さほど柔らかくもないベッドの上、窓から差し込む陽の光はルイを起こす。おもむろに身体を起こすと、目に映る景色には違和感があった。
「ああ、そうか……。昨日船を降りたんだったね……」
大きな欠伸をした後、身体を伸ばす。
長期間船に乗っていると、常に揺れている感覚に慣れてしまって、陸に降りたあともその感覚を引きずってしまう。もちろんルイも例外ではなかった。
「さてと……今日は家探しかな」
くらくらと揺れる視界を振り払うように頭をぐるりと回す。治るわけではないが、マシになるような気はした。
寝癖のついていない髪を適当に手で梳いていると、小さな呼吸音が聞こえてくる。ベッドの下を覗くと、床の上でツカサが気持ちよさそうに寝ていた。
起こさぬようにそっとベッドから降りる。
昨日、バルトロメオが借りた、といったこの家は港から馬車で20分ほど走った場所にある。大きな通りからは少し離れており、窓から顔を覗かせると、遥か向こう、建物の間を多くの人が行き交っている様子が見える。
「メインストリート沿いじゃなくて良かった、ツカサくんが見られでもしたら大変だ」
窓から顔を離して家の中を見渡す。
今、ルイが立っているのは二階にある一部屋だ。この部屋にはベッドがひとつ置いてあるのみである。
部屋を出て、階段を下った先には立派な暖炉と、四人分の椅子に囲まれているテーブルがあった。
「港とメインストリートから遠くて、ツカサくんも快適に過ごせそうな広さがあって、生活するのに十分な備えがある。いいねえ、どうにかしてここに住めないだろうか……」
ルイは椅子に腰掛けて独りごちる。バルトロメオは借りたと言っていたが、一晩使うつもりの住処を気に入って何ヶ月か滞在したことは何度もあった。
それに、とブーツで木の床を鳴らす。
ハミングバードである彼を、あまり外に出したくはない。ここから移るとなればまた荷車に乗せなければならないが、この家の扉は荷車が入れるほどの大きさではない。従って、彼に乗ってもらうには一度外に出てもらう必要がある。この場所はメインストリートから離れているとはいえ人通りが全く無いわけではなかった。
ジッと暖炉を見つめたまま考えていると、不意に、扉を叩く音がした。ルイは即座に立ち上がる。
「すみませーん」
扉の向こうからは、聞いたことがない声。
「ふふ、どなたかな?」
クスリと笑いながら懐に手を差し入れて、扉に手をかける。ゆっくり、慎重に、扉を開けると、そこに居たのは自分よりも少々背の低い、中年の男性だった。
「こんにちは、サー」
「よぉ、お前が昨日この家を使わせてくれってった坊主のツレか?」
「坊主……バルトロメオのことを指してるならそうなるねえ」
懐に入れていた手を外に出し、自分の苦笑している顔に添えた。
おそらくこの男は家の持ち主なのだろう。
「失礼ですが、サー。今後この家を使われる予定は?」
「あぁ? ねぇな。俺ぁ少し前に新しい家を建てたんでもうそろそろこの家を壊すところだったんだが……」
「この土地の所有権は誰かが持ってらっしゃいます?」
「渡してりゃあもうとっくにこの家は木屑になってらぁ」
「それはそれは……」
好都合だ、と目を細めてニヤリと笑う。
「それでは、しばらくこの家を貸してはいただけないでしょうか?」
「……兄ちゃん、一人で暮らすには広すぎやしねぇか?」
「そうですねえ……住む分、お礼として金は払いますよ?」
訝しげな視線に対し、ルイは部屋の中に置いてある腰の高さほどの樽に目を向けた。あの中にはいっぱいの金貨が詰まっている。
「いやぁ、別に構わねぇんだけどよ。金も要らねぇ。だけど、これだけは聞かせてくれ。兄ちゃん達はどういう関係なんだ?」
「僕とバルトロメオですか?……商売仲間、とでも言いましょうか」
「なぁるほど。商売仲間か」
無欲な男はニヤニヤと笑って顎に生えている髭を撫でる。
ルイはというと、質問の意図が分からず、手持ち無沙汰な腕を胸の前で組んでみせた。
「そうだ兄ちゃん、ここじゃそれはやめといた方がいいぜ」
「はあ……?」
「凄く、なんというか、気取ったような喋り方だ。俺たちを見下してるような」
「そう聞こえるのかい? 被害妄想だよ」
「あぁ、だがここにゃ被害妄想の激しいヤツらが大勢いる。いいか、もし、昨日俺に会っていたのが兄ちゃん本人ならこの家は貸してねぇ」
何故初対面でここまで言われなければならないのか。ルイは不満をあらわに、眉を吊り上げて睨みつける。
「兄ちゃんのこと悪く言いたいんじゃねぇよ、忠告さ」
「この町は貴方のような喋り方が普通だと?」
「あー……そうだな、割と一般的だ。けどここまで訛ってねぇ奴らも沢山いる」
「忠告どうもありがとう。ところでこの家は僕が出ていったら取り壊す予定かい?」
「その予定だが……」
「ありがとう、助かるよ」
それから少しだけ会話を交わし、男は去っていった。ルイは扉を閉めて足早に樽の前まで歩く。
船から下ろした樽は合計六つ、どれもこれも中身が詰まっている。そのうちひとつは金貨が入っているが、他はそれぞれ違うものだ。
「そういえば……バルトロメオの喋り方と似ていたなあ」
樽に寄りかかりながら、先ほどの男のことを思い返す。随分と乱暴で、訛りのある口調だった。その言葉に不快感を覚えなかったのは聞き覚えがあったからだ。
この国で多くの人に通じる言語はここを支配している島の言語である。
船の中で、その言語を使う水夫は少なくない。最近話した樽職人のアンディもその一人だ。
アンディは、上流階級の出身であるからか、言葉が丁寧で、訛りがない。荒くれ者を装っている風な喋り方、とでも言うべきか。
そのアンディに比べて、島の言葉を使う際のバルトロメオの喋り方は、非常に聞き取りづらく、訛っていた。彼が普段使っている旧大陸南方の言語は問題ないのだが、どうにも島の言語を使うときは、まるで田舎者のようだった。
「彼に鍛えられたねえ」
