シリウスが見た夢- シリウスが見た夢 -
酒の匂いと上司からの説教、後輩の終わらない自慢話に耐えられなくなり、気付いたら店の外へでていたらしい。長年勤めた社員の送別会とは言え、明日、俺は早番で、携帯で時間を確認すると、思わず溜息が漏れた。先ほど気の利く女子大生バイトの子が追加注文をしていた様子から、まだまだ居座るつもりなのだろう。ラストオーダーまで1時間以上もある。仕切りなしに届く友人達からのメッセージを一通り返事をしてから、覚悟を決めてもう一度暖簾をくぐろうとした時、甲高い女の叫び声が聞こえ反射的にその方向に振り向いた。
酔っ払いか何かに絡まれているのであれば、助けられるかはさておき声を掛けようとも思ったが、どうやら恋人との喧嘩のようだ。かなりキツイ罵声を男に浴びせ、男はそれに言い返すことも手をあげることもなくただ黙って女の言葉を聞いている。ヒートアップする一方的な喧嘩に行き交うサラリーマン達が囃し立てては通り過ぎていく。夜の街ではよく見るこの光景に終止符を打ったのは女の方だった。まさに良い音、と表現できる音が俺の耳まで届いたと思ったら、女は既に踵を返しいかにも怒っているという足取りで立ち去っていき、残ったのは立派な平手打ちをされた男だけだ。
別に野次馬根性が働いた訳でも、お節介が焼きたかった訳でもないと思う。ただ、目の前で捨てられてしまった男に気まぐれに情が湧いたのだろう。そう言われれば俺も随分酒を飲んでいた。そういった要因もあるのかもしれない。
予報通りの雨がパラパラと降り始め、人混みは急いで帰路に着いたり、雨宿り先を探したりと、辺りは嘘のように静かになった。俺と男の二人だけになった通りは、騒音が無くなって何だか居心地が良く感じる。一歩、二歩と足を進めて服が濡れる事も気にならないのか軒先のないその場に座り込む男の前まで行くと、都会の雨の匂いに混じり、甘いメンズの香水と、苦い煙草の香りがした。この嗅ぎ慣れない香りは、やがて、所有を表し、支配するかのように俺にまとわりつく事になるのだが、この時の俺はまだ知る由も無い。
「あの、大丈夫ですか」
「…………」
「雨降ってきたんで、どっか屋根がある所にでも」
避難して。ゆっくりと億劫そうに此方を向いた男の顔を見た瞬間、続く言葉を口に出せなかった。息を呑むほどに整った顔。造形美とでも言うのだろうか、流すような黒い今時の髪型と相まってまるでアイドルみたいだ。どこを取っても整ったパーツに、寸分の狂いも無いパーツ配置。ただ、頬に紅葉跡が残っているのがまたアンバランスで、つい口元が緩んだ。
「なんで?」
「え……いや、ただ。可哀想だなって」
呟いた瞬間、つい口が滑ったと思いすかさず口を手で押さえたが、勿論男には聞かれていたようで切れ長の目をきょとんと丸くさせていた。ふ、と息が漏れて、男の体が小さく揺れる。殴られるのかと身構えると、何とも気の抜けた大きな笑い声が聞こえる。
「あはははは! 直球すぎね?」
「あ……! す、すみません、えっといや、ハイ……雨に打たれているのも相まってなんか捨てられた犬みたいで」
「それ余計にストレートだから」
「さ、さっきの彼女さんですよね、喧嘩ッスか?」
「喧嘩……?あー、多分。怒ってたもんな」
「多分って言うかスゲーキレてましたよ…」
ほんの少し言葉を交わしただけだが、何となくこの男の軽薄さが感じ取れた。傷心ならと声を掛けたのだが、こうなら話は違ってくる。何か適当に話を切り上げて店内に戻ろうと左足を後ろに少し下げた。
「優しいね、オニーサン」
「やー、って言うかちょっと気になっただけっス、すんません」
「ふーん……じゃあさ、気になったついでにどうよ」
社会に出てから何だか癖になってしまった、意味のこもっていない謝罪を披露しながら、踵を返そうとした俺の空いた手が不意に掴まれた。
「え」
「俺の面倒、見る気ない?」
その場に座り込んだままこちらを見上げる姿は、さながら捨てられた子犬のようであった。雨で濡れた髪や、やけに水分度の高い目、少し震えた掴んだ手を、憐れに感じたのかもしれない。
飲み会が終わった帰り道、俺の隣には鼻をかみながら歩く男の姿があった。
「真一郎くん、俺もう出ますね」
「んー……」
「朝メシは一応用意してあるから食べるんだったら食べていいよ」
「用意してあるったって、食パンだろ……」
「マヨネーズも納豆もあるじゃん」
「料理とかたまにはしねーの」
「じゃあ真一郎くんがしてよー!」
くたびれたリュックを背負ってスニーカーを履く俺のはるか後ろから、寝起き声の文句がブツブツと聞こえたが、構っている余裕はない。はいはいと聞き流して、踏み潰していた踵を直し、「いってきます」と声を掛けて家を出た。
築40年のオンボロアパートは全てに年季が入っており、玄関のドアは開ける度に女性の叫び声の様な高い音が出るし、トタンで出来た階段は錆びて表面はズル剥けで、いつ崩れ落ちてもおかしくない。まだこんな所で死にたくない俺は、この階段を信用せず、一段一段慎重に上り下りするのを心掛けている。
