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    新刊の進捗
    海ハミ
    ひと段落したので

    海ハミ新刊「やあ、どうやらこの船は僕たちにとって宝の山だったようだ」
     揺れる船体の中、片手にピストルを構え、床に転がる死体を蹴飛ばしながら男は笑ってみせた。天井の木の板から微かに漏れる陽光が、深い紫の髪と鮮やかな金の瞳を照らす。
    「そうみたいですね、ひとまず助かりました」
     隣の男も、茶髪と浅黒い顔を血で染めつつ、応えるように笑顔を浮かべた。

     男は、巷では名が知れた海賊船の船長だった。どこの組織に属すことなく、天才的なセンスで幾多の追手から逃れ、時には返り討ちにしてきた。その結果、各国のお尋ね者という立場になってしまったのだ。
    「さて、この船長さんは何をあんなに隠していたのか……。早速暴かせてもらおうか」
     海賊船の船長──ルイはニコニコと曇りのない笑顔を浮かべながらピストルを腰に戻し、部屋の中をグルリと見渡す。鼻歌でも歌い出しそうなほど、良い笑顔だった。ルイの機嫌がこんなにも良いのは、この船を制圧出来たことによるものではない。実は、海賊船は、今の今まで窮地に陥っていた。それが、この船のおかげで救われたのだ。
    「本当、どうなるかと思いましたよ。このままだったら餓死するところだった……」
    「まさに渡りに船、食糧も地図も手に入って一石二鳥だねえ」

     先月、海賊船はいつも通り旧大陸の南方を堂々と航海していた。燦々と照りつける太陽を恨めしそうに睨みつける水夫たち。この光景はいつものことだとルイは遠目で笑っていた。暢気な航海だと揶揄われることもある。だが、大抵の敵からは逃げられる上に、戦いでは負け無しの海賊船と船長一行だ。そのときは誰もがそう油断していた。
     しかし、運が悪いことに海賊船は敵国に出撃している途中の艦隊と出くわした。三隻の船に対して百は超える船の数。これにはいくら天才的な頭脳を以てしても勝てるわけがないと確信し、ルイが何を言わずとも水夫たちは持ち場に走り出し、とにかくがむしゃらにその場から逃げ出した。風に煽られて裏返ってしまった旗と、生温い水飛沫は逃避行に臨場感をもたらしていた。しかしこれは敗北したということではない。被害がないのだからむしろ勝利とも言えるだろう。常勝というのは勝てない戦いを見極め、戦略的撤退が出来るがゆえの称号だ。
     結局、冷静な舵取りによる早期撤退によって大した被害はないまま艦隊を撒けた──のだが。困ったことに気がつけば、海賊船は未知の海域を航行していた。ルイも、航海士も、水夫たちも誰も知らない海だった。海図はない、陸がどこにあるのかわからない。近くに貿易船の影もない。
     その結果、食糧も飲み水も危機的状況に陥っていたのだ。雨が降ってくれれば水はどうにかなるが、長くは保存できない。節約していても干し肉は三日と保たない計算だ。しかも、二日前にはとうとう壊血病の者が出始めた。
     それが今日、海の上で初めて船を見かけることが出来た。あの船に食糧があれば譲ってもらおう。腹を満たすことが出来ない財宝ならばくれてやる。早くこの地獄から解放してくれ。船員は歓喜し、ルイもその船に一縷の望みをかける勢いで接近した。
     すると、向こうの船は、海賊船だと気付いてかは知らないが、いきなり主砲を向けて撃ってきたのだ。砲弾は当たらずに海へ沈んだいったが、これでは話し合いも何もない。どう考えても向こうの船はこちらを沈めにかかっている。

    「どうやらどこかに寄ったあとの船みたいだ。沢山の胡椒に、おや、干し肉もあるねえ、ありがたい」
     紳士的な話し合いが出来ないのならば仕方がない。これは報復だと誰かが口にし、誰もがそれに賛同した。襲われ、無惨に命を散らした貿易船の乗組員には悪いが、大した腕もなく先に手を出してきた方が悪いのだ。これを非道だと思うだろうか。しかし少なくともそう割り切っていかなければ海賊として、いや、この世界では生きていけないのだ。
     とっくの昔にそれを割り切ってしまったつもりでいるルイは、もう殺してしまった船長のことなどとうに忘れ、この貿易船から運び出すものを選ぶ。食糧が最優先で、その他ならば高値で売れるもの。幅をとらないもので、腐らないものが望ましい。
    「おや、これが隠し倉庫かな」
     そうしてしばらく船長たちがいた部屋を物色していると、ルイは大樽に遮られたドアを見つけた。目論見通り、とルイは笑う。
     というのも、この船の乗組員は貿易船にしては不自然に何か隠したがっているような態度だったのが気にかかっていたのだ。「もう海賊が嗅ぎつけたのか」「アレは絶対に渡すな」などなど。そんな言葉が飛び交えば、誰だって気になるものだ。戦闘の拙さといい、今回が初航海だったのだろうか。
    「よいしょ……っと」
     飲み水でも入っているのか、とても重い大樽を、全体重をかけて横へずらし、ドアに手をかける。顔に垂れてきた汗を拭うと、腕にはまだ乾いていない血がついていた。目の前の扉は木製で鍵穴や鍵はついておらず、押してみるとキィ、と音を立てながら簡単に動く。
    「……え、こ、れは……!」
     はてさてドアの向こうには何が隠されているのか。宝石か、金貨か。それとも食糧か。何が出てきても嬉しいことには変わりない。そんな思いで扉を押した。しかし、ルイはその中にあったものに驚愕の表情を浮かべ、言葉を失う。
     直立状態の人間が四人程度入れるような広さ。そこには宝石も金貨も食糧も見当たらない。その代わり、人間のようなものが床に倒れ込んでいた。
    「船長、どうしされました……って、え、それ……!!」
     この部屋の別の場所を探っていた男がルイの声を聞きつけて戻ってくると、やはり彼も驚いたような声をあげる。そんな彼に、ルイは口の端をあげて振り返った。
    「これは、予想外の拾い物だよ。まさかこんなところで見るとは思っていなかった」
     扉の向こうへ足を踏み入れる。ギィ、と板の軋む音と、金属が擦れるような音が鳴った。
     その人間のような生物は鎖で体を巻かれている上に口には轡を噛まされていた。今までの騒ぎを聞いていなかったのか、死んでいるのか。目の前の生物はぐったりとしたまま動いていない。ルイが膝を折り、ゆっくり、首筋に触れる。指には皮膚の下で液体が流れていく感覚があった。どうやら死んではいないようだ。
    「それ、ハミングバード……ですよね」
    「そうだろうね、初めて見たかもしれないよ」
    「僕もです」
     ハミングバード。それは旧大陸に暮らす者ならば一度は耳にしたことのあるだろう種族の名前だ。見かけは人間とそう大差がない。ただ、異なるのは背中に大きな翼を持っていて、空を飛べるということと、歌が強力な武器になるということだ。
     この船に囚われていたハミングバードはまだ幼さの残る少年で、美しいグラデーションに彩られた金の髪と、少年の身長ほどある大きな翼が特徴的だった。鎖の下の衣服はところどころ泥か何かで黒く汚れている。
     生きていると分かった二人はそれに手をかけて運び出そうとしてみせた。ハミングバードは希少な種族だ。かつては旧大陸で人間と共生していたらしいが、今は幻、或いは伝説上の生物と思われているほど滅多に見れるものではない。現にルイも、実際に目にするまで御伽噺に出てくる妖精や魔女と同じようなものだとばかり思っていた。
     ハミングバードを持ち上げようとすると、身体に巻きついている鎖が奥の杭のようなものに繋がっている。面倒だが、鎖を外さなければならないようだ。海風のせいかあちらこちら錆びている鎖に手をかけると、血で汚れていた手のひらに明るい茶色が混じる。
    「さて、このハミングバード、いくらで売れると思うかい?」
    「さあ……。何せ市場に表立って出まわるものではないですから、相場はわからないですよ」
     床に赤茶色の錆がポロポロと落ちていく。ほとんど誰もお目にかかれないような珍しい生物、売ったら大金が手に入るだろう。ルイはハミングバードの鎖を解きながら、売った金で何をしようか、考えていた。少年には悪いが、これが自分たちの生き方なのだ。


     貿易船に出会えたのは本当に運が良かった、と、この船に乗っている誰もが思っただろう。船で待機していた水夫たちが奪ってきた積荷を見て、歓声を上げているのが目に入ると、悪いことをしたあとでも達成感が出てくるものだ。
     全ての積荷を船に運んだのを確認したのち、ルイは先のハミングバードを自分の船へ連れていった。思わぬ幸運に沸いていた水夫たちは、次いで戻ってきたルイを見て呆気に取られたような表情を見せる。先程まで騒がしかった甲板は水を打ったように静かで、周囲の波の音がやけに目立つ。
     やはり、誰だって同じような反応をしてしまうものなのだな、とルイは一人感心した。この船には旧大陸出身者しか乗っていないはずだ。その水夫たちが皆信じられないと言わんばかりのリアクション。改めてハミングバードという存在の希少性を理解した。
    「それ、ハミングバード、ですよね……?」
    「うん、そうだね。たまたまあの船の中にいたんだ」
    「驚きましたよね、まさか、あんなところに……」
     甲板の上に集っていた水夫たちの興味深そうな視線が腕の中の彼に注がれるが、眠ったままでは当然気にならないようだ。ジッとその顔を見つめていると、やはり美しい髪に目を引かれる。言い伝え通りだ、とルイはその柔らかい髪の毛に指を通す。
    「やっぱり、売るとしたら貴族なんですかね?」
    「いや、僕たちが売るのは商人……だけど、そうだね、ハミングバードといえばやっぱり、貴族か……あぁ、そうか、確かに、そうなるね」
     一人の水夫が放った何気ない言葉に、ルイは瞳を細めて甲板の向こうを見遣った。
     旧大陸のハミングバードはその美しさから、貴族たちが屋敷に愛玩動物として飼っている、らしい。本当のことはよく知らないが、あの貴族たちならば有り得ない話ではない。半信半疑ではあったが、こうやってハミングバードが実在していたとなればより信憑性が増すというものだ。
    「貴族に、売るのか……」
     ハミングバードを眺めていると、ふと、幼い頃の記憶が蘇る。
     その昔、ルイは人より外見が良かったせいか、周りの子供やその親にハミングバードの混血を疑われたことがある。最悪な思い出だった。己を装飾品と同じように見てくるあの瞳。美しいとか、見目がいいと言うだけでハミングバードの血を疑われてしまうなんて侮辱されているような気持ちだった。
    「君も、貴族に売られたらあの目で見られるんだね」
     目の前にいる本物のハミングバードは、ルイの目には、過去の自分より美しく見えた。きっと、この少年を手に入れた貴族たちは喜ぶことだろう。
     興味本位で、ルイには生えていない翼に触れてみると、とても心地が良い。滑らかで絹のようだ。残念ながらその白い翼は先ほどまで鎖で巻かれていたからか少し錆がついてしまっているが。せっかく真っ白で綺麗な翼だというのに、それが目立ってしまっている。その汚れをどう取ろうか考えあぐねていると、水夫から質問が飛んできた。
    「船長、それを一体どうするつもりなんですか?」
     それ──ハミングバードのことだろう。無論、予定は変わっていない。先ほど貿易船の中で話した通りにどこかの商人に売り飛ばすつもりだ。そう発言したはずなのだが、それ以外に、何の使い道があるのだろうとすら思ってしまった。
     思いもよらなかった質問に、ルイは気の抜けた表情を水夫たちに向けて、次いで腕の中で眠るハミングバードを見つめる。すぐに答えるつもりだったのだが、つい、不思議と声が出なかったのだ。
     そうやって、ただ海風に揺れる金を目で追っていると、隣で声があがった。
    「売るんだ、ハミングバードは金になるからな。そうですよね、船長」
    「……そうだね、うん。そのつもりだよ」
     ルイの代わりに解答を提示したのは貿易船からハミングバードを共に運び出した男だ。赤くも見える茶色の髪に、茶色の瞳と日焼けした浅黒い肌の彼はこの船の航海士で、実質ルイの副官、二番手のような存在で、バルトロメオという。元々は商人だったのだが、ひょんなことからこの海賊船で舵をとっている優秀な人物だ。気がよく、大らかな彼は船長である自分よりも水夫たちから、おそらく、好かれており、ほとんど船長を兼任している状態といってもいいかもしれない。ルイがいないときの司令塔だ。
     そんな彼の一言に水夫たちはざわつく。何をそんなに動揺するのか、とも内心思ったが、時折り聞こえる「ハミングバードっていくらで売れるんだ?」という声に、その動揺を理解した。彼らは、ハミングバードが価値のあるものだという認識はあるものの、市場価値は未知のままだということだ。残念ながらその質問にはルイもバルトロメオもすぐに口を開けない。二人がわかることは相当な価値があるだろうということだけで、目の前にいる水夫たちと全く同じ状態だからだ。
    「まあ、きっとそこいらの宝石より高値がつくさ」
     だからルイは、適当に、知っている限りのことを口にする。隣でバルトロメオも頷いた。こうして自信満々のように言えば、水夫たちは説得力もない言葉を信じたようで。
     船に張っていた帆が大きく音を立て、その場にいた者は上を見上げる。甲板は静寂に包まれた。風に吹かれて手元から羽根が数枚舞う。羽根はそのまま甲板の上に落ちていった。
     一際強い海風が、去っていったのを確認すると、ルイはパンッと手を鳴らし、「さて」と爽やかに切り出す。
    「ひとまずこの金の話は終わりにしよう。僕はこの子を──ああ、僕の部屋でいいかな、僕の部屋に寝かせてくるよ。では、あとのことは頼んだよ」
     無責任にも捉えられるようなルイの言葉。しかしバルトロメオはいつも通りの「はい」という返事をして、ルイより一歩手前に出ていく。水夫たちの関心は彼の方へと移っていった。

