6 目を開けると、視界に映るのは天蓋だった。自分は今、ベッドの上にいる。しかも一般市民には上等なシーツは、ここが病院や監獄ではないことを示している。不思議だった。周りを見渡すと、数々の調度品が置かれた生活感の残る部屋だ。夢でも見ているのだろうか。それとも、神を信じぬ者の死後の世界か。
ゆっくりと身体を起こすと、ベッドの近くに日差しを取り入れる窓がある。覗いてみれば、そこはあの町ではなかった。しかし、類はその景色を知っている。驚いていると、突如扉が開いた。
「あ……良かった、目を覚まされたんですね。」
金の髪に優しい笑顔を浮かべる女性は、よく知る人物に似ていた。彼女は足音を立てずに部屋に入り、ベッドの傍の机にオートミールだろうか、食事と思われるものを置いた。
「今、兄を呼んでまいります。」
「え、いや、あの……」
「それ、食べれたら食べてくださいね。」
ここはどこか、彼女は誰か、自分は何故ここにいるのか。何もかも分からないままに彼女は部屋を出ていってしまった。ただ、彼女は兄と口にした。類の知る中で、あの歳の頃の妹が居て、類を家に入れそうな人物はただ一人しかいない。しかも、ここが予想通りの町ならば尚更だ。
「ここが何処なのか、もう大体分かっているんだろう、お前なら。」
「!」
開いたままだった扉から、1人の男が現れる。類は驚きのあまりに絶句した。予想外だからではない、予想通りだったからだ。
私服姿で不敵に笑む彼は、幻想でもなんでもなく、かの将校──天馬司だった。
「将、校……どの……!」
「はははっ、お前でもそんな顔をするんだな。……良かったな、あと少しで死ぬところだったんだぞ。」
「な、なんで……っ!」
「まぁ焦るな。オレもお前に聞きたいことがある。」
何故、自分に向かってそんなことを言えるのか謎でしか無かった。犯されて、殺されかけたというのに。何故、そんな笑顔を向けられるのか。類も、聞きたいことなら山ほどある。
部屋の扉が閉じられ、手頃な椅子をベッドの脇へ寄せて腰をかける彼は館にいる時と何ら変わらない様子だ。
「さて……色々話してもらおうか。」
「…………」
「まず、何故オレを……、いや、大臣を裏切った?」
最初から、核心を突いた質問だ。類は、咄嗟に目を逸らして口を噤む。なんと答えるべきかの答えが欲しかった。結局、捕らえた司の言葉を聞いて初心を思い出し、大臣の行ないは間違っていると心変わりしたからだと答えた。嘘は言っていない。ただ真実からとある感情を間引いただけだ。
「ほう?初心……」
「えぇ。私が入隊した理由を思い出しまして。」
「東部戦線の為か?」
「まぁ、それくらい分かりますよね。」
初心、入隊の理由。まだヒントになるようなことすら口に出していないというのに、間髪入れず答えを当ててきた。類は嘆息をつく。東部出身者の入隊理由なんて、殆どこれだ。
「東部を、取り戻したいという気持ちくらいはあったんですよ、私も。」
「多くの住民が東部を離れた後もあの村に住んでいた数少ない1人だ、その気持ちは強かっただろうな。」
「えぇ、まぁ。私は……戦争の被害者という立場を一度味わっている。それを、他人に押し付けることに罪悪感を覚えたといいますか……」
「成程な。」
司はそう言うと、不意に立ち上がった。まさか、これで聞きたいことは終了だろうか。ならば次はこちらに質問をさせて欲しいところだと、類は口を開く。
「あのっ、将校殿は──」
「嗚呼、お前の処分についてだが──森の民らが助命を嘆願し続けてくれたお陰で不問に付された。森の民と、寛大な王に感謝することだな。」
「は……」
「1週間、お前が寝ている内に色々と終わったんだ。まぁ、まだ完全には終わっていないが、騒動はひと段落ついたというところだろうか。」