はじめのうちは動揺して、何を話しているのかと逐一尋ねていたものだが、数年経つとその訛りも聞き取れるようにはなってくる。
先ほどの男とスムーズに会話を続けられたのは、きっと、そんなバルトロメオの訛りに酷似していたからだ。
「さて、まぁ、それはおいといて。これからどういう風にしようかなあ?」
目の前の樽を開けると、入っているのはロープと鉤爪、石に刃物。どこかの樽には火薬が入っているはずだ。
ルイはロープを樽から引っ張って取り出し、この家にどのような罠を仕掛けるかを考えていた。
滞在中の家に仕掛ける罠は、船の中とは多少異なる。船の中の罠は扉の開閉が条件になっていた。しかし、滞在中は誰が勝手に扉を開けるか分からない。この懸念は初めての航海を終えたあと滞在した家での体験から生まれている。
初航海後借りた家では扉で作動する罠を仕掛けていた。しかし、家を貸してくれた女性が何も警戒せず扉を開けたところ、殺しかけたことがあったのだ。以来そこに罠を仕掛けるのはやめている。
今回罠を仕掛けるのは樽だ。樽から中のものを持ち去ろうとしたり、樽ごと持っていこうとすれば発動する罠を仕掛ける。過去に引っかかったのは五人ほど。
そして、今回の罠はこれだけではない。
樽の罠は後回しにして、ルイは階段を上がる。二階には、まだ起きる様子のないツカサが床に寝そべっていた。
「隣の部屋は──ああ、バスルームか」
二階にあるのはベッドルームと、もうひとつ、バスルームだ。
「じゃあ、ベッドルームをそのまま使って……」
忙しくなく両手のロープをあちらこちらに飛ばしながらルイは部屋の中をぐるぐると歩いていた。
自分が家を開けている際、彼をどうするか。
浅はかで、何も知らない泥棒ならば樽程度で満足するだろう。しかし、この町には船を降りた水夫たちがいる。彼らがハミングバードのことを口外して、それを狙いに来る奴がいるかもしれない。
樽いっぱいの金貨と、ハミングバード。どちらの方が魅力的かなんて考えなくても分かる。
「僕ならどっちも頂こうと考えるからね」
ベッドルームの天井には梁があった。壁や天井をじっくり見渡すと、どうやらこの家はルイの目には物珍しい木造の家だった。
木で造られているのならば、仕掛けは作りやすいが火気厳禁だ。火薬を使うとしても床板や壁を燃えない素材で覆う必要が出てくる。
「よし、とりあえず簡易的な罠でも作っておこうか! まずはここにボウガンを置いて──」
少し考えるような素振りのあと、ルイは曇りひとつない笑顔で、ベッドルームに罠を仕掛けることを決めた。
階段を降りてピストルやボウガンが無造作に放り込まれている樽を探ると、すぐにボウガンは見つかった。
「ピストルもいいけど、ボウガンの方が罠として仕掛けやすいからなあ」
手にしているボウガンは、ルイが改良したものだ。通常のボウガンよりも少ない力で殺傷力はそのまま。
「ふふふ、ただのボウガンと侮ってこれに葬られた人は数知れず。ただ、まだまだ改良の余地はありそうだよね、今度は連射出来るか弄ってみようかな」
ボウガンを持って、ベッドルームに取り付ける。扉を開けると留め具が外れて矢が飛ぶ仕組みにした。
ただし、問題がある。罠を比較的安全に解除する方法がなく、一度仕掛けるとこの部屋から出るのも難しい。
「うん、扉はやめておこうか。別の場所に仕掛けよう」
かくしてベッドルームは足を踏み入れた者に矢が飛んでくる部屋になった。今後、まだまだ罠は追加する予定だ。木造なんて関係なく火薬も使っていきたい。
だが、今日はここで止めておかねば出かける時間が無くなってしまう。一度こういったものに夢中になると夜まで没頭してしまうのが幼い頃からの、ルイの悪癖だ。
出かける前に、ツカサのすぐ側に一枚の紙を置いておく。記された内容は、罠を仕掛けたから足元のロープに注意するように、というものだ。
家を出ると、外は暖かい。メインストリートに出ると、ちらほらと商店が開いていて、住むにはいい町だ。
今日手に入れたいのは料理をするための金物と、パンや肉などの食料、そして蜂蜜。
「あの男、フライパンのひとつくらい置いていってくれても良かったじゃないか」
調理器具は持っていることには持っていた。だが、少し前に船内の備品として譲ってしまったのだ。
ガリガリと頭を掻きながら不満げに文句を言うものの、ルイはこの町をしばらく眺めて表情を和らげる。
普段、旧大陸に滞在している間は栄えた港町を選ばなかった。故に、こんなに多くの商店が並んでいるのは、久しい光景だった。
「はあ、まあいいか。親切な人──と言っても良かったし、ここはなんでもありそうだからね」
持って帰るのに荷車が必要になりそうだ、と笑いながら言えば、ストリートの奥からパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
家の前に荷車が止まる。
「買い物に時間かけすぎたな……」
気がつけば東にあった太陽が、南天を通り過ぎて西に傾き始めている。小さめの荷車の中は、今日購入したものでいっぱいだ。
「さて、ツカサくん帰ったよ」
扉を開けると、いつの間にか起きていたらしい彼は暖炉に手をついて立っていた。
その光景に、ルイは自分の心臓が不自然に跳ねる音を聞いた。
「おはようツカサくん。パンを買ってきたよ、お腹が空いただろう? 一緒に食べようか。」
こくこくと頷いた彼はよろめきながらテーブルに向かっていく。ルイの前を通り過ぎる際、ぐぅ、と腹の鳴る音が聞こえた。
しかし、ルイは胸を抑えてその場から動けないでいる。未だに動悸が続いていた。
「ツカサくん、この家には僕以外誰も来ていないかい?」
彼に問うと、肯定の意味で首が横に振られた。
この家は、少し前まであの男の持ち物だった。いつ誰が訪ねてくるか分からない。そんな状況で、扉の前で無防備にしていた彼を見たとき怖くなったのだ。
この扉を最初に開けるのが自分ではなかったら、どうなっていただろうか。恐ろしい想像だった。