     船首の方の甲板を降りて、右舷側にある扉。そこがルイの部屋、船長室だ。鍵などはないが、仕掛けがある。本来ならば、天井からそのまま梯子を下ろしている部屋だった。しかし、扉がないと落ち着かないから改造したのだ。
     ルイは手慣れた手つきでその仕掛けを解いて扉を開いた。船長室なんていえば立派なものに聞こえるが、ここにあるのはベッドと机代わりの大樽、椅子にして使う樽、引き出しががたつくチェストが一つあるだけだ。床は何も敷いていない木の板で、天井からは板の隙間から日差しが漏れている。夜はその日差しが柔らかい月明かりに変わるのみだ。足を踏み入れると、ギイ、と木が音を立てる。ルイは抱いていたハミングバードを優しく、起こさぬように粗末なベッドに下ろそうとして、一拍考えた。呼吸と共に小刻みに動く翼は足の骨よりも弱そうに見える。これでは背を床に向けて眠ることが出来なさそうだ。普段彼らはどのようにして眠っているのだろうか、など疑問だが無難に身体を横に向けておいた。
    「さて、これからどうしようか」
     一仕事終えると、ゆっくりと溜めていた息を吐き、床に膝を下ろしてベッドの縁に手をかける。吐き出した言葉には疲労だけではない何か別の感情があった。
     これから──。ボロボロの布切れの上、轡の上から浅い呼吸を繰り返すこのハミングバードをどうするのか、それは決まっている。売り飛ばすのだ、商人に。
    「商人に売って、貴族の元へ……。おや、待てよ……?」
     しかし、では、この船にいる間はどうするつもりだったのだろうかと考えたとき、ルイは目を瞠る。少なくとも陸地に着くまでは商人と取引は出来ない。
    「なるほど、そういえば、この子を船の中でどう扱うのか決めていなかったな」
     ルイが海賊として今まで生きていけたのは天才的な頭脳を持っているからだけではない。常に冷静、的確な判断を素早く下せるからだ。しかし、こんなことは初めてだ。後先のことを考えず、衝動的に行動してしまうなんてことは。ブーツが、乾いた音を床で鳴らした。もしかするとあのときの水夫の問いの真意はこういうことだったのかもしれないなんて今更だ。
    「轡は、外してあげた方がいいのかな、いや、でも……」
     ようやく思考を再開した脳みそは、まるで自分のものではないような鈍さだった。のろのろと、何かがつっかえているような感覚だ。樽に座ったまま、無意識にベッドのシーツを握りしめる。
     この、轡を外してもいいものか、というのはルイにとって難しい問題である。先ほど甲板でいわれていた通り、ハミングバードは歌が武器だ。実際に目にしたことはないが、童話やマザー・グースに描かれる彼らはいつだって歌で悪を退け、人を救っていた。それを知っていたから貿易船の乗組員は彼の口を塞いだのだろう。
     一度人間の悪意に振り回された人物は簡単に人間を信用しなくなる。しかも彼は貿易船で見つけたときから一度も目を覚ますことなく眠っているのだ。轡が外れた状態で目を覚ましてしまえば、何をしでかすかわからない。だが、轡を外しておいてやればこちらに敵意は無いと考えてくれるかもしれない。すでに鎖は解いてやっている。この時点で待遇は先ほどいた貿易船よりもいい。
    「そもそも、どうして僕は自分の部屋に寝かせようとしたのだっけ……」
     樽の上で腕を組みながら首を傾げると、日除けに被っていた帽子が床に落ちる。気がつけば、無意識に眉間に皺が寄っていた。
     貿易船から連れ出した当初は、このハミングバードを倉庫の中に置いて目を覚ますのを待つ予定だったはずだ。少なくとも自分ははそのつもりだった。
     けれども、と顔を上げて状況を整理する。今、自分は、何故か甲板を降りて自分の部屋に寝かせている。
     組んだ腕には今日の血が染み込んでいた。洗っても汚れが落ちないから、血は嫌いだ。
    「おかしいね、自分のしたことに説明がつけられないなんて」
     普段ならばありえない、一向に答えの出ない思考に、苛つきさえ覚えてしまい、コート越しに指が強く食いこんだ。しかし次の瞬間、ベッドの上からくぐもったような、掠れた、小さな呻き声が聞こえてくる。
    「……っ、う、う……」
    「! 目を覚ましたかな」
     耳をすまさなければ聞こえないような声だったが、思考が散っていた耳にははっきりとそれは聞こえた。確認のため、ルイはベッドに膝をかけて乗り上げ、彼の身体を、翼に負担がかからないように抱き上げる。
     すると、彼は髪の毛と同じ色の睫毛を震わせて、それをゆっくりと咲かせた。蜂蜜のように濃い、しかし透明感のある、金の瞳に、思わずルイは息を呑む。
    「おはよう」
    「……」
     ルイの挨拶に返事はなかったが、彼は瞬きを一度行ったあと、頭は動かさないままにぐるりと辺りを見渡した。もし暴れてもいいように、すぐ抑え込めるような体勢を取っていたが存外冷静なのか、それとも何が起きているのか理解出来ていないのか大人しい。そもそもこちらの挨拶の意味を分かっているのかも分からない。
    「おはよう、ここがどこなのか分かるかい?」
     もう一度、ルイは挨拶と共に語りかける。しかし、目の前にあるキャラメル色の瞳はこちらをジッと見つめたまま、なんの反応も示さない。
    「おはよう、僕の言葉は分かるかな?」
     そこで、今度は話しかける際の言語を変えてみた。自分に馴染みが深いこの言語は、出身が異なれば通じない者も多い。すると、運良くこの言葉は通じたようだ。彼は瞬きを一度行うと、ゆっくり、頭を縦に振った。
    「良かった、通じるようだね」
     こくり、再度金の髪が肯定に揺れる。意思疎通は出来る、この幸運にルイは安堵の息を吐いた。この状況は身振り手振りで言い表すのは難しい。
    「今、自分がどういう状況にあるのかはわかるかな?」
     ゆっくり、優しい、子供に語りかけるような声で問いかけると、彼は顔を曇らせ、ルイの服を強く握りしめてくる。わかると思って聞いたわけではない質問だ。きっとよくわかっていないのだろうと解釈し、続けて口を開いた。
    「君は船の中に閉じ込められていたんだ。そこまではわかるかい?」
     こくり。首は縦に動く。
    「その君を僕たちが見つけて、この船に運んだんだ」
     キャラメル色の瞳は、状況を精査するように辺りを見渡し、ルイの顔を見た。なんだか不思議な気分だな、と頭の片隅で思う。彼は体格はもう立派な青年だというのに、無垢な瞳に幼い顔のせいで赤子を抱いているような気になってきたのだ。
    「それで、君の身体に巻きついていた鎖は全て外してあげられたのだけれど……その口の縄も外して欲しいよね?」
     彼は、当然頷いた。そうだろうね、という言葉は飲み込み、たこや火傷で傷ついた指をほんのり赤く色づいた頬に滑らせる。ハミングバードは体温が高めなのか、頬はとても温かい、いや、熱いという方が正しい。そして柔らかい。そんな頬に食い込んだ麻縄は、うなじの辺りでキツく結ばれてある。外すときはナイフで慎重に切らなければ彼の身体も傷つけてしまうかもしれない。
    「でも、僕たちはハミングバードの君が、歌で僕たちに危害を加えないかが心配なんだ。だから約束してほしいんだ、君は僕たちを攻撃しない、と」
     最初は意識していたはずの優しい声色は、このたった数十秒間で無意識に発せられるようになっていた。
    「約束、してくれるかな?」
     彼は頷く。ついで、腕にかかる重さがグッと増えた。
    「ありがとう、それじゃあ縄を切ってあげるから、なるべく動かないでいてね」
     縄が切りやすいよう、彼をベッドの上にうつ伏せに転がし、頭を大腿で挟み込んで懐からナイフを取り出す。麻縄にナイフを食い込ませて引くと、細い繊維がぷつりぷつりと切れていく。この綺麗な金髪は切りたくないのだが、結び目に絡まってしまっているようで難しい。
     ナイフが半分ほど縄を切ったところで、ルイは彼の身体が小刻みに震えていることに気づいた。大きな翼も小さく折りたたまれていて、恐怖の感情が伝わってくる。
    「大丈夫かい? あともう少し我慢してくれれば終わるから……」
     ルイの言葉を聞いて、彼が何を思ったのかはわからない。しかし、ゆるゆると白くて細い指はルイの大腿に伸びてきて、しがみつくように触れられた。少しくすぐったいような気もするが、悪い気は全くしない。ルイは何も言わずに、縄を切る作業を再開し、ゆっくりと時間をかけて切り終えた。
    「終わったよ、もう大丈夫、喋れるかい?」
     彼の脇に腕を通して起き上がらせると、バサリと大きな音を立てて翼がはためいた。轡がなくなった顔には縄の痕がくっきり残っている。これは日が経てば治ってくれるだろうか。なんて、ルイが考え込んでいる間、彼は一言も発さなかった。もう喋れるはずなのだが、おかしいな、とルイは首を傾げる。
    「えーと、どこか具合が悪いのかい?」
     ルイの言葉に彼は喉を押さえてはくはくと口を開閉する。もしかすると、声が出せないのか。そう思って質問を投げかけると、やはり、彼はこくりと頷いた。


    「──ということなんだよ。目は覚ましたけれども、話せないようだし……」
     はあ、とルイの溜息は海風に攫われて消えていく。ハミングバードに水を持ってくると伝えて部屋を出たのち、甲板の上で、小さな樽に座りながら舵を握るバルトロメオに経緯を話した。
    「はあ、それは、まあそうかもしれませんね。彼はハミングバードですし、声が出せないようになっていてもなんら不思議じゃありませんよ」
    「え、どういうことだい?」
    「あれ、船長なら知ってそうだったけど……意外ですね」
     彼が声を出せないのが不思議ではないらしい。どうやらルイよりも目の前の彼の方がハミングバードのことをよく知っているようだ。「もったいぶらずに教えたらどうだい」、というと彼は笑う。
    「貴族たちに飼われているハミングバードは、喉を切られたり声を出せないようにされるんですよ。彼らの武器は声ですからね、反撃をされないように、というやつです」
    「いや……喋らせないだけなら轡だけで十分じゃないかい?」
    「あれは自殺予防という可能性もありますよ。轡なんかしながらどうやって水を飲ませたりするんですか」
     半笑いで繰り出されたこの話は、ルイの気分を酷く害するものだった。貴族という、身勝手な、自慢することしか頭にないような奴らがそんな仕打ちを彼らに与えているのかと思うと、怒りが湧いてきたのだ。
     すぐさまバルトロメオに一言礼を述べ、その場を立ち去る。このままでは不要な愚痴を吐いてしまいそうだったからだ。立ち上がって背を向けると、太陽の光が帽子に向かって照りつける。
    「ハミングバードを売るなんていうのは、貴族に媚びを売るのと同義ですよ、船長」
    「どうやらそうみたいだね。貴族というのは、いやあ、ダメだね」


