「神なんかいねぇよ」
そう言い捨てる台詞の合間にバリバリとエビの尻尾が口内で細かく砕かれていく音を、うんざりしながら明石は聞いていた。
海の神として生まれ海の神として死んでいく重責から逃れたいのはわかる。しかし、だからと言って何もかもを放り出してしまっていい理由にはならないのだ。どこか自分本意で自堕落な水瀬に、明石はいつも歯痒い思いを抱いている。
それでもいつも堂々巡りになると、聞き入れられないとわかっていても尚、明石が飯で水瀬を釣り上げるのは何故なのか。
「いいですか水瀬、神とは人智を越えた存在として畏怖または崇拝され、絶対的能力を持って人間に禍福をもたらすとされる……または」
「何度も言うけど、俺にそんな力なんてないの。ルギアなんてちょっと強くてでっかいだけだから。絶対的能力なんかねぇから」
「いいから聞きなさい」
また始まった、今度は水瀬がうんざりを隠す事なく息を吐く。己で頼んだ天ぷらそばに目もくれず分厚い辞書を引く明石、どこか品行方正が過ぎる嫌いがあって、自堕落な水瀬はどうも彼が苦手だった。
「……または人格化されて神話、伝説などに登場し、超能力を持って活躍するもの、だそうですよ。ほら、エスパーだし間違いないじゃないですか」
「だったらヤドランでもいいだろ。水悽だしエスパーだし、適任じゃねぇか」
タルタルソースがたっぷり乗ったエビフライを箸先で悪戯につつく水瀬、その表情が晴れないのは最後の一尾となったそれを名残惜しんでいる……わけではなく、もう何回、いや何十回と聞かされている小言に辟易しているからである。
それでも毎回、同じ話の繰り返しだとわかっていても尚「奢りますよ」という甘い文句に釣られているのは何故なのか。
「そういう問題じゃないでしょう。太古からルギアは神として、カイオーガは化身として、人々に崇められてきたんですよ。それを私たちの代で終わらせるわけにはいかないじゃないですか」
ずっとずっと昔、気が遠くなるほどの昔。顔も知らないほど遠い彼らの祖先は荒れ狂う大波から人々を救い、また大勢の死者をも出した大干魃を終わらせ、いつしか神として、そして化身として崇められるようになったと言う。
その後、崇拝の対価としてだったのか、はたまたただの気まぐれだったのかはわからないが祖先はその稀有な水の力を人の為に使い、その遺志は子から孫へ、またその子孫へと連綿と受け継がれ、いつしか当たり前の重責となって二人の肩にのしかかっている。まるで初めから存在していたかのように。
その「当たり前」をどう受け止めるか、二人の決別の元はここにある。過去の栄光を望まぬまま背負わされるのが我慢ならない水瀬、先代から連綿と受け継がれてきた栄光を絶やさない事が我が責だと疑わない明石、どちらが正しいかなんてどちらにもわからなかった。だからこそ、彼らの話は堂々巡りを続けているのである。
「じゃあ聞くけどさ、人間は知ってんのかよ。化身のカイオーガ様が神の実務を肩代わりしてる事、神のルギア様が職務放棄してる事。知らねぇだろ。神なんてそんなもんなんだよ」
「あなたが機械論的自然観を支持している事は知っています。大波が治まったのも干魃を救った大雨も、たまたま自然が生んだ禍福だと言うんでしょう」
「他に何があんだよ。現に俺は何もしてないんだぞ。生まれてこの方、一度もな」
水瀬が生まれて数十年、地上は何度か水難に見舞われてきた。その度に荒れ狂う海に、ひいてはルギアに祈る人間を、水瀬は何度も見てきた。その度に思う、神なんて存在しないのだと。
大昔の祖先が何を為したかなんて俺には関係ない、仮に神と呼ばれるに相応しい力を持っているとしても、俺は人間の為に力を使った事なんてないのだ。……そう、水瀬は考える。
「お門違いなんだよ、何もかも。俺は何もしてない。神なんかじゃない」
「何もしなくても、何もできなくても、神は存在する事に意味があるんですよ。人間はとても弱いから、無意識に拠り所を求めるんです。例え気休めだとわかっていてもね」
「くだらねぇ生き物だな、ほんと」
そう毒突く水瀬に肯定も否定も見せないで、明石は漸く天ぷらそばに箸を伸ばした。水瀬との話はいつも終着が見えないため、麺はいつも冷め伸びきってしまう。