「ツカサくん、いいかい? これからは僕が出かけている間二階から降りてはダメだよ。一応これから扉に厳重な鍵はかけるつもりだけど……気休め程度だからね」
パンをちぎって彼に手渡す。彼は美味しそうにパンを食べ始めながらも、次いで降り注ぐルイの言葉に翼を縮こませて顔を俯かせてしまった。
「怒っているわけじゃないよ、危ないから……。ああ、ごめんよ」
ルイはパンをひと欠片、口に放り込む。久々のパンは美味しいはずなのに、あまり味がしない。
「ツカサくん、違うんだよ、この町には、僕が君と住んでいるのを知ってる人だっている。君が声を出せないということを知る人も。だから心配だったんだ」
パサつくパンを飲み込んで、ルイがそう言うと、ツカサはもそもそと口を動かしながらこくりと頷いた。申し訳なさそうな表情が心に刺さる。
ツカサが悪いわけでは決してないというのに。自然とルイも申し訳なく思い、顔を歪める。
そんな顔を見られたくなくて、ルイは背を向けて荷車の中からあるものを取り出した。どろりとした、黄金の液体──蜂蜜だ。
「そうだ、蜂蜜があったんだよ。食べてみないかい? 喉にいいよ」
深呼吸をして、ツカサの方に笑顔で蜂蜜の入った小さな壺を見せると、彼は、顔を上げて瞳を爛々と煌めかせていた。その仕草が愛玩動物のようで、作り物だった笑顔が崩れ、自然と口角が上がる。
彼の向かいに腰掛けて、テーブルの上に壺を置く。蓋を開けて、ディッパーで掬いあげれば、彼は椅子から身を乗り出してそれをジッと眺めていた。
「パンにかけようか。きっと気に入るよ」
彼の手に持っていたパンを取り、黄金色の蜂蜜を垂らしてみせて、そのまま口に運んであげた。
「ふふ、美味しいかい?」
彼はパンを数回咀嚼すると、目を見開いて、翼を大きく広げている。蜂蜜よりも少し、色が濃い瞳はキラキラと輝いていて、綺麗だな、とルイは眺めていた。
「もっと欲しいかい?」
彼が口の中のパンを飲み込んだのを確認して、壺を片手に聞けば、嬉しそうに頷く。
甘いのが好きだと言っていたのは事実だったようだ。もう一度、蜂蜜をかけたパンを彼の口に運ぶ。よっぽど美味しかったのか、少し蜂蜜がかかってしまっていたルイの指まで口に入れてしまったが、本人は大して気にしていない。
その後、蜂蜜を半分ほど食べたあと、彼は満足したようでテーブルを離れていった。
ルイは、蜂蜜でベタついている指をペロリと舐める。懐かしい、胸が満たされるような甘さだった。
夜になると、ルイは近くにある川から水を汲んできて、砂利などを取り除き、火にかけて2階まで運んだ。
「水浴びがしたいって言っていたからねえ……。僕も温かい湯に浸かりたいし……」
鍋の中のお湯を浴槽に全て流す。これらを数回繰り返せば風呂が完成だ。ただし、お湯は火傷しない温度まで放置しておかなければならない。
夕方の内に、家の中を少々改良して、お湯が溢れても一階から雨が降らないようにしたので彼が鳥のような豪快な水浴びをしようとも問題はない。
「ツカサくん、身体を洗わないかい? 水浴びをしたがっていただろう?」
ベッドルームで窓の外を眺めていた彼に声をかけると、彼は嬉しそうに頷いた。
「ついでに着ている服も洗ってしまおうか。新しい服はとりあえず適当に……。僕は裁縫なんて出来ないし、仕立てられる人を探そうね」
バスルームに彼を送り出し、ルイはまた川から水を汲んでくる。こういうとき、樽は役立つ。
航海を始めた当初は荷物を全て複数のトランクに入れていたが、途中で面倒になって樽に放り込み始めて以来、樽の偉大さに世話になりっぱなしだ。
荷車で家に戻ると、まだ濡れたままの彼が二階から顔を覗かせた。
「おや、もういいのかい?」
彼は、ゆっくりと階段を降りてきて、ルイに一枚の紙を渡す。
『気持ちよかった、ありがとう』
金の髪の毛から、ポタリと雫が垂れて、床板を濡らす。
「いいや、僕も水浴びが好きなんだ。石鹸の使い方が分かったみたいで良かったよ」
『村で使っていたから分かる。泥で遊んだあとはあれを使わないと怒られた』
「おや、石鹸を……? そうかい、君の村って……いやら今はよそうか。あれはいい石鹸だろう? 旧大陸の南部で手に入れて、ついでに作り方も教えてもらったんだ」
本当は教えてもらったのではなく、作り方を盗み見ただけなのだが。それは口に出さなかった。
薄汚れていた翼も、すっかり白くなっている。その翼に触れると、ツカサはピクリと肩を動かした。
「じゃあ、僕も洗ってこようかな。明日は──」
『洗濯ならオレも出来る、世話になってばかりなんだ。これくらいはやらせてほしい』
「おや、遠慮せずともいいのだけれども……」
彼は、はくはくと口で夜の挨拶をして二階に戻っていった。
「うーん、参ったな。思った以上にツカサくんと暮らすのが楽しいね」
川の水を鍋に入れながら、ルイは独りごちる。
これまで、誰かと暮らすというのは窮屈極まりないという認識しかなかった。自分の自由が妨害されて、うんざりしてしまうと思うことが多かった。
船を下りる前、ツカサと暮らすことを考えたとき、きっと楽しいだろうとなんの根拠もない期待はしていたが。
「うん、やっぱり楽しいね。ツカサくんもそうだといいんだけど……」
お湯を張った浴槽を片目に、シャツを脱いでその辺に放る。浴槽の隣には洗濯が必要なものの山が出来ていた。
「まぁ、洗濯……好きじゃないからやってくれるのは嬉しいんだけど……、ツカサくん、これ以上身体悪くしないといいな」
翌朝も天気は良く、太陽が輝いていた。
「おはよう、ルイ、洗濯するにはいい天気だぞ」
うっすらと目を開けていたところに、隣で声がした。少年というには、少し低い、よく響く声だ。
「えっ、誰!?」
聞き覚えが全くない。ルイは反射的に起き上がり、枕元に置いておいたピストルを構えかける。
しかし、目に映るのは驚いた顔をしたツカサと、背後の大きな翼のみだ。
「る、るい……?」
何が起こっているのか分からず、呆けた顔をツカサに向けていると、声は彼の口から発されている。