最後の一段を下り切ると、ふと掲示板に目がいった。古びた掲示板には、黄ばんで所々破けているゴミ出しの週予定表や、地区の年間行事の紙に並んで、真新しい紙がマグネットで貼られていた。高齢の大家が不慣れなパソコンで作ったのであろうそれは、用紙サイズに合わず文字が小さくて読みづらいものであったが、【改修工事のお知らせ】と書いてあるようだ。
「やっとか」
見回しても、この地域でこんなにもボロくさいのはここだけで地域住民からは「景観を崩す」とも呼ばれている程である。この階段を筆頭に、改修すべきところは沢山ある。下がったリュックの紐を肩に掛け直して、ひび割れたコンクリートを抜けて表の道へ出ると俺の名前を呼ぶ声がした。
振り返ると、俺の部屋のベランダに真一郎くんの姿があった。よれた白いティシャツに紐の取れたハーフパンツを履いて、ベランダの柵にもたれるように煙草を吸う様は、何とも前時代的な感じがする。
「いってらっしゃい、気を付けてな」
「あんまその柵にもたれると落ちますよ」
「じゃあ中で吸わせろよ」
「なら柵にもたれずベランダで吸って下さい」
八時過ぎの冬空に俺の少し張り上げた声が響いた。前から横に並んで登校する女子高生達の姿が見え、俺は慌てて真一郎君に手を振って歩き出すと、後ろから真一郎君の笑い声が聞こえた。どうせ俺はモテない、女子耐性の無い男である。
あの夜俺が声を掛けたのは、子犬でも何でもなくて、手を引っ張って立ち上がらせてみたら俺よりも随分と身長の高い男であった。彼は俺の名前を聞いた後に、自分の名前を俺に教えた。
佐野真一郎と言う男は、人懐こくてコミュニケーション能力の高い男であった。大人になってから人見知りが入った俺の相槌や返答にもめげずに応戦し、なんだかんだあり、今は俺の家に頻繁に上がり込むようになった。上がり込むと言っても、真一郎君には沢山の当てがある。
「夜はエミちゃん、明日はジュリちゃん。ま、ジュリちゃんちが無理だったら武道のとこ行くわ」
ヒモ体質な真一郎君はそんな風に毎日のように色んな女の子達の家を転々としている。そして、緊急避難先であり、性欲が乗らない時にのみ俺の家に転がり込んでくるのだ。
「男の家来て何が楽しいんだか」
信号待ちの為隣に居たサラリーマンに、俺の独り言が聞こえたようで少し距離を置かれる。意識せず漏れてしまった心の声が恥ずかしくて、俺は青信号になると小走りで渡った。
冬になると単純に客足が少なくなるもので、本日も例に漏れず月最低来客数を更新しそうだと呑気に考えている所に、店のドアが開いた。来店の挨拶を声に出そうと口を開いたところで、その人物に気づいた。
「あれ、若狭くん」
「よお」
「こんばんは」
「何時終わり?」
「えーと、8時なんでもうちょいすね」
「了解、表で待ってるから」
「今日は?」
「もんじゃ、食い行こ」
暗い照明の待合席で過ごすこと20分、溌剌とした元気の良い店員さんに案内され座敷へと上がる。初来店かどうかを確認され、目の前に座る若狭くんが首を振ると、メニューを置いて簡単な挨拶を済ませ席を後にした。飲食店の店員はああいった雰囲気の人間が向いているのだろうとぼんやりと考える俺の目の前にメニューが飛び込んでくる。
「決まったら呼んで」
「はえー! え、何にしました?」
「明太チーズもんじゃ」
「うまそー。なら俺お好み焼きにしようかなぁ」
食に関しては優柔不断な俺があーだこうだ悩むのを、若狭くんは急かすことなくのんびり待っていてくれた。注文が終わると、若狭くんは用意されたお冷を口にする。少し上を向いた拍子に白い髪がふわりと揺れた。
若狭くんと出会ったのは、夜勤終わり深夜2時半の路地裏だった。冬も半ばに入り、夜から朝方にかけては本当によく冷え込むようになり、足早に自宅へと向かっていた。ほんの少しの小さな声、冬の風が吹いたらかき消されてしまう程の声に、俺は数歩後ろに下がった。
雑居ビルの隙間、路地裏とも呼べるか怪しいその狭い場所に、一人の男が座り込んでいる。面倒ごとに巻き込まれたくなかったが、季節を考えると放っておいたら死んでしまうかもしれない。酔っ払いであろうその人物を起こそうと肩に手をかけると、億劫そうに男は此方を見上げた。
「すげぇ」。そう溢してしまいそうなほど、目の前の男は美形であった。キリッとした眉なんかは男らしいが、伏し目がちの目や、鼻筋や唇、全てが精巧に造られ正しい完璧な場所へと存在している。芸能人を前にした一般人のように惚けてしまっている俺の上の雲間から、月の光が差した。
暗い路地裏が月によって照らされ、俺と男も光をぼんやりと浴びる。男をよくみると、その髪は透き通るように白く、この世のものとは思えない位綺麗だった。
