航海初日
いよいよ今日から新大陸を出て航海を始める。
ルイは朝起きてから簡単に朝食を済ませて、トランクを荷車に積んでいた。その間、ツカサは二階で翼を繕っている。
すると、誰かが扉を叩いた。
誰がきたのだろうかと、警戒しながら扉を半分だけ開くと、気の弱そうな男が寒くもないのに震えながら立っていた。
不審だ。しかし、男は、これから航海を共にする水夫の一人らしい。なんのためにここに来たのかを問えば、彼いわく、船の方でトラブルがあったのだという。
水夫同士が殴り合っていて、止めようとしたバルトロメオは早々に倒れてしまった、らしい。彼ならありえなくない話だ。
扉の前で震える水夫は、倒れたバルトロメオからルイの家を聞き、ここまで来たのだという。
緊急事態となれば、船長として出なければなるまい。
ルイは、男に先に向かうように促して、二階にいたツカサには、戻ってくるから二階から出ないように伝えて家を出た。
扉を閉めた際、昨晩散った分の羽根が空に舞い上がっていた。
そして、そこら辺の馬車に繋がれていた馬を奪って急遽港に来たのだ。
「トラブルなんて、嘘じゃないか……」
水夫同士が殴り合っている。そんな彼の説明は全くの虚言だった。港に着いて早々にバルトロメオが笑顔で水夫たちと会話をしているのを見た瞬間、騙されたのだと理解した。
馬から降りて、そのたてがみを撫でつつ呆然と立ち尽くす。
「やられた……。けど、なんのために嘘なんか……」
「船長? 荷物はどうしました?」
すると、目線の先で会話を楽しんでいた彼がこちらに気づいてやってきた。
「……荷物は置いてきた。港で殴り合いが起きていると聞いて急いで来たんだけど、何も起こってないじゃないか」
「誰から聞いたんですか、そんなの」
「新しい水夫だよ。油断したね、全く」
「荷物全部置いてきたんですか? ハミングバードの彼も?」
「…………そういえば、僕にそれを伝えてきたあの男、どこに行った……?」
家を訪ねてきた男は港に向かったはずだったが、見渡しても確認できない。港にいる水夫の数が多いせいで見つからないだけかもしれないが、もし、港にいるのであれば、ルイを騙した理由が分からない。
「まさか……」
ルイの発した言葉に、バルトロメオは生唾を呑み込む。
航海直前のこのタイミングで、こんな行動をさせる理由。バルトロメオは気まずいというように目線を逸らし、ルイは苦々しく呟く。
「昨日の夜のうちに、罠は全部解除しているんだよ。あの男……それを知ってたのかな……」
「船長の家を知ってる人なんてほとんどいませんし、考えすぎですよ……ははは……」
「そう思うかい? 僕が嘘の知らせを聞いたのは家の中でだよ」
「すぐ戻った方がいいかと思います」
「僕もそう思った。ごめんよ、また君には世話になる」
勢いをつけて馬に跨り、町まで駆けた。馬に乗るのは随分と久しかったが、振り落とされることもなく、無事に終わった。きっと、気性の穏やかな馬なのだろう。
「君にはあとでご褒美をあげるからね、待ってておくれ」
家の前で馬から降りて、地面に足をつける。
ふと、ルイはこの町に違和感を覚えた。
「音がしない……?」
周りを一瞥すると、人影が見当たらず、この時間ならば賑わっているはずだというのに人の声も聞こえない。
「まぁ、いいか、とりあえずツカサくんを……」
奇妙だとは思ったものの、今はそれを気にするよりも優先するべきものがある。
懐にいれていたピストルを取り出して構えてから、息を殺し、扉に耳をつけて家の中の音を探る。中からは、遠くで木を踏む音が微かに聞こえてきた。おそらく、二階からだ。
音を立てぬように、扉を開けると、一階には人は確認できない。しかし、家を出るときとは様子が少々異なっていた。
壁に対して大きくズレたテーブルと、倒れている椅子。床には空の樽が転がっている。
ツカサが一人で家にいるときは、こんなに荒れた状態になったことはなかった。ルイの中で、嫌な予感として胸にあったものが、徐々に確信めいたものに変わる。
「ん? あれは……」
そして、遂にルイは決定的なものを目にしてしまった。
階段の最上段の方を見たとき、人の頭のようなものがあった。黒い髪は、彼のものとは全く異なる。
「…………っ!」
反射的に扉を開け放ち、ピストルを片手に階段を登り、足元に転がっていた見知らぬ男を蹴り飛ばしてベッドルームにピストルを向けた。
「あっ、ルイ! 港は無事だったのか?」
「…………あ、あれ?」
しかし、ベッドルームに広がる光景に、ルイは腕を下ろして呆気に取られ、立ち尽くす。
翼を広げ、杖を突きながらルイの元に来るツカサ。その足元には、五人の男が皆一様にうつ伏せで倒れている。
「え、あれ、君、こいつらは……?」
予想外の展開に、しどろもどろで聞いてみると、ツカサはニヤリと笑い、片手で金の髪を風に乗せる。
「なんか分からんが、危ない気がしたからしばらく床と友達になってもらうことにしたぞ!」
「ああ……そう、なるほど……、杞憂だったか……」
ひとまずピストルをしまい、ルイは唸って倒れていた男の首筋に手をあてる。脈はあった。
どうやら、ハミングバードという生物の力を見くびっていたようだ。
「まあ、ともかく無事でよかったよ」
「……だが、こんなことをしても良かったのだろうか……。もしかしたら親切な人間だったのかもしれん……」
「僕を遠ざけた時点でそんな可能性ゼロに等しいし、死んでないから気に病むことはないよ。よし、じゃあ予定通りに港に向かおうか」
「うーーむ……」
「大丈夫だから」
しきりに床に倒れている男を気にする素振りを見せるツカサに、一階に降りるように促す。三人の男たちも大層驚いただろう。
これからもっと驚いてもらうことになるが。
ルイの力で壊れてしまった扉の外には馬と荷車が見えている。
「そうだ、ルイ、これはワガママなのだが……」
「ん? どうしたんだい? 上で寝っ転がっている奴らは生きて帰してあげたいとかかな?」
「こ、殺すのか!?」
「冗談だよ。それでワガママってなんだい?」
殺しはしないが、ただで返すつもりもない。しかし、それは彼に言ってしまえば面倒なことになると思い、口を噤んだ。
「その……」
ツカサは昨晩、夜飛ぶことを頼んできたときと同じ顔でルイのシャツの裾を掴む。
「もう今日は航海に出るだけだろう? 港まで歩いてみたいんだが……」
「…………君、自分が稀少な生き物だって認識はあるのかい?」
「分かってる!……だが、やっぱり一度も景色を見れないままというのは……」
「ダメだよ。今日発つとはいえ、周知したくないんだ!」
ルイは扉の向こうをチラリと見やる。夜ならまだしも、太陽が燦々と輝くこの時間にそんな危ないことはさせられない。
「じゃあ、馬車に乗るだけでもいい。この町をちゃんと見たいんだ」
しばらく懇願と却下のやり取りが続いた後、ツカサは渋々というように、そう呟いた。ギリギリの妥協案だ。これにはルイも却下とは即答できない。
「…………馬車の乗り方はわかる? 途中で扉を開けたり、寄りかかったりしてはいけないよ」
「ルイ……!」
「翼が大きいから、狭い馬車には乗せられないね」
ルイの言葉に喜ぶツカサはその場で翼を広げ、ルイに抱きついた。腕と同じように身体を覆う翼はくすぐったくて、温かい。
念の為、とツカサに布を被せ、家の中に転がっていた男たちを縛りつけて、荷車に積んでから外へ出る。翼のせいで、布は背中で大きく盛り上がっているが、何かを背負っているようにも見えなくない。
「さて、馬車は──と、んん?」
外に出たルイは、馬車を探すために馬に重たい荷車を引かせてメインストリートに出る。すると、不思議なことに、商店の者や、通行人が皆、その場に倒れてしまっていた。
この光景には、見覚えがある。しかし、頭に浮かんだ仮定をそのまま肯定するには、まだ、疑念が残っていた。
隣で杖が、地面をつく。
「あっ! すまん、やりすぎてしまったな……」
「大砲よりよっぽど強い武器だね……」
仮定は、合っていた。