つまり、これは、彼の声だ。
「声……出せるようになったんだね」
「昨日の内に、出せるようにはなっていたんだが……まだ完全には治ってなくて黙っていたんだ。今も完治したというわけじゃないとは思うが、支障はない」
「そうかい……良かった。蜂蜜が効いたかな?」
「そうかもしれん! あれは美味かった! 村に帰ったら皆に食わせてやりたいものだな!」
完治したわけではない、その言葉は真実らしく、大きな声を出したあと、彼は少し咳込んだ。
翼に気をつけながら背中をさする。
「大丈夫かい?」
「ごほ、ああ、平気だ。随分と心配させてしまってすまない」
「いいんだよ、僕が好きでしてたことだから。朝食にしよう、またパンに蜂蜜でもかけるかい?」
「いいのか!?」
「いいに決まってるじゃないか」
足元のロープに気をつけながら、部屋を出て、階段を下る。
ツカサは、ルイが思ったよりも溌剌とした少年だった。声を出せるようになるとよく話し、よく笑う。
朝食の席では、蜂蜜がたっぷりとかけられたパンを片手に船の楽しかった記憶を話していた。不自由な旅だっただろうに、笑顔で楽しい思い出として語られるのはこちらとしても嬉しい気持ちになる。
そして、彼は優しい、素直な性格の少年だった。
朝食を終えると、ルイは蜂蜜が無くなっていることに気づいた。彼が食べられるかどうかが不安だったため、あまり量は買わなかったものの、二日で食べきってしまうとはよっぽど気に入ったのだろう。嬉しくて、頬が緩む。
「ツカサくん、蜂蜜が気に入ったのならまた買ってこようか?」
「へ、い、いや! 大丈夫だ!」
「おや、蜂蜜は飽きてしまったかい?」
「そうではないが……ルイ、お前金はいいのか? オレのためにこんな蜂蜜なんて高そうなもの……」
「いいんだよ。元々鉄の板とか武器にしか使わないお金だったから貯まっていたし、蜂蜜くらい気にしないでおくれよ」
「い、いや、それ以外にもだな! 世話になりすぎているというか……」
「言っただろう? 困っている人を助けるのは当然のこと、君も、これから僕が困っているところを助けてくれればおあいこってことでどうかな?」
「お前が困ることなんてあるのか?」
「あるさ、まぁ、君が助けられる分野かは分からないけれど。僕は器用ではないんだよ」
椅子の上で難しい顔をしながら唸るツカサをニコニコと眺める。
ルイの不得意は人とコミュニケーションを取ることと、家事全般だ。洗濯をやる、と言ってくれただけでも助けになっているということは、これからの生活で徐々に分かっていくだろう。
「でも、金が無くなってしまったら……」
「平気さ、稼げる。そこら辺の紡績機や、ぜんまい仕掛けの鐘の調子がおかしくなったりしたら直せるし、港に停泊している船の大砲を改良してあげたり、小銭稼ぎはいくらでもできるんだよ」
「す、凄いんだな、ルイは」
「そうだろう? だから心配しなくていいんだよ」
唖然の表情を向けてくるツカサに対し、ルイは、したり顔で返して手元のコーヒーを煽った。美味しくはないが、船上の酒よりはマシな味かもしれない。
「美味しくないのか?」
「顔に出てたかい?」
「はははっ、出てたぞ! ルイもそんな顔するんだな!」
声を出せるようになってから、彼は表情をコロコロと変えて、ルイを退屈させなかった。
ほんの少しの意地悪で、ツカサにコーヒーを渡して見たところ、彼は笑顔を一変、顔を青くさせて一言、「不味い」と言い放つ。
「うぇえ、なんだこれ、にがい……」
「ふふ、ごめんよ」
「悪いと思ってないだろう」
「ちょっぴりは思ってるさ」
残っていたコーヒーを飲み干して、空っぽになったカップをテーブルの上に置く。
こんな風に誰かと朝食を共にするのは、随分と久しいが、ここまで楽しい朝食は初めてだった。
「さて、食べ終わったところだし洗濯だな!……の前に、ひとついいだろうか」
「なんだい?」
食器をまとめ、テーブルの上を拭いていたツカサが、突如言い出しにくそうな声で顔を俯かせながら話を切り出した。
ルイはピストルの手入れを一旦止めて彼の話を待つ。
「その、だな、オレは今、翼を怪我してしまっているだろう?」
「そうだけど……もしかして、悪化したのかい?」
「いや! ちがう! 悪化はしてないんだ、ただ……」
伏せられた瞳は影が差していて、普段よりずっと暗い色に見えた。
ツカサは、添え木がついている左の翼をチラリと見やり、今度はルイの顔を見る。
「毛繕いが、出来なくてだな……」
「ケヅクロイ?」
「そう、毛繕いだ。人間は分からないかもしれないが、ハミングバードにとって翼は何よりも大切なんだ。しっかりと羽を揃えるのがオレたちのマナーというやつだな」
「あぁ……身だしなみというやつだね?」
「まぁ、そんなところだな。それで、左の翼がこうなってから羽を繕うことが上手く出来ん。何度か試してみたんだが、痛くて断念してしまった。だが……ほら、手入れをしていないからボサボサだろう? みっともないではないか」
ルイはツカサの翼を見つめる。
しかし、ルイにはボサボサというのがよく分からなかった。どこからどう見ても、白くて美しい翼だ。
首を傾げると、ツカサはムッとした表情でルイに背中を向けて、膝の上に座ってきた。
視界が白で埋め尽くされて、呼吸がしづらい。
「うわっ、え、ツカサくん!?」
「ほら、ちゃんと見ろ! 右より左の方が整ってないだろう?」
「ええ……と。うん、わ、分かった。確かにツカサくんの言う通り、左はボサボサだねえ」
「そうだろう? だから困っているんだ」
膝の上から降りたツカサは右の翼を身体の前まで持ってきて、指で梳くように整えている。
分かった、とは言ったが、実はよく分かっていない。だが、なんとなく、これ以上膝の上にいられるとよくない気がして誤魔化してしまった。
「僕が左の翼を整えてあげればいいのかな?」
「あぁ、助かる。ここ数日、ずっと落ち着かなかったんだ」
