星を待つ者 昔々、といっても私が生まれる少し前のこと。大きな戦争があったそうです。それまで、人々は平和に暮らし、鳥や獣たちの息吹が地に満ちていました。けれどもそこに、恐ろしい者たちがやってきて、何もかもを壊そうとしたのだそうです。その力は強大で、幾つもの命が失われ、人々は悲しみ、絶望に飲まれました。
もう駄目かと思われたその時、光の中から白くて大きなものが現れて、敵を蹴散らし、この地を守ってくださいました。豊かな国をずっと見守っていた彼は、戦争がどうしても許せなかったのです。炎を操り、悪者たちをやっつけると、白くて大きなものはやがて疲れ果て、大地に横たわりました。その手には、彼が大切に、大切に持っていた紫色の宝石が、悲しく光っていたそうです。
紫色の宝石は、白くて大きなものの元を決して離れませんでした。その輝きは人々を照らし、見守りながら、しかし怒っていたそうです。その怒りは、宝石の美しさを際立たせました。何人もの身の程知らずが、紫色の宝石を、白くて大きなものから奪い取ろうとしました。けれども、全員が自分の地位も、財産も、家族をも失う結果になりました。紫色の宝石の怒りは恐ろしく、それは白くて大きなものが再び目覚め、力を取り戻し、立ち上がる日まで治まることはないでしょう。宝石は、いつかまた白くて大きなものと共にあれるようにと、今も彼のすぐ傍でその眠りを見守り続けているのです。
「とても面白いお話だ」
「この辺の子なら、みんな知っているお話よ。お兄さん、どこから来たの?」
「どこからかな……少し眠っている間に、忘れてしまったよ」
「それじゃあ、迷子だわ」
「そうかもしれない」
若草色の髪をふわりと靡かせて、青年は笑った。少女は薬草摘みを終えて立ち上がる。いっぱいになった籠を小脇に抱えて、まだ横に腰掛けている青年を見た。ひょっこりと現れた彼は、悪い人間には見えなかった。だが、十分に不審な人物だ。森と、草原と、小山の洞窟しかないこの場所で、この人は一体何をしているのだろう。
「近くに街は?」
「私の住んでる村しかないわ」
「ついて行っていいだろうか」
「私は構わないけど、ユーリ様にご報告しなきゃ」
「ユーリ様?」
「村長様より偉い方なの。とってもお綺麗なのよ」
ユーリ様は、教会のお仕事をされている。毎日小山の洞窟で祈りを捧げるのも、彼の仕事だ。大きくなったらユーリ様と結婚するのだ、と、少女たちは一度は夢を見る。しかし、自分が「大きく」なっても、ユーリ様の見目は変わらない。そうして悟るのだ。あの方と自分とでは、住む世界が違うのだ、と。
「多分、……その人は自分の知り合いだと思う」
「本当? じゃあ、よかったじゃない」
「……」
「嬉しくないの?」
青年は立ち上がり、少女の後について歩き出した。その足取りはゆっくりで、まるで久しぶりに地面を歩いているような、風のそよめきも頬に感じる涼しさも忘れていたかのようにさえ見える。くすんだ砂色のローブで身を包み、青年は呟くように言った。
「……もしかしたら、……彼は、自分に怒っているかもしれない」
「ユーリ様を怒らせているの? あんなに優しいお方を?」
「……」
まだ、本当にユーリ様と知り合いだとは決まっていない。だが、不思議と少女には、青年が嘘をついているようには思えなかった。眼を瞬かせ、少し考えると、青年の顔を見上げる。ユーリ様には及ばないけれど、この人も随分きれいな顔立ちをしている、と思った。
「あのね、……私も失敗して、お母さんに怒られることがあるけど……そういう時は、素直に謝るのが一番だと思うわ」
「……そうだね」
青年が薄く微笑むので、少女はなんだか胸の奥がくすぐったくなった。そうして、ゆっくり、ゆっくりと歩き、村へと到着した時。ちょうど外に出ていたユーリ様は、果たして青年の姿を見て目を見開き、ついでに口も大きく開けて、驚愕の表情を浮かべた。
