「月光さん水!」
夕陽が差し込む部屋の中。昨晩から読み始めた物語がいよいよクライマックスを向かえるというところで、けたたましい声に中断を余儀なくされる。
足早にキッチンへ向かうと、声の主は火を止めた鍋の前でうずくまり、恨めしげな顔でこちらを見上げた。
「月光さん、水……」
「……待っていろ」
おおかた煮込んでいたカレーの味見でもして、舌を火傷したのだろう。この男は自身が猫舌であることを十分に理解している筈であるが、好奇心に負けるきらいがある。
しかし、冷蔵庫なら数歩で届く距離にあるし、そもそもコンロの隣にはシンクがある。天然水に比べれば味は劣るだろうが、応急処置ならば蛇口の水でもさして問題はない。つまるところ毛利に呼びつけられたのは、彼なりの甘え方なのであろう。
冷蔵庫から取り出した水をグラスに注ぐ。かつてのチームメイト達からも、散々『甘やかしすぎだ』と呆れられていた。その自覚はある。あったところで、そんなものは無意味だ。潤んだ琥珀色に見つめられ、逆らう術などとうに失ってしまった。
「月光さん水~」
「……月光さんは水ではない」
琥珀色かぱちくりと瞬いて、それから猫の瞳のように細められる。何故、そんな間抜けな台詞を吐いてしまったのか。できることならば忘れてほしい。否、今すぐにでも忘れてくれ。しかしこちらが訂正の言葉を発するよりも先に、「ほんまやねぇ。月光さん、おおきに!」と、満開の笑顔を向けられてしまえば、それ以上は何も言えやしない。
◇
「月光さんアイス!」
あのやり取りから数日が過ぎた。我が家に暮らす甘えたがりの呼びつけは、改善されるどころか悪化の一途を辿っている。
「月光さんは◯◯ではない」という返しが、彼のツボにはまったようだ。月光さんは箸ではない。月光さんはトイレではない。月光さんはエアコンではない。月光さんはトイレットペーパーではない……。数日の間に何度このやり取りをしたことだろうか。
望む通りの返しをすれば相手の思う壺だというのに、毎度律儀に返事をしてしまうのだからどうしようもない。
今回はアイスか。玄関へ向かうと、両手を買い物袋に塞がれた毛利が、新品のスニーカーに悪戦苦闘を強いられている。
「なんやこの靴! ちっとも脱げへんがっ! あ、月光さん溶ける!」
「……月光さんは溶けない」
「せやったせやった。月光さんは溶けませんねぇ……って、言うてる場合とちゃうんですよ! はよう冷凍庫入れたってください!」
ぐい、と押し付けられた袋の中には、カップが六つと、フルーツバーの箱が一つ。触れてみると、カップの側面が些か柔らかくなっている。
「スーパー寄ったらほんまびっくりするくらい安なってて! 思わず買いすぎてもうて……でも半分くらい溶けとるかも! ほんま外暑すぎやわ」
「毛利、まずは靴を脱げ」
「はぁ~い!」
楽しそうな声で紡がれる話の続きは後で聞くとして。まずは、これだけの量を冷凍庫に収める最適解を考えなければ。
◇
「月光さん枕……」
常時の快活さはどこへやら。ぐったりとした声で懇願される。疲労の原因は十中八九こちらにあるので、望み通り彼の枕を手繰り寄せてやるが、「ちゃいます」と不機嫌そうな表情で首を左右に振られてしまう。
「これがええんやけど……あかん?」
熱い手のひらが、肩から腕にかけてをペタペタと撫でまわす。どうやら彼は言葉通り、枕になるよう命じるつもりらしい。
シーツに腕を投げ出せば、嬉しそうに癖毛が乗り上げてくる。もう片方の腕で包み込むように抱き寄せる。もはや、どちらが枕役を担っているのだかわからない。
目と目が合う。琥珀色が、己だけを写していることに高揚感を覚えるのと、緩みきった唇に己のそれを寄せるのは同時だった。舌は交えず唇だけを、ぷちゅ、ぷちゅと幾度も重ね合わせる。
「なぁ……なぁ月光さん」
「どうした」
「今、月光さん溶けとるよ」
「……そうだな」
溶けない、なんて嘘だ。もう何年も前から、この甘えたがりに心ごと全部溶かされて、彼に出会う前の己はもう、原型を留めていない。この腕の中に一番馴染む彼もまた、同じように。