恐ろしい力だと、から笑いをしてみせる。
どうやらこの町の惨状は、彼の力によるものらしい。
「久しぶりだったものだから加減が……」
「どんな歌を歌ったんだい?」
「ん? 歌ってないぞ?」
「え? ハミングバードって、歌で攻撃するんじゃなかったのかい?」
「違うぞ。声が武器だ。叫んだりだな!」
「へぇ……。おとぎ話とは違うんだね」
隣で馬が大きく鳴いた。
ルイの知ってるハミングバードは、歌声で人々を魅了し、あるいは成敗する生き物だった。しかし、事実は小説よりも奇なり。
よくよく思い返すと、確かに、彼が大声で叫ぶ度に頭が揺れるような感覚があった。
「見事に町の人全員倒れてしまっているね」
「ここから少し離れれば、オレの声も届いていないはずだぞ」
「じゃあ……港の方まで歩いていこうか。馬車も見当たらないし……」
「おお! 歩いていいのか! 楽しみだな!」
先ほど、港の方から戻ってきたときは、ツカサのことが気がかりでまさか住人が倒れているのが見えなかったが、よくよく思い返すと町に違和感はあった。随分と静かだと。
彼の言う通り港の方は彼の声の影響を受けていない。ルイがこうやって平気でいるのがその証拠だ。
「馬の餌を買って、港まで歩こう。その布の結び目が解けたらすぐに結びなおすから見ておくんだよ」
「ルイ! あれはなんだ!?」
「ツカサくん、飛んじゃダメだよ!」
港に着いた頃には、ツカサは満足気に荷車の上で蜂蜜の舐めていた。
「楽しかったかい?」
「ああ! 面白いものがたくさん見れた!」
結局二人は馬車に乗ることなく、港まで歩いてきた。町の人が倒れていると、パニックに陥っている住人が一人二人見えたような気がしたが、聞こえないふりをした。
「じゃあ、船に乗ろうか」
「……ありがとうな、ルイ! お前のおかげだ!」
「楽しめたようで何よりだよ」
船の前で語り合う二人には、港や船の上にいる水夫たちの視線が注がれていた。気分の良いものではない。どれも、好奇の意味が含まれていた。
海風で、ツカサが纏っている布が翻り、翼がちらほらと見えているからだろう。
「船が動き出すまで僕と一緒に甲板の上に居てくれるかい? 君のことをちゃんと話しておかないと」
「ああ、分かったぞ!」
かくして、ルイとツカサの二人暮らしは幕を閉じ、旧大陸を目指すために船は港を離れた。
出発して、ルイは水夫たちに甲板に集まるように号令をかけた。布を脱いだツカサを隣に、船尾からその集団を見下ろす。船を動かすには充分な人員だが、若干少ないように思えた。
水夫を集めるのには、ルイとバルトロメオ、そして水夫同士の勧誘などの方法だったが、今回の人員集めはなかなかに手間取ったことを思い出す。
思うに、新大陸というのは夢の土地と呼ばれているほどチャンスに溢れた場所だ。旧大陸では貧乏な農奴だった者が、新大陸で中流階級と同じ暮らしを手に入れることができたというのはよくある新大陸への誘い文句のひとつ。
そんな場所から旧大陸行きの船に乗るなんて、夢を諦めきれない者にはできないはずだ。
「まず、僕が一応船長ということになっているよ。そして、僕に有事があれば航海士を勤める彼──バルトロメオが指揮を執るからよろしく頼むよ」
「やあ、よろしくお願いします。航海士なんて言われているけれど、一応船長も舵取りが出来るので、何かあったら船長に」
出発する前、船長はバルトロメオに譲るつもりだったが、結局押し切られてまた船長の責務を負ってしまった。
集団を見下ろしながら、嘆息を一つ。
「そして、もう一人。前回の航海から共にしていた人は既知の存在だとは思うけれど……この船にはハミングバードが乗っているんだ」
「よ、よろしく頼む」
驚いた反応を示したのは半数以下の水夫だったが、それ以外はごく普通のことのように聞き流す。
「この子の処遇だけれど、どうやら元々保護されていたハミングバードだったらしくてね。前回僕が言った、商人に売るのは中止だ。客人として送り返すから丁重に扱うように」
「すまないな…………、ん? 売る気だったのか?」
「童話やマザーグースを知ってる人なら、ハミングバードのことは分かるだろうけど……知らない人のために説明しておくよ」
「ルイ?」
「僕の目を盗んで彼を奪おうなんて、思わない方がいい。ハミングバードは君たちを簡単に跪かせることができるくらい強い生き物なんだ。彼に手を出そうものなら……この人たちのようになるよ?」
隣で忙しなく翼を動かすツカサを落ち着かせるように撫でながら、ルイはまっすぐ、マストの方に指をさした。
マストには、男が三人、気を失いながら柱に括りつけられている。
「彼らは、ツカサくんに手を出して呆気なく気絶させられてしまったんだ。本当ならここから次の目的地までマストの上で生活して欲しいところだけど……可哀想だからそろそろ下ろしてあげるとしよう。ほら、頼んだよ」
ルイが手を叩くと、数人の水夫が動き出し、三人の縄を解く。ぐったりと、物言わぬままだが、まだ生きてはいた。
それを、数人がかりで甲板の端まで運び出すと、躊躇うことなく船の外に放り投げた。
「なっ! なにをしてるんだ!」
「ツカサくん、大丈夫。まだ陸が見えるだろう? 泳いでいける距離だよ」
「だが……」
「見せしめというのは必要さ」
水夫たちは、放り投げられた方向に顔を向けたまま、静まり返っていた。
隣にいるツカサは青ざめた顔をルイに向けて、翼を縮こませる。
「それに、水を被って目も覚めるよ」
「心配だ……。ちょっと見てくる」
「大丈夫だから。ほら、この船色々改良したから君にも見せてあげるよ」
飛ぼうとする彼の腕を引いて、励ますように笑顔を向ける。しかし、彼は、未だに怪訝そうに顔を俯いたままだ。
「ここら辺は船もよく通る。助けてくれるって。人間は水に浮くようになっているし」
「むぅ……」
「船長〜? あー……とりあえず、ハミングバードに攻撃すれば文字通り海の藻屑になるぞということと、今回の目的地は一応旧大陸南方の国だ」
「やあ、すまないね。……今回は目的地に着いたあとの長期滞在はない。必要物資を整えたら南方の新大陸に向かうから、着いてくる意思がある者は覚えておいてくれたまえ」
解散、とバルトロメオが発言すると水夫たちは散り散りになって消えていく。甲板に残っているのは先ほどの水夫のうちの半分以下だ。
「じゃあ、色々見に行こうか、ツカサくん!」
「あ、ルイっ、持ち上げるな!」
「まずすぐに気づいたと思うけれど、君の為に船尾に登れる階段を作ったよ。飛んでもいいと思ったけど、船にはロープとか帆とか張ってあって危ないだろう?」
「まあ、風が強い日は飛ぶのは無理だな」
「海の風は強いからね、必ず必要になるよ」
ツカサをおぶって階段を下る。次に見せたいものがあるのは船の中だ。
甲板にある階段を下り、扉を開ける。中には竈と調理器具。ここは、厨房だ。
「竈をひとつ増やして、パンを焼けるようにしたよ。船が大きく傾いても火が別の場所に引火しないように色んな工夫を凝らしているんだ!」
「べ、別にオレは毎日干し肉でも構わないんだぞ……?」
「その分厨房が重くなったけど、元々火薬庫に重量が傾きつつあるのが悩みだったからいいとしよう。僕の部屋も合わせてバランスが取れるようになったんじゃないかな? 総重量が浮力を超えない限りは……」
「な、なんの話をしているんだ……?」
耳元に困惑の声が聞こえるが、口から流れ出る言葉を止めることができず、その場で三分ほど、厨房の竈の性能を語りきった。
ただ、一言でいうとするならば、パンを焼く専門の竈を作ったというだけなのだが。
「よし、じゃあ僕の部屋に行こうか!」
「さっぱり分からなかったのだが……」
「ツカサくんは物覚えがいいからすぐに分かるよ!」
厨房を出ようとすると、片隅で、無口なコックが礼をしているのが見えた。彼はバルトロメオが拾ってきたコックらしい。食料のこと以外でほとんど話した記憶はない。
一度甲板に上がり、船首の下の階段を下る。この階段を下った先には、ルイの部屋と、隠し部屋しかない。
