長い1日が終わり、ホームルーム後の号令も途中で抜け出し女子トイレへと駆け込んだ。個室に入り罪悪感は有るものの、洋式便所に繋がるコンセントを外しヘアアイロンを取り出す。トイレのタンクの上に小さな鏡を置いて角度を変えつつ160度に温められたアイロンで髪を整えた。親友の橘日向から「タケミチちゃんは自然が1番可愛いんだから」と念を押された為ストレートにも変に巻くこともしなかった。
と言うより、オシャレや女子らしい事に疎い武道はヘアセットというものをしたことがなかった為、1人では勝手が分からなかったのだ。ヒナとお揃いで買ったほんのりとピンクに色付くリップを塗って、ヘアアイロンのコードを抜いた。
個室から出てもう1度洗面台の前の大きな鏡で自分の姿を見る。トイレの白い照明で照らされてるもののそこには特にいつもと代わり映えのしない花垣武道が居た。ハァと溜息をついてから、武道はトイレを後にする。
教室のロッカーにアイロンと鏡、ポーチを詰め込む。リップだけは「あとで塗り直せるようにポケットに入れて置くんだよ」とヒナが教えてくれたのでスカートのポケットへと忍ばせる。自転車の鍵以外に入れる事のない領域に異物が入り何だか少し変な感じがした。スカートの丈を何時もより二つ折る。膝上15センチへと挙げられた武道のスカートからスラリと白い足が覗いた。
「…短くね?」
「え、そうかな。え…へ、変?」
「や、変つーか、まあ変ではねえけど。みじけーなぁって」
ワインレッドの髪をダウンフロントタイプのリーゼントにセットした少年が酷く面白くなさそうに呟いた。むすくれたような顔を見て、多感な時期の同級生達には気付くものがあったが、色恋沙汰を経験してこなかった武道は何も分からなかった。
「変じゃないなら、これで行く」
「フーーン……」
「だって。デ、デートだもん」
余りの衝撃に友人、あっくんは思わず机に突っ伏す。完璧にセットされた自慢の髪が崩れる事も気にならなかった。デート、デートですって皆さん。俺と一緒に毎週発売の少年漫画読んでたコイツがデートだと。娘を心配する父親のように、彼女を束縛したい彼氏のように、あっくんの思考はこの可愛らしい少女によって乱されていた。両想いだと思っていたわけじゃない。というか武道には色恋とか恋バナとかそういう女子が好む様な事は一生縁が無いと思っていた。普段から男気に溢れるあっくんであったが、もし関係が壊れたらと思うととてもじゃ無いが告白なんて考えられなかった。溝中5人衆という名の下、いつも武道の周りを固めていたしそのせいで武道も俺ら以外の男とは関わりを持った試しがなかった。嫌われているというわけでは無いが、不良だからか女の友達も少なかった。というより橘1人だ。
学校でも放課後でも、溝中でしか交友関係が築かれていなかった武道にあっくんは少なからず満足していたし安心していた。こんな日が大人になっても続けば、と思っていた。
そんな日々は突然崩れた。男に負けず劣らず喧嘩強かった武道を連れて渋谷三中に喧嘩をふっかけに行った。その日から、武道の人生はがらりと変わった。それが良かったのかどうかは未だ分からない。何にせよ、東京卍會に入隊した事から全てが始まり、あの九井とか言ういけすかない澄ました男に出会わなければ今頃目の前の少女のスカート丈は以前のように長かったのであろうし、色付きのリップを唇に塗る事もなかったのだろうと考えると、あっくんの心にくるものがあった。
約束した時間より15分前に待ち合わせ場所に着く。渋谷の名物でもある可愛い犬の銅像の前で、武道はもう1度身なりを確認した。スカートの折れたヒダを整えて額の汗を拭う。最初は違和感があった特攻服も、ほぼ毎日のように着ればいやでも慣れてしまい、今は普通の制服で出掛けることの方が不慣れであった。「リップはこまめに塗り直すこと」と、ヒナのアドバイスが頭をよぎる。取り出そうとしてポケットに手を伸ばした時、武道の肩が優しく叩かれた。
「よ、待った?」
「こっココ、ココくん!あ、いや、待ってないです」
「鶏?」
武道の焦りようにクスクスと上品に笑う男、九井一は武道の人生初めての彼氏であった。染めたことのない処女のままの艶やかな黒髪に陶器のように白い肌。女の武道よりも細身でしなやかであり、手足もモデルの様に美しいが、何処となくハッキリとした強さを感じる顔立ちだ。感情の読めぬアルカイックスマイルを浮かべ、武道の隣に立った。見下ろす様な形になる身長差で、九井は武道を暫し見つめた。
何を隠そう、付き合い始めてから九井の顔にめっぽう弱くなってしまった武道は耐えられず顔を逸らした。九井はそれを見て何か言いたげであったが、武道に気付かれない小ささで溜息をつくと、携帯を取り出し触り始める。