     部屋に戻ると、ハミングバードは上半身を起こして翼をチラチラと確認していた。集中しているようだったから、驚かせないよう、音を立てて扉を閉めると気がついたようで、こちらに目線を向けてくる。
    「やあ、邪魔をしてすまないね。飲み物を持ってきたんだ、喉は乾いていないかい?」
     ベッドまで近づいて、弱い酒が入った容器を渡すと、彼は匂いを嗅いでから、おずおずとそれを口にする。
    「ごめんね、水はないんだ。それで我慢は出来るかな」
     長旅──ここまでのは想定してはいなかったが、長い旅では水は積んでおけない。しかし、彼は何も言わずに飲み干してしまった。その際、ルイはこっそりと彼の喉元を見ていた。先ほどの話が本当ならば喉を切られている痕がないか気になったのだがどうやら見当たらない。
    「君、どうして声が出せなくなったのかわかるかい? 誰かに何か飲まされたりとかしたかい?」
     声が出せなくなるには喉を切られるか、毒物を飲まされるかのニ通りがある。喉が無傷ということはきっと、あの貿易船の船員にやられたに違いない。
     しかし、彼は首を横に振ると指を使ってベッドシーツをなぞって見せた。何をしているのか、声を出せない彼に聞いてもわからないのでしばらく指の動きを見ていると、ルイはあることに気がつく。
    「もしかして、君、文字が書けるのかい?」
     シーツの上で動いていた指は、よくよく見ると、見覚えのある模様のようで、ルイの驚いた声に彼はニコリと笑って頷いた。これは逆からみると文字だった。彼は話せない代わりに文字を使って伝えようとしていたらしい。
     文字が書けるなんて予想外だ。文字を読むことすら出来ない人が大半だというのに。呆けたまま、ルイは大樽の上にあった紙とペンを彼に渡す。すると、彼はすぐにそれを受け取って、筆を走らせた。その動きに一切の迷いはなく、これはどこかで長期間言葉を学んだとしか思えない。
     数分後、彼は文字で埋め尽くされた紙をルイに渡してきた。読みやすい、大ぶりな文字は今まで大人しかった彼のイメージにはそぐわない。そして読んでみると、やはり、しっかりとした文章だ。
     気になるのは書かれている中身だが。どうやら彼の名前と、貿易船にいた経緯と、声が出せなくなった理由についてのようだ。
     彼はツカサというらしい。そして、元々はここより南の村で暮らしていたが、人間に追われて捕まってしまった、とある。その捕まった理由というのが、声を出せなくなってしまったから。逃げている最中に、突然声が出なくなってしまった。貿易船では何も口にしていない。
     ルイは改めてツカサを見る。何もなしに声が出なくなるなんてことはあるのだろうか、と思ったが彼が嘘をつく理由もない。そこで、声がなくなってしまう他の理由を考えた。逃げている途中に食べたものが原因の可能性がある。すると思考の途中で、ツカサがぐったりと前のめりで崩れ落ちてしまった。咄嗟にその身体を受け止めたが、腕の中にいる彼は苦しそうに息を吐き、顔の色は青い。そういえば、やけに体温が高いなと、少し前にも感じたことを思い出す。あの時はハミングバードはこういうものなのかと納得してしまったが、この様子のおかしさはきっと、違う。額に手を当てると、人間ならば高熱といわれるような熱さだ。
    「声が出ない理由って、もしかして……」
     神妙な顔をしたまま、ルイはひとりごちる。その言葉に反応する者はこの部屋には一人もいない。
    「とりあえず、おやすみ」
     瞼を閉じている彼は気絶しているのかそれとも寝ているのか。ルイは、苦しげに息をする彼を慎重にベッドへ横たえて、翼を撫でたのちに部屋を出て甲板への階段を登っていった。

    「風邪、ですか」
    「うん。熱を出しているようだったし、風邪を引いたら声が出なくなることもあるだろう? きっとそれでじゃないかな」
     太陽が地平線に沈むと頼れる灯りは月光だけで、雲がない今日のような夜は相手の表情もよく見える。ルイはバルトロメオと甲板の上で、昼間と同じようにハミングバードに関しての報告をしていた。
    「それにしても……声が出せなくなったから人間に対抗する術なく捕まった、というわけですよね?」
    「彼の話からすると、そうみたいだね」
     大して美味しいわけでもない酒ごと、不快な気持ちを胃に流し込む。目の前の彼も同じように酒を煽り、眉を顰めた。
    「話、そういえば、文字が書けるんでしたよね」
    「そうなんだよ、おかげで会話が出来るからありがたいけれど……」
     甲板の向こうには広大な海が広がっている。他の船の姿は見えないのを確認してルイは視線を戻した。
    「彼が暮らしていたのはここから南の方……もしかすると大陸があって、そこに住んで教育を受けさせてもらっていたということかな」
    「そう、大陸……ああ! そうだ! そういえば、あの貿易船から持ってきた地図なんですけど、これによると、西の方に進んでいけば大陸があるみたいです!」
     ハミングバードはどこへやら。大陸という言葉で彼は思い出したように大樽の上に地図を置いた。
     まだ途中だというのに話題を転換されてしまったことは一瞬不満に思ったが、ルイは黙って地図を眺める。ハミングバードよりも重要な話といえば、そうだ。
    「…………やっぱり、ここは新大陸付近だったんだね」
    「予想通り、というやつです。ここから旧大陸に真っ直ぐ戻るより、新大陸を経由した方がいいと思うんですよね」
     月明かりに照らされた地図に描かれている大陸はルイたちの出身地とは全く異なる形をしたものだ。ルイたちが生まれるよりもずっと前、旧大陸の住民は海へ出て、新しい大陸にたどり着いた。それがこの地図に描かれた大陸、新大陸だ。この船の乗組員にはほとんど、未知の場所である。
    「僕もそうした方がいいとは思っているよ。ツカ……あのハミングバードの風邪を治すためにも海の上より陸に上がった方がいいだろうから」
    「そうですね、風邪もこじらせたら死んでしまう可能性もある。そうなったら大金も手に入らなくなってしまいますし……」
    「え、あ、ああ、そうだね」
    「どうしました?」
    「いや……なんでもないよ」
     新大陸に寄港する主な理由は、物資の確保だ。これから先の航海も、今日の昼間のように積荷を乗せた船から物資が奪えるのであればいいのだが、それが出来れば今日まで苦労はしていない。
     そしてもう一つの理由がハミングバードを休ませるためだ。船の上は療養に向かない。ただ、バルトロメオの言葉が耳に入ったとき、ルイは胸の中に小さな違和感を覚えた。
    「それにしても、船長もいきなり新大陸では売らない予定だったんですね。良かった、新大陸よりも旧大陸の方が彼は売れますから」
    「え、そうなのかい?」
    「ええ、ハミングバードは労働力にはならないし、大金を出す貴族がいるのは旧大陸ですから。そことパイプをもっている商人が多いんですよね。……あれ、存じていると思っていたんですが……」
     チャリン、と樽の上の金貨が音を立てた。ルイの視界の中で煌めく金色は、あの瞳を連想させる。
    「……風邪、早く治るといいんだけどねえ」
     低い、小さな呟きは海の漣に掻き消えた。けれども、胸に残る違和感はいつまで経っても消えてはくれない。
     彼の推測では、三日以内には新大陸が見えてくるだろうとのことだった。


     翌日、ルイは朝までの見張りを終えたのちに部屋へと戻ると、ツカサはベッドから転げ落ちたまま寝ていた。床まで大した高さはないが、怪我をしていたら大変だ。そう思ってすぐに抱き上げてみると、綿織物越しに伝わる体温は熱いままで正常に呼吸をしていて、ルイはホッと息を吐く。そのまま膝に力を入れて持ち上げようとしたところ、彼はパチリと目を覚ましてしまった。慣れないだろう船の中、熱を出していてベッドから転げ落ちたにも関わらず、目覚めは随分と良いようだ。起きてからすぐに腕を伸ばすと、天井から漏れる朝日に瞳を向け、口を大きく、挨拶の形に動かしてきた。
     「おはよう」、と朝の挨拶を交わした後、ルイはベッドの上に彼を戻す。床よりはまだ柔らかい場所に降ろされた無垢な瞳はこちらを見上げて、首を傾げてきた。
    「そうだ、身体の調子はどうだい? 熱を出してるんだ。まだゆっくり寝ているといいよ」
     落ち着かせるような優しい声に、彼は喉を押さえてはくはくと口を動かし、指を空に走らせる。紙とペンが欲しいということだろう。
    「寝ないのかい?」
     文房具を受け取ると、彼はすぐさま文章を書き出した。時々、紙からインクがはみ出してベッドシーツに黒い染みを作り出しているが、その度に翼が大きく反応をするのが見てて面白い。
    『身体の調子は悪い。あちこち痛いし、怠いんだ。だが、一度目が覚めてしまって眠れない』
     彼は文字で埋まった紙を掲げながら、困ったような、不満げな顔でルイを見つめる。
    「でも、しっかり寝ないと治らないよ。君だって声をもう一度声を出したいだろう?」
    『寝れないものは寝れない。そんなことよりも、どうしてお前はオレを助けたんだ? 人間だろう? お前は一体、何者だ?』
    「うーーん、その質問は、長くなってしまうねえ」
     ツカサの文に、「困ったな」なんて眉を下げて頬を指で掻く。樽もよりも多少は柔らかいベッドに腰かけると、上着を床へ脱ぎ放って小さく息を吐いた。上着の風圧で床に散らばっていた羽根が舞う。本当は、もっと体調が良くなってから色んなことを教えるつもりだったのだが、というのが本心だ。しかし彼の方に向き直ると、興味津々というような、煌めく金の瞳を向けられていて、今更、あとで教えるよとはとても言えない。
    「僕たちは海賊さ。聞いたことある? 海賊」
     ツカサは首を横に振る。
    「簡単にいうと、この世界のどこの国……組織とも関係ない船の乗組員ってことだよ。」
     彼は目を見開いて頷いてみせる。この説明で、納得してくれたらしい。実情はここまで簡単ではないのだが、意味が伝わればいいだろう。ルイは「よかった」と言うと、彼の金髪に触れる。その指へ訝しげな視線を送るものの、特に何もしてこなかった。
    「それで、君を助けた理由なんだけど……」
     兎が耳を立てるように、羽がピクリと小さく動く。
    「君が最初にいた船に、わけあって僕たちは……お邪魔したんだ。そこで君を見つけて、保護したわけだよ。君だって、道端で人が倒れていたら親切にするだろう?」
     ジッとこちらを見つめてくる金の瞳に、思わず目を逸らしてしまいそうだった。肝心なことは伝えていない。どうか、ハミングバードという種族が、罪悪感という気持ちを敏感に受け取れる能力がないことを祈っていた。
    『オレは、道端に落ちている宝石のようなものだろう。売るためではないのか?』
     ルイの心を知ってか知らずか、返ってきた文章に、冷や汗が流れる感覚を覚えた。見透かされてしまっているのだろうか。ルイはベッドシーツを握りしめ、早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと小さく息を吐いた。
    「そうだね、君の価値は多分……宝石以上だ。けれど……」
     売るつもりはない。この言葉が喉の奥に張り付いて、どうしたって出てこなかった。ルイは自分の口に驚く。
     正直者でいたいわけではない。今までだって生きるために平然と嘘を駆使してきた。今だって、売るつもりなんてないという嘘の一言で彼の警戒心を解くことが出来る大きなチャンスだと思っていた。
     けれど、ルイはそのまま目線を彷徨わせ、床へと落とす。白い羽根が二枚落ちていた。部屋の中にはそこら中に落ちている。この羽根をかき集めて、クッションにでも出来たら寝心地がいいだろうか、など。考えることで自分の中の奇妙な感覚を遠ざける。
     数分後、黙ったままのルイの肩をツカサは叩いた。視線をやると、紙をぐいと押しつけてくる。どうやらこの沈黙の間に書いていたらしい。
    『疑ってすまなかった。村を出てからお前のような親切な人間に出会ったことがなかったんだ。だから、少し怪しんだフリをしてみただけだ。本当にただの親切心なんだろう? ハミングバードに声を出しても良いなんていう奴は初めて見たからな』
     眉を下げて遠慮がちに金の瞳を伏せるツカサの文章は、ルイが数分かけて退けた思考を一気に引き戻してきた。
    「さて……どうだろうね」
     含みを持たせて笑えば、彼は訝しげな表情を見せてこちらを覗き込んでくる。疑うことに慣れていないような透明な瞳だった。
     ハミングバードである彼は、この先貴族に売られれば声を奪われて宝石の一つのように自慢話に使われて、しかもこの美しさなら何をされてもおかしくない。今はこんなに透き通るような煌めきを持つ瞳が、濁ってしまうかもしれない。
     だから──
    「でも……少なくとも僕は、君を売ることに乗り気ではないかな」
     眩しい日の光は部屋の扉の前を照らし続け、そこに落ちていた羽根はきっと火傷しそうなくらい熱くなっているだろう。
     ルイが自分に出した答えは、これだった。きっと自分は彼を売ることには否定的なのだ。口にすると、奇妙な感覚はすっかり消え去ってしまったのがいい証拠だ。
     差し出された紙には、『なぜ?』とあった。
    「多分、僕が貴族を嫌いだからじゃないかな。君らみたいのを買うのは、貴族がほとんどらしいじゃないか。あの人たちのご機嫌取りに利用するのは、あまり気分がよくないからね」
     自分の中の感覚に答えが出たら、その理由もすんなりと分かった。ルイは晴れやかに笑ってベッドを降りる。
     自分が売る宝石も貴族を喜ばせているものの一つだが、宝石には感情がない。貴族が自慢のために振りかざしていても、宝石が何か思うことはない。しかし、彼は生きている。だから、きっと自分は嫌だった。過去を思い出してしまいそうで。
     自分の部屋に匿ったのは、風邪を治してやりたいのは、全て貴族たちの行為への反抗、対抗心に近い。
    「まあ、そういうことだから。少なくとも風邪が治るまではここにいるといいよ」
     床に投げていた上着は日差しで暖かくなっていた。昼間に羽織るには少々暑いかもしれない。腕を通すことなくまた床に戻した。
    「そのあとのことは、また考えようか」
     彼はこくりと一度頷いてから、顎に指をかけ、思いついたように紙に向かう。
     熱があるのに不思議なくらい元気だな、とルイはそれを黙って眺めていた。
    『お前の名前はなんと言うんだ?』
    「ん、あぁ、そういえばまだ教えていなかったっけ……」
     昨日からの記憶を辿ると、確かにルイは名乗っていない。指摘されるまで気づけなかったとは、とんだ失態だ。
     改めて、ルイはベッドに向かって姿勢を正して微笑み、胸に片手を添えて腰を折る。
    「初めましての時に名乗っておくべきだったね。僕はルイ、この船の責任者みたいなものさ」
    『ルイ、か。いい名前だな、よろしく頼む』
    「ふふ、こちらこそよろしくね」
     ハミングバードの信頼を得て、自分の気持ちに気づくことが出来た。一見いいことばかりだが、そうともいえない。
     ルイは水夫たちに向かって彼を売る、と宣言している。大金が入るだろうと。今更どう撤回しようか。
     そんな悩みを知らないツカサは満面の笑みを浮かべ、ルイに向かって手を伸ばす。その手を握り返すと、彼の翼が大きくバサリと音を立てた。