「まず、扉が少し重たくなったから気をつけてね」
扉には鉄板が張ってある。彼にも開けられる程度の重さを心がけたが、もし重すぎれば改良が必要だ。
「床も鉄なのか……?」
「そうだよ。これから火薬を使うからね。火花が飛ぶ範囲には鉄を張ってある。あとは、部屋の中まで飛んでこないようにだね」
部屋の中にはチェストとベッドがひとつずつ。そして、ルイの使うベッドよりも少々低く、柵のあるベッドがひとつ増えていた。
「あれがツカサくんのベッドだよ。また落ちて翼を怪我しないようにだね。床の上に直接布を敷いてもいいけれど、やっぱり色々と問題があるだろうから」
「昔から寝相が悪いんだ……。すまない……」
「大丈夫だよ、落ちないように柵をつけたから、飛び越えないようにね。なるべく高めには作ったよ」
柵は、ルイの腰ほどまでの高さがある。これまでの二人暮らしで、彼の寝相を見ているうちに柵は高い方がいいと判断したのだ。
「あとはこのトランクの中にまだ君が読んでいない本が入っているよ。退屈したら読むといい。雨風や虫に気をつけて、トランクはなるべく閉めておくんだよ」
「……い、いいのか? こんなに至れり尽くせりだと、オレは……」
「君はこの船のお客さまさ。これくらいは当然だし、むしろ、こんなこと程度しかできなくて申し訳ないよ」
しおしおと垂れ下がる翼がルイの身体を後ろから覆う。頬に羽根が擦れてくすぐったい。
ひとまず彼を、部屋に下ろした。
「じゃあ、これから旧大陸付近の島に向かうのに僕は上で話してくるよ。この部屋にはまだ罠を仕掛けていないから、誰かきたら遠慮なく倒していいからね」
「分かった! だが、一度飛びたいな……、オレも甲板に行こう!」
「ええ……突風に気をつけるんだよ?」
「任せておけ! 飛ぶのは村の中で一番上手いんだ!」
「はい、これ杖だよ」
「うむ!」
前回の航海では、彼は喉を痛め、翼に怪我を負っていたためにほとんどこの部屋に引きこもっていたが、これからはそうではない。
彼に近づいてほしくないエリアは階段を作らず、梯子のみで昇り降り可能にしたが、好奇心旺盛な彼が、階段で繋がっている火薬庫などにいかないかが心配だ。あとで教えておかないといけない。
「楽しみだな!」
「そうだねえ」
航海はまだ始まったばかり。新大陸の港も、もう見えなくなってしまっているだろう。
修理したために、太陽の光が差し込まないこの部屋で、ツカサは杖を片手に出ていった。
数日経ち、ルイは船尾から甲板の様子を見下ろしていた。今の季節の日差しはまだ強い。
「彼、あっさりこの船に馴染みましたね」
「そうだねえ……」
「心配せずとも、彼に乱暴する人なんていませんよ。みんな船長の怖さを見たんですよ?」
「そうだといいねえ……」
「何がそんなに不満なんです?」
「不満なんてないよ」
甲板では複数人の水夫たちとツカサが、談笑をおこなっていた。明るく、人懐っこい笑顔をする彼は、多くの水夫とすぐに仲良くなってしまった。喜ばしいことだ。
「ツカサくんも楽しそうだし、何が不満そうにみえるんだい?」
船尾の手すりに頬をついて、そう言うと、バルトロメオは困ったように口を噤む。
島にはまだ着かない。彼が退屈せず、楽しく船の上で過ごしていけるならいい。
「船長、視線がちょっと怖いんですよ。水夫が気にしてる」
「見張ってるだけだよ。ツカサくんに対して何かしないかとか、ツカサくんが変なことしないかとか」
「はぁ……、知ってます? 新大陸にいた間、船長のこと知ってる水夫はハミングバードに近寄らないようにしていたんですよ。手出したら死ぬよりも酷い目にあわされるのが分かるからって」
「懸命な判断だね」
「みんな命が惜しい。ここで船長に人間大砲にされたり、海に落とされたりはごめんなんですよ」
嘆息混じりの言葉に、ルイはムッとした目を向けて、すぐに甲板に視線を戻した。
人間が皆、論理的、効率的かを考えて動く生き物かといわれればそれは異なる。限りなく低い確率に賭ける者がいるからこの世にはギャンブルなんてものがあるのだ。
勝率が低いからといって、彼に手出ししないとは限らない。
「彼、今は本の読み聞かせをしているらしいですよ」
「へえ……」
「字が読めない水夫も沢山いますからね。大陸で生活している間に、島の言葉も覚えてしまったようですし」
「ふーん……」
「やっぱり機嫌悪いじゃないですか。面倒な人だなあ……」
ツカサは、大陸にいる間に島の書き言葉を先に覚えた。それと同時に、ルイが発音を教えた。訛りはあれど、通じはするだろう。
彼が話している相手が誰なのか、ルイは会った覚えや話した覚えが全くない。
ルイは、階段を下りて甲板を歩き出す。
「──で、そこでまた天使が舞い降りてきて……あ、ルイ! よく来たな! お前も聞きたいのか?」
「……あぁ、うん。邪魔してごめんよ、続けて」
数人の水夫の後ろにあぐらをかいて、彼の手にしている本を見る。赤色の装丁で、あまり厚くはなく、もう既に残り数ページしか残っていない。
恵まれない少年に、天使が幸せを運ぶという話だった。彼が読む度に、場面に合わせて翼が動くのを、ルイは黙って見ていた。
読み終えると水夫たちはツカサに礼を言い、それぞれ好きに離れていく。
ルイは水夫が去ってからもその場に留まり、ツカサは目の前までやってきた。
「どうしたんだ? ルイが聞きに来るなんて珍しいな」
「少し……気になってね」
「そうか……、楽しめたか?」
「うん、ツカサくんは読むのが上手だね」
「村ではよくやっていたんだ」
懐かしそうに、遠くを見て笑う彼の翼が風に吹かれて揺らいだ。それを撫でると、彼はルイに視線を向けて柔らかい笑みを見せる。
「ルイは、オレの翼が好きだなあ」
「撫で心地が良くてね、つい」
撫でると白い羽根が抜けて、甲板に落ちる。それを見て、ふと、夜に羽ばたいたツカサの姿を思い出した。
「今の話、ツカサくんが天使を演じたらぴったりなんだろうね」
空から翼をはためかせて降りてくる彼は、まさしく本の中の天使のようだった。
ルイの言葉に、彼は一瞬呆けたような表情を浮かべ、ゆっくりと杖を頼りに立ち上がる。
「じゃあ、今からやるか」
「え? 何をだい?」
「天使の演技だ」
言うやいなや、大きな音を立てて彼は飛んだ。真上から羽根が、風に乗って落ちていく。
軽快に空を飛ぶツカサに、立ち上がって息を呑んでいると、周りから感嘆の声がした。視線を外すと、水夫たちが空を見上げている。
「ルイ、いくぞ」
「……うん」
空の上で彼は微笑み、ゆっくりと、優雅に降りてくる。そのまま弱い足を地につけて、ルイは彼の腕をとって体重を支えた。
『少年よ、私は天界より神の命にてやってきました』
ゆったりと、温かみがあり、重みがある声だった。
「──なんて、どうだ?」
「凄い、本当に天使のようだったよ!」
得意気に笑ってみせるツカサを抱き上げる。彼も嬉しかったのか翼を大きくはためかせ、ルイの頬を包み込む。
「村にいたときはよく、こうやって遊んでいたが、地上に降りたり……天使の役は初めてだ!」
生き生きとした笑顔に、頬が緩む。
妙に慣れているようにみえたが、やはり、元々嗜んでいたらしい。好きなのだろう、こういうことが。
ふと、ルイはあることを思いつく。
「そっか……、ねぇ、そうしたら少しこの船の上でもやってみたらどうだい?」
「演技をか?」
「うん、僕も協力するから。あとは数人に協力してもらって。普通に読み聞かせるより面白いと思うよ」
「ルイは、いいのか……?」
「船の上はやることが少なくて、みんな日々を過ごすことに飽きてしまうからね。娯楽は必要だよ」
床の上に置かれている本を捲る。
この話の天使は、少々そそっかしくうっかりや。少し、彼に似ているように思えた。
「だが……協力してくれる人なんかいるんだろうか……
?」
「いるいる。そんなに人数は必要ない話だし、いくらでも集められるさ。そうだろう? ねぇ、君たち」