月明かりによって座り込んだ全身が見えるようになると、思わず息を呑んだ。男の体は所々、血で汚れており、そう言われてみると顔のあたりも血を拭ったような跡がある。警察か救急車を呼ぼうと携帯を出した俺の手を、男の冷たい手が掴んだ。
「やめろ」
喉を揺らしながら、何とか紡いで発音したその言葉は震えていた。痛みなのか、それとも寒さからくるものなのかは判断がつかない。男はそこまで言うと、力無く再び地面へと手を落とした。
「じ、じゃあ、ちょっと着いてきてください」
「は」
お人好しとか正義感が強いわけじゃない。これが昼間だったら俺はスルーしていただろうし、周りにもっと人がいたら、面倒事はごめんだと足を止める事も無かったと思う。ただ、もうこうなってしまえば最後まで面倒見るのが俺の責務な気がした。
半ば無理やり男に肩を貸して、体格差もあり引き摺るような形で路地裏から出た。男は何度か抵抗を見せたがやがてそれも終わり、俺に身を預けるように二人で夜の街を歩いた。男は左足を痛めているようで、規則的な足を引き摺る音が、絶えず聞こえていた。
5分程歩くと、目的であった小さな公園に到着した。男をベンチに座らせると、俺は設置されているトイレへと向かい、新品のトイレットペーパーを拝借した。それを小さくちぎり水で濡らしたあと、男の顔や見える限りの部位の血を拭いていった。絆創膏なんてものは持ち合わせていないし、消毒も勿論無い。人を手当てする道具を何一つ持たない俺に出来るのはこれくらいである。コンビニで何か買ってきたほうがいいのだろうかと考える俺を他所に、暫くぼうっとしていた男が徐に携帯を触り始める。生憎俺の財布には280円しか無かった。クレジットカードは止められている。コンビニに行っても絆創膏と消毒が買えるかどうかの賭けだろう。その場でしゃがんでため息を一つついた上から、凛とした声が掛かった。
「ありがとな」
「え?あ、あぁ、いや全然」
男が項垂れたように目線を下に落とすと、自身が着ている上着に付いた誰のものか分からない血痕を指でなぞった。
「……気に入ってたジャージだったんだけど、汚れちまった」
「みたいですね」
でもまあ洗えば何とか、いや白だから難しいかと人様が着ているジャージを触りながら緩く喋る俺の顔に、影が差した。その瞬間、おでこに触れる柔らかいもの。でもそれは一瞬の事で、顔を見上げた時にはもう既に男はベンチの背もたれに体を預け足を開いて寛いでいる。
「今……」
「お前、俺の事知ってる?」
「や……は、え、いや、すんません。アレですか?芸能系? 俺そーゆーの全然詳しくなくて」
「ううん、知らないならいい」
「すいません」
会話もそこそこに、というよりも、今おでこにキスされなかったか? 確かにあの感触は唇で、一般的に言うデコチューのようなものをされた筈なのだが、敢えてそれを口に出してわざわざ確認するのも憚られる。この男、ハーフそうにも見えるし外国の文化が入っているのかもしれない。随分と変わった奴に声を掛けてしまったものである。
自分の携帯で時刻を確認すると、2時40分を回るところだった。時間を気にした事が男に伝わったのだろう、俺が携帯をしまう前に「遅いしもう帰って、悪かったな」と声が掛けられる。
「でも」
「さっき迎え呼んだから、もう平気」
「あぁ、なら……じゃあ俺はこれで」
「ん、ありがとな」
ベンチに置いていたリュックを背負い直して、男に軽く会釈をし、公園の入り口へと向かう。公園の入り口には街灯の横に何台か昔の自動販売機が稼働してあった。家までもう少しあるし、温かい飲み物でも買って行こう。残金は280円。大事に取っておきたい気もしたのだが、寒さには抗えず気付いたらボタンを押していた。ガコン、ガコンと、落ちる音は二回。
男は先程と変わらない体勢でベンチに座っていた。公園の砂を踏む音に、伏せていた顔をあげると何とも綺麗に笑った。
「何」
「ココアとコンポタどっちが良いとかありますか」
「コーヒー」
「無いっスね……」
「なら、コンポタ」
文字に起こしたら語尾にハートが付いてそうな言い回しをしながら、手を伸ばして全体的に黄色い方の缶を取る。
「じゃあ今度こそ、さよなら」
「うん、サヨナラ」
まるで小学生と担任のお手本のような挨拶をしてしまったと思う。俺は気の利いた返しもできなければ上手いこと話せるタイプではない。男とはほんの少ししか会話をしていないが察するに相手も同じタイプな感じがした。
かしゅ、と小さな音を立てて缶が開く音を後ろに聞きながら、俺はまた背を向けて歩き出す。右手のココアが暖かくて、何も持っていない左手が反対にとても寒く感じた。入り口の街灯まで来ると、ソッとベンチの方を振り返ったが、そこにはもう男の姿は無かった。
これが男女だったら連絡先の一つでも交換していたのかもしれないが、俺は男で相手も男だ。何が発展する訳でもなく、あの夜の出来事を忘れ掛けていたある日、俺が働くレンタルビデオ店に無くしていた社員証を持ったあの男がやって来たのだった。