     翌日、床で寝ていたルイが目を覚ますと、目の前でツカサがすやすやと寝息を立てていた。昨晩はベッドの上で寝かせたはずだ。
    「もしかして、君寝相が悪いのかい?」
     クスリと小さく笑って金髪を掬う。今日は、このまま床の上で寝かせてあげよう。
    「さて、いこうかな」
     甲板に出ると、どうやら何か騒がしくしていた。バルトロメオが大勢に何かを説明している。
    「やあ、おはよう。どうかしたのかい?」
     ルイが声をかけると、注目は全てこちらに向き、バルトロメオが困ったように笑っているのが群衆の隙間から見えた。
    「おはようございます。今から起こしにいこうと思っていたところだったんですよ」
    「それはタイミングがよかった。気持ちよく寝ていたところだったからね」
     バルトロメオの方へ歩き出すと、群衆はそっと道を開けた。
    「陸地が見えたんです、多分、新大陸だと思います」
    「おや、そろそろだと思っていたけれど案外早かったね」
    「だから船長に知らせようと思いまして」
     甲板の西側に寄ると、まだ水平線の先は見えなかった。しかしバルトロメオたちがいうには先ほど陸地のようなものが見えたらしい。
    「今、あの地図でいうとどこにいるか予想はつくかい?」
    「待っていて下さい、持ってきます」
     彼が地図で指を差した場所は、ルイも予想していた場所だ。北に位置する新大陸の南端辺りだ。
    「ここは今どこの国が支配していたかな?」
    「うーん、思い出せないですね。確か、島国が所有していたのはこの辺りでしたよね」
    「そこは違う、僕のいた国が支配しているはず」
    「そうでしたっけ……」
     新大陸は、様々な国が乱立している旧大陸とはまた異なる難しさがある。この大陸は現在、旧大陸の様々な国が少しずつ土地を支配している状況なのだ。
    「港は見えたかい?」
    「いや、見えなかったですね。そもそも港が見えたところで、船を置いておけるか……」
    「そうだねえ、僕たちのことを知っていたら戦闘になるかもしれないし……」
     ここは見慣れない新大陸だが、住民の主な出身は旧大陸だ。ルイたちのことを知っていてもおかしくない。港と戦闘になれば勝敗は明らかだ。
    「僕たちが航海を始める前からここに住んでいる人たちなら見逃してくれないかな」
    「いやー、どうですかね。新聞で覚えられてるかもしれませんよ」
    「困ったなあ、どうしようか」
    「そもそも、港はどこにあるんでしょうかねえ?」
    「いやあ、わからないね。僕も知りたいよ」
     広げられた地図に港の位置は書かれていない。首を傾げながら甲板の外を眺めると、やはり目に入るのは広大な深い青色のみで、他に船も見当たらない。
    「もし、他に船が現れたら港を聞いてみよう。戦闘にならないことを祈ってね」
    「念の為に旗を降ろしますか……っと、船長、ハミングバードが」
     ハミングバードという言葉を耳にした瞬間、ルイは顔を地図から逸らして船倉に続く階段がある方を振り返った。そこにはツカサが大きな翼を空へ向け、甲板の床に手を付いている。
    「おや、起きたようだ。すまないね、船を見つけたら僕に報告してくれ」
    「分かりました」
     バルトロメオにその場を任せ、足早に近づくと、彼は緑色に光る石をルイに見せる。これは合図だ。話せないツカサのためにルイが用意した。石の色によって伝えたい用事が異なる。緑色ならば、お手洗いに行きたいという意味だ。
     すぐに彼の手を取り、抱き止めるように立たせる。ツカサは足が弱いのだ。
     初めてお手洗いに案内しようとしたとき、彼は立つことができずによろめいて倒れてしまった。足に怪我でもしているのかと心配したが、どうやらこれはハミングバードならば当然らしい。彼らはしっかりと地面に立ち上がって歩くことが出来ない種族だというのだ。
     バルトロメオはこれを聞き、かつて聞いたというマザーグースを口ずさんだ。内容は、ハミングバードは地上を捨てる生き方を選んだ故に大地の女神の怒りを受け、足に呪いを刻まれた、というものだった。ルイは一度も耳にしたことがないマザーグースだったが、水夫たちの中には聞き覚えがある者もいた。
     大地の女神の呪いが本当かどうかはさておいて、そうなるとこの狭い船で彼が自由に動き回るのは難しいだろうとルイは考えた。甲板に出てしまえば翼を使って飛べるだろうが、ルイの部屋から甲板までと、甲板からお手洗いまでの道は飛ぶには窮屈だ。そこで、この船を彼が移動する際はルイが彼の身体を支えていくという話になった。

     お手洗いを終えたツカサを部屋まで連れて帰る。どうやら彼は甲板の向こうに広がる海に興味があるようだったが、それを眺めるのは陸地がもっと離れていて健康な状態であるときがいいだろう。
     温かい床に彼を降ろすと、彼はすぐ、紙とペンをどこからか見つけてきたのか構えて書き出した。ルイは同じく床に座ってペンが紙に擦れる音を聞いた。
     陸地に降りたら紙とインクの補充も必要かもしれない。チラリと見えたチェストの引き出しの中は以前確認した時よりも大分スッキリしていた。
    『左の翼がおかしいんだ。うまく動かせなくて、痛い』
     ペンの音よりも遥かに騒がしいドタドタと天井の上で歩き回る水夫たちの足音に気を逸らして待っていると、彼は普段よりもずっと静かにゆっくりと紙を渡してきた。書かれた内容を見て、ルイは思わず驚いて声を上げる。その声にビクリと彼の翼が小さくはねる。
    「翼を怪我したの? どこを?」
     歩くよりも飛ぶことが得意な彼らにとってその不調は致命傷なはずだ。すぐ、彼の後ろに回って翼に優しく触れると、ピクリと小さく怯えるように動いた。
    『左の翼の、真ん中くらいだ。昨日までは少し痛い程度で済んでいたんだが、今日起きたら動かす度に痛くて、変になっていた』
    「翼の真ん中……ここかな? 合っていたら手を鳴らしてくれないかい?」
     これ以上の悪化を心配しながら、ルイはツカサの言葉通りに翼の中央の辺りを触れていく。一箇所目は無反応だったが、次に触れたところで彼の手が鳴った。
    「ここか……。まさか、ベッドから落ちてたせいじゃないだろうね……」
     心配しつつ彼の顔を覗き込むと、眉間に皺を寄せてペンを力強く握りしめていた。床板に、黒いインクが染み込んでいく。
    「痛いんだね……。どうにかならないか聞いてみるよ。この船には沢山人がいるんだから一人二人は翼の治し方くらい知ってる人がいたっておかしくないから……」
     立ち上がって部屋の扉に手をかける。
    「待っててね、ツカサくん」