床の上に彼を下ろし、ルイは周りの水夫に笑顔で尋ねる。
返事はすぐにはなかったが、もう一度聞くと、彼らはゆっくりと頷いた。
その後、劇をやるのに人員を募集したところ、十分集まった。その中には船尾の上で笑ってみていたバルトロメオや、ほかの水夫から今回の話を聞いたアンディも含まれている。
太陽が沈み、簡単な夕食を済ませる。ツカサはルイの部屋の中でランプの灯りを頼りに本を読んでいた。
「ツカサくん、そろそろ寝ないと。ほら、火を消して」
「うーーむ、明日が楽しみで眠くないんだが……」
「そんな顔してもダメだよ」
「ルイだってよく夜更かししていたじゃないか」
「それは……」
「夜更かしというより、寝てない日もあったよな?」
「…………眠くなったら寝るんだよ」
ルイは熱中すると時間を忘れてしまう癖がある。新大陸ではそれでよく徹夜をしていた。
そこを突かれてしまえば何も言い返せず、ルイはベッドに横になる。
ペラペラと、紙を捲る音を聞きながら、その日は初めてツカサより早く眠りについた。
翌日、目を覚ますと隣のベッドに彼の姿はなかった。
甲板に上がると、数人の水夫と本を囲んで話していて、ルイの姿を確認するとすぐに飛んでやってきた。
「おはよう!」
「おはよう、ツカサくん。早起きだね」
「楽しみで早くに起きてしまった。今、丁度役決めをしていたところなんだ。お前はもう決まっているが、こい!」
返事をするよりも先に、彼は先ほどの場所まで飛んでいってしまった。
のんびりと歩くルイに、バルトロメオが笑う。
「船長が神さまの役でもやります? 多分、似合いますよ」
「神さま? あぁ……それなら、船尾か船首の方に立った方がそれっぽくみえるだろうね。でも、船首の方だと障害物が多いから……」
「ね、寝ぼけてます?」
「いいや? 神さまをやるならどこに立つべきか考えていたんだよ」
甲板の上とはいえ、劇をやるからには配置を工夫した方が観客は楽しめる。そう言うと、バルトロメオはしばし黙ってから、もう一度笑った。
「案外船長も乗り気だったんですね」
「そう見えていなかったのかい?」
「まぁ、はい」
そう思われたのならば、心外だと、ルイは言う。しかし、この会話が聞こえていたらしい周りの水夫も意外そうに頷いていた。
「おい、ルイ! 関係ない話をするんじゃない! お前は主人公の少年の役だぞ!」
「あぁ、ごめんよ……って、え、もう決まっていたのかい?」
「さっきそう言っただろう!」
「この役は船長以外には出来ませんよ、多分」
「僕、少年って歳じゃないんだけど」
「天使役と一番距離が近い役ですよ? 怖くて出来ませんって」
「そんなことにいちいち目くじら立てないよ……」
またまた心外だ。バルトロメオを含め、周りは皆、自分のことをなんだと思っているのだろう。
そう思い、不満げに眉を顰めていると、ツカサが遠慮がちに口を開く。
「ルイならすぐにオレのことを支えてくれたりするだろう? だから、お前がいいとオレが頼んだんだ。い、嫌だったら……」
「嫌じゃないよ、納得した」
彼から発されたのは、バルトロメオから聞かされたのと別の理由だった。
騙されたルイは静かに、バルトロメオのコートの裾に爆薬を引っ掛ける。
「…………船長、怒んないんですね」
「そんなことで怒らないよ」
「逆に怖い」
数秒後、彼の足元で爆発音が鳴り、彼は床にひっくり返ることになる。
配役は、少し焦げたコートを羽織ったバルトロメオに海水をかけた後に決まった。
天使の役はツカサ、少年はルイ。神の役はアンディで、神の側で働いている天使の役がバルトロメオ。地上にいる人間はそれぞれ水夫が。
「ツカサくんは何をせずとも天使に見えるけど、君が天使を名乗るのは厳しいね」
「まぁ、そうですよね。衣装が大変だな……」
「それで、君が神さまなんだね」
「俺が一番綺麗な言葉を使えますからね。それっぽいらしいんですよ」
「なるほど、確かに」
数人でひとつの本を共有し、各々文章を見ていく。
「ここの台詞、本だと自然だが……うーーむ、少し直した方がいいかもしれん」
「紙とペンを用意するかい?」
「頼む。でも、全員分の台本を書いた方がいいかもしれないな……。このままじゃ不便だろう?」
「それじゃあ文字を書かなくてもいいように簡易的なタイプライターでも作ろうか!」
「た、たい?」
「出来たら使い方を教えてあげるよ!」
タイプライターは、文字を打つ機械の名前だ。文字を書くよりも疲労が少なく、楽になる。この船にはないが、幼少期にルイはタイプライターを解体して仕組みはそれなりに理解していたので、資材さえあればそれに似た者は作れるはずだ。
隣でバルトロメオで息を呑む。
「普通、タイプライターをパッと作れるなんて人います……? やっぱり船長は船降りてもやっていけますよ……」
「俺もそう思うが、発明家って変わり者が多いっていうしな。その一人なんだろうな」
二人でコソコソと話しているがルイはそれを聞き流し、甲板を降りて倉庫に向かった。鉄や鉛はここに沢山あるのだ。
結局この日は、タイプライター作りのために役決めだけで解散となった。
「ルイ、寝ないのか?」
「これを作ってからにするよ。陸の方が調達が簡単だったけど、まさか使うことになるなんて思わなかったなぁ……」
「別に手書きでもいいんだぞ?」
「十数人の台本を? そんなの大変だよ」
夜、ランプの灯りだけでルイは機械の部品を組み立てていた。ツカサが心配そうに覗き込む。
「夜更かしは良くないぞ」
「昨日の逆だねえ……」
ルイの手は黒く汚れており、足元に敷いてる布も所々黒い。
「……ルイ、寝ろ。そういう作業は明るい場所でやった方がいいぞ」
「うーーん、でも……」
徹夜をすれば朝までには出来上がりそうなのだ。
はっきりとした態度を取らないまま手を動かしていると、隣にツカサが座り、肩から腕にかけて翼が撫でた。
「ツカサくん、汚れちゃうからベッドに戻った方がいいよ」
「嫌だ。お前の作業が終わるまでここにいる」
「そうくるんだね……」
腕をスリスリと翼が撫でるように動いてくすぐったいが、手を汚してしまっている以上払い除けようにもそれができない。
それが数分続いた後、ルイは持っていた部品を布の上に置いた。
「分かった、寝るよ……」
「ふふん、分かればいいんだ! ほら! 手を拭いてベッドにいけ!」
「よよ……ツカサくんのために頑張ってるのに……」
「ありがたいが、それで身体を壊されては困る。ちゃんと寝てくれ」
翼がルイの頭を撫でた。動かしている本人はどのような感覚なのだろうか。自分には翼が無いからよく分からないが、とても器用だ。
翌朝、起き上がると昨日とは違い、ツカサはベッドの上で翼の手入れをしていた。
「おはよう、ツカサくん」
「む? おはよう、ルイ」
「ふふ、お手入れは順調かい?」
「ああ、順調だ! どうだ、綺麗だろう?」
「うん、今日も真っ白で綺麗な翼だよ」
彼のベッドシーツの上には、いくつもの羽根が落ちている。そろそろ彼が掃除し始める頃だろう。
ツカサは、翼から手を離し、今度はルイのベッドに上がってきた。
「撫でてもいいぞ!」
「うーーん、撫でたいんだけど……。今日は手が汚れているから、作業が終わってから撫でてもいいかい?」
「そうか……、まぁ、では! あとで撫でさせてやろう」
目の前でバサバサと動く翼を撫でたい欲はあるが、その純白は汚したくない。
ルイは布を持って陽の光が降り注いでいるはずの甲板に上がり、ツカサもそれを追うように甲板へやってきた。
階段の辺りは狭くて飛べず、杖を使ってのんびりと上がっている。
「今日はバルトロメオはいないのか?」
「昨日見張り番だったからね。昨日の夜は海流が複雑な場所を通る予定だったから、正確に舵を取れる人が見ていないと危なかったんだよ」
階段を登り終えると、ふわりと飛んで、ルイの隣に落ち着いた。
ルイは、そんな彼を気に留めず、小さな部品を合わせて組み立てる。昨日のうちに作りきった活字に掘った鉛はボタンを対応するように配置しなければならない。