名前も顔写真も店名もご丁寧に記載されている社員証はいつのタイミングでか男の上着のポケットに入っていたのだと言う。リュックの財布の中に入れて置いたつもりなのだが、いつどうやって落ちたのだろう。
「本っっ当にありがとうございました」
「いーよ、おあいこにもなんねーけど」
「いや、まじ助かりました」
「名前、ハナガキ君?」
「あ、はい!花垣です、花垣武道です」
昼間に見る男はあの時とはまた印象が違う感じがした。顔が鮮明に見える分、より一層目を引くのだが、それにしてもどちらかと言えば昼よりも夜が似合う男だと思った。
男は口に馴染ませるように何度か小さく俺の名前を呟いた。なんだか気恥ずかしい。
「あ、あの」
「花垣クンは焼肉好き?」
「えっ?あ、はい、好きっスね普通に」
「じゃこの後“普通に”メシ行こ」
「えっメシ!?」
誘いのタイミングとしては完璧で、あと20分ほどで退勤なのだが、女の子ならまだしも、ちょっと怖そうな男とは正直行きたくない。返事をせずにどう断るか思案した俺の様子を見て、断られると察したのだろう男は、未だカウンター上にある社員証に置かれた俺の手の上に、自分の手を重ねた。
「すみません、俺」
「何が好き?奢るよ」
給料日まであと一週間、残金は1600円。本来ならば、悩む余地もなかったのだ。
「カ……カルビが……好き、です」
「おー、俺も好き」
同じだね、男はそう言いながら重ねられた俺の手を上から握りしめる。綺麗に切り揃えられている男の爪を見つめながら、俺は自分の情けなさを悲しんでいた。
そんな出会いを経て、今となってはこの“若狭くん”とたまにご飯を食べに行く仲になった。連絡先も交換したものの、未だに若狭くんから連絡が来た事はないし、俺からも連絡を取った事はない。若狭くんが夕飯を食べたい日に店に来ては帰りに食べて、解散。大人になった今、そんな気の遣わない関係が何だか心地が良くもある。お互いに入り込んだ質問はせず、これは美味いだとか、その服はどこで買ったか等といった当たり障りのない会話のみで若狭くんの事については知らない事の方が多い。
まともに知っているのは名前くらいで、何の仕事をしているだとか、あの日なんであんなに怪我していたのかとか、その他の事は知らないし、聞いても上手い事はぐらかされてしまう。若狭くんも踏み込んだ事は聞いてこないし、別に見合いでも合コンでもないのだから俺も然程気にはならなかった。
店内の雰囲気に合った暗めの照明に照らされて、若狭くんの白い髪が若干オレンジ色に見える。重い前髪から覗く垂れた目が伺う様に此方を見てきて、正面から真っ直ぐに受けるとドキッとしてしまう。鉄板で焼けるもんじゃをヘラで掬い取って、容姿からは想像出来ないような意外と男らしく食べる若狭くんに度々目をやりながら、俺も頼んだお好み焼きを口へと運んだ。
「若狭くんご馳走様でした」
「おー、美味かったな、また来よ」
「はい!」
いつもの流れ、当然の様になってしまっている会計と挨拶に、若干の申し訳なさを感じるものの俺が財布を出すことに若狭くんは良い顔をしなかった。初めて行った焼肉屋でやっぱり少しは出しますと言った俺に「奢るっつったろ」と口を尖らせて止められてから、二人で飯を食いに行く時は奢られるようになったのだ。ケチ臭くなくて羽振りも良い、身に付けているものも派手すぎはしないが一つ一つ上等なものだし、一体、彼は何の仕事をしているのだろうか。
共通の駅まで並んで歩くと、若狭くんからソースの匂いがした。自分では気付かないだけできっと俺からもその同じが匂いがするんだろう。こんなんで電車に乗ったら嫌がられそうだ。
俺たちの家は反対方向なので、改札を入る前に別れた。彼氏でもなければ彼女でもない、特に名残惜しいと言う感情も湧くこともなく、「じゃあまた」「うん」という素気もない言葉を交わしお互いに人混みの中に紛れた。相変わらず、別れの挨拶が下手だと思う。俺も、若狭くんも。
ひび割れたコンクリートに躓かないように足を気持ち高く上げて歩く。てらてらと引きずる様に歩くと割れた面に足を引っ掛けそれは惨めに転んでしまうことがあるのだ。勿論、俺は隣に住む外国人がゴミ捨てに出てきたタイミングで派手に転んだ経験済みである。錆びたトタンの手摺を持ちながら、なるべく端を慎重に登ると、視界がチラつく事に意識が向いた。どうやら二階の蛍光灯が切れかかっているらしく、不規則に点滅している。大家に掛け合って変えてもらおうと思ったが、どうせ朝になれば忘れてるだろう。手元をチカチカと照らされながら、鍵を開けて玄関に入ると嫌な寒さが伝わった。
「暖房つけてえなぁ……」
一人暮らしを始めてからというもの増えた独り言は誰に拾われるでもなく、部屋の中で響くことなく消えていった。居間に敷いてある布団と、最早一体型となっている炬燵には朝と同じ格好の真一郎君が寝ていた。炬燵に入り上半身は布団に這い出て枕を下にすやすやと寝ている姿は、労働後の人間にとっては何だか少々腹が立つ。