「そんなに嫌なら、もっと早く僕に頼んでくれればよかったのに」
「あー……そうしたかったんだが……。翼は……、その、と、とにかく頼む!」
ペタリとその場に座り込んだツカサの後ろに回って翼を撫でる。
何故これまで繕うのをルイに頼まなかったのかは不明だが、いつか理由が聞けるだろうと思い、気に留めないことにした。
怪我をしている骨に障らないように気をつけながら、羽の間に指を差し込んで梳くように落とす。これが毛繕いになっているのかは分からない。しかし、ツカサが何も言わないということは問題ないのだろう。
相変わらず、柔らかい、滑らかな肌触りで心地いい。顔を埋めたくなるほどだ。
しばらくそうしていると、ツカサが振り返る。
「すまなかったな、もうだいぶ整った」
「ふふ、力になれてよかったよ。これくらいならいつでも出来るから、また気になったら言っておくれよ」
「本当か? じゃあ……翼が治るまで、毎朝頼んでもいいだろうか……」
「大丈夫だよ」
最後に両翼をゆっくりと撫で下ろす。
「じゃあ、僕は出かけてくるよ。必要なものとかあるかい?」
「え、あぁ、そうだな……」
立ち上がってみれば、床の上にいる彼を見下ろすことになる。
ルイの言葉に顔を上げた彼は、ほんのりと頬が赤みがかっていた。
「杖みたいのがあるといいな。階段とかは手すりがあるからいいんだが……」
「あぁ、そうだね。気づかなくてごめんよ」
思い返せば、移動する際はいつもルイの肩を借りていたり、テーブルに掴まっていたり、とどこかを支えにしていた。
自分の身ではないことには、なかなか気が回らない。
「よし、じゃあ、今日作ろう! いいものがないか見てくるよ!」
「いや、そんなに急がなくとも……」
「ツカサくんは二階にいるんだよ、誰が来ても扉を開けてはいけないからね?」
「分かった分かった、じゃあオレは二階に行って洗濯をしよう」
「よくよく考えたら洗濯には水が必要だったね。井戸から汲んでくるよ」
夕暮れ時、家に帰ると、バスルームには山積みになった衣類が、石鹸の香りを纏っていた。
「これは……すごいな」
「ルイ? 帰ったんだな、おかえり」
「…………ただいま、ツカサくん」
バスルームに足を踏み入れると、山の向こうから彼の声がして、顔を覗かせる。彼はまだ、洗濯をしている途中だった。
「すまん、なかなか終わらなくてな……」
「これだけ量があれば当然だよ。干すの手伝うよ、まずは干すための場所作りだね」
あちらこちらにロープを張って、衣類を通していく。面倒な作業だが、未だに洗濯をしている彼を見ると、いつもよりは身体が軽く思えた。
洗濯物を干し終えたときには、外は真っ暗になってしまっていた。
「さて、今日のディナーだけども」
「ああ」
「僕、肉を焼くことしかできなくて……。豚肉と牛肉、どちらが好みだい?」
暗がりの中、吊るされたランプに照らされたツカサの顔はあっけにとられているような、そんな顔だった。
ルイは家事が全般苦手だ。それはもちろん料理も含まれる。
「材料はあるんだけど、僕が作るとなんか、味が変になるというか……」
「オレが作ろうか?」
「ただ肉を焼くという単純な工程で十分生きていけるんだから──へ? ツカサくん料理できるの?」
「少しだけな。材料はあるんだろう?」
彼はよろよろと壁をつたいながら、暖炉のそばにあった樽を探っていた。
「凄いね、料理できるなんて」
「母さんが作っているのを横目に見ていたりしていたからな」
「お母さんが料理を作っていたのかい?」
「そうだぞ。ルイの家では違うのか? 誰が作っていたんだ?」
「あー……。僕の家は料理を作るためだけの人がいたから」
「そうなのか……」
牛乳や小麦粉を手に取った彼は大きな鍋に水を入れてくれとルイに頼む。
「おい、野菜がないぞ」
「そんなもの要らないよ」
「必要だ! 明日買ってこい! これでは料理にならないじゃないか!」
「えぇ……」
包丁を片手に怒る彼の声は非常に大きい。しかも、何故か頭がぐらりと揺らぐ感覚があり、ルイはテーブルに手をついて息を吐く。
「野菜を食べるのは大事だと、みんな言っていたぞ」
「そんなものかなぁ」
手元の茶を煽ると、頭の感覚はすぐに治った。
彼は再びルイに背を向けて、暖炉の方に向かうと手際よく肉を切って鍋に入れていく。
少しだけ、なんて言っていたが、ルイからみればもう上級者だ。
そうして会話を交わしているうちに料理は完成したらしい。鍋のグツグツと煮える音と、煙とともに香るまろやかな匂いは食欲と空腹を刺激してくる。
机の上に置かれたのは、そこの深い皿に入った白いポタージュのようなものだ。
「シチューだ。本当は野菜を入れたかったんだが……」
シチューはルイも知っている料理だ。スプーンで掬って口に運ぶ。
濃厚で、優しい味わいが口の中に広がって、喉を通っていって、二口目は自然に口に入れてしまっていた。
「美味いか……?」
「うん、美味しいよ! 家の中でこんなに美味しいもの食べたの久しぶりだ」
「今まで何を食べていたんだ?」
「焼いた肉と、甘いものが欲しくなったら蜂蜜とか砂糖を食べていたよ」
「焼いた肉……」
絶句したままのツカサを置いて、鍋からおかわりのシチューを盛り付ける。
「ルイ、これからは、オレが料理を作ろうか……?」
「いいのかい?」
「船の外くらい、ちゃんとしたものを食え。焼いた肉だけはダメだ。目玉焼きとかは作れないのか?」
「目玉焼き……卵は割れるんだけど、焼けるのが待てなくて放置してる間に焦げてるんだよね」
「お前……焼いた肉じゃなく焼けた炭を食べてはいないだろうな……」
「ご想像にお任せするよ」
結局その日はシチューを四杯食べて、眠りについた。翌朝目を覚ますと、彼が簡易的な朝食を作っている光景に笑顔が零れる。
それから一ヶ月経つ頃には、すっかり共同生活に慣れきってしまった。他人がいることに全く嫌悪感を覚えない自分に驚きつつ、毎朝ツカサの翼を繕っている。彼の翼はまだまだ痛むらしい。
