雲さん?」
「へ!?」
「眉間に皺が寄っています」
ツン、と人差し指で眉間を突かれ、思わず「きゃんっ!」と声を上げた。雨さんは心配そうな顔を……保ちきれず、とうとう吹き出してしまった。
「ふふ……、ふ」
「笑わないでよ」
「すみません、あまりにも可愛らしくてつい……」
かわいいのは雨さんの方だからね……と声に出しかけて口をつぐんだ。
雨さんのファンは、雨さんが本当はかわいいんだって知らない。ライブ配信されているわけじゃないのに、誰かに見られているわけないのに。今ここで「かわいい」と口にしたら、知られてしまう気がして怖くなった。
独り占めすることが怖いくせに、自分だけの宝箱に隠してしまいたいなんて、身勝手が過ぎてほとほと呆れる。
そもそも雨さんにSNSを始めてみてはどうかと提案したのは、他でもない俺自身だ。
俺は、雨さんが撮影する「季語」が好きだった。
花壇に咲く花や、色とりどりのお団子、犬を模したラテアート。雨が降りそそぐ街や、よどんだ曇り空さえも、雨さんが切り取れば、幻想的で美しい世界の一コマになる。
何より素敵で、唯一無二の宝物。
だから俺なんかが独占しちゃ悪いって、勝手な罪悪感を覚えてしまった。
皆にも見てもらうべきだ。SNSに纏めてくれたら好きな時に見返せるし俺も嬉しい。そんな言葉を並べ立てて雨さんを説得し、「雨」のアカウントが誕生した。
当初は、雨さんが見つけた季語と、思いついた俳句を保存する日記帳のような役割で運用されていた。
顔も名前も知らないインターネットの向こう側の人達から見ても、雨さんの撮る写真は魅力的だったみたい。ぽつぽつと、降り始めた雨のようにフォロワー数が増えていった頃。
「ねぇ、雨さん自身の写真は撮らないの?」
ふと思いついて、春の河原道を散歩しながら問いかけた。
春風に靡く髪が綺麗。すれ違う子犬に微笑みかける横顔が可愛らしい。家で毎日顔を合わせてはいるけれど、一日だって……いや、一秒たりとも同じ雨さんは存在しない。それなら、素敵だと思った瞬間の雨さんを写真に残してみたいと思ったのだ。
「私は被写体に適していないと思います」
「なんで? 雨さんかっこいいのに」
「いいえ。雲さんの方がかっこいいです。断言します」
「いやいや雨さんだって」
そんな言い合いを続けていると、雨さんは何か思い当たったような顔をして立ち止まった。
「しかし……折角ですから写真に収めておくべきなのかもしれませんね」
「へ?」
「今日のこーでぃねーとには、雲さんのこだわりが詰まっていますから」
その日の雨さんは、頭のてっぺんから爪先に至るまで、全て俺が選んだ衣服やアクセサリーを身に着けていた。買ってみたはいいものの、雨さんの方が似合うのではと着せたTシャツ。それに合わせてジャケットやパンツを選んでいる内に止まらなくなってしまって。
「こだわりっていうか……雨さんがかっこいいから、楽しくなっちゃって」
「いえ、雲さんのセンスが良いのです」
「いやいや雨さんのスタイルが……って、何回するの、このやりとり」
顔を見合わせてひとしきり笑い合うと、雨さんは俺にスマホを手渡した。
「撮影をお願いできますか。こーでぃねーとの記録、ということで」
「う……なんか一気に俺の責任が増したかも。でも、折角撮るなら良い写真にしたいよね」
「勿論です」
雨さんはキョロキョロと辺りを見回すと、撮影に適した場所を見つけたのか犬のように駆け出した。
「雲さん、雲さん! ポーズはどうしましょう」
「はしゃぎすぎだよ、雨さん」
ノリノリな雨さんがなんだかおかしくて、俺は笑いながらスマホのレンズを向けた。
──という一件後、雨さんは自身の全身ショットをSNSに載せた。他の写真と変わらず、あくまで季語の記録の一部として載せたにすぎない。
それから「雨」のアカウントは、フォロワー数が激増したのであった。
◇
「雨さんっ!」
戸を開けてからノックを失念していたことに気がついたけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。雨さんは一瞬目を丸くしたものの、俺の突撃を咎めるようなことはせず、「どうかされましたか?」と小首を傾げた。
「どうかされましたか? じゃ、ない!」
手にしていたスマホの画面を雨さんの目前に突きつける。それが自身のSNSアカウントに投稿した画像であることを理解した雨さんは、じっと画面を見つめたあと、「はて?」という表情で俺を見上げた。