有り得ない。類は手元のシーツを握りしめて唖然としたまま司を直視した。嘘を言っているようには見えないが、事実として受け取りたくはなかった。不問とは、つまり、類は罪に問われることは無いということだ。あまりにも馬鹿げている。そんなことを許してはならない。
「…………失礼を承知で、申し上げます。この国の王は愚行を犯しました。私という人間に罰を与えず、そのまま生かしておこうなど……」
「お前の行いで多くの者の命が救われたんだ。素直に受け取っておけ。」
「納得が行きません。直訴します。」
「嗚呼全く、よく分からないやつだな。一応色々と制限がかけられている。この家の周りだってお前が逃げ出さぬように兵士が見張っているんだぞ。」
「いや、そういう問題では……いやそもそも、何故将校の家に?」
「下手な病院に入れるよりもよっぽど回復が早いだろうと思ってな。それに、オレの家のすぐ近くに医者が住んでいるから何かがあってもすぐに対応してくれる。医学書だって沢山あるぞ。」
「何故……」
「妹が病弱だからな。」
「いやそうではなく……」
彼が手に持っているのは東部の更に奥に位置する国の医学書だ。確かに下手な病院よりも良い。王都といえども病院は酷いものだ。良い病院に罪人を入れておくのもはばかられるだろう。
ただ、彼にそこまでしてもらう義理は無いはずだ。本当にお人好し過ぎて心配になってきた。犯されたことも忘れてしまったのだろうか。
「回復したらお前は監視付きで王の為に色々働いてもらうぞ。その賢い頭を役立てろ。」
「…………」
「死のうなんて思うなよ。せっかく、良くなったというのだから……少なくともお前を案じていた妹の心を踏みにじらないでくれ。」
分厚い本が類の頭に乗せられた。まるで諭すように。その言い方は非常に卑怯だ。妹というのは、先程の女性だろう。彼女を出されては何も言い返せない。
「さて、そういえば……王都で色々な問題が片付いたら、オレはもうあの館を離れるんだ。」
「え……なぜです、森の民は……」
「館には新しい将が派遣される。オレが推薦した、かつての部下だ。あいつなら上手くやっていけるだろう。森は和平交渉を結んだということでこの国の王に属す……いや、どう表現すれば良いのだろうな……」
「あなたは……それでいいんですか。」
「これからのことはあいつに託す。確かに心配ではあるがな。だが、次に集中するには信じて託さなければ。」
急だな、と類は独りごちる。彼だからこそ森と町は結ばれたというのに、今彼を別の場所に派遣するのはあまり得策とは思えない。周辺の兵士は変わらないだろうが、上の立場が変わると雰囲気は大きく変わってしまうものだ。
司は、そんな類の様子に何が面白かったのか、クスリと笑った。急な笑い声に類は思わず顔を上げた。
「東部に行く。」
「へ。」
「これから東部に行くんだ。復興が全く進まない上に、また隣国と緊張状態に陥りかけているらしい。交渉役として、オレが指名された。」
予想だにしない言葉に類は思わず表情を崩した。それが本当ならば、東部は館より何百倍も危険な場所だ。せっかく生き延びたというのに、彼にはもっと平和な場所にいて欲しかった。これは彼が軍人である以上は無理な話だが、だとしてもあの館に留まって皆に慕われている中で笑っていて欲しかったと胸が痛む。
だが、彼はただ笑っていた。
「まぁ、そんなわけなのだが……オレは取り引きの類が苦手だ。部下のひとりに、将校殿は交渉がとにかくド下手、だと好き勝手書かれる程度にはな。」
「嫌味ですか……」
「まさか。とにかくそういうのには、向いてない。だが断るわけにはいかないだろう?」
「勅命ですからね。」
「そう、だからせめて部下を一人同行させて欲しいと申し出たところ許可を頂いてな。」
「はぁ……」
