何故手を伸ばしたのかと問われれば、「そこにあったから」としか言いようがない。
「月光さん、今俺のケツ揉みました?」
「いや……」
二メートルを越える長身の男が己の手の平を凝視し固まる姿は、端から見れば何と滑稽であろうか。たった今自分の身に起きた一瞬の出来事。謂わば事故の様なものだ。しかし、そこに自らの意志が一ミリも無かったと言えば嘘になる。
薄い布に覆われているとはいえ無防備なそれが、目の前、ちょうど手の届く位置にあった。だから、何の気も無しに手を伸ばした。たったそれだけのこと。だが、その深層心理の部分には恐らく、「触れてみたい」という欲求が眠っていたのだろう。何とも恐ろしいことである。
いや、しかし。触れられた側である筈の少年が特段驚く素振りも見せず、呑気な顔をしているのは如何なものだろうか。この場合、触れられた方がもう少し焦るだの、驚くだのといった反応を見せるべきではないだろか……と、思考が責任転嫁の域まで達したところで考えるのを止める。こんなことで動揺するなど、全く自分らしくない。
「揉んだやろ」
「揉んでいない」
「嘘やん! 絶対揉んだて」
「……」
己の手のひらに残るのは、想像よりも柔らかく――と表現するのは日頃から想像をしている様で語弊があるが――弾力のある肉の感触、あたたかさ。ああ、確かに揉んだ。この手で触れてしまった。「月光さんスケベやなぁ」と、生まれて初めて与えられた不名誉な称号にさえ、弁明の余地もない。
「もう一度聞きます。月光さんは、俺のケツを揉みましたか」
目の前の少年に目線を合わせる。濁りのない琥珀色にじっと見つめられ、やはり、どうにもいたたまれない気持ちが込み上げてくる。しかし、これ以上嘘を吐き続けたところで、何の生産性も無いのは承知だ。
「……揉んだ」
「月光さん正直者ですねぇ、ええ子やなぁ」
よしよしと頭を撫で回される。スケベだの破廉恥だのと言われるよりも、年下の少年から赤子の様な扱いを受ける方が余程決まりが悪いのだが。彼の大きく、陽だまりのようにあたたかな手の平には、心のわだかまりを解していくような、体の疲労を取り除いてくれるような、そんな癒しの力が秘められているように感じる。ありていに言えば、心地が良い。
「なぁなぁ、月光さんっ」
「……断る」
「まだ何も言ってへんのに! なぁ、俺も月光さんのお尻触りたいですっ」
「……」
琥珀色が、たっぷりの光を反射して潤む。彼の瞳には、己のそれとは違う種の圧のようなものを発していて、簡単には拒むことができないのだ。
そもそも此方だけ触れて、彼の申し出を断るというのは、些かフェアではないだろう。
「あかん……?」
「さして問題はない」
「ほんまですか! それじゃあ早速」
「失礼しま~す」と、間延びした礼と共に片方の手が伸びてきて、控え目に尻に触れる。
「うはぁ~月光さんのお尻カチカチやぁ……引き締まっとってかっこええ……」
ペタペタと形を確かめるように触れたあと、もう一方の手も伸びてきて、今度は揉みしだくようにバラバラと指を動かされる。
「しかも小さい……羨ましいわぁ」
くにくに、とカーブに沿うように指を擦り付けられると、こそばゆい。
「……っ、もうり」
「あ、すんません! 子どもん頃、蕎麦打ち体験行った時のこと思い出してもうてつい夢中に……月光さん?」
「これでは割に合わないな」
「へ?」
気がつけば毛利の体は、うつ伏せの状態で近くにあったベッドへ沈んでいた。これは事故か。否、違う。この手が、毛利を押し倒したのだ。何の気もなしに手を伸ばしただけだと言い逃れすることはもはや不可能であった。「毛利に触れたい」たいう欲が頭の中にハッキリと存在していて、その欲に従い、己の両腕は動いている。
「月光さん? どないしたん……」
ごろんと寝返りをうち、こちらを見上げる毛利の隣に寝そべる。正面から抱きしめるような体勢になってしまったが、今さらどうしようもない。両手に馴染む、ずっしりとした感触。下から支えるように持ち上げれば、連動するように密着した体が震える。
「柔らかい」
「つ、月光さんみたいにまともに鍛えてへんからっ……!」
彼がしたように、十指を動かす。指の腹を埋めて弾力を楽しんでいると、胸の辺りをぽかぽかと殴られる感触。
「……毛利」
「月光さんスケベや……ムッツリや……!」
「っ! すまない」
途端、冷や水を浴びたように頭が冷静さを取り戻す。慌てて体を引き離そうとするも、胸元にぐりぐりと頭を押し付けられてそれは叶わない。赤茶色の癖毛に手を伸ばし柔らかく撫でれば、「ふぅ」と、熱い息が二つの体の間に溢れた。
「……今日の月光さん、なんやおかしいです」
「ああ、自覚はある」
「きっと疲れてはるんやわ。もう寝ましょ! このまま」
「このまま……」
「そうです! もう悪さできへんように俺に捕まえられとってください」
ぎゅうっと両腕が巻き付いて、成る程身動きは取れない。手の平と同じようにあたたかな体からは、ものの数分で穏やかな寝息が響き始めた。こんな時ばかりは、彼の寝付きの良さをうらめしく思う。
自由の効く腕だけを動かし、ベッドの上に転がっていたリモコンで部屋の照明を落とす。それから、少しだけ迷ったけれど、結局彼の背中に両腕を回した。
事故ではない。自分の意思で動かし、その場所を選んだ二本の腕。この行動に潜む欲の正体はきっと、朝が訪れる頃には。