「雨さん。雨さんは立派なインフルエンサーなんだよ。自覚ってある?」
「いんふるえんさぁ……」
「自覚、なさそう。だからね、こんな写真は載せちゃだめなんだって! ……ん? いや、絶対だめってことはないんだけど」
俺も混乱していて、主張がぐちゃぐちゃだ。お腹痛い。お腹だけじゃなくて、頭も痛い。
雨さんはいつも、俺に「季語」を発表してから、俺の目の前で投稿ボタンを押していた。だから油断していたんだ。
今日、雨さんが投稿した画像。それは犬の形を模したあんぱんを両手で持って、耳の部分に控え目にかじりつく雨さんの写真だ。
この場面を俺はよく知っている。なぜならこの瞬間、俺も隣に居たから。
これはつい先日、二人で散歩に出かけた際にたまたま立ち寄ったパン屋さんのイートインスペースで撮影したもの。折角だから二つ買って、一つは朝ごはん用に、もう一つは半分こしておやつにしようと決めたは良いものの、あんぱんとはいえ犬の顔を真っ二つにするのはなんだかかわいそうで、二人して固まってしまった。
雨さんの「どうしましょう……」という顔がかわいくて写真を撮っていたら、やり取りを見ていたお店の人が記念にと二人横並びに座った姿を撮ってくれた。
雨さんが載せたのは、お店の人が撮ってくれた写真の内の一枚。俺の顔こそ写っていないものの、桜色の髪と、くっついた肩が写り込んでいる。
俺達にとっては楽しかった思い出だ。けれど何も知らない人が見れば……これはそう、匂わせ写真だ。
俺としては、別に匂わせることなんか何もない。けれど、「隣にいるの彼女かな〜」「今までの写真も全部この彼女さんが撮ってたんだ」なんてコメントが付いていて、若干荒れている。
彼女じゃない。付き合ってない。匂わせてなんかいないのに。雨さんを悪く言わないでよ。
「雨さん、ごめんね」
「なぜ雲さんが謝るのです?」
「俺なんかが写り込んじゃったせいで、匂わせ写真とか言われちゃってるから」
「……? 匂わせ写真、ですか……?」
匂わせ写真とは何たるかを知らない様子の雨さんに、掻い摘んで説明をする。全てを聞き終えた雨さんは「なるほど」と呟いて、俺に向かって頭を下げた。
「雲さん。私が選んだ写真のせいで、雲さんを傷つけてしまったことを謝罪させてください」
「いやいやいや! 傷ついてなんかないよ!」
雨さんは頭を上げると、シュンと落ち込んだ表情のまま「私は……浮かれていたのです」と呟いた。
「へ……?」
雨さんは自身のスマホをタップすると、「思い出」と名付けられた画像フォルダを開いた。俺も初めて目にするそれは、雨さんと俺の写真だけが収められたフォルダで、沢山のデータが保存されていた。
「私にとって雲さんと過ごす時間は、かけがえのないものなのです。パン屋の方に撮影していただいた写真を見返した時、私は驚きました。大切な人と時間を共にする私は、このような顔をしているのかと」
「た、大切な人って……いや待って? いつも載せてる写真だって、俺と一緒にいる時に撮ってるじゃん」
「いえ。あれはこーでぃねーとの記録のため、格好つけていました。それに、少々の加工を施しています」
「格好つけてたんだ……」
「こちらは嘘偽りのない自然体の私です。あなたの側にいる時、私はどうしようもないくらいの幸せで満たされているのです」
「……!」
どうしよう、何か言わなくちゃ。それなのにうまく言葉が出てこない。心臓がどきどきして、うるさくて、熱でも出たんじゃないかってくらい手が熱くて、だけど不思議とお腹は痛くない。
雨さんはスマホをちゃぶ台の上に伏せると、真っ直ぐ俺に向き直った。
「わん」
「……わん」
「わんっ」
「わんっ!」
「……雲さん。雲さんは、あの写真に写る私を見て、どう感じましたか?」
優しい。ちょっと格好わるくて、かわいい。結局半分こしたあとは気にせずパクパク食べていて、おいしいものには敵わないんだって思っておもしろかった。また行きたいね。好きだよ。
いっぱい言葉が浮かんだけれど、喉から出てきたのは、「俺がいつも見ている雨さんだなって思ったよ」という感想だった。
「私の、思い過ごしでないのならば」
手汗でべちゃべちゃの左手が取られる。ぐい、と優しく引き寄せられて、体は雨さんの腕の中に収まってしまった。
今は、「思い過ごしじゃないよ」って言うだけで精一杯だけど。
いつかはちゃんと伝えられるかな。