Sway'n in the blueこのサブスタンスに選ばれたと聞いた時、驚きより嬉しさより何より先に思わず笑ってしまったことを今でもガストは覚えている。
「血液検査、遺伝子検査、MRI、PET、脳波等の身体検査、すべてにおいて適合したサブスタンスがこちらです。あなたはこのサブスタンスに見事、選ばれた、と言えるでしょう」
白衣を着た見知らぬ研究員数名に囲まれていた。アカデミーの卒業試験に合格してから数ケ月、エリオスへの入所は目前に迫ってきていた。
「ヴィクはサブスタンスが本当に好きだねぇ~」
「このサブスタンスは特にこの……」
笑ってしまったガストなどまるで目に入っていないかのように目の前で繰り広げられる雑談に慌ててガストは声をあげた。
「それは、喜んでいいことなのか?」
二人は顔を見合わせると面白そうに笑った。
「サブスタンスの適合率から考えますと、太平洋に漂う一艘のボートを見つけるような確率ですよ」
「充分、運命の出会いと言えるかもね~」
「よくわかんねぇけど、とりあえずすごいってことなんだな」
今時使い古され、言葉の意味ほどインパクトをもたない表現にさほど興味は持てなかったが、研究員がそう言うのなら素直に受け取るべきだろう。そう考えていると、一人が子供のように声を上げた。
「この『ナイトホーク』はね、なんと! 空を飛ぶことができるんだよ!」
「空を飛ぶ……? そんな人間離れした能力を持つことなんてできるのか?」
「う~ん、空を飛ぶって言うのは語弊があったかもだけど、この子はね、風を操作することができるんだ。その能力を使えば、空中に浮かぶこともできるってかんじかな。空を飛ぶっていいよねえ、ロマンがあるよねぇ〜」
「ふーん。使いこなせるか心配だけど、うまく使えればなんかいろいろ便利そうな能力だな」
鉱石みたいにあちこち欠けて見えるそれは、深い緑と闇を混ぜたような色をして分厚い金属の箱の真ん中になんでもないように鎮座している。それはまるでこの季節の夜のようだった。ナイトホーク。舌だけで復唱する。ステルス攻撃機に同じような愛称のものがあった気がする。夜を滑空する大きな鷲が目に浮かんだ。その姿に、少しだけ血が沸き立つようだった。
「ここからが大事なんだけど、サブスタンスを接種すると熱がでたり、鼻水やくしゃみが出たりといった症状がよく出るんだ。軽い風邪症状みたいなものかな。やっぱり人間にとっては異物だからね、免疫が過剰に反応するんだよ。副作用としては風邪症状が多いけど、ただやっぱり個人差というものはあるからね、もっと他の症状が出るかもしれない。今まで報告されたものや割合はそこに表でまとめてあるからよく見ておいてね。たとえどんな症状が出たとしても、ここでしっかり治療もできるから、心配しないでどーんと構えてくれて大丈夫だよ」
「また、人間一人にサブスタンスは一つしか接種することはできません。今後、いかなる他のサブスタンスがいいと希望されたとしても、他のサブスタンスを接種することは叶いません。それでも、よろしいですか?」
資料を読む時間や判断に時間が必要であればあちらで、と隣の部屋を提示されたが、いい、と一言短く断った。ここに来た時点でそんな覚悟はとっくにできている。
「それでは、よろしければここにサインを」
渡されたタブレットに羅列された注意書の多さに辟易しながらもう一度そのサブスタンスとやらに視線をやる。悪いかんじはしなかった。『運命』ってこんな簡単に出会えるものなんだなと一人ごちて苦笑すると、注意書きを一気に指で飛ばし、署名欄と記載されたそこにペンを伸ばした。カツン、とペン先が画面に当たった音がした。
Sway’n in the blue
ガストが部屋に戻ると、共有のリビングには本が山となって積まれていた。山の向こうには静かに本へと目を落とすレンの丸い頭頂部。ピアノの音もしないのでマリオンはおそらくまだ帰っていないのだろう。ドクターともなると帰っているのかいないのか、この部屋に寄っているのかそれすらよくわからない。
「ただいま、レン。ってどうしたんだ、これ」
一冊手に取って見たが聞いたこともない作家だった。表紙のイラストは大きく、子供向けだと思われる。見るとどれも同じ作家の作品らしく、背表紙にラベルが貼られ保護シートで包まれたそれらの本はおそらくレンが図書館で借りてきたものにちがいない。