「ユーリ様、このひとが……」
「……やあ、……」
「ベレト!!」
本当に知り合いだったのだ。少女がそう思った時には、手に持っていたものを取り落として駆け寄って来たユーリ様に、青年は硬く抱き締められていた。
『俺と、この国と、どっちが大切だと思っていやがるんだ!?』
『……』
ユーリスの問いかけに、ベレトは困った顔をする。そんなこと、考えたこともなかった。怒りに顔を歪ませたユーリスが、ベレトの腕をしっかりと掴まえている。行かせはすまいと、大切な人を手放すまいと、恋人が、可愛らしい我儘を言うかのように。食事を共にし、自分の隣に座って、この手を離さないでくれと、ねだるかのように。
ベレトは、刹那、ガルグ=マク大修道院で過ごした平穏の日々を思い出していた。仲間たちに祝福され、ささやかな婚儀を挙げた。慣れない政にも助言をし、自分のできる限りのことをして民を治めた。教師として、そして大司教という立場となってガルグ=マク大修道院過ごした時間は、決して楽なものではなかったが、ベレトの胸の中で輝き続けている。
そうして一線を退き、伴侶との隠居生活を楽しんでいた。それが、こんな形でまた戦火に巻き込まれることになろうとは思ってもいなかった。
背後で、炎が燃え盛る。若草色の髪が熱風に焦がされ、乱される。ユーリスを連れて行くわけにはいかないと思っていた。彼をおいて、ベレトは最後の手段を取ろうとしていた。
『……もちろん、』
誰かの悲鳴が聞こえる。自分を呼んでいる。この世界には、大切な教え子たちの子孫が暮らしている。見守り、導き、育てて来た全てがそこにある。それが壊されることは、許し難かった。相手が、かつて自分が殲滅し損ねた闇の者たちの生き残りとあれば、尚更だ。
『きみのことが、何よりも――』
『違うだろ!』
ユーリスは一層強くベレトの手を掴み、強い瞳で愛しい人を射抜いた。その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
『俺様が危険に晒されようと、あんたは行くべきだ――俺と、一緒に』
怒りに燃えた紫水晶の瞳が、ベレトを見つめる。そうか。そうだったのか。と、ベレトは遅れて気が付いた。彼を守るために、置いて行こうと思った。唯一無二の宝物を、愚かにも置き去りにしようと。だからユーリスは怒っていたのだ。困り果て、沈んでいたベレトの表情が解けていく。瞳に光が宿り、ふわりと微笑んだ。こんなに嬉しい気持ちがあるだろうか。不安で、苦しいのに、彼がいてくれるだけで温かい。全て、ユーリスがくれた感情だ。
『分かった、――行こう』
柔らかな笑みを湛えた頬に、硬い鱗が生え、ユーリスは息を飲んだ。光が二人を包み込み、次の瞬間にはユーリスは白く、大きなドラゴンに似た生き物の背にいた。ベレトだ。分かっていたから、恐ろしいとは思わなかった。なのに、やはり腹の底では慄いている。
『ユーリス、大丈夫か?』
地の底から響くような唸り声は、確かにベレトのものだった。ユーリスは彼の背にしがみつくと、ぐっと唇を引き結んで笑った。剣を抜く。
『ったり前だろ……! 行くぞ!!』
睨みつけた先に、敵の姿がある。ベレトは翼を羽ばたかせ、大切なものを守るために戦場へと飛び立った。
「本当にユーリ様のお知り合いだったのね」
少女は村外れの木柵の上に腰かけて、足をぷらぷらさせて呟いた。彼女の姉は、隣で籠を編みながら返事をする。
「随分古いお知り合いらしいわ。昨日は、一晩中お部屋に灯が灯っていたって。ずっとお話されていたのねえ」
「あの人、ユーリ様は自分に怒っているかも、って」
少女は青年の言葉を思い出す。彼に抱き着いたユーリ様のことも。
『 、すまなかった』
『このッ……大馬鹿野郎が……!』
「……ユーリ様が泣くところ、初めて見たわ」
