ばさり、と真白い翼を羽ばたかせ、白亜の城の外壁を巡る。
大きな翼は夜闇に浮いて目立つことこの上無いが、生まれたときから携えているこの翼の扱いを、キリトはよくよく熟知していた。羽音は最小限に、風の流れを捉え、最短最速で目的地へと翔ぶ。小さなバルコニーに降り立って、そっと室内の気配を探った。
音を殺して窓を開け、部屋の中へと忍び込む。中央に備えられたベッドに近づき、天蓋の中で眠るその人の顔を覗き込んだ。
月光の淡く差し込む薄暗い室内で、彼の柔らかな亜麻色の髪が鈍い金色に沈んでいる。なめらかな頬は血の気を失っていっそう青白く、まるで生気を感じられなかった。
天界に夏の盛りが訪れる頃。幼馴染みのユージオは、毎年決まって体調を崩すのだ。
「……おーい、ユージオ。大丈夫か?」
「……キリト?」
薄い瞼が震え、優しげな、深みのある緑があらわになる。二、三度瞬いて、それは緩やかな苦笑を象った。
「――いまは面会謝絶中……の、はずじゃなかったっけ?」
「毎年のことだろ、固いこと言うなって。誰にもバレなきゃ問題にもなりようがないしな」
「そういう話じゃ無いって、お前もわかってるくせに。規則違反だよ」
「いざとなれば罰は受けるさ。まあ、いざとなれば、な」
「まったくもう……」
口の減らないキリトにため息を吐き、ユージオは疲れたように目を伏せた。そんな気だるげな様子に眉を顰め、キリトはそっと、彼の瞼に掛かる前髪を指先で避ける。
「……しんどいか?」
「……ううん、大丈夫。別に病気ってわけじゃないんだし、そんなに心配しないでよ」
「……馬鹿、心配だよ。心配するに決まってるだろ」
柔く癖のついた髪を横に流し、キリトはそのままユージオの頬に触れる。血の気の引いた頬はぞっとするほどに冷たいが、この症状ももう、毎年のことだった。温かなキリトの手が心地良いというように、ユージオは目を細めて自らの頬を擦り付ける。
キリトはしばし無言でユージオに触れていたが、不意に呼吸を詰め、瞼を伏せた。
「……ユージオ。羽根、見せてくれないか」
「……うん、いいよ」
淡く微笑んだユージオがベッドから上体を起こし、キリトはその背を支える。折り畳まれた状態から緩やかに開いたそれは、純粋無垢な天使の性を示す、美しい純白の翼だった。
「……」
浅く呼吸するユージオの体を抱き留めるようにしながら、キリトは注意深くユージオの翼を眺めた。真白いそれには、一点の曇りも、陰りもない、……ように、見える。いまはまだ。
くったりと自分に寄り掛かるユージオの腕を取り、月光に翳した。彼の腕から指先までを、一本のたおやかな青いリボンが絡め取っている。――一見優美にも見える、これこそが戒めだ。一切の穢れを許さない、楽園とまで称されるこの天界の定める、侵すべからず戒律。この掟こそがユージオの意志を縛り、その力までもを削いでいるのだ。
天界に夏が来るたびに、ユージオはこの苦痛を伴う戒めを受ける。キリトもユージオも、はっきりと口にすることこそないが、どちらもその原因を正しく理解していた。
天界が定める掟への疑心、失ったものへの執着。不安。願い。怒り。六年前のあの夏の日から、ユージオの苦しみは続いている。
同じ季節が巡るごとに、普段は抑え込んでいる感情が溢れ、彼の心に影を落とす。その黒い影が染みつく前にと、戒律が彼の自由を奪うのだ。
「……ユージオ」
キリトはリボンに絡め取られた、冷たいユージオの手を握る。亜麻色の髪に己の額を擦り付け、視線がかち合ったのを合図に、彼の唇に自分のそれを押し付けた。繋いだ手に縋るように力を込められて、より深く彼の中へと忍び入る。
苦痛を紛らわすために欲を煽るなど、本来は本末転倒だろう。けれど、言葉の隙間をすり抜けるようなこの行為が掟に反しないことを、すでに二人は知っていた。……なんのための掟なのだろうと、キリトはいつも考える。キリトは生まれつき、この天界でただ一人、この戒律から外れたところにいる天使だった。それはユージオにも言えない、キリトの秘密の一つだ。
この戒律に決定的に抗ったとき、ユージオの白い翼は闇の色に染まるだろう。そうしたら、彼は果たしてどうなってしまうのか。それがわかるが故に、キリトはずっと、何も言えないままでいる。
白いシーツに亜麻色が散る。彼の髪を飾る青薔薇が、薄い夜闇の中で冴え冴えと光り輝いた。春の木漏れ日に煌めく新緑のような瞳を細めて、ユージオがキリトを見上げて微笑んでいる。
キリトも小さく笑みを返し、己の翼で彼を囲った。目を覆い、耳を塞ぐ。この夜からもを隠すように。
天界から遠く離れた地底の国に、自分たちの幼馴染みの少女とよく似た、まばゆい金髪を持つ悪魔の姿が認められたということも。
いまはまだ、何も言えないままだった。