「彼がいなくて寂しいかい?」
「そういうわけではないが……、なんとなく、いつもいたからな。ルイも見張りをするのか?」
「するよ」
「じゃあオレも起きていよう」
「ダメだよ」
「オレは目がいいぞ」
「うーーん、これをこうして……、目がよくても、夜は危ないだろう?」
十年ほど前の記憶を頼りに組み立てていると、隣にいる彼の翼がまた、腕を撫でていた。
彼の視線はルイの指の中にある部品だ。
「ルイは凄いな、オレにはこういうことはわからん……」
「一度解体して仕組みを理解すればすぐ分かるようになるよ。それに、これ、作ったとしても壊れやすいかもしれないしね」
「ほお……完成品が楽しみだな!」
彼がそう言うと、腕にかかっている翼も大きく動いた。
大陸に暮らしていたときも、ルイがピストルの手入れをしているときはまじまじと見ていたが、彼はこういうものを見るのが好きなのだろう。
ただ、大陸にいたときは、翼がこんなに密着していることはなかったような気がした。
「楽しみだなあ、たいぷらいたー!」
「ふふ、そうだねえ」
きっと、彼が随分と心を許してくれているのだろう。そう思うと、なんとなく嬉しいものだ。
「夕方までには完成させるよ」
「応援してるぞ!」
「さて、出来たよ! 時間がかかってしまったね」
「いや、凄いぞ! 流石ルイだな!」
完成したのは、赤く染まった太陽が海に沈みかけているときだった。途中でどうしても合わない部品などが出てきて予定していた時間には遅れてしまった。
ロープに繋いであるバケツを手に取り、海水を汲み上げて布を濡らしてから指を拭いた。布はあっという間に黒く染まる。
「どうやって使うんだ?」
「これから説明するよ」
機械の前に座り、使い方を説明していく。力加減を間違えてしまうと、すぐに壊れてしまうが、直せる範囲だろう。
「このボタンを押すと、これと同じ文字が紙に書かれるのか……」
「そうだよ。一応わかりやすいようにボタンに文字は書いたから活用してね」
「凄いな! おお……! 凄いぞ、ルイ!」
「うわっ!」
文字通り飛び上がって喜んだ彼は、ルイに抱きついた。まさかそうくるとは思わず、ルイはそのまま床に倒れる。
「いたた……、そんなに凄いかい?」
「ああ! これ、村に持って帰ってもいいか? きっとみんな喜ぶぞ!」
「それくらいいいけど……。いや、村に持って帰るならもっとちゃんとしたものがいい。新大陸に着くまでに、もうひとつ作るよ」
「じゃあ、これはオレが個人的に貰ってもいいか?」
「いいよ」
タイプライターは床に置かれたまま、彼は船の周りを飛び回りに行ってしまった。
その様子が微笑ましくて、笑っていると、後ろから声をかけられる。
「タイプライターなんて、作れるものなんですね」
「おや、起きたのかい?」
「ええ、おはようございます」
早朝までずっと起きていたバルトロメオは、日が落ちる今起きてきたようだった。
「明後日が船長の見張りですからね」
「分かっているよ」
遠くでツカサが、タイプライターのことを水夫に自慢している声が聞こえた。まさかこんなに喜ぶとは予想外だ。
ルイがタイプライターのボタンを叩くと、紙に文字が映し出される。
「船長が、前に言ったこと覚えてますか?」
「なんだい、急に」
「ハミングバードの彼には、自由に暮らせる場所があればいいって。きっと、彼は今、とても自由に楽しく生きてますよ」
二ヶ月以上前、航海の中で自分が放った言葉を、バルトロメオは思い出させた。
そんなに前のことではないから、覚えてはいる。
「自由に……見えるかな」
「僕にはそう見えますよ。貴方が、彼に自由を与えたんです」
「でも、船の上は他にたくさんの不自由があるじゃないか」
「でも、売られた貴族のもとでは美味しいものを食べることはできても自由に声を出したり、飛んだり、歩き回ったりなんてできないんですよ」
空の上の彼を見た。
甲板の上を舞いながら、周りの水夫と楽しく話す。飛びたいときに翼を広げ、交流したいときに声を出すことが自由だなんて、複雑な気持ちにさせられた。
歩いて、話す。人間ならごく普通にできることだ。
「自由……か、ハミングバードは自由は不自由が前提にあるんだね」
「彼らのあたりまえが、僕らにとっての不自由という価値観なんですよ」
話しているうちに、太陽は海に沈んだ。
ツカサはある程度自慢すると満足したのか、ルイのもとに降り立つ。
「明日は台本を考えよう! 島に着くまでに劇が出来るだろうか……」
「大丈夫、短い話だから、台本の作業は三日後には終わるよ」
「まぁ、あくまで退屈しのぎの催し物ですからね。僕たちが集まって話しているのを見てるだけでも案外楽しんでいるって聞きますよ」
「ほう……」
「いくらなんでも退屈しすぎじゃないかい?」
「あとは鯨探すくらいしか楽しみがないじゃないですか」
「鯨がいるのか?」
「いますよ」
話をしている間、ルイの背中には翼が張りついていた。日が落ちて肌寒くなった身には温かくて助かる。
「さて、もう寝ようか。君も寝ておくんだよ」
「もう目が冴えて眠れないんですけど……」
「見張り番は大変なんだな……」
「ツカサくん、部屋に戻ろう」
「ああ。おやすみ、バルトロメオ」
「おやすみなさい、二人とも」
甲板の上に彼を置いて、タイプライターを手に持ち、階段を下った。
仕掛けを解除して扉を開く。
「ルイ、そういえば、翼を撫でるか? 朝約束していただろう?」
「いいのかい?」
「飛んだあとはボサボサになりがちだからな、整えてくれ」
ベッドの前に座る彼の後ろに膝をつき、大きな翼を撫で下ろす。羽根が生えている流れに沿って撫でていくのがいいらしい。
「ルイは、オレの翼が好きか?」
「え? うん、好きだよ」
「そうか、オレも自分の翼が誇りだ! それを気に入ってもらえるのは……、っ、嬉しいぞ」
背中に近い羽根の生え際には触らないように注意をする。以前、触れたとき、彼は驚いて前のめりに倒れてしまったことがあるからだ。
まだ、彼の合格ラインは分からないが、自分なりに概ね綺麗に整えられただろうというところでルイは手を止めた。
「ほら、これで整ったんじゃないかな」
「ありがとう、ルイ」
彼は翼を見て満足そうに微笑み、ルイもつられて同じ表情を見せる。
「そろそろ寒くなってきたから、身体を温めておくんだよ」
「寒いか? そんなことはないが……」
「僕だけかな。それとも、ハミングバードは体温が違ったりするのかな。まぁ、いいや」
ベッドに入った彼に、布を数枚かける。
「ルイは寒いのか?」
「少しだけ」
「寒い日は、布に包まるのもいいが、誰かと一緒に寝ると暖かいと両親は言っていたぞ」
「ふふ、じゃあ冬になったら君にお願いしようかな」
「もちろん、一緒に寝てやろう! オレも、寒くなったらルイに頼もうと思っていたんだ」
ランプの火が消された真っ暗な部屋の中で繰り広げられた会話に、ルイは胸が温まる。
寒くて、食料も厳しくなる冬はあまり好きではなかったが、彼がいればそんな季節も楽しみだと思えてしまう。
それから数日、劇の台本は作り終わり練習も順調。
ルイが見張りの日に部屋を抜け出して船尾まで飛んできたこと以外は事件もない。
そして、今日は初めての本番だったが何事もなく幕を下ろすことが出来た。
観客の水夫たちは拍手を送ったり、寝てしまっていたりとまちまちだ。
劇を終えると、メンバーは船尾の上に集まり、反省会を開く。それぞれ話したいことはたくさんある。
「次回は、別の言語でやろう。ここにいるメンバーは南方の言語を使えるだろう?」
「そうですね、翻訳も僕らでできますし」
「……今回演じてみて分かったが、高く飛びすぎると観客は疲れてしまうようだな」
「そうだねえ、船尾についている手すりよりも少し上から降りてきた方がいいかもしれないね」
他にも、大道具を工夫したり、船の柱を利用した舞台作りをしようなどの意見が上がった。
全員劇の経験もなく、寄せ集めだが、いつの間にか真剣に取り組んでいる。