格好から考えて今日は一日中家に居たのかとも思ったが、真一郎くんから本人のものではない花のような香りがしている為、日中女の子に会ってきたのだろう。二つの香水と煙草の匂いが混じって変な感じだ。
炬燵テーブルの上には、所々へこんでいる350mlの缶ビールが置かれていた。真一郎くんはこれを俺の家での灰皿としているようで、中には吸い終わった吸殻が沢山入っている。俺一人でも散らかっている部屋なのに、真一郎くんが入り込むようになってからますます散らかったようで、何だか気が滅入る。吸殻を片付けようとも思ったが、自分のゴミではないし釈然としない。明日起きたら捨てさせようと決めて、俺は重い目を擦りながら風呂へと向かった。
五連勤明けの貴重な一日休み、こんな日は一日中寝るに限ると、アラームを設定せずに心地よく眠りに付いた筈なのだが、気付けば開けられたカーテンから強い日差しが入り込み、俺の目は潰されそうだった。
「ちょ、っと……ねえ、閉めて」
「今日休みだろ?起きよーぜ」
「いや無理っす寒いし、俺今日は家居るんで……真一郎くんも別に居ていいっすよ」
俺の邪魔しないなら。そこまで言い切る前に、最後の望みだった掛け布団がいとも簡単に剥がされた。節電の為に、俺の家では暖房をつけることはなく、夜の間は炬燵も電源を切る。温もりは薄くなった掛け布団とすす切れた毛布、三足600円の厚手の靴下だけである。特別、低血圧で朝に弱い訳ではないが、ここまで強引だと一ついや二つくらい文句でも言ってやろうと目を開けると、想像よりも近くにいた真一郎くんに驚いて声を上げてしまった。
「わ、なに、近」
「な、たまには出掛けようぜ」
そう言った真一郎くんは、俺の横に寝そべりながら頬杖を付いて此方を見ていた。体毛が薄くてヒゲもあまり生えないらしく、朝起きても加工無しで通用する美形スマイルを決め込まれると、イケメンにも美女にも弱い俺は何も言えなくなる。携帯で時間を確認すると、9時半。正直まだまだ寝ていたいが、横で父親が起きるのを待つ子供のように待機されると、此方もいよいよ覚悟を決めなくてはならないような気がする。
「……出掛けるっつっても例えばどこすか?ほら、そこのスーパーとか、それとも服見に行くとか。どんなレベル?」
「んー、そーだなぁ」
ていうかそれこそ俺じゃなくて彼女と行けばいいのに、という言葉は飲み込んだ。この歳になって休みの日にわざわざ誰かと出掛けるということが少なくなった今、こうして誘われる事も何だかんだ嬉しくもあるのだ。
真一郎くんは上半身だけ起き上がり、ぺちゃんこになった座布団の上で胡座をかくと、態とらしく腕なんか組んで顎に手を添えて、“考えている”姿勢を取る。ひとしきり唸ってから、ぴんと人差し指を立てて閃いた、と笑った。
「バイク出すから飯食い行こーぜ」
「バ、え、え、嫌っす」
「は? 何で」
「飯はともかくバイクが嫌です、怖いから」
特にアンタの運転。それは言葉には出さなかったものの何となく真一郎くんは察したのだろう。俺の額めがけデコピンをした後、頭を乱暴に撫で回してニッカリと笑った。本当に明るく溌剌と、まるで子供のように笑う人だ。笑顔が売りで茶の間に人気のニュースキャスターも、彼には顔負けである。
「俺の後ろに乗れる奴なんてそういねーよ? 光栄に思えって」
そう言いながら真一郎くんはポンと頭を優しく叩くと、未だ寝そべる俺の脇に手を入れ、無理やり立たせる形で起き上がらせる。俺と同じくらい細身の癖して意外にも筋力がある真一郎くんにとって、俺を持ち上げることなんて容易い事らしい。ちょっと、と止める間も無く子供のように洗面所へと連れて行かれると、真一郎くんはラックに掛けてあった何日か前のタオルを手に取り俺の顔に押し付けた。
「顔洗っとけよ、俺着替えとくから」
「あの、せめて電車で」
「40分に家出よーぜ」
真一郎くんはコップに並んだ片方の歯ブラシを取り、買ったばかりの歯磨き粉を付けて口に咥えると洗面所を後にして、居間へと戻っていった。まるで自分の家のように手慣れた作業に家主である筈の俺の方が呆然としてしまう。色んな家を渡り歩く、所謂ヒモと呼ばれる人種の方達はあぁ厚かましく過ごすのが肝心なのかもしれないと適当なことを考えながら、冷水で顔を洗った。先程乱暴に撫でられたことにより、寝癖のついた髪が更にボサボサになってしまったような気がする。頭を撫でられるのなんて何年振りだろうか。かつてのまだ若々しい頃の母親の顔がぼんやりと浮かんでは消えた。
真一郎くんは言い聞かせるのも上手ければ甘やかすのも上手い。俺という年下の扱いに慣れているし、詳しくは聞いたことがないが多分下に兄弟でも居るのだろう。
「兄弟もイケメンなんかな」
