「みんで、いっしょに……帰ろうね」
そう言って微笑んだユージオは、泣き止まぬ俺たちにつられたように、いまにも泣き出したっておかしくないような顔をしていた。
子どものように泣き喚く俺たちへと向けられた声は、いつもと変わらず優しく、温かな気遣いに満ちている。泣き止まない俺たちを心配して、この状況に戸惑って、困ったように微笑んで……しかしそこに、俺たちがいま抱いている、この感情への理解はない。
わからなくて当然だ、と思う。彼にはあの夢の記憶がないのだから。それはとても幸いなことのはずなのに、俺はどうしても、湧き上がるこのもどかしい感情を抑えられずにいた。
いつものように穏やかで優しい、ユージオの声。その声を聞いて、こんなにも泣きたい、悔しい気持ちになるなんてことを——俺は、初めて思い知ったのだった。
最後まで泣いていたメディナの涙がようやく止まった頃、俺たちはフィーディス村に辿り着き、村長に事の顛末を報告した。ひどく感謝した様子の村長が、お礼にと言ってあれこれ差し出そうとしてくるのをなんとか断り、代わりに一宿一飯の恩義にあずかることとなったのだ。
すでに日は沈みかけていたし、精神的にも疲れ切っているティーゼやロニエ、メディナを野宿させるわけにはいかなかったので、その申し出はまさに渡りに船だった。村長の家には風呂があり、雪道や城でのあれこれで冷え切った全身をほぐすことができたし、夕食にはきっとこの村でできる最大限のご馳走を振舞ってもらってしまった。
肉と野菜の旨みが溶け込んだ熱々のシチューに、ふんわりとした甘い香りの焼き立てパン。昼にも見た野菜の漬け物(ピクルス、と呼んだ方が俺にはしっくりくる)は強い酸味のなかに甘味も効いており、ついつい手が止まらなくなるほどのものだった。
食後には洋酒漬けにされたドライフルーツのケーキと温かいミルクティーまで振る舞われ、落ち込んだ様子だったロニエたちの表情に戻った笑顔に、俺もほっと胸を撫で下ろすことができたのだった。
夕食後、今夜は早く休もう、という流れに自然となったのだが、用意してもらった二つの部屋に別れる際、俺はティーゼたちがユージオと離れ難そうにしていることに気がついた。はっきりと口には出さないが、彼女たちの目には不安の色が浮かんでおり、気持ちがわかるだけに俺もつらかった。とはいえ、ベッドの数も合わないし、同じ部屋で寝るわけにもいかない。
「ユージオの面倒は俺が見るよ。安心してくれ」
ティーゼの細い手がきつく握り締められるのを見て、俺は咄嗟にそんなことを口走っていた。きょとんとした彼女たちの視線が俺に集まり、続いてくすくすと笑われる。背後から刺さる、ユージオの呆れたような視線が痛かった。
「あ、すみません、笑ったりして……! キリト先輩が一緒なら、確かに安心ですね。ユージオ先輩のこと、よろしくお願いします」
いつものように微笑んだティーゼに、強く頷き返す。おやすみを言い合って、俺たちはそれぞれの寝室へと別れた。
ベッドが二つ並ぶ部屋に入り、背後で扉の閉まる音を聞く。ユージオの気配のみが存在する空間で、俺は途端に、自分の緊張の糸が切れたのを自覚した。窓際のベッドへふらふらと歩み寄り、吸い寄せられるように倒れ込む。
「キリト?」
少し慌てたような声がして、近づいてきたユージオが俺の顔を覗き込もうとしているのがわかった。重い体を返し、寝転んだまま彼を見上げる。控えめなランプの灯りの下、親友の亜麻色の髪が、柔らかに光を含んで輝いているのを見た。
「キリト……疲れてるのはわかるけど、せめて上着くらいは脱ごう? それじゃあゆっくり休めないだろ」
俺を気遣う優しい声が、先ほど飲んだ甘いミルクティーのように、温かく心に沁み入ってくる。小言めいたことを言われることも多いが、それが気にならないくらい、いつだって甘やかされていると感じていた。
俺は無意識のうちに、彼に向けて手を伸ばし……、何か勘違いした彼にあっさりとその手を掴まれ、上体を引き起こされた。
「ほら、早く着替えて。早く休むんだろ?」
「……へーい」