この年下の同室との暮らしが、こんなに肌に馴染むようになるとは思わなかったな、と振り向きもしないその紺碧の頭を見ながらガストは思う。孤高の集団、交差すらしないベクトルの持ち主が寄り集まってできた研修チーム。メンターリーダーを恨んだことがないと言えば嘘になるが、今までの積み重ねが功を奏したとガストはやはり信じている。威嚇をする野良猫に毎日挨拶をしておやつを与えるみたいに、今ではこうやって自然におかえり、と言える間柄になった。返事はいまだもらえないけれど。
「……今日、あの本屋に行ってきた」
本に集中しているのなら声をかけて悪かったな、と反省するぐらいにはたっぷり時間が空いた後、レンがぼそりと呟いた。帰ってきたガストに気付いてはいたらしい。
「あの、って笑う猫? 迷わず辿り着けたのか?」
「俺をなんだと思ってるんだ。知ってる店ぐらい迷わず行ける」
憮然と眉を顰めたレンに悪ぃ、と笑いかけるとすぐに視線を逸らされた。
「お前に相談がある」
「俺に?」
「ああ。お前の弟分たちが、読み聞かせを引き継ぐと言っていただろう。あれから何度か開催したが、毎回割合好評を得ているらしい。……それで、今度また時間が合えば、俺たちもまた一緒にやって欲しいと」
あれ以降、彼らが協力して読み聞かせをやっているというのは聞いていた。オフの日がうまく合わずまだ聞きに行けたためしはないが、演目がどうの、演技がどうこうと揉めつつ楽しそうに練習する姿は目にしている。
「あぁ、そういうことか。まあ前ほど時間はとれねぇと思うけど、フェアとかするんじゃなければできるんじゃねぇか」
「そうか。じゃあ、そう答えておく」
そう答えるレンはどことなくほっとしたようだった。表情はほとんど変わらないが、口元を引き結ぶ強さがわずかに緩んだように感じる。レンに気付かれないように口の端を上げるとガストは山の中から適当に一冊を手に取った。
「次は何をやる予定なんだ?」
「今、それを選んでいるところなんだが……」
そう言うと、レンは閉じた本を積み上げてもう一冊を引き寄せる。
「お前は、何かやりたいものはあるか?」
そう問われてガストは首を振った。
「俺はコミックスしか読まねぇし、わかんないからな。レンに任せるよ」
本心からそう答えると、手に取った本の表紙を開き、ぱらぱらとページをめくった。流れていく大きめの活字の中で、ぱっと飛び込んできた一枚の挿絵が目を惹いた。大きく広げた羽根、夜空を滑空する姿。ナイトホーク、という単語。
「なら、これにしようと思う」
はっと顔を上げると、レンが手に持った本の表紙をこちらに向けて見せていた。
「父が好きだった日系の作家のものをやるのはどうか、と言われていたんだ。この作品は姉がよく読んでくれていたから馴染みもあるし」
「ふーん? なんてタイトルなんだ?」
「『銀河鉄道の夜』だ」
「よく知らねぇけど、いいんじゃねぇか。俺も今晩読んでみるよ」
それと、とガストは続けた。右手で持っていた本を軽く振る。
「こっちの本も借りていいか? 他にもちょっと読んでみたいからさ」
◆
エリオスタワーからサウスセクターの街を見下ろすと、全体的に赤く見える理由は町全体で建材にレンガが多く使われているためだと言われている。レッドサウスと呼ばれる所以だ。
幼い頃、何故この街はレンガの建物が多いのかと父親に尋ねた時、おそらく倉庫が多いから耐火目的なのではないかと言われたことをぼんやりと思い出していた。
笑う猫書店は、倉庫街からは少し離れた一画に店を構えているが、店のある商店街もレンガ造りの建物で揃えられている。離れていたせいか、はたまた材質のおかげなのか、あの倉庫街の惨事からの影響は対してなかったように見受けられた。
「読み聞かせを定期的にするようになってから、最近は子供を連れた親子連れがよく来てくれるようになったんだ」
パトロール帰りにと足を伸ばしたところだった。読み聞かせを引き受けること、題材にする本のタイトルは既に連絡をしていた。
絵本コーナーも少し拡大したんだ、とそう言って昔馴染みの店長は豪快に笑った。確かに、店内には今まであまり見ることのなかった親子連れが絵本を手に取って眺めている。
「『あのアリスのおにいちゃん』が来ると喜んでいる子供もいるんだよ」
あの、がどのかはわからなかったレンは曖昧に頷いた。少し気恥ずかしいが、まあ喜んでくれるというならなによりだろう。ポスターも既に貼ったんだよ、と言われてみると入口横に既に大きく張り出されていた。乗ったこともないのに何故か郷愁を感じる黒い蒸気機関車が客車を引いて夜空を飛んでいる絵柄は頼まれてグレイに描いてもらったものだ。列車を背景に開催日時が記載されている。通りかかったのか、歩道の子供が一人をそれを見上げている姿が見えた。