いや、もしかしたら美人な妹かもしれない。洗面所に映った水気を取ってスッキリとした顔は、二十何年付き合ってきた見慣れた平凡顔だった。
ただでさえ冷たい冬の風が頬を切る。鼻がツンと冷たくなるのを感じて、吸い込むのも吐き出すのも何だか難しくて苦しかった。頼れるのはヘルメットのみだからだろうか、車と同じ位の速度の筈なのにバイクの方が比べられない程の恐怖を感じる。本当に10分で用意を済ませた真一郎くんは、財布と携帯を慌てて持つ俺の手を引っ張りながらアパートの下に停められたバイクに俺を乗せる。俺用に準備されたヘルメットと、若干使い込まれている自分のヘルメットを被り、俺はあれよという間にアパートはどんどん遠ざかっていった。
振り落とされないように真一郎くんの背中に必死にくっつくと、信号待ちの時に回した手をふポンポンと優しく叩かれる。
「女の子だったらなー」
「こっちの台詞ッスよ」
信号が青に変わりバイクが動き出した為、再びその背中に抱きついた。女の子に買ってもらったと言うお気に入りのスタジャンから、無骨なヘルメット越しに真一郎くんの香りがした。何かは分からないがメンズものの香水と、キツい煙草が混ざった香り。これが真一郎くんの香りだった。
アパートからバイクを走らせる事二時間とちょっと。渋谷の街から離れていき、着いたのは国道から逸れた道に入ったところにあるラーメン屋だった。さほど広くない駐車場は既に満車で、道沿いに路上駐車している車やバイクも多く見える。その付近に習うように真一郎くんも停めると、長い足でバイクから降りてヘルメットをハンドルへと掛ける。短い足の俺も同じように降りたが、二時間ぶりの地面だったからか少しフラついてしまったのをしっかり見られていたようで、またそれを笑われた。
「わー、スゲー行列。食えんのいつ頃だろうな」
「ここ有名な所なんすか?」
「おー。俺ら……あー、バイク乗りの中では有名でさ。まー関東に住んでんなら此処は食っとけ、みたいな」
「へえ、美味そう!」
「並ぶか」
はい! と自分が想像するよりも元気な返事が出てしまった。美味いと有名なラーメン屋を前にして、空腹な体と単純な頭の機嫌は治ったらしい。
最後尾に着き案内を待つまでの間、二人で取り止めのない話を沢山した。あの雲の形はウサギだとか、此処に街を作るなら何を建てるかとか、今夜放送のドラマを録画し忘れたとか、ただ時間を潰すだけの会話も真一郎くんと話すと楽しかった。
列に並ぶ人達の年齢層や男女比は結構バラバラであり、前は若い女の子達のグループで、後ろは高齢のご夫婦だ。駐車場に停められた車のナンバーを見ても、関東圏以外に日本各地のプレートが名を連ねている。友達同士だとどうしてもはしゃいでしまいがちだ、気持ちは分かるが前のグループは些か元気なようで間隔を少し開けているにしても何度かぶつかりそうになった。この歳になり、子供達が騒いでいるのは可愛いと思うようになったが、20代そこらの子達がはしゃいでいるのは何となく迷惑に思ってしまうのは何故なんだろう。いや、俺の心に余裕がないだけだろう。少し距離を置くように白線の外側へと出ると、携帯を確認する俺の降ろした左手が不意に引かれ、真一郎くんに引っ付くような体制になる。
「わっ」
「危ねー」
顔を落として携帯を見てたので気付かなかったが、路上駐車してある車を避けるように大型のバイク此方に寄りながら通り過ぎていった。
「す、すみません」
「内側入っとけよ」
言われるがままに手を引かれ車道側ではなく内側に入れさせられる。まるで彼女のよう、いや親と歩く子供に近いだろう。この歳になってそんな事を注意されるのが情けない。恥ずかしさを隠すように下を向いて携帯を確認するフリをすると、頭の上から
笑いを噛み殺すような声が聞こえる。
「ふ、あはは」
「な、別に千冬から連絡きてそれ返そうとして気付かなかったんスよ」
「違う違う……」
「?」
「心配なら繋いどくか?」
パッと目の前まで上げられたのは、繋がったままの俺達の手。ふふ、というご夫婦の穏やかな笑い声が後ろから聞こえてきて咄嗟に手を離すと、真一郎くんも肩を震わせながら笑っていた。
「ダルいって」
「甘えたい盛りなのかと思ったわ」
俺弟いるしさ、そういうのウェルカムよ。なんて揶揄う真一郎くんの話を聞き流すように再度携帯を弄る。ん? と言うより、やっぱり弟さんが居るんだとその話題について食いつこうと口を開けた時、前に並ぶ女子グループの内の一人が、はしゃいだ拍子に真一郎くんにぶつかった。高いヒールでバランスを崩した女の子を真一郎くんは何なく支えると、周りの子達もきゃあと可愛らしい歓声をあげた。真一郎くんと場所を変わって居なければあの立ち位置は俺だったのだと考えると羨ましくて仕方ない。謝りながら此方を振り返ったその子は可愛らしい顔立ちをしていた。ほんとに悔しい。
「やん、ごめんなさぁい!」