一通り、意見を出し終えると、今度は成功したことを記念して上等な酒を皆で分け合った。
「それにしても、最近寒くなりましたよねえ」
「そうだね、昼間はいいけど夜は寒い」
季節が徐々に冬に近づいている。概ねの人は二人の言葉に頷いた。
「やっぱり寒いのか……」
しかし、ただ一人。ツカサだけは首を傾げている。相変わらず寒さは感じないようだ。
「ハミングバードの体温は高いのかねえ」
「いや、人間と同じ程度だったはずですよ。彼の体温が高いだけじゃないですか? あと、翼が風よけになっているとか」
また妙にハミングバードに詳しいバルトロメオが解説をする。嘘である可能性もあるが、ルイはその言葉に「へえ……」と相槌を打ちつつ酒を飲んだ。
ルイは、背中に彼の翼を感じながら、その額に手をあてる。
「確かに、僕より温かいかもしれない」
「そうか?」
「じゃあ、元々かもしれないですね」
各々酒を飲みつつ、今度は自分の国の話になった。
そんな中、ふと、ルイはツカサが酒を一口も飲んでいないことに気づく。
「このお酒、嫌いだったかい?」
たずねてみると、彼は首を振る。
「嫌いではないが、少し、今は飲めなさそうで……。どちらかといえば何か食べたいところかもしれん」
「おや……。じゃあ、何か食べようか。酒の肴も欲しいと思っていたところだから干し肉をもってくるよ。パンもあったかな」
「ああ、僕が持ってきますよ」
珍しいな、とルイは思った。
ツカサは、劇の本番前にも空腹を訴えて普段よりも食べていた。それからまだそれほど経っていないというのに、また食べるなんて、彼らしくはない。
ただ、ルイはあまり深くは考えなかった。きっと、緊張だろうと思い、片付けたのだ。
その後、持ってこられた干し肉とパンを頬張る彼は、特に体調が悪いようにも見えなかった。
それからまた数日経ち、ルイは見張りのために夜の船尾をふらふらと歩いていた。
バルトロメオの見解では、そろそろ島が見えてくる頃だという。島が見えて、二日ほどすれば最初の目的地に着く。
海が小さく波の音を立てた。
「穏やかだなあ……」
今回の航海は、毎日が楽しい。
することもなく、金や、飯を賭ける。ただただ変わることのない海の外の景色に胸焼けがする。生きるために、不味い酒を飲む。
航海は、嫌いではない。陸では得られなかった自由がある。そんなルイでも、たまに、海の上が嫌になるときがあった。
けれど、今回はそんなことを微塵も思わなかった。
彼と共に本を読んだり、劇をしたり、何かを組み立ててみせたり。食事だって、楽しみのひとつだ。
「さーて、見張りの役割を果たさないとね」
船尾の上で、独りごちた。
この辺りの海域は、様々な国の船が行き交う。しっかりと見張っていなければ、衝突などの危険がある。
見張り番は一人ではない。船首の方にもう一人がいるはずだ。
しかし、コツコツ、と誰かが甲板の上を歩いている音が聞こえてくる。甲板の上で雑魚寝をしている水夫の足音だろうか、とルイは見下ろす。この時間に起きている水夫は珍しくない。
しかし、そこに居たのは杖を片手に持ったツカサだった。
「あ、ルイ……。見つかってしまったな」
「何してるんだい……? ダメだよ、ほら、部屋に戻って」
彼がこうやって見張りをしているルイのもとにくるのは初めてではない。前回は、船尾で一人、地図を見ていたところに飛んできた。
歩けばバレないとでも思ったのだろうか。
「なんとなく、眠れなくなったんだ。今日は大人しくしているからいいだろう?」
「うーーーん……本当に眠れないのかい?」
「うむ……」
今日は随分としおらしい。その態度に、ルイは彼が船尾に上がるのを許してしまった。
彼は、ゆっくりと階段を登って船尾に座る。
「今日は三日月なんだな」
「そうだよ。三日月でも月が出ているから周りがよく見えて助かるよ」
ツカサの言葉に、ルイは初めて空を見上げた。
半分以上姿を見せない月と、周りで輝く満点の星。航海を始めた当初は、船の上から見上げる空に感動のような気持ちを覚えたが、今となっては見飽きた光景だ。
しかし、彼はそうではないのだろう。
「月が出ていると空が綺麗だな……」
「楽しいかい?」
「ああ、オレの故郷の秋に見える星とはまた違うな」
「そりゃあ、場所が全く違うからね」
彼は空の星を紙に書き写していた。
ルイは、舵の近くにある樽に座り、海を見ながら口を開く。
「君の故郷は南の方だろう? ここは北だから、星の見え方は逆なんだ」
「逆?」
「うん。逆さまなんだよ。あと、あれは北極星。北の方でしか見れない星だよ」
「おお……、一段と輝いているな」
「そりゃあ、一番明るい星だからね」
ツカサは翼をはためかせて北極星を眺めていた。一瞬、飛ぶのだろうかと思ったが、どうやら今日は本当に大人しくしているみたいだ。
「ルイは星に詳しいな。勉強したのか?」
「幼いころに、星のことを書いた本が僕の部屋にあったんだ。それを読んで覚えたんだよ」
「そうか……」
幼いころに読んだ本と、その通りに広がる星空。
今、ツカサが北極星を見て感動しているように、ルイも航海で南まで船を進めたとき、これまでとは全く異なる星空に感動したものだ。
「君たちの故郷でよく見える南十字星は、ここでは見れないんだ」
「ほう、そうなのか……」
「ツカサくんも、星には詳しいのかい?」
「それなりに。よく、空を飛んで星を眺めていたから覚えたんだ。星座の名前は多くは知らない」
風が吹いて、地図が大きく捲れ上がる。冷たい風だった。
「……ツカサくん、船の上は冷えるから、ブランケット代わりのものを羽織った方がいいよ」
船尾の上に置いてある木箱の中から一枚の布を取り出して、彼にかけた。すると、腕を引かれて床に座らせられた。
「ツカサくん?」
「お前も寒いんだろう? 少し、ここであったまらないか?」
「いや、僕、見張りをしないと……」
自分よりもずっと温かい手のひらと、海の風を受けつつ、身体を温めてくれる翼の前で、ルイは断りきれなかった。隣に座って、二人で布に包まる。
「暖かいねえ……」
「ルイは気づいていないかもしれないが、手が震えていたぞ。ちゃんと暖かくしておけ」
「ええ? 恥ずかしいところ見られてしまったね」
彼の翼を撫でる。
冷たい風が吹きつけても、今度は寒くなかった。
「ツカサくんは……貴族のこと、好きかい?」
「どうしたんだ、いきなり」
「聞いてみたかっただけだよ」
手の中には、羽根が二枚握られている。彼の抜けた羽根を集めたら、そろそろ何か売れるものが作れそうだ。
「貴族は、怖い人だと言っていた。捕まれば、もう二度と声を出すことが出来なくなってしまうと」
「うん」
「でも、領主さまも貴族だ。結局、どんな身分かなんて関係なくて、世界は親切な人か怖い人でしかないんだ」
「身分は、関係ない、か」
「オレにとっての貴族はそういうものだ。ほかの人間と同じ」
「ふふ、そうかい、ありがとう」
ツカサの答えは、優しくて、人を偏見で見ることない彼らしいものだった。
「難しいね」
「ん? 何がだ?」
「なんでもないよ」
ふと、自分がハミングバードの立場だったら、こんな考え方が出来るだろうか。自分なら、村の領主だけが異端で貴族は忌むべきものなのだと思い込むような気がした。
寒さを凌ぐため、一時的に避難していたはずが、気がつけば長い時間話し込んでいた。
肩に体重がかかる。
「困ったな……」
眠れないと言っていた彼は、小さな寝息を立てながらルイに寄りかかっていた。
「このままでは風邪を引いてしまうよ」
風が吹き付ける甲板から、部屋の中に移動させよう。そう思いながら起こさぬようにゆっくりと身体を持ち上げる。
視界が遮られぬように、彼を背負い、部屋に連れていった。
「ツカサくん、なんだか重くなったかい?」
それに、背中にあたる感触が少し違う。
ベッドに彼を下ろしつつ、ルイは独りごちた。最近彼はよく食べるのだが、その分体重が増えているのかもしれない。