それでも終えるまで手をつけないのは職務中は食を絶つ明石の、つまり堅苦しい話はここまでだという彼の意を表すものであった。水瀬とて知らぬ仲ではない、明石の唇がそばを咥えたのを見て、自然と肩の力が抜ける。
「神無月の定例会議も、毎年毎年欠席の言い訳する身にもなってもらえます?先生にも毎年嘘の診断書書かせて……立派な公文書偽造でしょう」
「いいんだよあいつはそれが仕事なんだから。つーか偽造じゃねぇし、心臓に負荷が掛かるって書いてるだけだし、嘘じゃねぇよ」
長年水瀬の主治医を務める彼の、疲れたような双眸が明石の頭をよぎる。彼も水瀬の我が儘に振り回される一人なのだ。その気苦労は察するに余りあるものだった。
いつか明石が胃潰瘍で掛かった際、「はよ説得してや、俺が公文書偽造で捕まる前にな」と嘆いていたコガネ弁が忘れられない。明石が再三水瀬に着任を促すのは、そんな主治医のためでもあった。彼に理解があるとは言え、神の我が儘が一般人の負担になっているという事実が、生真面目な明石には我慢ならないのであった。
「……そうだ水瀬、去年の定例会議で山の神様が仰っていた事なんですがね」
「何だよ」
「文明の発達や土地開発により山への信仰心が薄れて、今や神通力を使うのもやっと……だそうですよ」
「はっ、そんな訳ねーだろ。耄碌しただけだって」
「どうでしょうね。まぁ、私たちも信仰が途絶えてみればわかる事ですが」
それは暗に我々神の力は信仰心で成り立っているのだと、決して驕るなという教戒なのだろうか。明石はそれ以上何も言う事なく、静かに箸を置いた。
「あなたが神は嫌だと駄々を捏ねるのは結構です、私だってできる事なら普通でいたかった。ですが運命を放棄する事は、私たち伝説には許されていないんですよ」
医者が医者を辞める事はできる、だけどカイオーガが海の化身を辞める事はできない。ピカチュウがピカチュウを辞め、ライチュウになる事はできる。だけどルギアがルギアを辞め、"普通の何か"になる事はできないのだ。
昔、幼い明石が必然的に悟った事だった。普通と伝説の絶対的な差はここであるのだと。それは理解と言うよりも、半ば諦念に近かったかもしれない。運命は変えられるが宿命は変えられないと語った、偉大な文豪の言葉がずっと明石の背骨に絡みついている。
「私たちは確かにただのポケモン、しかし立場は普通などではないんですよ。私たちは無力な人間が持つ"信仰心"によって"普通"を失ってしまった。人が脆弱である限り、私たちは崇高であらざるを得ないのです。嫌でもね」
「明石、お前」
「……ご心配なく。腹の内がどうであれ私は私の出自を嘆いた事などありませんし、変わらず責務を全うします。ですからあなたも、早く腹を括りなさい。私だって休みは欲しいんですよ」
あなたが私を過労死させるつもりならば話は別ですが、と溜め息をひとつ吐いて、明石は流れるように伝票を掴み席を立つ。まぁいつもいつも清々しいほどよく食べますね、という嫌味も忘れずに。
この後すぐに明石は海へと帰り、また職務と長い長いにらめっこを始めるのだろう。誰も訪れる事のない暗く静かな海底で、一人きりで。
「ゆっくりと時間をかけてあなたを諭す事にします。エビフライはその投資ですから」
「よく言うよな、お前だってほんとはもうわかってるくせによ」
そんな水瀬の不躾な問いに答えるでもなく、明石はただ目を細めて「食べながら喋る癖、次までに直しておきなさいね」と踵を返した。
その足取りに澱みは見当たらなくて、水瀬は何とも言えない心持ちでエビの尻尾を噛み砕く。大好物のはずなのに、味はよくわからなかった。
いつも堂々巡りになると、聞き入れられないとわかっていても尚、明石が飯で水瀬を釣り上げるのは何故なのか。それは何物にも縛られない奔放な水瀬なら、過去の栄光と言う埃まみれの呪縛を解いてくれるのではと無意識に願っているからなのかもしれない。
そして水瀬が毎回同じ話の繰り返しだとわかっていても尚「奢りますよ」という甘い文句に釣られているのは何故なのか。それは寂しい海底にひとり残してしまった明石への、せめてもの贖罪なのかもしれない。
……と、互いが気付く日はまだ来ない。
水瀬は自堕落で不躾で投げやり。お行儀がよろしくない。明石は真面目で丁寧で先生みたい。お行儀がよすぎる。