「大丈夫? どっかぶつけてない?」
「ぇ、あ、はい、どこも! 寄りかかっちゃったってすみませんでしたぁ」
「なら良かった。ヒール高そうだし気を付けて。可愛い顔が怪我したら大変」
「え!? ぁ、えあ、ありがとうございます」
あんぐりと口を開ける女の子達と俺。何度か会釈をした後前に向き直ると、女の子達は真一郎くんについて分かりやすく盛り上がりだした。アイドルに遭遇したかの様にきゃあきゃあと騒ぐ様子に、俺の心はいっそう荒んだ。こうして世の純粋な女の子達を落としてはヒモの寄生先にしているのだろう。例え俺が同じ状況で同じ台詞を吐いたとしても向こうは真顔の謝罪で終わるだろうと思うと、羨ましい限りである。
こうして他の人と並んで見ると、真一郎くんの容姿の良さを改めて感じる。他の人よりも頭ひとつ飛び出た身長に、程良いスタイル。傷んでいない黒髪が太陽に照らされてキラキラと揺れる。笑った顔や呆れた顔、表情一つ取っても本当にアイドルのよう。世の中と言うのは無情であり、結局は顔なのだ。小さく溜息を付いて、やさぐれた俺の心など真一郎くんには丸分かりなのだろう。髪をまたしてもくしゃくしゃに撫でられる。
「お前もこーゆー事出来るようになればな」
「なれば?」
顔を上げた俺の、少し髪で隠れた耳元まで口を寄せると低く掠れた小さな声でポツリとつぶやいた。
「童貞卒業、出来るだろ?」
「はぁ?! ま、まじで、ホントにサイテーっス、もう今日家上げませんから」
「今日はサキちゃんと約束してっから、オマエに用はねえよ。ん? ジュリナだっけな」
子供の頃から顔が赤くなる癖がどうにも抜けなくこの歳になっても、未だに恥ずかしさが分かりやすく出てしまうのが嫌だった。前のグループにも話が聴かれていたようで、途端に興味を無くしたようで話は別のものへと変わっていく。隣の真一郎くんは気にもしていないようで、餃子を食べるかどうかを真剣に考えていた。
大きく息を吸うと冬の空気の冷たさが鼻を襲った。同じ東京都なのに幾分空気が澄んでいるような気がするのは、都会に住んでいる人間の錯覚なのかも知れないし、本当にそうなのかもしれない。列が進み、俺達も足を揃えて前に詰める。ざっと数えてあと5グループ。待ち遠しさで腹が鳴った。
「いーやマジで美味かったっすね」
「な。当たりだなあそこ」
ラーメン屋だから回転が早いようで、1時間ほど待つと席へ案内された。カウンターの他に座敷の席もあったが、ファミリー向けのようで俺たちは奥側のカウンターへと並んで座った。オススメだという味噌ラーメンと餃子をそれぞれ頼んで、届くやいなや待ち侘びたと言わんばかりに食べ始める。湯気が立ち込めるラーメンを啜りながら、焼き立ての餃子に齧り付く。
俺は表現するのが上手い方ではないから言い表せないが、とにかく美味かった。これに尽きる。真一郎くんも美味しそうに食べていたし多分美味かったんだと思う。グルメリポーターでもない成人男性の感想なんてこんなものだ。並んでまで食べる価値はあると思う。もう少し近ければ週一で通いたい位だ。満腹感から腹を叩く俺を他所に、注がれたコップの水を飲み切った後真一郎くんが先に席を立つ。トイレの方向では無かった為、慌てて後を追うとその姿はレジへと向かっていた。一息つきたかったのだが、なんてせっかちな男だろう。真一郎くんの後ろで財布を取り出した俺に、背中を向けたまま会計は進んでしまい、店主だろう恰幅の良いおじさんに挨拶をされ、俺たちは店を出た。
「え、真一郎くん払いますよ」
「いいよ」
つーかそんな金あるのかよ。俺の思いは顔に出ていたようで、停めていたバイクに向かいながら、真一郎くんは軽く吹き出した。
「小遣い貰ったの♡ これでパチンコ当ててきなって」
「まーたそういうこと言う……」
「向こうは俺にあげたいんだからいいんだよ」
「マジでいつか刺されますよ」
「金で男繋ぎ止めておきたい子も居れば、そんな良い子を食い物にするクズも居んだろ」
ハンドルに掛けてあるヘルメットを被りながら真一郎くんはバイクに跨る。それを見倣って俺も同じく後ろに乗り込むと、行きと同じように真一郎くんの腰へと手を回した。
「で、26歳になっても心が純粋な童貞も居るわけだし」
「……いやそれ俺のことじゃん!! 真一郎くんにはどーーせ分からないっスよ! イケメンには俺みたいな苦労がねえ!」
「へーへー。まっ、世の中にはお互いの利害が一致して成り立ってる関係もあるっつーこと」
「……そーゆーもんだとしても、マジで! 気をつけた方がいいっすよ」
出会った夜からは考えられない位、絆されてしまったと言うか気を許すようになった。真一郎くんの本性に気付いた時、俺は早めにバチがあたれば良いのにと恨めしく思っていたが、最近では彼への心配が勝っている。これも真一郎くんが持つ何だか憎めない人柄のせいなのだろう。