先日、たまたま港近くのパブに入ると、アンディとバルトロメオに会った。二人はそれぞれ、エールとウイスキーを片手に談笑していた。
「やぁ、元気そうじゃないか」
ルイが挨拶を交わすと、二人はルイの分の酒を用意する。グラスが二つ、エールとウイスキーだった。
「頼んだもの、届いたかな?」
椅子に腰掛けてそう尋ねれば、バルトロメオは封筒を懐から出してルイに渡した。
「ふふ、ありがとう。またよろしく頼むよ。さて、航海は、あと一ヶ月後を予定しているんだ。君たちはどうする?」
返事は両者ともにイエス。予想通りだ。
新しい航海図を手に入れたというバルトロメオは機嫌よくウイスキーを煽っていた。
そんなバルトロメオの言葉を聞いて、ルイはふと、しばらく疑問に思っていたことを尋ねることにした。
「僕の話し方は、気取って聞こえるかい?」
返事は先ほどと同じ。両者ともにイエスだ。
「船長が悪いんじゃないんです。貴方の訛りが、島の訛りとは全く違っていて気取っているように聞こえるんですよ。なぁ、ロミオ」
「……ゴホン、まぁ、そうですね。僕も訛りが酷い方ですけど、あくまでこの訛りはまた別のものなので」
「なるほどね、じゃあ、会って初めての人に嫌な顔されることが多いのは本当に言葉のせいか。酷い世の中だよ、よよ……」
「俺はなんとも思ってませんよ、船長。俺はどちらかといえばロミオ……君の訛りの方が嫌いだ」
「フォローのためとはいえ、人をこき下ろすのはよろしくない気がしますね」
「悪いが、事実だ。君の言葉は聞き取りづらい。田舎者そのものだ。風邪みたいに移るといいんだけどな。俺の素晴らしい発音」
「風邪みたいに、ねぇ。てめぇに移してやるか、汚ぇ発音!」
ルイそっちのけで会話を繰り広げる二人は、それからも発音に関してパブの中を賑わせていた。これなら客がおらずとも店主は退屈しないだろう。
パブのあとは本屋に寄った。一ヶ月後の間、滞在してる家には沢山の本が増えていた。
家の外には出れないツカサに、退屈しのぎの意味で買ったものだが、彼は大いに喜んで本を読んでいた。普段彼が使っている言葉とは別のため、辞書を片手にしている。読み終わるまでのペースはまだ少し遅いが、徐々に早くなっていた。
読む本は様々、童話や小説。新聞もよく読んでいる。
「ここは島国の領土だからか、あっちの本が多いなあ」
ペラペラと、売られている本を捲る。内容は舞台劇の脚本。男女の恋物語らしいが、最後まで読むと両者ともに死んでいる。
「こんなのが好みなのかい……? 向こうの感性はよく分からないね」
死んでしまっては何も成せない。
嘆息を吐いて、ルイは全く別の本を購入した。
更にそこから一ヶ月後。特に大きな事件もなく、とうとう明日が航海の日になった。
数日かけて荷物を船の中に運び出しており、複数人の男が船の上で今日も見張りをしているはずだ。
「世話になったねぇ、貴方のおかげで快適にここで生活が出来たよ」
「いやぁ、兄ちゃんこそ。新居がぶっ壊れたとき直してくれたの助かった。兄ちゃんの腕で、この大陸なら仕事なんていくらでも見つかるぞ? 本当に行っちまうのか?」
「僕ならどこでもやっていけることは分かっているさ。けど、それでも、国に囚われずに自由にやっていけるのは海の上しかない。だからいいんだ」
家に置いてあった複数の樽を、夜のうちに荷車に移動させた。二人で暮らしていると、金貨は減りが早かったが、やはり底を尽きることはなかった。そもそも、ルイの持っている金貨は、実は樽一つ分ではないのだ。船の中の隠し部屋にまだまだ残してある。
「明日か……ルイとこの町を歩いてみたいものだったな……」
「ツカサくん……」
暖炉の前で両腕では抱えきれない本を、彼のためのトランクに詰め込んでいると、彼は肩と翼を落として残念そうに言った。いつも窓から同じ景色しか見れなくとも、殆ど文句を口にしていなかったが、やはり、窮屈だったのだろう。
添え木が取れた翼を撫でる。怪我は、数日前にようやく良くなった。
「ルイ、お願いがあるんだが……」
「うーーん、了承しかねるなあ」
「まだ何も言ってないぞ」
「危ないよ。夜とはいえ、人通りが無いわけじゃないんだよ?」
数十冊の本が詰まった、重たいトランクを閉じてベルトをかける。
その手に、ツカサの手が重なった。眉を八の字に下げて、もう一度、「頼む」と懇願してくる。
「……うぅ、でも……」
「翼が治ったかどうか、飛んでみたいんだ。家の中じゃ危なくて飛べないだろう?」
「だけど…………」
「家の前でいい!」
「分かった、分かったよ。はあ、見られないといいなあ」
ずしりと重いトランクと、ツカサの顔。
自分はこの町を闊歩していたが、確かに家の中に閉じ込められ続けたら外が見たいと思うのは当然だ。
ルイ自身、幼いころから言いつけを守らず屋敷を抜け出した覚えがある。
ここは、彼の意思を尊重するべきだろう。
「ただし、目立たないように灯りは持っていかないから飛ぶときは家の壁とか屋根に気をつけるんだよ?」
ゆっくりと家の扉を開けて周囲を見渡すと、とりあえず人はいない。月は雲に隠れている。これならば大丈夫だろう。
「飛ぶのは久しぶりだ!」
「そっか……そういえば僕もツカサくんが飛んだところを見たことないねえ」
「はーはっはっはっ、では見せてやろう!」
「ツカサくん、静かに静かに」
外に出ると周りの家の窓は暖炉の灯りでぼんやりと赤い。メインストリートから離れているので街灯はなく、ときおり、馬車の音が聞こえるのみだった。
「飛べそうかい?」
「風も強くないから大丈夫そうだ」
身体に当たる風は、最初にこの町に降りた時よりも冷たくなっている。
「よし、飛ぶぞ」
目の前で、大きな音を立てて翼が広げられた。弾みで抜けた羽根が視界の中に舞い散る。
ルイの両腕を広げても、ずっと、大きい翼。
気がつけば、ツカサは自分の身長よりも遥か高い場所にいた。
「わぁ……」