せっかくだからコーナーを作ろうと思っている、等と店長の話に相槌を打っていると弟分たちと話が終わったのか、ガストが横に現れた。
「弟分たちも喜んでくれてたよ。ありがとな、店長。俺らでよければまたがんばらせてもらうぜ」
「ガストくんも、忙しいのにすまないな。ありがとう。また二人の読み聞かせ、楽しみにしているよ」
店を出ると、エリオスタワーとは反対方向にくるりと身体を反転させたレンにガストが焦って手を伸ばしかけた時、近くにいた子供がレンに声をかけてきた。
「『アリスのお兄ちゃん』?」
レンが見下ろすと、先ほどポスターを見上げていた子供だった。
「アリスのお兄ちゃん、かどうかはわからないが、不思議の国のアリスの読み聞かせでアリス役をやったことは……ある」
「やっぱり! そうだと思ったんだ」
「おっ、俺達を覚えててくれたのか? ありがとな♪」
子供の目線に合わせてガストが道路に膝をつく。
「すっごく笑って楽しかったから、今度のも楽しみにしてるんだよ」
にこりと笑った前歯が一本欠けていた。生え変わりの時期なのだろう。見て、と肩に下げた布製のかばんから本を取り出す。
「銀河鉄道の夜って読んだことなかったから、予習しようと思って図書館で借りてきたんだ」
「そうか。俺も図書館にはよく行く」
「図書館帰りだったのか。一人か?」
ガストが尋ねると子供が頷いた。
「もう暗くなってきたし、ついでに家まで送って行くよ。いいだろ、レン」
その言葉に子供が一瞬怯んだように見えたが、すぐにありがとうと頷いたので二人で送っていくことになった。こっちだよ、と子供に先導され宇宙人を連れた二人組の影のように歩道を進む。
「お兄ちゃんたち、ヒーローだったんだね」
「そういや、言ってなかったか」
「お店の時は知らなかったけど、テレビでLOMを見て気付いたよ。みんなでびっくりしてたんだ」
器用に後ろ歩きをする子供に、気をつけろよと声をかけながら、レンが無言であることに気付いた。もともと口数は多くはない方だが、人見知りではないはずだ。
「レン?」
子供に気を配りつつ、隣に目をやるもむっつりと黙ったままだった。というより、何故かやけに緊張しているように見えた。何かあったのか? 気にはなったが子供のいる手前尋ねることはできなかった。
「ここから家は近いのか?」
後ろ歩きをする子供の背中に手をやって前を向かせると、その姿勢のまま声を張り上げる。
「もう、すぐそこだよ! みんなびっくりするんじゃないかな」
子供の言う通り、大通りからは少し中に入った細い道路の突き当たりにそれはあった。この時間、夕食の準備をする家が多いのか、陶器が触れ合うカチャカチャという音、夕餉の匂いが狭い道路に溢れている。突き当たりに立つ大きな門は既に閉まっており、勝手知ったるというかのように子供が門の間に細い腕を差し入れ閂を引き抜いた。
「ぼく、住んでるのここなんだ」
門をくぐった子供がその片割れの石柱に甘えるようにぺたりとくっつく。こちらを見上げる視線は何かを探っているようだった。その視線をたじろがずに受け止め、ガストは静かに視線を返す。
先程からみんな、と言っていた謎は門に掛けられた黒文字ですぐに理解していた。
そこには、『○○児童養護施設』と大きく書かれた札が掛かっていた。
子供に手を引かれるように門をくぐるとすぐに大きな声が聞こえてきた。
「こら、ヒイラギ! どこで道草食ってたの? 今日の当番忘れた?」
引き戸の扉から出てきたのはスーツ姿の若い女性だった。誰かがいるとは思ってもいなかったのか、少年の後ろにガストとレンの姿を見つけると目を丸くした。
「ごめん、忘れてないよ! 図書館に寄ってきたんだ。それより見て! ヒーローが来てくれたよ!」
子供(ヒイラギと言うらしい)が呼びかけると、扉の奥、まっすぐ伸びた木張りの廊下の至る所から子供の顔がひょこりと覗いた。
「あっ! アリスのお兄ちゃん!」
「LOMで見たことある!」
「本物のヒーローだ!!」
レンとガストを見た子供達の騒音が、スタジアムの歓声のように広がった。飛び出してきた子供たちに囲まれ収集がつかない……と思った瞬間、パンと手を叩く音が響き渡る。
「はい、そこまで! まだ当番終わってないでしょ!」
腰に手を当てた女性が子供たちに言い渡すと、渋々と言った体でレンとガストを囲んだ子供たちが、何度も二人を振り返りつつそれぞれの持ち場へと散開していく。ヒイラギと呼ばれた少年が遠くから手を振っていた。声は出さずにまたね、と言っている姿にガストが小さく手を振り返すと、少年は大きく笑った。
「すみません、騒々しかったでしょう」