大陸で暮らしていたときの二倍の量を食べ続けている彼には、若干の心配をしていた。食べることはいいことだが、何かの病気だったらどうしよう。
しかし、目の前の彼は毎日元気そうだ。
「杞憂かな?」
翼を撫でてやると、気持ちがいいのかだらりと力が抜かれた状態で広げられる。
「ふふ、おやすみ」
甲板に戻ると、暁の時間だった。船尾から東の方を見やると、太陽が徐々に昇ってきているのを示すように、一等明るかった。
「船長、少しいいですか」
「……おや?」
船尾の上で東雲を観察していると、不意に、声をかけられた。振り返った先にいたのは樽職人のアンディだ。
「どうしたんだい?」
「少し……話がありまして。ハミングバードのことです」
ハミングバード。つまり、ツカサに関連することだ。
ルイは硬い表情を彼に向ける。
彼は常のように余裕のある喋り方を見せながら、地図の置いてある樽に手を置いた。
「実は、これから寄る島にはハミングバードのことを研究している大学があるんですよ」
彼の口から発された言葉に、ルイは虚をつかれた。
「……初耳だねえ」
「俺の国はそういう不可思議生物大好きですから。ただ、神学部とは仲が悪いらしいですけどね」
ケラケラと軽く笑う彼は、腰ポケットから瓶を取り出して、中に入っていた液体を飲み込んだ。おそらく酒だろう。
「その大学があるのが島の北東部、ここです」
「港が近いね」
「ええ。港町にありますから」
地図に置かれた指は、島の北東部の端に置かれている。
これまで、島の北部に立ち寄ることはなかったが、ハミングバードについて詳しい情報を得られるのであれば寄ってもいいかもしれない。
情報、知識は、必ず今後の力になる。
「港に寄るなら、この船だろうと俺の家の名前を出しておけば何も言われないと思います。北部は……南部の貴族に弱いですから。……まぁ、ほかの厄介ごとも持ち込まれる可能性もありますけど」
「なるほど……」
この北東部の港町。まさか大学があるとは知らなかったが、聞き覚えはあった。漁業が盛んな町だったはずだ。
そんな町でハミングバードを研究しているとは誰も思わないだろう。
ルイは、疑問を口に出す。
「なんでこんなに内陸から離れているんだい? 島の北部ならこの町や、ここにあってもおかしくないだろう?」
「さっきも言った通り、神学部と仲が悪いんですよ。ハミングバードを研究している奴らは、偉大な指導者さまをハミングバードと人間のハーフって説を出してますからね」
「なるほど、聖書に反しているんだね。でも、今どき聖書のできごとを本物だと信じている人なんているかい?」
「沢山いますよ。だから神学部は廃れない」
アンディは一通り話すと、用はそれだけだったと言って去っていった。
ルイは地図を眺めて考える。島の北部には今まで寄ったことがない。常に南の方だけだった。
この国は、南部と北部の仲がすこぶる悪い。ルイが生まれる少し前にひとつの国になったものの、まだわだかまりが残っているようだった。
「ハミングバードのことを勉強できる大学……か。一体どんな講義なんだろうねえ」
まだまだ世界は知らないことばかりだ、とルイは空色を眺めながら笑い、地図を畳んだ。
それからルイは、寝ることなく船尾で人が起きてくるのを眺めながら時間を過ごしていた。
「起きるの早すぎません? 見張り番だったんですよね?」
「寝てないよ。色々考えることがあったからね」
「どうして貴方は徹夜してもそんなに平気そうなんですかね」
「徹夜程度ならなんとかならないかい?」
「いや……」
日が昇ってから3時間ほど過ぎたころ、バルトロメオが起きたらしく、船尾にやってきた。
朝方話した目的地について語る良い機会だ、とルイは地図を取り出して話を切り出す。
「目的地の変更? 島の北部に行くんですか?」
「アンディの案で、ここにはハミングバードを学べる大学があるらしいんだ」
「ああ……確かにありますけど……。まさか、大学に通うんですか?」
「そんな大それたことはしない。ハミングバードに関する本を調べたりしたいんだ。大学が近くにあるなら、本も売っていそうだろう?」
「彼らの何を知りたいんですか?」
「何を知りたいのかは、分からない。ハミングバードのことなんて全く知らなかったからね。だから、知るべきなんだよ」
これまで、無知故に歯痒い思いをしたことが何度もあった。ハミングバードの普通が、ルイには分からない。
「……まぁ、本ならあると思いますよ。あそこは、神学者が逃げ出す町ですからね。自由にハミングバードの文献を置くにはあの町しかない」
「……知ってる町なのかい?」
「噂で聞いただけですよ」
少し前から、ルイはバルトロメオにある種の不信感を持っている。彼は、やけにハミングバードに詳しい。
しかも、町のことも知っているようで、噂というには、少々表情が崩れている。
「そう、噂かい」
「ええ」
けれど、追求はしなかった。人間は誰しも、触れられたくない話題が存在する。
彼も、ルイの隠していることは気づいているとは思うが何も言わない。
お互いその距離感が望ましいのだ。
「あ、彼が起きたようですよ」
「本当だ。寝るのが遅かったのに大丈夫かな」
バルトロメオが目を向けた、甲板の上。ツカサは杖を手にしながら甲板を歩いていた。
その足取りは、いつもよりもおぼつかない。翼も、いつもよりだらりとして垂れ下がっている。
明らかに、様子がおかしい。
「……ちょっと、行ってくる」
「ああ……はい」
階段を下るのすら億劫になってしまって、手すりに片足をかけて飛び降りる。
昨晩遅くまで起きていたのが、彼の不調の原因だろうか、とルイは落ち着かない胸の内で考えた。
甲板の上に着地して、彼のもとへ駆ける。そばに寄ると、彼の顔は真っ青で、ルイを見るなり倒れ込んできた。
昨晩の杞憂が、もし、そうではなかったとしたら。
「ツカサくん、大丈夫かい!?」
「……ルイ……」
脇に腕を通して支えるように抱き上げる。
彼の身体は少し熱くて、普段よりも重たい。
「はら、くるし……」
吐息混じりの、苦しそうな声で彼は自分の腹部に手をあてながら、そう訴えた。
「腹痛……? 食べ過ぎかな、船医なんていないし…………とりあえず部屋に戻ろうか」
甲板の上の水夫たちは、この異常事態を遠巻きに眺めていた。その視線が嫌で、ルイはツカサを部屋に連れ帰る。
しかし、部屋に戻ったところでどうすればいいのかなんて分からない。
「医学書……確か、倉庫の中にあったはずだよね」
彼をベッドに寝かせながら、ルイは、自分に冷静になるよう言い聞かせた。何から対処すればいいのか、ひとつひとつ考えて、落ち着いて片付けることが大切だ。
昨晩までの彼を思い出す。やはり、腹痛の原因は食べ過ぎにあるのではないか、と仮定した。
普段の二倍の量を毎日食べていたらおかしくなるに決まっている。
しかし、それに対処する方法は分からない。そのために倉庫で医学書を探す。
「……くるし、るい、こっちにきて、くれ……」
「え、で、でも……」
しかし、立ち上がった途端、柵の向こうから弱々しい声がルイを呼んだ。
脂汗の滲んだ顔が、こちらをジッと見つめてくる。
もちろんそばについていたい。それで彼の苦しみが取り除かれるならば。
「けど、僕、倉庫に……」
そのとき。
「船長、大丈夫そうです? 何か持ってきますか?」
医学書と、ツカサ。どちらを優先するか、迷い、部屋の中で棒立ちしていた中、タイミングよくバルトロメオが扉を叩いた。
「あ……、ツカサくんが、腹痛を訴えてて、倉庫の中に医学書があるんだけど……」
「分かりました、倉庫ですね。今から行ってアンディに聞いてきますよ」
「助かるよ……」
「様子がおかしいと思って見にきて正解でした。水夫たちも心配そうにしてましたよ」
天からの救いのようなバルトロメオは、そう言い残して倉庫に向かう。
やはり、彼は有能だ。陸の上でも十分稼げる能力があり、わざわざこの船にいる理由はあるのだろうか。
ふと、浮上した思考をすぐさま振り払う。今考えるべきことは彼のことではなく、目の前のツカサだ。