羽ばたく度に、大きな音が鳴り、心地よい風が頬を撫でる。上から降ってくる羽根は、雪のようで綺麗だった。
不意に、雲の隙間から月が覗いた。
「翼、ちゃんと治ったみたいだ。これで…………、ありがとうな、ルイ」
「すごく綺麗だったね」
「そうだろう!」
金の髪が、月明かりに照らされて鈍く輝いているのがこの世のものとは思えないほど美しい光景だと思った。
足元に散らばる羽根は、白金のようで。
飛ぶことに満足したツカサが、ゆっくりと地に降り立った。
「ハミングバードを、神の使いなんて言った昔の人の気持ちが分かったような気がするよ」
「本当か? まぁ、普通に暮らしていれば見れるようなものではないからな。ルイは運が良いぞ」
「ふふ……。ねぇ、翼を撫でていいかい?」
「いいぞ。ルイなら」
鼻高々に笑う彼の翼を撫でて、顔を埋める。
「ふ……ぁっ! おい! ルイ!」
「いやぁ、君の翼、前々からこうしてみたかったんだよねぇ」
「くすぐったいんだが!? 調子に乗るな!」
「……うっ、いてて……」
どうやら少々やりすぎてしまったようだ。彼の声に、頭が揺れる。
「ほら、家の中に戻るぞ!」
「よよよ……」
「撫でるだけならいくらでもさせてやるから」
「それよりも、ツカサくんの料理が食べたいなあ」
「明日の準備が終わったらな」
家の中に戻ると、二つのトランクと複数の樽が中途半端に放り出されている。
「そうだ、ルイ。あの船は次は何処に行くんだ?」
「次かい? 次は……旧大陸に向かうんだ。」
「……旧大陸。ルイの来たところか……」
ルイは自分のトランクから地図を取り出す。新大陸と旧大陸の両方が描かれた地図だ。
「今僕たちがいるのはここ。向かうのはこっちだ」
「ほう……。じゃあオレの生まれた場所はここだ!」
「へ? 君、地図が分かるの?」
「村にあったからな。村があるのはここだと教わった」
「文字もかけるし、本当にしっかりした施設だね」
ツカサが指を差したのは現在地よりもずっと南。南方の新大陸だ。
「……バルトロメオの言っていた通りの場所だねえ」
「…………そういえば、まだルイにはオレの村の話をしていなかったな。準備がてら、最後に話してやろう」
「え、あぁ、うん?」
最後。その言葉が妙に引っかかったが、ルイは口には出さない。
ツカサはその辺に落ちていた大量の衣類をひとつひとつ丁寧に畳みながらその瞳を細めた。焦点はどこにもなく、どこか遠いところをみていた。
「村には、オレ以外のハミングバードも沢山住んでいたんだ。ハミングバードが安全に暮らせる唯一の場所だって領主様は言っていたな」
「なるほど、領主が父親か」
「ん? 父さんは領主じゃないぞ? 領主様は人間だ。ルイたちと同じく、旧大陸から来た人だと言っていた。あいにく地図のどこなのかは忘れてしまったが」
ルイは、この家に仕掛けていたぜんまい仕掛けの罠を解除する。
「オレの両親は、遠いところから逃げてきたと言っていた。領主様に助けられたのだと。父さんはここよりずっと東の出身で、母さんは……どこかの貴族の屋敷に子供の頃からいて、どこで生まれたのかも忘れてしまったらしい」
「親切な人間もいるんだね」
「あぁ、でも、村にいる以外の人間はみんな恐ろしいものだと教えられていた。親切な人間なんてそういない、と」
「自由だったかい?」
「ああ。村の中ならいくらでも外に出て飛べたんだ」
空いている樽の中にぜんまい仕掛けを放り込む。これは改良した船の新しい部屋でまた使う。
「──少し前、妹が流行病にかかってしまって、村の外の、山の方に薬草を取りに行った」
「それで、その安全な村を離れたんだね」
「あぁ。小さい頃からよく行く山だったし、あそこに人間はほとんど立ち寄らないから油断していたんだ」
きっと、彼が見つかったのは新大陸に新しいものを求めてやってきた旧大陸の者だろう。一攫千金の為ならなんだってする。
「すぐに飛んで逃げたんだが……。どうも、あいつら、オレの翼に何かしたらしくてな。オレが飛んでいった先に仲間のハミングバードがいるはずだ、なんて言うんだ」
「それで……」
「とりあえず全員気絶させたが、そこで雨が降ってきてしまった」
「そうだった、君たちハミングバードは強いんだったね」
最初から気絶させればよかったのではないかとも思ったが、彼は優しい。なるべく人を傷つけないようになどと考えていたのかもしれない。想像は容易にできた。
しかし、とツカサは口にする。それまで得意気だった表情は曇りを見せた。
「それで、その……だな、反射的に飛んだから家がどこか分からなくなって、雨の中をさまよっているうちに体力が無くなってしまって……気がついたら知らない船の中だったわけだ」
「うっかりやだねぇ、君は。妹さん、きっと心配しているよ。もちろん君も、妹さんが心配だろう?」
「あぁ、今オレが杞憂なのは妹が生きているかどうかだ。オレがあんなことをしなければ……」
彼の持つ衣服に、ギュッと、皺が寄る。
彼はいつだって、妹のことや故郷のことを言わず、笑顔でこの生活を楽しんでいた。だから、ルイは、そこまで気にしてもいないのかと思い続けていたが、口や態度に出さなかっただけのようだ。
「家に帰りたいかい?」
「ああ……」
「そんなツカサくんにいいものがあるよ。昨日、バルトロメオに届いた手紙だ。読むといい」
ルイは懐から一通の封筒を取り出す。赤い蝋で封をされていて、細か模様が刻まれている。
ツカサはそれを受け取ると、しげしげと興味深そうに眺めてから、手紙を取り出した。
「読んでいいのか? バルトロメオ宛なんだろう?」
「表面上の宛名はね。本当の宛名は僕や、君にだ」
「オレに?」
「まぁ、読んでみなよ。僕らはただ二ヶ月休んでいたわけじゃないのさ」
ルイの言葉に首を傾げる彼は、3枚に重なった手紙を広げて、読み始めた。
「感謝の気持ちでいっぱいです……? 貴方が保護したと聞いて、父は安心していました……、その駒鳥の妹は、心配するあまりにナイチンゲールのようになっていたようですが、無事を知って……って、これ、どういうことだ!?」