「もう……やっぱり、結局僕が君の面倒を見るんじゃないか」
「……返す言葉もございません……」
脱いだ服はさっさと回収され、身軽になった俺は、再びベッドへと背中を倒した。
ユージオが少ない荷物の整理をする音を聞きながら、重い瞼を閉じる。泣きすぎたせいで目の周りはいまだ熱を持って腫れぼったいし、頭痛もしている。ユージオの言う通り、早く眠って、朝を迎えてしまいたい。……そう思うのに、瞼の裏側に繰り返し浮かぶ光景は、俺が眠りにつくことをそう簡単には許さなかった。
悲痛な声が脳裏に響いて、思わず体を強張らせてしまう。心臓が嫌に跳ねて、早鐘を打つ。呼吸が早く、浅くなり掛けるのを、体を折り曲げて必死に呑み下した。
「……キリト?」
思いの外、近くからその声が聞こえて、俺は再び目を開いた。注がれる心配そうな眼差しを受け止めて、深い緑の瞳を見つめ返す。
……あんなことを、言わせてしまった。あんな気持ちを抱えさせたまま、そのことに、ずっと気づかずにいた。俺はずっと、ずっと彼のそばにいたというのに。
「……ユージオ……」
「……うん。なんだい、キリト」
疲れ果てた俺を労わるような、穏やかで柔らかい声。
その声に、俺を見つめる瞳に。許された気になって、甘えてしまうのは結局、やはり俺の方なのだ。
「ユージオ……今日は、こっちで寝てくれよ」
「え? こっち、って……ここで?」
「ん」
「……狭いよ?」
「くっついて寝れば平気だろ」
「……ええ……」
躊躇うユージオをよそに、上掛けの布団を捲り上げ、視線で促す。じっと見つめ続けていると困ったように眉を下げ、仕方ないな、とため息を吐かれた。
「……これでいい?」
「ん……、うん」
「まったく、君ってやつは……」
隣に来たはいいものの、所在なさげな顔で端っこギリギリに下がろうとするユージオに、なんでだか俺は妙にムッとした。両腕を伸ばしてユージオの体を抱き寄せ、その肩口に自分の顔を押しつける。
細身だが、剣を振るうためにバランス良く鍛え上げられた、ユージオの体だった。触れ合うところからぬくもりが伝わって、胸に広がる安心感に、ついつい深いため息が出る。
「うわっ……、ちょ、っと、キリト……!」
「……なんだよ」
「なんだよ、じゃなくて……」
「一緒に寝るくらい、いままでの旅でも、セントリアの天幕でだってしてきただろ」
「それは、そう……だけど……」
これ以上の文句を聞きたくなくて、抱き締める腕に力を込めた。苦しいよ、と囁くように言われ、温まりかけた全身から血の気がざっと引く。びくりと震えた俺に気づいてか、ユージオの手が、宥めるように俺の肩に置かれた。
「……キリト?」
「……」
「ねえ、キリト……大丈夫だよ。どんなに悪いものでも、夢は夢だ。時間が経てば忘れて、何も残らない。ましてや、僕の夢なんかで……そんなふうに、君が心を痛める必要はないんだよ」
幼い子どもにでも言い聞かせるように言われて、俺は知らず息を止めていた。
反射的に、狭いベッドから跳ね起きて、横たわるユージオの両肩を掴む。ベッドが軋む音を聞きながら、俺は、驚きに見開かれたユージオの瞳が痛みに歪むのを見た。両手の力を緩めなければと思うのに、腹の底から湧き上がる衝動を抑え込むのに必死で、自身をコントロールすることができない。
俺は奥歯を噛み締めて、困惑に染まるユージオの顔を見ていた。煮えたぎるような、それと同時に芯から冷えていくようなこの感情が、怒りなのかそれとも悲しみなのか、自分でも判断がつかない。
ただ、どうすれば、と考えていた。どうすれば、この気持ちが彼に届くだろう、わかってもらえるのだろう、と。
いまのユージオに、あのときと同じ言葉を掛けても、きっとその心までは響かない。ユージオに、その心の内を……、弱い部分までを曝け出してもらわなければ、きっと伝わることはない。
そして恐らくユージオは、自らの弱さを、脆さを、進んで曝すようなことは決してしないだろう。あれは、あの状況があったからこその吐露だった。ユージオの心を知るには、そして、俺の心を知ってもらうためには、言葉では足りない。ならば、……どうすれば?