     こういうとき、一番頼りになるのは副官代わりのバルトロメオだ。甲板まで駆け足で登ったルイは、そのままの勢いで彼の元まで行った。
     そんな、普段とは違ったルイの姿は水夫たちにはもの珍しかったのだろう。駆けていくルイに、驚きを隠せないような表情を浮かべている。
     バルトロメオもまた、呆気に取られたような顔をして広げていた地図を小さく畳む。
    「どうしました、船長」
    「うん、いきなりですまないんだけど、鳥の怪我を治せるという人がこの船に乗っていたかどうかを思い出して欲しいんだ」
     突拍子もないルイの一言に、彼は「はぁ」と短く吐いて畳んでいた地図をコートのポケットにしまった。
    「ハミングバードが怪我したんですか?」
    「翼をね」
    「翼ですか……」
     彼は少し、悩む素振りを見せてから困ったように笑って腕を組んだ。新人はこれを見て、解決策が見いだせていない表情と捉えることが多いが、実際は心当たりのある顔だ。
     船長であるルイよりも、バルトロメオの方が水夫たちの情報には詳しい。
    「鳥を治せるか、は分かりませんが……樽職人は昔鷹の翼が折れたのを治した──とか話していたのは聞いたことはありますよ」
    「樽職人……」
    「ええ、あとはコックの実家が養鶏をしていた──とかですかね?」
     樽職人もコックも、ルイの頭にはその顔が浮かんでこなかった。
    「樽職人……がいる場所と名前を教えてくれないかい?」
    「倉庫の中にいると思いますよ。名前は……アンディです」
     倉庫は甲板の上にある。中には干し肉や飲み水がしまわれていて、先日の貿易船との戦いのあとで手狭になっているはずだ。
     バルトロメオは倉庫の方を指さしたまま、ポケットから地図を取り出した。
    「ハミングバード、心配ですか?」
    「そうだね、飛べなくなったら困ってしま……」
    「貴族たちにとって、飛べるか飛べないかはそこまで気にすることじゃないですけどね」
     バサッ、と地図が広げられる。彼の言葉は、何か含みがあるようでルイはその顔を見つめた。
     細められた茶色の瞳は何も言わないが、鋭く冷たい。何故だか責められてるような気がしてくる。
    「何が、言いたいのかな?」
    「いやぁ、船長ともあろう人がらしくもないと思いまして。風邪は生命に関わるかも知れませんが、翼はそうではないですよね?」
    「……商品価値を下げないようにする為だよ」
    「でも、どうせ彼らは買われたら飛ぶ機会なんてないので翼くらいは見逃されますよ?」
     シン──とその場に静寂が訪れた。船が海を掻き分ける音だけが甲板の上で響く。
     それまでガヤガヤと騒がしくしていた背後の水夫たちの声も聞こえない。
    「とりあえず、アンディに会ってきたらどうですか?」
    「……そうだね、そうするよ」
     剣呑な瞳を崩さぬまま、バルトロメオはへらりと笑ってみせてきた。コートを翻して振り返ると水夫たちが気まずそうな表情でこちらを見上げている。
     バルトロメオは優しく温厚な男だ。敵船以外には柔らかい態度を崩すことはほとんど無い。
    「喧嘩か?」
    「珍しいな、あの二人が」
     船尾から下ると、水夫たちのコソコソと話す声が聞こえてくる。
     ルイはそんな水夫たちの前で足を止め、眉間に皺を寄せながら笑って、言葉を放った。
    「珍しいどころか、初めてだよ」
     ツカサと話すときとは対照的な、凍てつくような声色に彼らは顔を見合わせて口を噤む。そう、何年か航海を共にしているが、このような空気は初めてだった。
     そのままコツコツとブーツを鳴らしながら階段を下り、更にもうひとつの階段を下って倉庫の扉を開ける。扉を使わずとも、倉庫は天井から梯子で下れるのだが、先日の積荷の量を考えると、梯子を使う気にはなれなかった。
    「失礼、アンディはここにいるかな?」
    「俺に何か用か?」
     倉庫の中は先日の積荷で大分埋まっていた。ここは船の最下層のため、灯りはほとんどない。
     真っ暗でよく見えないがゆえ、ルイは倉庫の中をキョロキョロと見渡す。すると、扉を開けてすぐ、右側から声が聞こえた。
    「やぁ、アンディ。君は鷹の翼を治したことがあるんだって?」
     声の出てきた方にいるのは確実だ。ルイは、右に向かって話しかける。返事は、すぐには来なかった。
     互いになにも言わない静寂の間、ルイの目は徐々に暗闇に慣れていく。
     扉の右の奥、大樽の向こうに人影があった。
     アンディだという樽職人は樽にもたれかかりながら酒を飲んでいた。どうやらもう何杯か飲んだあとなのか、顔の皮膚は赤く染まっているようにみえる。
    「あぁ、そこにいたのかい」
     ルイは近づいて、一言、「やぁ」と挨拶をする。
     その挨拶は聞こえているはずの彼は口からコップを離してこちらを見つめてきた。だらしのない、へらへらとしていた表情が数秒の内に消え去る。
    「酔いを覚ましてしまったかな?」
    「貴方がこんなところにいるとなれば、驚いて酔いも覚める。俺が積荷から何をくすねたのか探りにでもきたんですか?」
    「いいや? そんなつもりはなかったけれど、それは気になるねぇ。何をくすねたのかな?」
    「あぁ、いや、違いますっ。言葉の綾と言いますか、何の話をしに来たんですかっていうことです!」
     ルイが笑みを浮かべて問いかけると、彼は大仰に肩を跳ねて無実であると捲し立てる。焦りのあまり、樽の上に置いてあった酒が床に零れたことは全く気づいていないらしいのが滑稽だ。
     漂う香りは強いアルコールと、甘い果実。彼が何をくすねていたのかはすぐに理解した。しかし、今そんなことはどうだってよかった。
    「君が鷹の翼を治したことがあるって聞いてきたんだよ。あれは本当か嘘か、答えてくれないかい?」
    「治したことはありますけど……誰から聞いて……。あ、まさか、噂のハミングバード関連のことじゃあありませんよね?」
    「おや、勘がいいねえ」
    「冗談じゃない! 勘弁してくださいよ、ハミングバードなんて見たことすらないってのに!」
     嫌だ、とか、やりたくない、といった感情が全て顔に出ている。分かりやすい、素直な人間だな、とルイは口端を上げる。
    「大丈夫、鷹より少し大きいだけさ」
    「嫌ですよ、治せなかったら殺されそうですし……」
    「へぇ、じゃあ、やらないなら死ぬかい?」
    「あぁー、そうなるかぁ……」
     笑顔のまま、殺意を一切出さずに懐からピストルを抜いて見せると、彼は長いため息を吐いて顔を手で覆う。やりますという返事は聞けなかった。
     勿論撃つつもりは全く無かったが、期待していた言葉が返ってこないのは残念だ。
     「しっかり脅されたいのなら、別の方法があるよ? 君がくすねた果実酒だけど──」
    「やります、やります。鷹よりデカいだけですもんね、大丈夫ですよ」
     今度は本気の脅しのつもりで、足元に転がるコップに指を差せば、彼は青い顔で引きつった笑みを浮かべながら、樽から離れて扉を開く。
    「骨折してるんですか?」
    「よく分からないんだ。僕は鷹の世話なんてしたことが無いからね、そういうのも分かるのかい?」
    「まぁ、鷹狩りが趣味でしたから。でも本当に、勘弁してほしいんですけど、ハミングバードが鷹と同じようなのかは知りませんよ」
    「何も知らないよりかはマシさ」
     扉の傍で彼は自分の腕ほどある長さの木の板とロープを拾っている。
     一足先に倉庫を出る。倉庫の向かいは食料庫で、隣は火薬庫だ。
    「それで……船長、ハミングバードはどこです?」
    「ん? ああ、僕の部屋だよ。ついてきてくれたまえ」
     船の底は小さな傷でも沈没の原因になる。陸に着いたら、適度に点検をしなければなるまい。
     ルイが船の壁を見ている間に、彼の準備は終わったらしい。ツカサの場所を問う彼の手には先程の板とロープ、そして布の切れ端、包帯のようなものまであった。
     ハミングバードはルイの部屋にいるのだと教えると、彼は苦々しい表情を浮かべた。
    「船長の部屋って、勝手に入ったら死ぬ部屋……でしたよね?」
    「そうだね、でも少し違う。正確には、勝手に扉を開けたら致命傷を負う仕掛けのある部屋、だよ」
    「あんまり変わらないですよ」
     船長と、様々な道具を抱えて歩く樽職人。ルイの部屋は一度甲板に戻らなければならない。階段を二度登って、眩い光の中に戻る。
    「なんか、めちゃくちゃジロジロ見られたような気がする」
    「そりゃあ、そんなたくさんの荷物抱えているからね」
     後ろから聞こえる、疲労が滲んだ声をルイは軽く笑って済ませた。荷物の問題よりも、船長と共に歩いていたことの方が注目を集めた理由になっていそうだが、敢えてそれは口に出さない。
     部屋の扉の前までやってくると、ルイはアンディに「後ろを向いていてくれないかい?」と頼んだ。ルイの部屋はたくさんの仕掛けがある。それは扉を開くことで作動するのだが、避けるには扉を開く前にあることをしなければならない。一度程度見られたところで手順を覚えはしないだろうが、この樽職人は手先が器用だから警戒をしていた。
     仕掛けの解除、というと大仰だが、もうすっかり慣れてしまったルイにかかればあっという間に終わってしまう。
    「もうこっちを向いてもいいよ、扉開けるから」
    「何かが飛んできたりなんかしませんよね?」
    「大丈夫、そんなこと万が一にもないよ」
     億が一にはあるかもしれないけど。それも、敢えて口に出さなかった。
     眉を下げて怯えているように振る舞う彼に、ルイは扉を開いてみせた。開く瞬間、ビクリと彼は体を動かして階段の方に足を向けたものの、仕掛けは当然発動しないままだ。
    「ほら、入りなよ」
    「天井にかかってるロープとかが仕掛けですか?」
    「まぁね、下手にいじったら怪我をするからおすすめはしないよ」
     ゆっくりと扉の向こう側へ入る彼は、ずっと天井を気にしていた。彼の言う通り、陽光が漏れ、ロープがあちこちに張り巡らされた天井が仕掛けの要だ。
     ルイは彼が両足を部屋に入れた瞬間、扉と彼の隙間を縫うように手早く入室して扉を閉めた。上を気にしている彼の向こう、ツカサは床の上で異なる色の宝石を並べている。ツカサはこの部屋にいて初めてルイとは違う人間が入ってきたことに警戒したのか、少々毛羽立っていた。
    「やぁ、ツカサくん。その翼を治せるかもしれない人を連れてきたよ。……アンディ、この子がハミングバードのツカサくんだ」
    「あ、ハミングバード……、名前あったんですね。どうも、怪我してるんですって?」
    「彼はこの船の樽職人、アンディだ。怖い人じゃないよ、少なくとも僕が見張っている間は」
    「最後の文章要りますかね……」
     アンディとツカサは互いに目を見合せ、無言のまま動かない。
    「二人とも?」
     数秒後、波で船が揺れて床上に整えられた宝石が列を崩す。すると、アンディは宝石の方には目もくれずツカサに対して頭を下げ、ツカサもまた同じように頭を下げた。
    「じゃあ見ていきますね。左の翼……か。痛いところはどの辺りか……船長分かります?」
    「さっき確認したから分かるよ」
     先程の間は無かったかのように、アンディは素早くツカサの背後に回り、抱えていた荷物をベッドの上へ下ろした。ルイはその様子を扉のそばで見下ろしていたが、アンディの言葉に膝を折り、ツカサの左の翼へ手を伸ばした。
    「この辺りって言っていたはずだよ。ツカサくん、念の為触っても大丈夫かい?」
     先ほど触れたときはとても痛そうにしていたため、触れる前に確認を取ると彼は頭を縦に振る。
    「ありがとう、もし正解なら手を鳴らして」
     慎重に、出来るだけ優しく、痛みを訴えていた場所に触れる。すぐにパンッと手のひら同士をぶつける音が響いた。
     翼の向こうにいるアンディはこれを見て、早速ベッドの上から木の板を取り出した。
    「骨と骨が繋がっている場所ならどうしようと思いましたが、ここなら俺でもどうにか出来そうだ」
    「本当かい?」
    「ああ、添え木を作ってしばらく翼を動かせないようにしますからしばらく待っててくださいよ」
     そう言うと彼は木の板をツカサの翼にあてて、包帯で縛っていく。
     ルイは、これで彼の翼も治るのだろうと安堵した。しかし、どうにも落ち着かない。胸の奥に、何か重いものが溜まっているような、そんな感覚に陥った。
    「君は、鷹狩りが趣味って言ったね? 猟師の生まれかい?」
     だから少しでも気を紛らわせようと、二人から離れて樽に座り、アンディに質問を投げかけた。
    「猟師じゃないですよ。でもその方が楽しかったかもしれませんね」
    「ふふ、どういう意味だい?」
    「俺の家は、あー……爵位と土地を持ってる。俺はそこの三男坊です」
    「おや……貴族だったのかい? それなら確かに鷹狩りも納得いくけれど……」
     シュルリと、包帯の擦れる音が鳴った。
     彼が言った爵位を持っているというのは、つまり貴族だという意味だ。貴族階級の出身で、ここにいる者なんてそういないはず。そう思って見つめていると、アンディはルイの顔を見るなり笑った。
    「変わり者だって思いました?まぁそうですよね、ロミオ──バルトロメオからも言われましたよ、似たようなこと」
    「ロミオでもいいよ。なんでわざわざ海賊船に来たんだい?」
    「家は継げないことを分かっているし……というか継ぎたくなかったし。本当は家を出たら狩りで生活しようとか思ってたんですが、たまたま樽作りをやってみたらこれがとても自分に合っていて……」
    「へぇ……」
    「港の方で船に樽売ったりしてたら勧誘されて、一度乗ってみるのも面白いと思って着いて行ったら……楽に金を稼げる方法を知ってしまってそう簡単に陸で暮らしていけない状況ですかね」