「君の領主様宛に手紙を書いたんだ。その返事だよ」
目を白黒させて、手紙を握りしめるツカサにルイはしたり顔で種を明かす。
「君の出身地、バルトロメオがたまたま知っていたんだ。とある貴族が、ハミングバードを匿っている場所があるから、きっとそこだろうとね」
「知ってたのか……」
「正確な位置までは知らなかったさ。知ってたのは全部バルトロメオ──彼だけだ。しかも、彼はその貴族の名前を知っていた。だからそこに手紙を出すことにした」
ルイが手紙を書き、バルトロメオに渡した。内容は、迷子の駒鳥をお預かりしています、ということと、駒鳥にはツカサという名札がついていたこと。
その手紙は一ヶ月後に返信がきた。
内容は、父に確認を取るから、確認が取れるまで待って欲しいというもの。
そして、それから一ヶ月待って届いた手紙がツカサの手にしているものだ。
「ほ、本物なのか?」
「多分、本物だよ。バルトロメオは筆跡を真似るなんて器用なことは出来ないし……この蝋に刻まれている紋章は君だって見たことあるんじゃないかい?」
「紋章? 確かに、似たようなのは見たことあるが……あまりハッキリは覚えてないぞ」
「とにかく、こんなもの偽造なんて出来ないよ。僕ならできるけどね」
「信頼性が下がったが?」
「大丈夫だよ。配達員だって貴族から貴族の手紙に下手なことはできない、丁重に運んだはずさ」
「ん? 貴族から、貴族?」
「……なんでもないよ、忘れて」
地図を畳んでトランクに詰め込む。端の方に、チラリと、銀色の指輪が見えたが、見なかったことにして底の方に押し込んだ。
「なんでオレに何も言わずにこんなこと……」
「……なんでだろうね。言いづらかったんだよ、僕にも分からないけど」
新大陸に着いて五日目、たまたま道端で出会ったバルトロメオとパブに入り、ツカサの話になったとき、手紙を送ろうという案が出たのだ。
『船長は、彼をどうしたいんですか?』
パブでされた質問。ルイは、即答した。
『安全な場所まで届けてあげたい』
そこで、彼の出身地の話になり、そこはまだ安全な場所といえるのか、それを確かめるために手紙を書いた。封筒に蝋を垂らして、数年ぶりに手にした指輪を押しつけて、バルトロメオに頼んで手紙を待っている間、ツカサにこれを言おうとは思えなかった。
説明はできないが、ただ、言いたくなかった。
「本当は、明日、航海の前に言おうとしていたんだけど……その手紙に書いてある通り、僕は君の領主様や家族に君を送り届けると約束したんだ。これからしばらく僕の船にいてくれるかな?」
「……実は、もう、迷惑をかけたくないから、お前の船には乗らないと言うつもりだったんだ。でも、言えなくなってしまったな」
「なんだいそれ。僕は迷惑なんて思ってないのに?」
「気を使わせてしまっていただろう……。翼も治ったし、ここから南まで飛ぼうと思っていた」
「そんな危ないことさせないよ。南の方は雨がよく降る、また風邪を引いてしまうかもしれないじゃないか。せっかく君の声が聞けるようになったのに……。全く、手紙を書いて正解だったね」
手紙を握りしめたままのツカサを、理由もなく、腕の中に引き込んだ。背中に手を回すと、柔らかい羽根が肌を滑っていく。
「……よく、父さんが言ってた。ハミングバード相手に親切にできる人間はほとんどいない、変わり者だって」
「ふふ、そうだよ。僕は変わり者なんだ。言ってなかったかな? 社交界ではそれで有名だった」
「それは初めて聞いたぞ」
「じゃあ、覚えておいてよ」
胸の中で、紙に皺が寄る音が聞こえた。
「サキ……無事だったんだな。よかった」
「サキ……? 手紙の中の、ナイチンゲールのことかな」
「ああ、妹だ。よかった……本当に、よかった」
背中に回された温かい手が、ルイの服を鷲掴む。
ぐすり、という鼻をすする音は聞こえないフリをした。
「なあルイ……本当に、船についていっていいのか?」
「もちろん。僕は、ツカサくんといるのがすごく楽しいから大歓迎だよ。君こそ、勝手に決めてしまったけれど、船の上の不自由は大丈夫かい?」
「平気だ。飛ぶことさえ出来ればいい」
「船の上ならいくらでも飛んでいいよ。ただし、はぐれないでね。危なっかしいことをしたら、君の足に縄をつけてしまいそうだ……いや、やっぱりダメだね」
背中から腕を下ろして、細い足首を優しく掴む。
ここに縄をつけたら、痣になってしまうかもしれないと考えると、先ほど口にした案は即却下になった。
「オレの家まで、どれくらいかかるんだ?」
「うーん、少なくとも、ここで暮らしたよりは長いはずだよ。早く帰りたいよね、ごめんよ」
「いや……大丈夫だ。ルイとはまだまだ一緒にいられるんだな」
暖炉の火に照らされた翼は、ほんのりとオレンジ色に見える。彼の髪の毛の先端より、少し濃くて、温かみのあるオレンジ色だ。撫でてみると、心なしか、じんわりと手のひらが温まる。
「楽しみだな、明日から」
「うん、そうだね」
胸にかかる、温かい呼吸に、伝播されたのか。手のひら以外にも、身体そのものがポカポカと芯から熱くなっていく。
自分の鼓動が早い気がするのは、気のせいだろう。
しばらくそうして抱き合っていたが、ツカサがゆっくりと腕を解いてルイから離れていった。数分ぶりに見た顔は、頬が赤く色づいていて、瞳も若干赤くなっている。
「……ルイ、そろそろ夕食にしよう。明日からはまた干し肉生活だから、今日は豪華にするぞ」
「ふふ、旧大陸近くの島に寄ってからは、ちょくちょく寄港するから干し肉以外のものも食べられるけど……そうだね。何を作ってくれるのかな?」
「お楽しみ、だ!」
「じゃあ、荷造りしながら待つことにするよ」
その日の夕食は、彼の村でよく食べられたらしい、旧大陸南方の料理だった。海の幸と香辛料を沢山使って出来上がったそれは、あまりにも美味しいものだから、一晩で食べきってしまった。