「どこ飯行きたい?」
「えっ…私は何処でもいいからココくんが食べたいご飯でいいよ」
内心九井もそうであったが、此処で同じ問答を繰り広げても仕方ないと思い最近行けていなかった焼肉チェーン店へと武道を連れ立った。
帰宅ラッシュに巻き込まれ、想像以上に時間がかかり店に着いた頃には夕飯時で混雑していた。
「待ち合い、椅子空いてますかね」
「なきゃ俺の膝に座っとくか」
こんな九井の軽口でさえも武道にとって生死に関わる台詞であった。小太鼓のように軽やかに弾む心臓を軽く押さえつつ、二人は入店した。店内は家族連れやカップル、高校生グループで溢れ返っている。カウンター横の記名台に九井が名前を書くのを、横の武道は九井の字の綺麗さに見惚れていた。
待ち合い席も中々の混み様で、九井はグループとグループの間の空いた一席に武道を座らせた。
「あ、でもココくんが」
「いーよ」
すみません、とスカートを押さえながら座る武道の前に九井が立つ。座ると余計に高く見える九井の身長。武道と話す為下向き加減の九井の顔にサイドの黒髪がふわりと垂れて、武道は本日3回目にもなるが見惚れてしまっていた。
「ん?」
「あ!え、いえ、楽しみですね焼肉!」
「そーだな。めっちゃ食おうぜ」
俺久しぶりだわ、と心なしかいつもよりもウキウキしている九井を見ながら武道の胸はまた高鳴った。あぁ、好き大好き、来世は焼肉になりたい。武道が焼肉としての来世を考えている時、九井の携帯が鳴った。着信音を直ぐに切って、画面に表示された名前を確認する。舌打ちをした九井を見て武道は今来た電話は重要な件なのだと理解した。
「順番まだでしょうし、外で掛けてきますか?」
「あー……、うん…。ワリィ、直ぐ戻るわ」
「全然気にしないで下さい!」
申し訳なさそうに九井は店の外へと出た。カッコいいなぁココくん…。九井の事を考えると直ぐに火照ってしまう顔をぱたぱたと手で仰ぐ武道のもとに可愛らしい声が届いた。
「は?かっこよすぎでしょ」
「まーじタイプなんだけど」
「いやレベル高ぁ。スタイルも良すぎね?」
コの字型の待ち合い席で、武道の相向かいに座っていた女子高生のグループが周りを気にせず大きな声で喋る。出入口に近い席に座っている彼女達の隣をを通った九井の事を話しているのだろう。女子と言うのは本当に目敏い。五人組で楽しそうに九井の話で盛り上がっていた。
会話の内容を隠そうともしない彼女達の声は武道に丸聞こえであった。自分の彼氏が褒められている事に嬉しさと誇らしさを覚えつつ、同時に武道は少し不安を感じた。何が不安なのかと言えば。
「てかアレ何?彼女?」
「釣り合ってなくね?良くて妹」
「妹?顔のジャンル違いすぎるだろ。血繋がってねえレベル」
下品な笑い声が待ち合い席に響いた。周りの家族連れやカップルも女子高生達に怪訝な表情を示したが誰も咎める者は居なかった。武道の隣に座る女性がちらと武道の様子を伺ったが、「聞こえてません」という風に武道は携帯を弄っていた。
九井と一緒に出歩くと毎回こうなった。九井は贔屓目なしにしてもとにかく容姿が良かった。歴とした男だがどちらかというと美人であり、男女関係無く、街行く人間の目を惹いた。視線が九井に集まるということは自ずと隣に立つ武道にも意識が向く。こんなカッコ良いココくんの隣に私みたいな垢抜けないチビがいたら確かに変なんだろうなあ…。
花垣武道14歳の最近の悩みはこの事だった。九井の事は好きだ、いつの間にか顔を見ると死んでしまいそうなくらいときめく様になり気づいた時には告白していた。半ばヤケクソであったし返事は期待していなかった。だが九井は、言い逃げし踵を返そうとした武道を捕まえ後ろから抱きしめ「なら付き合お」と言ったのだ。晴れて二人は恋人同士となった。
14歳にして恋人が初めて出来た武道をリードするかの様に九井は優しくエスコートをしてくれた。手は繋いだ、ハグもされた。キスはまだ、それ以上なんて勿論まだ。小学生のような恋愛をする二人であったが武道は九井と居れれば満足だったのでそんな穏やかな日々を過ごしていた。
だが、最近になりやはり世間一般的に言うところのやっかみが増えた。街を歩けば「妹」や「友達」と揶揄われた。一番酷い時はレンタル彼氏だと推察された時があった。九井と出掛けるのは好きだったが、その度に周りの目を気にしたりショーウィンドウに映る二人を見て気を病むのが辛かったのも事実だった。
「釣り合って、ないんだろうなあ…」
誰に言うでもない呟きが薄桃に色付いた武道の唇から溢れた。
入り口付近に座り大声で下品に笑う女子高生達を軽蔑する様に冷めた目で一瞥し、九井は武道の元へ向かった。