    「この航海を楽、と言い切る君の精神力は逞しいものだねえ」
    「ご褒美って、お預けにされてる期間が長ければ長いほど、与えられたときの嬉しさがあるじゃないですか。航海でしか味わえませんよ、下船したあとの酒の美味さって」
    「君が家を出た理由、分かったような気がするよ」
    「それもバルトロメオに言われたなあ」
     先ほどの胸のつかえはいつの間にか失って、ルイは会話を純粋に楽しんでいた。
     優秀な樽職人がいる、という認識はあったのだがその人となりというものは全く知らないままで。少し交流をしてみれば、おどけたように笑う彼に、親近感を覚えている。
    「…………っ!」
    「ツカサくん?」
    「おっと、少し痛かったか? すまない、えーと、ツカサさん」
     談笑の中、二つ目の包帯が結ばれると、ツカサから小さく呻き声が漏れた。彼は見たこともないような険しい顔で、口を噛んでいる。
     アンディは、困った顔をルイに向けた。
    「ツカサくん、大丈夫? 痛いだろうけど我慢できそうかい?」
     コクリと彼は険しい表情のままに頷いた。ルイも心配ではあるが、アンディに任せるしかないのだ。
     アンディは、長く息を吐いて3つ目の包帯を板に巻き始める。
    「そうだ。貴族出身ってこと、あんまり言わないでくださいよ。前に面倒なことになったんで」
    「勿論、言うつもりはないんだけれど……面倒なこと?」
    「半年くらい前に、俺の家が貴族って知った奴に殴られたんです。俺はもうなんもかんも捨てたっていうのに酷い話ですよ」
    「そうかい、そんなことが……知らなかったよ。言ってくれれば殴りかかった男を処分したのに」
    「いやー……ソイツの恨んでる貴族っていうのが本当に偶然にも俺の家だったんで。俺を殴って満足するならまぁいいかと」
    「君、殺されても同じこと言えるのかい?」
    「嫌だなぁ、船長。殺されたら何も言えませんよ、口が開けませんからね」
     三つ目の包帯が結ばれた。アンディが息を吐いて「よし」と一言呟いて立ち上がる。
    「それで終わりかい?」
    「ええ、これでしばらく過ごせば元通りになってくれるはずですよ。……鷹なら」
     ツカサの翼には、骨に沿うように木の板が三つの包帯で固定されていた。
    「添え木が重いかもしれませんが、これ以上悪化させないための処置なので我慢してもらうしかないですね。しばらく翼を動かしたりしたらダメですよ」
    「助かったよ、ありがとう…………って、ダメだよ! そのまま扉を開けたら!」
     アンディはベッドの上から使わなかった道具を回収して扉に手をかける。ルイは慌ててその手を制止させた。入る時よりもよっぽど簡単だが、この部屋は出る時も仕掛けを解除しなければならない。
    「わぁ、驚いた。俺、早速恨み言も言えない口にされるところでしたよ……」
    「失礼だなあ。殺意はないし、運が良ければ生きてたよ」
    「俺たちの間で船長の部屋ってパンデモニウムって呼ばれていたんですけど……。分かりました、本当にその通りだったって言いふらしておきます」
     仕掛けを一つ解除して扉を開く。
     来る時よりもずっと疲れた声を吐き出すアンディはそのまま部屋を出ようとして、立ち止まってしまった。ルイは首を傾げてアンディの背中を眺める。少なくとも、矢は刺さっていないことは確認した。
    「船長はいるか?話がある」
     アンディの奥から聞こえてきたのはバルトロメオの声だった。扉の前で待機していたのか。
     ルイはなんとなく、バルトロメオの声で気が重くなり、つられてため息を吐き出した。つい先ほど口論になりかけたばかりの相手だ。
     しかし、そうは言っても無視は出来ない。アンディは先ほどのことを知らないはずだからここに船長がいませんなんて言えないだろう。言えたとしても、これが重要な連絡だったら後で困ることになるかもしれない。例えば、他の船を見つけた、など。
    「船長なら、中にいますけど……」
    「そうだね、僕はここにいるけれど、何か用かな?」
     立ち上がって部屋を出ると、バルトロメオは先ほどのなりを潜めて真顔で礼をしてきた。
    「今、話をしても大丈夫そうですか?」
    「大丈夫だよ。処置も終わったから……甲板の上で話そうじゃないか」
     バルトロメオの態度を見て、ルイもなるべく平静を装って、まるで、何事も無かったかのように言葉を紡いだ。
     しかし、二人の間には奇妙な空気と沈黙が流れる。
     その空気に耐えきれなかったのか、アンディは気まずそうに頬を掻き、階段の方へ一歩足を進めた。
    「じゃあ、俺はこれで……」
    「ああ、君のおかげで助かったよ」
     彼がこの場を去ると、残ったのは静寂だった。互いに口を開かず向かい合っている。
     最初に口を開いたのは、ルイだった。
    「とりあえず、甲板に行かないかい?」
    「分かりました、行きましょう」
     部屋の中で一人、こちらを見つめているツカサはどうしていいのか分からないようで首を傾げていた。ルイはそんなツカサに「翼を無理に動かしたらダメだよ」と告げると扉を閉める。
    「翼、どうにかなりました?」
    「君が紹介してくれた樽職人のおかげでね。随分と面白い経歴も聞けた」
    「はは、それは貴方だって同じのはずでしょう?」
     甲板に向かって歩きながら言葉を交わせば、気まずかった空気は徐々に薄れていった。
     階段を登り終えると、今度は舵のある船尾の方へ歩き出す。ルイとバルトロメオがいつも話をする甲板というのは、主に船尾のことだ。
    「──で? なんの話をしにきたのかな?」
     舵のそばにあった樽に腰掛けて、ルイは、そう切り出した。バルトロメオはこの言葉に肩を竦めて向かいの樽に座って口を開く。
    「ハミングバードのことです」
    「僕がおかしいって話の続きということかな?」
    「そういうことになりますね」
     ルイはまた、ため息を吐いて、海の向こうに視線を向ける。
     バルトロメオは、そんなルイに対して硬い表情を崩さないまま会話を続けた。
    「船長、ご自身がおかしいのは気づいてます?」
    「おかしいっていうのは?」
    「やけにハミングバードに対して過保護というか……いずれ売り飛ばす商品に丁寧じゃないですか。昔、ミンクを手に入れた時はもっと扱いが雑でしたよ?」
    「ハミングバードとミンクを比べるというのは、ちょっと、違うような気がするけど」
     青い世界から視線を戻し、背筋を伸ばして足を組む。
     どうやら彼から見た自分はおかしいらしい。以前にも一度言われたことだが、ルイにそのおかしさとやらは心当たりがないわけではない。
    「じゃあ、単刀直入に聞きます」
    「どうぞ」
    「船長は、ハミングバードを売るつもりがあるかどうか──答えてくれますか?」
     唐突に、図星を突かれて、ルイは答えに窮した。
     バルトロメオは、ルイが初めて航海したときからの仲だ。もう何年も共にいる。
     そんな彼には、自分の心情の変化くらい丸わかりだったのかもしれないと、組んでいた足を解く。
    「多分、ないと思うんですけど」
    「分かった、分かったよ。ないよ。僕は彼を売ろうとは思ってない。勘がいいね」
     降参だ、というように、ルイは両手をあげて空を見上げる。太陽はあと少しで真上に来ようという位置だ。
    「やっぱり、売る気なかったんですね」
    「最初はあったよ」
    「でも、もうないんですよね」
    「そうだね、ないよ。怒ったかい?」
    「いいえ? 怒ってはいないです」
    「君、僕がハミングバードを売るつもりないのが分かったからあんなに責めていたんじゃなかったのかい?」
     思い返せば、バルトロメオの様子もしばらくおかしかった。ルイに対して気に障るような言葉を幾つも投げかけたり、口論を仕掛けてきたり。
    「違いますよ。僕は船長の口からハミングバードのことをどうするか聞き出したかったんです」
    「それであれかい?」
    「さっきはすみません……。あとから皆に聞いたら、僕が怒ったように見えたらしくて、そんなつもりなかったんですけどね」
     普段から温厚な彼は、戦いにおいても声を荒らげることはあまりない。それを知っていたから、ルイは彼の言葉を素直に受け取り、「なんだいそれは」と口にしながら吹き出した。
    「船長は気づいてなかったかもしれないですけど、最初の方からハミングバードを売るって話題に嫌そうな顔してましたよ」
    「ええ? そんなわけないよ」
    「やっぱり気づいてなかったんですね」
     ルイはここ数日の記憶を手繰り寄せてみるが、バルトロメオがいうほどあからさまな態度を取っていた覚えはない。
    「ああ、まぁ気づいてないなら良いんですよ。それより、ハミングバードはこれからどうするか決めているんですか?」
    「まだ。何も決めていないんだ。売らないとなると、どうしたものか……」
    「風邪を治して、翼を治したら──の話ですよね」
    「……ツカサくんが自由なまま暮らせる場所なんて、どこかにないかな」
    「確か、ハミングバードを自由に住まわせていた場所が南の新大陸にあったはずですけど……どうにも彼の出身地っぽいんですよね」
    「君、やけにハミングバードに詳しくないかい?」
    「睨むのはやめてください……。商人なんてやっていたらそういう情報が入ってくるものなんです」
     ハミングバードにとって、自由に暮らせる場所はどこか。それはきっと、ツカサも聞きたいだろう。
     少なくとも、旧大陸はダメだ。静かに自由に暮らしているハミングバードなんて一羽も見たことがない。
    「いっそのこと、船長が家に戻って彼を匿ったらどうですか? 船長なら、彼を自由にさせてあげられる」
    「今更家に帰れると思うかい?」
    「いい案……だと思ったんですけどね。船長、ハミングバードと暮らせって言われても不満はないでしょうし」
    「そりゃあ、一切ないよ」
     彼と暮らしたらどんな日々を送ることになるだろう。今は声を出すことも飛べることもできない彼が、元気にこちらに話しかけてきて、空を飛んでる様子を想像すると、ルイの胸は温かい気持ちで満たされる。空に浮かぶ彼は、見上げたら金の髪が太陽に照らされて綺麗だろう。
     クスリ、と笑う声でルイは現実に戻った。声のした方に視線を向けるとバルトロメオが堪えきれないというように口の端を上げているのを隠していた。
    「何か面白いものでも見つけたかな?」
    「あ、いや! そ、そういえば、どうしてハミングバードを売らない気になったのか聞いても大丈夫ですか?」
    「え? ああ、大丈夫だよ」
    「あれ、意外ですね。いいんですか」
    「隠すようなものではないからね。君も知っている通り、僕は貴族が嫌いだろう?」
    「はい」
    「その貴族たちを喜ばせると思ったら嫌になった。それだけだよ」
    「はい?」
     空の上で、鳥が鳴いた。
     バルトロメオは眉を顰め、樽の上から立ち上がっている。
    「え、それだけですか?」
    「他になんの理由が?」
    「ハミングバードを、大層気に入ってる──とか」
    「……ああ、確かに。言われてみれば、そうかもしれないね。気に入っているから貴族に売るのも嫌だったのか……」
     ルイは顎に手を当てて、感心するように頷いた。
     自分の中では、貴族への反抗という理由で固まっていたが、いざ、彼の言葉を耳にすると、理由の中にそういった要素もあるのかもしれないと納得した。
     一方でバルトロメオは唖然としたまま、開いていた口をはくはくと動かしている。
    「どうしたんだい、バルトロメオ。釣り上げられたばかりの魚のようだよ、らしくもない」
    「貴方がそうさせてるんですよ……。船長は頭が良いのに、鈍いんですね……」
    「鈍い? 何が?」
    「あるいは、子供の頃にそういう感情を失ったんですかね」
    「さっきから主語がないよ、ハッキリ言ってくれないと」
     彼はわざとらしく頭を振り、重たい息を吐いてからのろのろと樽に腰掛ける。
     ルイは、彼が何を言いたいのか全く分からなくて肩を竦めてみせた。あんな風な驚愕を向けられるようなことを言った覚えがないのだ。
    「船長が分からないなら、言うしかない……ですかね」
    「言ったらどうだい? 重要なことなんだろう?」
    「そうですね、じゃあ……」
     バルトロメオは、ゴホン、と小さく咳払いをしてから上着の皺を伸ばす。
     何を言われるのかの見当はついていない。ルイは、手袋をつけ忘れたせいで赤く日焼けした手の甲を見たのち、海の方へ視線をやる。
    「船長は多分、あのハミングバードに──」
    「ん? あれは……」
     視界に映ったものを見た瞬間、バルトロメオの言葉は途中から耳に入らなかった。
     ルイはおもむろに立ち上がり、海の方へ向かってふらふらと歩いていく。
    「船長? あれ、聞いてました?」
    「いや……、あれ、船のように見えないかい?」
    「えっ、本当だ! 船ですね! それか島か」
     甲板から乗り出して、海の上に浮かんでいる小さな影に目を細める。確証はないが、おそらく船舶の類だ。
    「舵取り任せられるかい?」
    「勿論!」
     船尾から梯子も使わずに飛び降りて、船首の下の、階段のそばまで走る。そこには木箱が三つほど無造作にロープで手すりと固定された状態で置いてあり、その中の一つから小さな旗を取り出した。
    「船長、どうしたんですか?」
    「船が見つかった。君たちは一応戦闘の用意をしておいてくれ。時間はあるから焦らなくてもいいよ」
     船尾の方ではバルトロメオが声を張り上げて水夫に指示を飛ばしている。そろそろ大砲に砲弾が込められるだろう。
     ルイが手にした旗は数種類。それぞれ意味がある旗だ。