ガストとレンのそばで立ち止まった女性が申し訳なさそうに胸に手を当てた。
「い……いや、こちらこそ、悪かったな。忙しい時に」
「今から夕食なんです。様々な年代の子がいるので予定を遅らせたくなくて……すみません。あの子を送ってきてくださったんですよね。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた女性に、ガストが慌てて首を振った。顔が引きつっている。別にきゃーきゃー言われたわけでもないのに若い女性というだけで腰が引き気味のガストに呆れたようにレンが口を出した。
「ここは、養護施設なのか? 門にそう書いてあった」
顔をあげた女性がはい、と小さく頷いた。
「ここは主に、イクリプスやサブスタンスのせいで家や、家族を失った子供たちを預かって、その自立のための援助を行っています。エリオスからも支援をいただいて成り立っているんですよ」
◆
ひたすら夜の中を歩いていた。
天を見上げても、目指す北極星すらない真っ暗な夜だ。
レンにとっては家族を失ってから、ひたすら夜の中を歩いているようだった。
明けない夜はないのだと、眩しい朝日のような従兄弟が、優しい日差しのような幼馴染が、何度もそう言っていたように思うが明けない夜と白夜なら、レンは夜の方にいたかった。
網膜に映したいものなど、何もない。光すらない闇の方が瞼を開けても開けなくても変わらない分いくらか楽だ。脳の記憶容量を使うのも、体力の限り身体を使い果たすのも、たった一つの目的のためだけにあればそれでいい。
「人が一生に流す涙の量は決まっているんですって」
そう笑って涙を拭ってくれた人はもういない。子供の頃泣き虫だったレンは既にその一生の量を流してしまったのだろう。
絶対に復讐して、殺してやる。
それだけが生きる目的で、それだけがレンのすべてだった。
そうずっと、信じていた。
◆
「レン。レン!」
何度も呼ばれていたらしい名前に、レンが驚いて顔をあげると困ったような表情でガストが首を傾げていた。既に眠る身支度をすませていたのか、顔にかかった前髪を指先で耳にかけたガストがレンの顔を覗き込む。
「おい、レン。大丈夫か? 今日帰ってきてからずっとそんな調子だぞ。何か気になることでもあるのか? マリオンも心配してパンケーキが一枚しか食べられないと言ってたぞ」
「……」
正確にはマリオンは、明日までにレンを元に戻せ! とガストに命令したのが正しいのだけれど、そこには不器用にもレンを心配しているマリオンの優しさがあったとガストは信じている。
「あの、ヒイラギって少年だったか? あの子に何かあるのか? お前、途中から変だったよな」
「……お前は気付かなかったのか?」
「何を?」
ガストが首をひねると、はあ、とわざとらしくレンが溜息をついた。
「計測器を持っていなかったから正確には測定できなかったが……。あの養護施設にはサブスタンスが関わっている。あの子供も、おそらくなんらかの影響を受けている、気がする。俺の気のせいかもしれないが……」
あの時、レンには子供が靄のような薄い影に包まれているように見えていた。暮れていく藍色の夕闇が山吹色に差す夕陽と混ざってそう見えているのかもしれないと思ったが、あの養護施設に辿り着いた途端、それは確信に変わっていた。
「おそらく、あの養護施設にはなんらかのサブスタンスが発現していのは間違いない、と思う。ただ……」
「エリオスが、あの施設に関わっているからか?」
言い淀んだレンの言葉を、そのまま続けるようにガストが言った。
「……あぁ。エリオスが関わっていて気付いていないってことは有り得るんだろうか。もしもそうなら、わざとそうしている可能性があるのかもしれない」
「でも、実際俺は気付かなかったしなぁ。子供達も、あの先生も特に何も言ってなかったな」
あの後、レンとガストは子供たちの夕食作りまで手伝って施設を後にした。夕食も一緒に、と誘われはしたが人数分の材料しかないのをわかっていたからだ。
「明日、マリオンとドクターに相談してみるか?」
トントン、と手に持った本で肩を叩きながらガストが部屋の仕切りの本棚へともたれた。そういえば本を借りると言ってたな、と思い出す。
「……いや、いい。緊急性はない、とは思うし、また自分の目で確かめてからにしたい。それより、本は大事に扱え」
そうレンが言うとガストはかすかに笑ったようだった。立ちあがると隣の部屋へ戻る気配がする。振り返りはしなかった。
「わりぃ、気をつけるよ。レンはもう寝るのか? 俺はもう少し本を読んでからにするよ。じゃあおやすみ、レン」