「というわけで、東部に詳しく、取り引きなどが得意そうな頭の回転が早い部下を探しているんだ。是非同行してくれないかと思っている。」
「…………あなたは、本当に危機管理能力に欠けていると思いますよ。」
なるほどそういうことか。雲行きが怪しいと思ったが、合点が行くと類は大きくため息を吐いて、ベッドへ背をつけた。苦々しく顔を顰めると、司がまた笑う。
東部へ同行しろなんて、二つ返事で了承したい。彼のすぐそばで彼の力になれるのなら願ってもないことだった。ただ、やはり罪悪感が言葉を塞き止める。自分が彼にしたことを思うと、素直に嬉しいとは思えない。
「欠けてはいない。お前が適任だと思ったんだ。東部に住んでいて、まだ記憶も残っている。それにやはり賢い。」
「私は…………」
「それに、オレに惚れているのだろう?裏切る心配も無いからな。」
「えぇ、まあ、そうですけ、ど…………、ん?え……えっ?」
「はははっ、やはりそうか!どうせ大臣を裏切ったのもそれが関係しているんじゃないか?」
「な、なんで……っ!!」
思わず起き上がって声を荒らげる。自分の顔に熱が集まっているのが分かった。何故知られている。類は司に対しても、誰に対しても恋愛感情を向けているのを口外したつもりはなかった。それほどまでに類の態度が分かりやすかったということか。
「いや、すまん。お前を助けたあと、色んな人からお前はオレのことを好いていたとか聞かされてな。まさかそんなはずはないとは思ったんだが……あんなことを言われてはな。」
「あんな、ことって……」
「覚えてないのか?」
どうにも含みのある言い方に、類は冷や汗が背に流れるのを感じた。あんなこと、とは。まさか行為中に彼が気絶してるのを良いことに色々と言ったのが聞こえていたのだろうか。恥に恥を重ねてしまっている事態に、今すぐ逃げ出したい。
すると、不意に足元が沈んだ。目の前では、彼が笑顔を向けている。
「言ったじゃないか。“昔から、ずっと慕っていた”と。」
「い、いましたかね、いつ、いいました?」
「撃たれて倒れる直前だ。」
「全く覚えていないですね……」
「そうか。」
「はぁあ……、もう、そうですか。全部、へぇ……、分かりました、はい。ええそうです私はあなたのことを慕っています。大臣を裏切ったきっかけもあなたへの恋を自覚したからです。」
もうこうなれば自棄だと類は捲し立てる。こんな無様になるつもりはなかった。やはりあの場で死んでおくべきだったかもしれない。東部へ同行したとてどんな顔をしながら彼の隣に立てばいいのか。
「こんな男を部下として置いておくなんて、正気ですか?私は今だって、あなたに醜い欲を向けているんですよ。」
「平気だ。」
「……ですが……」
「力になってはくれないのか?オレは2回もお前を助けたというのに、お前はオレのことを見捨てるんだな。」
「それは…………っ!」
恩人であることすら知られているとは。どこまで彼は知っているのだろう。
正直、不安だ。司から逃げるように視線を逸らす。類は司に恋をしていて、いつ理性が焼ききれるか分からない。もう二度とあんなことをしないとは言いきれない。
「東部に、着いてきてくれないか?そして、手を貸してほしい。一緒に東部の出身者の悲願を達成しようじゃないか。」
「──っ!」
「類、ダメだろうか?お前だって……」
手を取られて握りしめられる。情に訴えるようなやり方は、これまで一切心が動くことはなかったというのに。彼の吐息が指にかかる度に、不自然に心臓が跳ねる。今すぐに押し倒して欲をぶつけたいと思ってしまう。
「〜〜っ、分かりました!東部まで御一緒させて頂きます!!だから早く離れてください!」
「ああ良かった!来てくれるか!お前が居れば心強い、よろしく頼むぞ!では、ちゃんとそれを食べておくように!」