柵の向こうで、彼は腹部を抱えるように蹲り、時折小さく唸っていた。
柵を外して、ルイは彼の肩に触れる。
「くるし、いたぃ……、くるしい……」
自分よりも少し小さい手が、縋るようにこちらの肩部分の衣服を鷲掴み、頭を胸に押し付けてきた。
浅い呼吸と顔に幾つも浮かぶ脂汗に、焦る気持ちばかりが加速していく。
「ツカサくん、失礼するよ……」
そっと手を伸ばして、服の上から腹部に触れる。
そこは、ルイの予想していた感触とは全く、異なった。
「……え? これ、なんの病気……?」
少し、膨らんでいて、硬い。食べ過ぎでこのようになるものなのだろうか。
ハミングバード特有のものだろうか、とも最初は思ったが、二人で暮らしていたときはこんな感触ではなかったことを覚えている。
「これ、どうすれば……、治せるのか……?」
腹部に触れた手が小さく震える。ツカサと同じく、ルイの顔からは血の気が引き、冷や汗が頬を伝っていた。
「ぅ、うぅう……」
「ツカサくん……?」
不意に、肩にかかる負荷が増える。それと同時に、重く、低い唸り声、ぶわりと広がる翼。
「はぁ、ぁ、ふ……、うぅ……っ」
何が起きているのか分からず、ただ、目の前を呆然と見ていた。
歯を食いしばり、力んで、その数秒後に力を抜いて、息を吐く。翼もその度に広がって、萎んでを繰り返していた。
「ツカサくん、お手洗いに行こうか?」
その光景を数回見た後、ルイはようやく冷静を取り戻す。
もう一度、状況を整理した。
彼はしばらく異常な量を食べていたし、身体が重かった。もしかすると、食べ過ぎたものが腹を圧迫していただけかもしれない。
よくある話だ。腹の硬さも、きっと、ルイが見たことないだけで、誰かにとっての常識かもしれない。
少なくとも取り乱すようなことではないはずだった。
「船長、失礼しますよ」
ルイのもとに、バルトロメオが本を持って戻ってきた。彼だけは、緊急時に備えてこの部屋の扉を安全に開ける術を知っている。
「船長、頼まれた医学書と、彼の腹を温めるものを持ってきましたよ……って、ん?」
「やあ、ありがとう。でもどうにかなりそうだよ」
「解決したんですか?」
「ああ、言っていなかったっけ? 食べ過ぎじゃないかなー……って。最近のツカサくん、よく食べてたから」
「ああ〜、なるほど〜。じゃあ一応温めるものだけ……」
大した病気ではないだろう。そう伝えると、彼は安心したように声から力が抜けていく。
彼の手には、いくつかの布と、熱湯が入った瓶があった。
「じゃあ、それ、ツカサくんに取り付けてくれないかな。僕一人ではちょっと難しそうだ」
「そうですね、じゃあベッドに失礼しますね〜」
彼はそう言ってツカサの後ろに回り、布に包んだ瓶を腹部にあてた。その瞬間、柔らかかった表情が、怪訝なものへと変化する。
「せ、船長、これ……」
「ああ、ちょっと感触が変だろう? けど、僕が考えるに……」
「食べ過ぎじゃないです、これ卵ですよ……!」
「たべす、ぎ……、の、たまご?」
ルイは、首を傾げる。卵、という言葉は分かるが、何故腹に卵があるのかが分からない。この船で卵は口にしていない、とルイは独りごちると、バルトロメオは長い息を吐く。
「しっかりしてください! 鳥が何から生まれるのか知ってますか?」
「鳥……? ヒヨコは卵から生まれるよね?」
「ヒヨコに限らず、カラスも鷹も、鷲も白鳥もアヒルも! 全部卵から生まれます!」
「そ、それで……?」
「ハミングバードも、卵から生まれるんです」
「つまり?」
「彼は、今、産卵しているところということです」
「さ、んらん……?」
今、自分は、非常に間抜けな表情をしているだろう。
産卵ということは、彼は、人間で言うところの出産中ということだ。そして、妊娠中だったということ。
「へ、だ、誰の子……?」
「そんなの、船長の子供じゃないんですか?」
「そんなわけないじゃないか! 妊娠させるようなことなんて一度もやってないよ! そもそもこの子、男の子なのになんで卵なんか産んでるんだい!?」
「し、知りませんよ! ハミングバードは男子も妊娠するんじゃないんですか?」
「僕が知らないだけで、本当は女性だった……?」
何もかも、わけがわからないまま、それでもツカサはこちらを気にせず、先ほどと同じように力むのを繰り返している。
「……君が、妊娠させたんじゃないのかい?」
「はぁ?」
自分でも、何を口走っているのか、よく分からなかった。
何故男である彼が妊娠していたのかは分からない。しかし、妊娠していたということは、誰かとそういう行為をしたのは間違いない。
一番距離が近かった自分は、そんなことした覚えはない。ならば、別の人間だ。
「そんなわけないじゃないですか、馬鹿げたこと言わないでくださいよ……」
「僕は、ハミングバードと人間で子供ができるなんてことすら知らなかった。それにも関わらず君はすぐ、僕の子供じゃないかと聞いたじゃないか」
「人間とハミングバードで子供ができるのは知っていたんですよ」
「だから、君が、妊娠させるために彼に無体を強いたんじゃないかい? 君ならこの部屋にひとりでいるところを襲えるじゃないか」
「僕がそんな野蛮なことをすると思いますか?」
「しないとは限らないだろう?」
「……はぁ、分かりました。一旦僕はここを離れます。産卵が終わって、この子と共に冷静になったら話しましょう」
「……そうしようか。僕も、自分でいうのは変だけど、取り乱してしまっている」
バタン、と大きな音が鳴る。
あんなことを言うつもりはなかった。バルトロメオがそんなことをするなんて思えない。
けれど、もう、色々なことが重なって、信じきれなかった。自分の次にツカサに近づけたのは彼だろうと思ったら、止められなかった。
「る、ぃ……、っふ、ぅ……ぁ」
「……ゆっくり、息を吐いて……」
卵の中身は、誰との子供なのだろう。自分以外の誰かが、ツカサ相手に性行為をしたという事実に、胸が重くなる。
この白い翼に触れて、煌めく金の髪を床に沈めて、スラックスに手をかけて。
どんな表情をしたのだろうか。どんな声で。
口の中に、鉄の味がじわりと広がった。
「はぁっ、ぁ、あぅ……ぅ」
「…………」
産まれた卵を割ったら、どう思うだろうか。水夫の前で、割ってやれば、相手が絞り込めそうな気がする。
「う、ぐぅうっ、はっ、ぁ、あっ」
ふと、腹に触れると、先程よりもずっと下に硬い感触があった。どんどん下っている。
この先、スラックスは履いていない方がいいだろうと思い、一言断ってからゆっくりと脱がしていく。
白い肌が顕になるが、ツカサは特に抵抗をしなかった。そんなことを気にしている場合ではないのだろう。
「る、ぃ、るぃ……っ」
「大丈夫、僕はここにいるから、安心して」
「うぁあ、う、ぐ……は、ぁああっ」
一際大きな悲鳴が上がった瞬間、ルイは自分の膝に、水滴が落ちていることに気づいた。
「ぁ……、ぐ、ぁあ……はぁ、あ……」
布の上に、何か重たいものが落ちる音がした。首を伸ばすと、彼の背後に、普段の卵より随分と大きな卵がそこにある。
暗黒大陸と呼ばれる場所で目にした大鳥の卵と同じくらいだろうか。
「ツカサくん、お疲れ様……」
「ふぅ、う……あ……」
顔を上げさせると、涙や脂汗や、涎でぐちゃぐちゃになっていたので、ちょうど近くにあった布で拭いてやった。
ついでに、服も取り替えた方がいいかもしれない。
「るい、たまごは……?」
「ここにあるよ」
体液で覆われていた卵も、布で拭いた。それを渡すと、彼は疲労の滲む笑顔を浮かべ、腕に抱く。
「ツカサくん、僕、ちょっと色々やることがあるから離れるね」
「いてくれないのか……?」
「……うん。でも、その前に……ひとつだけ聞きたいことがあるな」
「……?」
硬い殻に、触れる。この向こうには、子供がいるらしい。ツカサと、誰かの。
「ツカサくんは、誰かと、子供を作るようなことをした……?」
様々な感情が混じりあう、震える声で、ルイは聞いた。
彼の答えは──