「キリト……?」
不安そうなユージオの声が、自らの思考の中に埋没していた俺の意識を不意に引き上げた。
戸惑いに揺れる彼の瞳を見下ろして、いまさらにこの状況を理解する。ごめん、と言い掛けて、突如大きく脈打った自分の心臓に声を失った。ベッドの上で見下ろす、心細げな親友の姿に、痛いくらいに心音が速まっていく。
「キリト、キリトってば……大丈夫かい?」
「え? あ、ああ……」
理解が追いつかない自身の体の反応に戸惑って、急速に塗り替えられていくような意識が怖くて、俺は必死で思考を堰き止めた。目を瞑り、頭を振って、深く息を吐く。先ほどから乱れてばかりの自分の感情を落ち着けようと、深呼吸を繰り返した。
不意にユージオの指先が頬に触れ、俺は思わず肩を揺らした。なんとなく見てはいけない気がして目を開けられずにいると、前髪を梳かれ、そのまま丁寧な手つきで搔き上げられる。
そうされて初めて、こんなにも寒い夜だというのに、自分が薄らと汗をかいていることを自覚した。ほっそりと長い指に繰り返し髪を梳かれて、その心地よさに、次第に気持ちが落ち着いてくる。
はあ、と大きなため息を吐くと、それを合図にしたように、ユージオの手が離れた。なんだか惜しくて追いかけるように目を開けば、優しげな翠緑の瞳と視線がかち合って、にこりと微笑まれる。
「……落ち着いた?」
「あー……、まあ、うん」
「それはよかった」
「ああ。……その、なんか……ごめんな」
「ううん、いいんだよ。僕も、君の気持ちがわからなくて……余計なことを言ったみたいだ。ごめんね」
二人して謝罪の言葉を言い合って、目を合わせて笑みを交わした。
すると途端に張り詰めていた空気が緩み、俺はどっと疲れを感じて、重力のままに体を前へと倒した。潰されたユージオがうぐっと妙な声を出して、くつくつと笑いが込み上げる。こぼされる文句を聞き流しながら、俺はユージオに覆い被さったまま、もぞもぞと収まりのいい位置を探した。
「ちょっとキリト、そこで寝ないでよ……重いってば」
「うーん……仕方ないだろ、このベッド狭いし……」
「だから、一番初めにそう言ったじゃないか。……ほら、もう少しずれて。僕が眠れないだろ」
「む……」
窮屈なベッドの上で身じろいで、どうにかお互いに安眠ポジションを確保する。ユージオがため息混じりの欠伸を漏らすと、つられて俺も欠伸が出た。二人の体温でぬくまっていく空気に、うとうとと瞼が重くなる。
眠りに落ちる前に、ああ、これだけはと、俺は言葉をかき集めて口を開いた。
「……なあ、ユージオ」
「……なに?」
「たとえ、夢でも……俺は、決して忘れないよ。忘れたくないって、思うんだ。それがどんなにつらくても、悲しくても……現実には残らない、儚いものだったとしても。俺は、忘れたくない」
「……そう」
「うん……お前は、わからなくていいよ。でも、これだけ……俺のこの気持ちだけは、知っておいてくれ」
「ん……うん、わかったよ」
もっと何かを言いたかった気がするのだが、眠気に負けて、それ以上は言葉にならなかった。
眠りの淵に片足を踏み入れながらも、ユージオのわずかな身じろぎにも反応して、逃さないようにと彼の体を抱く腕に力を込める。
「もう、キリトは……本当に……」
夢うつつにそんな声を聞いた気がしたが、それを確かめる気力も体力も、もはや俺には一滴も残されていなかったのだった。