仕方なしに了承すると、彼は離れてそのまま部屋を出ていった。疲労のままに息を吐き、オートミールを手に取る。ここまでが全て夢なのではないかと思うような、時間だった。
久しぶりに食べる食事は、誰が作ったものかも分からないが、美味しいと思えた。
───────
「それじゃあ、将校さん!またいつか戻ってきてね!!」
「あぁ。私の部屋は次の部隊長に引き継がれるが、木から飛び移ったりするんじゃないぞ。というか、あんまり無茶はするんじゃないぞ!」
「大丈夫!!ちゃんと木の上から挨拶するね!」
「いやそういう意味ではなくてだな!」
あの騒動から2ヶ月、司と類が館から離れる日が来た。館の兵士、町と森の人間が館に集って司を取り囲み感謝の言葉を述べている。人を惹きつけるという意味では、彼は天才だった。類はそんな様子を遠くから眺めていた。
結局、類は本当に不問に付されたままだった。大臣は投獄され、罪人として扱われているというのに、自分はここに軍人として立っていることに未だ納得は出来ていない。一応財産の半分以上は没収され、下手な行動をしたと疑われた瞬間に投獄だという条件ではあるが。
そろそろ馬車に乗り込もうと館の中の荷物を詰め込んだ鞄を持とうとすると、視界の端で司と話し終えた少女がこちらへ駆けてくるのが見えた。
「さんぼーさーん!」
「…………どうされました?」
「えへへっ、元気になって良かったね!!本当は、おーと?にいる時に会いたかったんだけど将校さんがダメって言うから、今やっと言えたよ!」
「おや、あなたも本当に優しいんですね。お陰様で生きておりますよ。助命の嘆願、感謝致します。」
「なんかよくわかんないけど、死ななくてよかったね!」
相変わらず明るい笑顔の少女だ。王都の中では屋根から屋根へ飛び移ろうとして司から叱られたらしいとかを聞いた。自然が無い王都を、森の民はどう思っていたのかは分からないが、大層窮屈だっただろう。
少女の向こうで、司が荷物を持つ。そろそろ発つようだ。
「では、私はここで失礼させてもらいます。お元気で。」
「…………うん!」
荷物を持って挨拶をすると彼女は一瞬悲しそうな顔をした。これが、彼女の本音なのかもしれない。
「…………あのね、王様にさんぼーさんを助けてくださいって言ったのは、将校さんに頼まれたからでもあるんだよ。」
「……は?」
「将校さんが、あなたには生きて欲しいから、好きだからって。だから、将校さんのこと、ちゃんと守ってね。」
「…………」
「じゃあね!また将校さんと一緒に来てね!!」
向こうで名前を呼ぶ声が聞こえた。彼はきっと、東部でも誰かの光になる。それを支え続ける立場を、類は託された。
馬車に乗り込むと、手土産を山ほど持たされた司が既に待っていた。類を確認すると笑みを零す。
「遅いぞ!」
「申し訳ありません。」
「お前への言伝も沢山預かった。聞きたいか?」
「遠慮しておきますよ。」
「そうか、ならやめておこう。」
馬車が走り出すと、沢山の人が見送りの言葉を口にする。少女は一際大きい声で司への感謝を述べていた。
類は、それを見てなんとなく温かい気持ちに包まれる。愛している人が、皆から愛されているのだと分かるのはこんなにも嬉しいことなのかと、その感情を味わった。
「どうした?そんなに笑って。」
「……いえ、あなたは本当に、人徳者だと思っただけです。」
「そうか。」
少女の言葉は、胸の内にしまった。いつか、死ぬ前にでも聞いてみたいが、それは今ではない。
「好きですよ、あなたのことは本当に愛しているんです。」
「……知っている。」
「ええ、だから、全て分かっておきながらそばに置いて下さったこの意味に自惚れさせてくださいね。」
揺れる室内で、顔を紅くする彼がキスを拒むことはなかった。