     旧大陸からそう遠くない場所に浮かぶ大きな島がある。ルイの出身地からは、海を挟んでその島が見えていたほどに近い。その島国の海軍が導入したといわれるのが旗で船同士の伝達を行うというものだ。
    「通じる船ならいいけどね。あと、いきなり砲撃してこない船がいい」
     ルイは数年前、その島国に寄港した際に海軍に所属していたという男から旗のことを教わった。以降、この旗で他の小型船と合図を送ったりなど、おおいに活用している。
     甲板の外、海の上の二隻の小型船に合図を送る。送ったのは他の船を見つけたことと、戦闘の準備をしておけということ。
     大声を出せば聞こえる距離かもしれないが、旗の方が確実であることには違いない。
    「さて、吉と出るか凶と出るか……。せめて港の場所くらいは教えてほしいものだね」
     緩やかな海の風を浴びながら、ルイは手の中にある旗を力強く握りしめた。


    「──というわけで、ツカサくん! ようやく陸に上がれるよ! 良かったねえ!」
    「……っ!!」
     船首に立ってから数時間、ルイは疲労困憊といった様子を一切見せず、床の上で右の翼を弄っていたツカサに抱きついた。いきなり身体を拘束されたツカサは驚いて、掠れた声を喉から出して身体を大きく震わせた。
    「おっと、すまないね……」
     自分の腕の中でツカサは小さく首を振り、おずおずとルイの背中に手を回す。
     疲れを感じてなどはいないつもりだったが、こうして生物の温もりを心地いいと思ってしまうということは、存外疲労しているのかもしれない。そう意識すると、どっと身体が重く感じてツカサを抱きしめたまま、床に寝そべった。
    「ツカサくん、明日には新大陸に着いて、陸で生活できるよ」
     日に焼けた手で、彼の髪の毛を梳く。ツカサはその手を拒絶することなく、瞳を閉じてされるがままだ。
    「船での生活は少し窮屈だったろう? 制限が多いからね。でもこれからしばらくは陸にいるから安心してほしいな」
     数時間前に見つけた船は、思ったよりも小型で、新大陸から出た漁船だった。漁船にしては大きかったが。
     旗の意味はあまり分からなかったようだが、海賊旗を下げていたからだろうか。彼らはこちらを海賊だとは思わなかったようで戦闘も免れ、財宝の一部をチラつかせると、親切にも港の場所を教えてくれた上に、案内までしてくれると約束してくれた。
     彼ら曰く、新大陸は旧大陸の国々に支配こそされてはいるが、存外自由にやっているらしい。船の一つや二つ、大丈夫だろうとのことだった。
     腕の中で彼はほんのりと赤く染まっている頬をしたまま笑う。その顔を見ると、鼓動が不自然に跳ねた。
    「おや……熱、下がってないのかい?」
     咄嗟に胸を抑えながらルイは飛び起きる。昨日までは、熱の有無を確認していたが、今日は一日中忙しくて確認を怠っていたことを思い出したのだ。
     しかし、赤い頬に反して、額に手を当てると昨日までに比べて冷たかった。
    「あれ、熱、下がったんだね? よかったけど……もしかしてこの部屋が暑いとか……」
     ひとりでに、ぶつぶつと呟いている横でツカサは文字を書いている。そろそろ紙は尽きてしまいそうだった。
    『熱は下がったし、声も少しなら出るようになった。そんなことより、抱きつく前にちゃんと教えろ! びっくりしたではないか!』
     頬の赤みはひいていないまま差し出してきた紙には、随分と荒い文字でそう書かれていた。
     読んでから、彼を見ると、腕を組んで眉を吊り上げて怒っているようだ。
    「ごめんよ、疲れていて……。次からは気をつけるよ」
    『疲れていたら、抱きつくのか、ルイは』
    「いや……こうやって誰かに抱きついたのは初めてかもしれない。けれど、僕の家族や周りの人は疲れたらよくペットを抱きしめていたからそういうものなんじゃないかな」
    『オレはペットということか?』
    「違うよ! でも、ペットと同じくらい触り心地はいいよ」
     会話の最中、先ほどの笑顔はどうしたのか、ツカサは終始不機嫌そうだった。ルイが無遠慮に言ったペットという単語に引っかかりを覚えているのかもしれない。
     彼はルイに会うまで貴族に飼い殺しにされるところだったということを考えると、自分は随分と失礼な発言をしてしまった、と反省し、咄嗟に話題をそらす。
    「そんなことよりツカサくん、明日、船から降りるときは積荷の中に隠れていてほしいんだ。君が見つかってしまったら、この先苦労するだろうからね」
    『分かった。大人しくしていよう、ペットと違ってオレは言葉が分かるからな』
    「よよ…………」
     額から冷や汗が伝う。どうやらこれは根に持たれているようだ。
    「そ、そうだ! 喉が早くよくなるように、陸に着いたら蜂蜜を探して食べさせるよ。蜂蜜は食べたことあるかい?」
    『ない、なんだ、蜂蜜とは』
    「甘くて、少し粘りのあるスープ……みたいなものさ。喉にいいんだよ。僕も風邪をひいたとき、舐めさせられたんだ」
    『そうか、それは楽しみだ。甘いものはみんな好きだからな』
    「ふふ、じゃあきっと気に入るよ。ただ、新大陸にもあるといいんだけどね」
     藁にもすがる思いで逸らした蜂蜜の話題で機嫌がなおったのか、笑みを零す彼を見て、ルイは胸を撫で下ろした。
     発言には気をつけなければならない。少なくとも、今後、彼の前でペットは禁句だと心に刻んだ。
    「じゃあ、もう寝た方がいい。明日は忙しいからきっと疲れてしまうよ」
     床の上に敷いた布の上に彼を寝かせ、頭を撫でる。翼に負荷がかからぬよう、うつ伏せに寝かせているが、果たして快眠出来ているのかは不明だ。
     しばらく頭を撫で続けていると、規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら眠ったようだ。
     このまま熱が下がらないままならどうしようかと心配していたが、快方に向かっているようで何よりだ。近いうちに声も出せるようになるだろう。
     今日は見張りの日では無い。ルイも寝ようとしてベッドの上で横になって瞼を閉じる。すると、不意に、昼間の光景が頭に浮かんだ。
     結局バルトロメオが何を言おうとしていたのかは分からないままだ。しかも、ツカサをこの先どうするか、それも全く定まっていない。
    「僕は、ツカサくんを売りたくはない。じゃあ、その先……か」
     天井を見上げて、独りごちる。港についたら、この天井も修理が必要だ。
    「ツカサくんには笑って、好きなように、暮らしていてほしいなあ」
     ルイの独り言に、返事はなかった。


     翌日、朝日が昇る頃にルイは目を覚ました。今日は忙しくなる。ツカサを起こさぬよう音を立てずにベッドから降りて部屋を出た。
     甲板の上に上がれば、水夫たちは喜びに湧いている。
     自分から臨んでこの船上にいる水夫たちだが、誰だって陸が恋しいものだ。身体にまとわりつくような潮風も、腹を満たすためだけの硬い干し肉も、酔うに酔えない不味い酒も、今日でしばらく手放せると思えば自然と感情だって昂るだろう。
    「本当に、港に入れますかね」
    「僕もそこが一番心配ではあるよ。けど、着いていくしかないのが現状だからね」
     水夫たちとは一転変わって、憂鬱そうなバルトロメオは舵を目の前にして、酒を片手にため息を吐いた。
     昨日、港まで案内するといった漁船を見失わずに済んでいるが、果たして本当に港に船を入れられるか、なんの保証もない。
    「僕、寝てないんですよね。舵取らなきゃ〜と思って」
    「それはそれは……お気の毒にねぇ。陸に着いたらゆっくり眠れるよ」
    「他人事ですよね」
    「そう聞こえたのなら謝るよ。でも、他人事じゃあない。僕もあまり寝れてないんだ、考えごとをしていてね」
    「報酬の分配とかですか?」
    「それもあるけど諸々。分配の前に、新大陸では何が高く取り引きされてるのかも気になるところだろう?」
     バルトロメオは、返事の前に酒をグイと煽る。
     昨日寝ていないと言っていたのはどうやら事実らしい。目の下に大きな隈ができている。
    「旧大陸と大体同じだと思いたいですけどね」
    「さぁ、どうかな」
     ルイの懸念材料は、旧大陸では高い価値のあるものが新大陸では無価値で、報酬の分配に大きく影響が出ることだ。今回の航海は元々のルートから大きく逸れていて、水夫たちには度重なる苦労や迷惑をかけさせてしまった。
    「ここで僕が報酬を渋ってしまえば、次の航海に影響が出るかもしれないのが怖い点だね」
    「僕は必ず船長についていきますけど、航海士二人だけじゃなんにも出来ませんからね」
    「重要な役割ではあるんだけどねえ。そもそも航海士に関わらず、二人だけで航海するくらいなら新大陸に残るよ。まだ命が惜しい」
    「まぁ、旧大陸に戻りたい水夫たちもいるだろうし、三十人くらいは集まりますよ」
    「その倍は必要だねえ」
    「分かってますよ」
     先ほどの酒で気をよくしたのか、バルトロメオはケラケラと声を立てて笑った。彼は酔うとよく笑うのだ。
     ひたすらに笑う彼をよそに、甲板の向こうを見れば、大海原の先にほんのりと影が見える。近いようで遠い、新大陸だ。
     船というのは、必ず港につけなければならないものではない。普通の岸でも大きすぎる問題はないのだ。
     ただ、ここには国というルールが存在している以上、正規の入港以外で陸に上がれば問題が起こるかもしれない。しかも、適当な場所に降りてしまうと、積荷を換金するのに時間がかかる。だからこそ、港を探していた。
     視界の奥に、陸と、何隻もの船の影が現れる。
    「バルトロメオ、ごらん、あれが港じゃないかい?」
    「……本当だ。うわぁ、凄い数の船だなぁ」
    「これは、予想以上に大きな港に案内されたかもしれないね……」
    「軍艦かどうか、ここからじゃ見えないな。あれほど大規模な港ということは……多分あの島国の港ですよ」
    「僕たちのこと、知らないといいねえ!」
    「船長は隠れていた方がいいかもしれませんよ。顔を覚えられてる」
    「君こそ、商売仲間があの港にいたらこの船の正体明かされるよ」
    「そもそもこの船を覚えられていたりしませんかね」
    「僕もそれが心配だよ」
     新大陸が一体どれほどの数の港を有しているのか、港ひとつひとつの規模がどの程度なのかは分からないが、旧大陸の基準で考えると二人の視界にある港は大きい。
     この新大陸で大きな権力を持っているのは旧大陸付近に本島を構える島国だ。
     ルイは険しい表情を港へ向ける。
     かの島国とは何度か航海中に戦闘を行っている。先日の貿易船も島国が所有していたものだった。
     しかも、ルイの出身はその島国と長く敵対関係にあった国で、あまりいい印象を持っていない。
    「甲板にいる水夫たちにそろそろ着くと連絡してくれ。僕も用意をするよ」
    「売れそうなものまとめておいてくださいよ、交渉するのは僕なんですから」
    「いつもありがとう、報酬は弾ませたいところだよ」
    「任せておいてくださいよ、貰いたい分だけ稼いできますから」
     甲板のことは彼に任せ、ルイは船尾から飛び降りて倉庫へ向かう。
    「あぁ、その前に……」
     ルイは倉庫へ向かう前に厨房の扉を開いた。
     厨房といえども大層なものではない。刃物や多少の調理器具がある程度で、一応竈はあるものの火は灯っていなかった。木造の船で火を使うのはそうそうあることではない。よっぽど食料に困って、その辺の魚を釣って焼く時か、よっぽどの寒さに倒れぬよう豆のスープを温めるときくらいだ。
    「せっ、船長……ど、どうされました?」
    「お邪魔するよ。いやぁ、ランプを持っていきたいんだけどここ以外で火をつけられるような場所がないのさ」
     厨房だけは、床や壁に鉄を貼りつけている。引火させない為だ。月明かりもなく、船の中を歩かなければならないときは大抵ここでランプの火をつけにくる。
     ルイはランプのガラスを外し、割らないようにそっと置く。そして、蝋燭がまだ使えそうなことを確認すると、火打ち石を手に取って火種を飛ばした。
     ルイは火をつけるのが得意だ。幼い頃からよく火打ち石で遊んで怒られたが、その分無駄な火種を出すことがないくらいの腕前になった。
     ガラスをはめて、ランプを持つ。
    「そうだ、そろそろ港に着くよ。荷物をまとめておくといい」
     扉を閉めて、階段を下る。
     倉庫の扉を開けると、倉庫番──樽職人はいなかった。
     ルイはそのことを大して気にせず、倉庫の中を突き進む。
    「ツカサくんと一緒に運んだとき隠すのに良さそうなもの……。綿織物とかかな」
     木箱の中から衣類を取り出す。これは、貿易船から略奪したものだ。
     昨晩、ルイはツカサを運び出すときのことを悩んでいた。積荷と共に下ろすつもりではあるが、彼は樽の中には隠せない。人一人入れるくらいの大きさの樽もあるが、いかんせん、あの大きな翼が入らないのだ。
    「荷車に樽を数個と、その中にツカサくんを置いて、布で覆って隠す……。それしかないなあ」
     今からでは彼が余裕をもって入れそうな樽を作るのは時間がかかる。しかも、翼の分かなり不自然な大きさになってしまう。
     手に取った織物を広げると、大人用のシャツが四枚は作れそうな大きさだった。ルイは目を細めて笑い、織物を三枚ほど抱えて倉庫を後にする。
     一度甲板に戻ると、陸は肉眼でもハッキリと建物が見える程度に近づいていた。念の為に港の方へ視線をやる。
    「砲門がある船は……やっぱりいるね。あれが僕たちを知っている軍艦じゃないことを祈ろう」
     この船より一回りほど大きいと予想出来てしまうほどの巨大な船が三隻、港に停泊していた。ルイのこの船も巨大であるといえるのだが、最大サイズというわけではない。砲門の数は当然、劣っていた。
     船首側の階段を下ると、ルイの部屋の扉は開いていた。ツカサは部屋を出たとしても扉を必ず閉める。
     疑問に思って覗いてみると、そこには、樽職人のアンディがいて、ツカサの翼に何か細工をしていた。
    「僕に断りもなく部屋に入る方法を見つけるなんて、流石あの島のご立派な家庭で育ったことだけはある。そちらの言葉では悪知恵の働かせ方を帝王学と言うって本当かい?」
    「うわっ、船長!」
    「言い訳くらいは聞いてあげるよ」
    「ち、違いますよ! いや、確かに、ちょーっと悪い手は使いましたけど。ちなみに、俺たちの国じゃ悪知恵の働かせ方なんて教えられませんよ、安心してください。ルールに則った上で相手の上手を行く方法を教わりました。俺が自分から扉を開けて部屋に入ったわけじゃありません」
    「なるほど、君の国じゃあ部屋の主の断りなしに部屋に入っても咎められなかったんだね」
    「ノックをして、無言なら入っても大丈夫でした」
    「……よそう、時間がないからこんなことで無駄にしたくないや。ここに何しに来たんだい?」
    「ハミングバードの添え木をもう少し強くしようと思いまして。昨日は慎重になって緩く縛ってしまったんですよ。あまり緩くしてしまうと添え木の意味がなくなる」
     アンディはそう言うと、ツカサの添え木を指さして肩を竦める。
     ルイがツカサの方を見ると、彼はコクコクと頷いてアンディの意見に間違いはないと証明していた。
    「……おや、それならそう言えばよかったのに」
    「船長が見当たらなかったもので。何処にいました?」
    「倉庫に行っていた。布が必要でね」
    「あちゃあ、行き違いになっていたんですね、すみません……」
    「いいや、僕も悪かったね。親切心を疑ってしまった」
    「いや、ハミングバードに扉を開けてもらったんですけど……貴方の心臓に悪いことしてしまいました。もう終わったんで倉庫に戻ります」
    「そうだ、そろそろ港に着くから荷物を運び出す準備をしておいてくれ」
    「イエス、サー」
     ニヤリと笑い、敬礼をして彼は去る。その返事に何も言う気にはならず、そのまま扉を閉めた。
     まさか、ツカサを利用して安全に部屋に入るとは思わなかった。
    「ツカサくん、今日はよかったけど、あんまり知らない人を部屋に入れてはダメだよ」
     ツカサにそう教えても、彼は首を傾げるのみだった。アンディは良い人だと認識してしまっているのだろうか。
     確かに、良い人には見える。ツカサにとっては怪我を治そうとしてくれている善人だ。
    「でも……そうじゃなくてだね……」
     しかし、ルイはどうにも引っかかりを覚えて仕方がなかった。
     彼がツカサの翼に触れる度に不愉快な気持ちになる。その心に悪意が隠れているのではないかと疑いたくなる。
    「果実酒を盗んでるんだよ、彼は」
     眉を顰めてそう言えば、聞いていないのか、ツカサは首を傾げたまま、ルイの手元に視線を落とす。
    「あ、これかい? これは──まぁ、布だよ。君を隠すためのね」
     白い布を広げて彼の上から被せる。
    「うん、大きいから三枚程度で足りそうだね」
     ツカサは頭の上にある布に触れると、興味深そうに布を見つめていた。
    「そうだ、これを使って新しい服を作ってもらおうか。新大陸にも仕立て屋くらいあるだろうし。翼が引っかからないように、後ろにボタンを作ってもらったり、紐で結ぶようにしてもらおうか」
     今のツカサの服は、普通のシャツに穴を空けているものだ。翼には邪魔にならなくともどうにも背中から見たときに不恰好に見えてしまうのがルイの気になるところだった。
     ツカサはルイの言葉に笑みを零す。
     紙は昨日、使い切ってしまったが、喜んでいるということが分かって、ルイは安堵する。
    「紙も買おう。君と会話するのが楽しいんだ。喋れるようになったらもっとたくさん……」
     話をしよう。その言葉が発される前に、ルイは口を閉じて上を見る。
     船が大きく揺れ、耳を済ませるとガヤガヤと人の声で盛り上がっており、船では決して嗅げることない匂いが漂ってきた。
    「おや、早かったねぇ、きっと港だ。ツカサくん、ここで待っていて。いいかい、僕が来るまで絶対に扉を開けてはダメだよ。アンディでもダメだ」
     ルイの言葉に、ツカサは表情を硬くしたまま頷いて布を被る。
     先ほどの件があったからか、残していくのは不安だが、連れていけば別の問題を生むかもしれない。扉をしっかりと閉め、最後にもう一度ツカサに忠告をして、階段を登った。
     甲板の上では水夫たちが手すりに集まっており、新大陸の光景に息を呑んでいた。
     ルイはバルトロメオがいるであろう船尾の方へ歩く。彼は船尾を降りて、同じように新大陸を眺めていた。
     近づいて声をかけようとすると、こちらに気づいたらしい。
    「船長、着きましたね。案外大砲も飛んでこないし……一足先に着いた漁船の人が話をしていてくれていたみたいですね」
    「ありがたい限りだ。あれは軍艦じゃなかったのかい?」
    「一隻は軍艦でもおかしくないですけど……貿易船じゃないですか? この港は新大陸でも一番大きいみたいですし、貿易船が沢山だとか」
    「帆の模様とか、外観少し変えようかな。停泊している間に気づかれそうだ」
    「港から少し遠い場所に停泊させてもらえるか聞いてみますよ。知り合いがいれば楽勝なんですけどね」
    「そうか、ここは新大陸だもんねえ。それなら今回は僕も交渉に参加しようかな。知り合いがいないから──」
    「いや、船長は待機していてください。これから新大陸でしばらく生活するんですよね。ハミングバード抱えたまま敵を沢山作ってどうするんですか?」
    「分かったよ……」
     バルトロメオの剣幕に、ルイは肩を落として両手を上げる。
     旧大陸でのルイの昔のあだ名は、陰険詐欺師──だった。詐欺をしていたつもりはないのだが、弱みに漬け込んだり、相手の足元を見た覚えはある。
    「そんなに頭が良くて、どうしてあんなに交渉が下手くそなんですか」
    「僕も知りたいねえ」
     わざとらしくため息を吐いて、ルイはバルトロメオに一枚の紙切れを渡す。
    「売れると思ってるもののリストだよ。旧大陸での方が売れそうなもので、幅を取らないものは一旦保留」
    「なるほど、香辛料とかは持ち帰りですか」
    「ここにいる間に使ってもいいしね。ただ、気をつけないと、ここはいつも以上に商売の規制が……」
    「大丈夫だと思いますよ。さっき、漁船の人と話したときに手応えを感じました」
    「それなら頼む。僕は倉庫から荷物を運び出してくる」