「名前まだ呼ばれてねぇ?」
「あ、おかえりなさい。はい、まだです」
「そっ」
九井が戻ってきたことにより女子高生達の話は急遽終了となったが嫌味な小さな含み笑いが続いた。
武道はなんとも言えない悲しい気持ちになり誤魔化すように手遊びを始めた。
「何か言われた?」
と、そんな武道の変化に気づかない筈がない九井は冷たい声色で武道に問いかけたが、武道は何もないですと笑うだけだった。なら良いんだけど、と物分かりの良い彼氏を演じた九井だったが内心は腸が煮えくり返りそうな程にキレていた。制服は勿論の事、容姿も覚えた。呼び合っている低脳そうな名前も記憶して、九井は武道を隠す様に前に立った。後で全員殺す。男にしては長く整えられた爪が、いつのまにか握りしめていた拳に食い込んだ。
15分ほど待ち二人はテーブル席へと案内された。網越しに店員が火をつける。制限時間は90分ですと言い、素敵な笑顔で席を去った。
「テキトーに頼むけど」
「はい、お願いします」
「やーマジで腹減ったな」
「本当っすね、ペコペコ…」
九井は食べ放題メニューが乗ったタッチパネルに向かい、適当に注文をした。壺漬けカルビや霜降りロース等肉類の他、ナムルやビビンバ、冷麺を一気に頼んだ。何を隠そうこの九井という男、体の割に大食いであった。某ハンバーガー店に行けばセットを三つ頼むし、回転寿司では20皿以上ぺろりと食べ切る。「ココくんってすごい食べるんですね」と呆気に取られた武道を見ながら、九井は珍しく子供っぽい顔で笑った。
注文した品が次々に運ばれてくる。テーブルは皿で埋めつくされ、それらを九井は次々に口に運んだ。二人で何かを食べる時は決まって大抵相向かうように座る為、九井の食べる姿が見放題だった。正しく箸を扱い、皿を持ち音を立てずに食べる。あっくん達みたいにいかにも男子、という食べ方をしない九井が珍しくて、たまに顔にかかる髪を耳に掛ける仕草が好きだった。
その時、九井が口の端についたタレを赤い舌で舐めとった。武道は思わず息を呑んだ。
「どんどん食えよ」
「は?!は、はい、食べます!」
頭から邪念を振り払うように武道も箸を手に取った。常に箸とトングを動かし、肉を焼いては食べ焼いては食べを繰り返す九井。武道はと言えば九井が焼いてくれる肉を皿に盛られそれを美味しそうに食べていた。九井と初めて焼肉に行った時、「歳下の私が焼きます」と誇らしそうに宣言したが「俺がやりたいだけだから」とあえなく突っぱねられた。それからというもの、焼肉屋では九井が焼いて、武道がひたすら食べる、という図が出来上がった。
九井が追加注文をどんどんとしていく為、皿が減ることはなかった。胃下垂なのだろうか、それともこの歳頃の男子はこの位普通に食べれるのだろうか。武道は疑問に思ったが特に聞かずに二人でたわいも無い話をしながら焼肉を楽しんだ。
九井と一緒にいるという緊張からか、喉が渇き水をたくさん飲んだ。その為制限時間30分前になり武道はトイレへと立った。
トイレの個室に入り便器に腰を下ろし、安心からか溜息が出た。リップを塗り直そうとして、スカートのポケットへと手を突っ込んだ。
「ヤバい腹一杯」
「アタシももう限界」
「ゆうて3人前も食ってなくね?」
「いや世話、食った方だわ」
「つかアイツが食い過ぎだろ」
「豚と一緒に飯食ってっからアタシら」
「アイツ女として終わってるって」
恐らく先程の女子高生グループの数人が、トイレに入ってきた。ここに居ない友人の事を馬鹿にしている様な笑い声がやけに武道の耳についた。普通の女の子ってそんな食べないんだな、冷たい便器の上で武道は頭が真っ白になった。確かに先ほどの女子高生達は正確には多少難がある様だったがスタイルは完璧であった。制服の上からもわかる腹の括れに細い手足、贅肉が一切付いていない顔周りに比べて自分は。武道は制服のブラウスを捲り腹を触る。ぷにと肉が掴めた。
女子高生達がメイクを直し去り、十分に待ってから武道は個室を出て、鏡の前で自分の姿を確認する。
垢抜けず野暮ったいのは仕方ないとして、何とも言えないスタイルである。身長は165センチと女子としては高い方であるが同時に肉付きも良い方だと思う。Bカップの胸からほんのりとある括れに太ももと呼ぶにふさわしい腿。此処にはいない可愛い親友を思い出して思わず洗面台に手を付いた。先ほどのスタイルの良い女子高生達の会話がフラッシュバックする。
「私、女として終わってるのか…!」
焼肉を食べて少し脂ぎった肌を備え付けのペーパータオルで拭き取りもう一度身嗜みを確認する。お腹はまだ空いているが体も心も、足取りも妙に重く感じた。