「私だってそうよ」
姉は素っ気なく返す。本当は気になるくせに、妹相手に話したところでつまらないと思っているのだろう。少女は少し考えると、木柵から飛び降りて花を摘む。竪琴の節もそろそろ終わり、花冠の節がやってくる。姉より編むのは苦手だが、自分の作った花冠があの二人の頭に飾られることを夢見ると、自然と口元に笑みが浮かんだ。
(きっと仲直りできたわよね)
だって、ユーリ様のあんなに嬉しそうな顔だって、誰もが初めて見たのだ。
(紫色の宝石は、何年も何年も、白くて大きなものを守り続けました。美しい光で人々を照らし、白くて大きなものの代わりに導き続けました。共に守り抜いた世界が、もう二度と迷い、脅かされないように。
とてもよい天気のある日、紫色の宝石の前に、白くて大きなものがひょっこり姿を現わしました。宝石は嬉しくて嬉しくて、その手の中に飛び込んで行ったそうです。)
おしまい
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まだ眠っていたい。けれど、意識は覚醒してしまっている。そんなまどろみの狭間で、ベレトは腕の中に掻き抱いている温かなものを引き寄せた。柔らかな髪の毛が頬に触れると、嬉しくなる。自分の腕を枕にして寝入っているらしいユーリスが身じろいで、その吐息を感じさせている。ベレトがゆっくりと目を開いて彼の寝顔を見ようとすると――意外にも、ユーリスの両目は開かれていた。
「おはよう……」
その視線に少々気圧されて、ベレトは小さく呟いた。まだ部屋の中は薄暗く、つけっぱなしの魔法の燭台の炎が揺れている。昨日はとりとめもない話をしながら寝台に入り、いつの間にか眠ったらしい。久しぶりの食事を問題なく終え、汚れていた体を伴侶と一緒に清めて、たったそれだけのことでベレトは疲れ切ってしまったのだ。そう、そんな普通のことさえ、数年の眠りから覚めた直後の体には大仕事だった。
「おはよう」
答えたユーリスの顔が、ほっとしたように緩む。かと思うと、猫のようにぐりぐりと頭をすり寄せて、ベレトの胸に抱き着いた。心地よい重みだ。絹のような紫色の髪を撫でて、ベレトはただ彼の息吹を感じていた。昨日もこんな風に彼と共に在ったような気もするし、やはり何年も離れていたようにも思える。
不思議だった。命をかけて戦った記憶が、近くて遠い。ゆっくり、ゆっくりと、ユーリスの背を撫でる。息遣いが乱れている。
「……もしかして、ずっと起きていた?」
「…………」
薄闇の中、彼は自分がきちんと目を覚ますかどうか、一晩中見張っていたらしい。昨夜も、もう寝ちまうのか? もう少しだけ話を聞いてくれよ。なあ、明日は何をしようか……なんて、なかなか寝かせてくれなかったのも、不安だったのだろう。寝顔を見るのなんて、きっともう飽きてしまっただろうに、それでも見守っていてくれたのだ。
「あんたの目が覚めて、……よかった」
ぽつり、零された言葉は涙にぬれていた。小さく体を震わせて、ユーリスはベレトの服に涙を滲ませている。動かぬ心臓が砕けそうだった。大切な伴侶を抱く腕に、力がこもる。
「――歳を重ねると、勝手に涙が出る」
「……んだとぉ?」
ベレトのつまらない冗談は常だが、年齢のことは言いっこなしだ。からかわれるのはまっぴらごめんと、ユーリスは顔を上げる。
「……本当に、待たせてばかりでごめん」
「…………!」
そんな顔は、卑怯だ。ユーリスは唇を引き結び、ベレトの顔に手を伸ばした。ぼろぼろと涙をこぼし、もう二度と離すまいと、爪を立てて抱きしめてくる最愛の人の髪を撫でてやる。あとからあとから湧いて流れる涙が、お互いを濡らしている。
「泣くなって……あんたが泣くと、……俺が苦しい」
「すまない……」
口づけは、涙の味がした。窓の隙間から夜明けの光が差し込んで、二人を祝福している。
蛇足終