     交渉が済んだ頃には、太陽は西に傾いていた。倉庫の中はすっかり片付いて、バルトロメオの交渉で船は港から少し遠い場所に移されている。ルイは水夫たちに報酬を分配しているところだった。
    「今回は僕の判断で事前に計画していた目的地とは全く別の場所に着いてしまった。すまないね。苦労をかけてしまった分、報酬は上げるよ」
     本来ならば、もっと航海期間は短く、西にいたはずだった。命あっての物種、ここまで来れたのは水夫たちの働きのおかげだ。
     歓声の中で一人ひとりに礼を述べて、金を渡していく。金を受け取った水夫は船を降りて港の奥の街並みに消えていった。
    「随分と多いですね。俺、絶対減らされると思ってたんですけど」
    「君はツカサくんの翼のお礼も入ってる。果実酒を盗んでいたのは大目に見るよ」
    「そりゃあどうも、やっぱり貴方の船は良いや。次の航海になったら知らせてくださいよ、ここら辺に住んでるんで」
    「頼もしいね、是非ともお願いするよ」
     樽職人の報酬は、通常の水夫たちの倍以上だ。元々彼は樽職人として有能だから分配も多くなるものだが、今回はそこに治療費も含まれているのでバルトロメオに次ぐ金持ちだ。
     彼が船を降り、これで残るはルイとバルトロメオ、そしてルイの部屋で残るツカサだけになった。
    「いつの間にアンディと仲良くなったんですか?」
    「仲良く見えたかい? ツカサくんへのお礼を述べていただけさ」
    「船長は乗組員と全く話していなかったから、十分仲良く見えましたよ」
    「そうかい、まぁ、なんだっていいや。それより君の報酬だよ」
    「滞在中に使い切れますかね、これ」
     袋に入った金はとても重たく、バルトロメオは両手でそれを掲げた。その腕は微かに震えている。
    「まだまだ、それだけじゃないよ。荷車に積んである。それに使いきれずとも、いつか病気になったときにでも必要になるさ」
    「そうならないことを祈ります……。そうだ、僕の住む家決まったんですよ。後で教えます」
    「ええ、早くないかい?」
    「さっき、交渉しているときに空き家を紹介してもらったんですよ」
     彼のトランクケースに金の入った袋が入る。トランクの中には袋の他に航海図や地図などが入っていた。
    「船長は滞在中の住処をどうするんですか?」
    「ツカサくんがいるから、広めで、港から離れたところにするよ。今日中に見つかるといいんだけど」
     二人は船首の方に向かって歩き出す。
    「今日の仮の宿は抑えておきましたよ。仮の宿……というか、宿ではないんですけど、寝るための家ですね」
    「本当かい? いつも助かるよ」
    「勝手に罠だらけの部屋にしてもいいという家じゃありませんから、もし、住むことを考えるなら明日から他を探してくださいね。所有者にも、一日使うだけと言ってあるので」
    「ふふ、わかったよ。明日起きてから考える」
     部屋に入ると、ツカサは布を被ったままうたた寝をしていた。
     起こさないよう、ルイはベッドの下からトランクケースを取り出す。トランクを開けると、着替えや袋に入った宝石が詰め込まれている。
    「どうするんですか、寝てますよ?」
    「このまま連れていこう。……まぁ、荷車の振動で起きてしまうかもしれないけど」
     ガチャン、と音を立てながらルイはトランクの中にロープや金属片、様々な工具も放り込む。多少重くはなるが、どうせ荷車の上に乗せるのだから関係ない。
    「相変わらず船長のトランクってめちゃくちゃ重たそうですよね……」
    「まぁね。でも自分が持てる程度さ」
    「その顔で意外な怪力なんですもん、水夫たち、知ったら腰抜かしますよ」
     辟易するように頭を振るバルトロメオに、ルイは半眼でジッと見つめる。
     船の上で暮らしていれば必然的に力も強くなる。逆に彼が弱すぎるのだ。
    「…………はあ、さてと、僕の荷物は用意出来たからツカサくんを連れていこうか」
    「そうですね……と、船長、彼、起きたようですよ」
    「えぇ?」
     トランクの鍵をかけて、ルイは立ち上がり、チェストにもたれかかりながら布に包まるツカサに目を向けた。
     すると、ルイの準備の音が大きかったのか彼はもう目を覚ましており、キョロキョロと二人を交互に見つめている。
    「おはよう、ツカサくん。これから船を降りるよ。それで、君には荷車に乗ってほしいんだけど……説明はいいや、とりあえず、ここから出ようか」
    「ちょっと、船長! 僕はこのトランク運べませんよ!」
    「後から取りに来る。君がそれを持てるとは思ってないから大丈夫だよ」
     ツカサの腕を肩に回して共に階段を上がる。トランクを持ちながらでも出来るもは思うのだが、通路が狭くて彼の翼に何かあったらと想像すると怖くて実行する勇気が出なかった。
     ツカサを船首側の甲板の上、外からは見えない場所に留めてルイは階段を降り、今度はトランクを運び出した。
    「よし! 荷車の用意をしよう!」
     馬車につけられる荷車には、既に外枠に沿って樽がいくつか置かれている状態だった。
     ルイは樽の荷車の中心に空いていた空間に何枚もの布を敷く。これは、荷車の硬い床でツカサの身体にかかる負担が減るようにと、ルイが後からかき集めてきた布だ。
    「ツカサくん、じゃあここにうつ伏せで寝ててくれたまえ。足を思いきり伸ばせなくて悪いんだけど、膝は曲げていてくれるかな」
     その布の上へツカサを案内し、彼は大人しくそこに寝転がる。
     最後は足元にトランクケースを置いて、上から布を被せておけば彼は見えない。
    「こんな荷物、目立ってしまうかな」
    「いや、この港町で荷車の上に布を被せている風景をいくつも見ました。これとはちょっと違いましたけど……おそらく大丈夫ですよ」
     船の上から見える赤く燃えている太陽はもうじき水平線の向こうに消えてしまいそうだった。夜がくる前に今日の寝床くらいは決めておきたいところだ。
    「それじゃあ、降りようか。下に馬車を待たせているんだよね?」
    「ええ、そうです。僕も途中までは乗らせていただきますね」
     船を降りて少し歩いたところに馬車はいた。バルトロメオが御者に話をしている。
     ルイはその様子を、荷車に身体を預けながら眺めていた。
    「船長、とりあえず行きましょうか。馬車に乗ってください」
    「……やっぱり、次の航海から君が船長をやってみないかい?」
    「いやです、どうせ僕が船長になっても貴方が仕切ることになってますよ。さあ、早く」
     ルイは馬車に乗る前に海の方を振り返った。赤い夕日はもう半分ほど海の中に沈んでいる。馬車が到着する頃にはすっかり暗くなってしまっているだろう。
     ドキドキと、心臓が、楽しみだという感情に呼応している。新大陸という未知の大陸、共に暮らすハミングバード。これまでとは、大きく異なる状況への期待だ。
     新大陸には一ヶ月以上滞在する。ルイは大きく息を吸い込んで拳を握りしめた。
    「明日は、家と蜂蜜探しだねえ」
     馬車は、そのまま船と海を背にして町の中に消えていった。
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