平日の帰宅ラッシュ前の道は案外空いていて、混雑に巻き込まれることなく俺のアパートへ向かった。途中、信号で停まりはしたものの行きよりも早い時間で到着しそうだ。それにしてもあのラーメン屋の辺りは電車はおろかバス停すら見当たらなかったし、交通の手段の無い俺が行くにはどうすれば楽なんだろう。
「連れて来てくれてありがとうございました」
「おー」
「今度はアッくんと来ようかな、美味かったし」
バイクを持っている友人の顔を浮かべて先程食べたラーメンの味を思い出す。アッ君もラーメンが好きだし、何より優しい男だ。後ろで俺がナビをすると言えば快く乗せてくれるだろう。
「アッくんて友達?」
「中学からの友達です。今美容師やっててすっげーオシャレなんすよ。カッコいいしモテるし!!」
「へえ」
「ラーメンも好きだし多分喜ぶと思うんですよね」
「えー?」
「えーって何すか」
まさかこの人、俺に友達が居ないとでも思ってるのだろうか。童貞はこの際認める。証拠があるわけじゃないが逃れきれない事実であるし否定はしないが、友達は別だ。俺にだって友達の五人や六人、親友の一人や二人くらい居る。また人を馬鹿にしてと張り付いている背中でも叩こうかと手を広げた。
「いつでも連れて来てやるし、此処は俺とだけにしろよ」
「えっ」
いつもならもっと饒舌に言い返していたのだろうが、予想だにしていなかった返答に驚きの余り続く言葉が浮かばなかった。俺の心臓が跳ねたのが分かる。だけどそれはトキメキではなくて衝撃からのものだ。モテる男のテクニックを見せ付けられた。腹立たしさから、バイクを降りてぇと零した俺に、反応ちがくねぇ? と真一郎くんはボヤいた。
「そうやって口説いてんすか」
「口説くうちに入んねーよ」
「でも男に言われてもドキッとしませんでした」
「俺も男に惚れられたくねぇわな」
「友達の俺用の口説きはないんですか」
「んー? ……次はチャーハンも付けようぜ」
「来週も来よ!」
随分と距離の近くなった俺達の会話に、真一郎くんは大口を開けて笑った。この人がこんなに笑うのはあんまり見た事が無かったから少し驚いた。今日は何だか機嫌が良いみたいだ。
真一郎くんはいつも何とも言えないしっとりとした笑顔を浮かべている。ファミレスで隣の席になった女子高生達曰く、「ヤバ、顔甘すぎね? もろタイプなんだけど」らしい。そして俺は「相手弟? 友達?」「知らねーそっちはどうでもいい」だったので、人気メニューのエビドリアの味が分からなくなっていた。
と言った風に、言い方を悪くするといつもヘラヘラとしている感じなのだが、それはそれで一種のポーカーフェイスであるのかもしれない。現に、「何を考えてるか分からないの」と電話越しに泣いていた女の子の声を聞いた事があるし、「ちゃんと怒ってよ」と泣きつかれたと真一郎くんが愚痴っていた夜もあった。
無表情である事がポーカーフェイスの基準とばかり思っていたので、これには目から鱗だった。
それで言うと、若狭君なんかは俺基準のポーカーフェイスのど真ん中に位置している。少し口を緩める事はあっても大笑いするのは見た事がないし、すごく穏やかな人だ。怒る姿なんて想像がつかない。
反対に真一郎くんは顔には出ないものの案外分かりやすい人だと思う。苛立っている時はタバコの吸う数が増えるし、無意識だろうが足や手先を貧乏揺すりする。俺に当たってくる訳じゃないが、会話をしても口数が少ない事もあるし、そう言う時は恐らく機嫌が良い方じゃないんだろう。
だからこそ真一郎君の爆笑に驚いたし、そして今日は機嫌が良い日なのだと思う。
帰り道、街の色んな匂いに混ざって、真一郎くんの香水の香りがした。今日は煙草の代わりに、あのラーメン屋のニンニクの匂いもする。イケメンは口がニンニク臭かったとしても問題無くモテるんだろうか。そう考えるとやるせない気持ちになって、真一郎君の広い背中にもたれかかった。
けたたましく鳴り続けるアラームではなく、鳥の囀りで目を覚ますような生活が送れたらどんなに良いだろう。生憎、俺はアラームでも囀りでもなく、がなるオッサン達の大声と、地響きのような騒音で目を覚ました。
「は……、え、ん……? こうじ……?」
重い体を引き摺りながら窓際まで行きカーテンを開けると、アパート裏の駐車場に見慣れない軽トラックが何台か停めてあるのが見える。所謂ツナギ姿の男達がしきりに資材や何かを運んでいるのを見ると、段々と寝ぼけた頭が覚醒していき、思い出すものがある。
玄関をほんの少し開けて外を確認すると合点がいった。
【改修工事のお知らせ】
「うっっそだろマジか……今日からか……」
携帯を確認すると9時を過ぎたところだった。9時から着工だったんだろう、ご苦労なこった。薄いかけ布団に全身を入れて潜ってみたが、多少のくぐもりもなく、クリアに工事の音が聞こえる。意味の無いない寝返りを3回打ったところで諦めが付いた。
ほそほそと布団から這い出て、部屋中に散らばる服の中からシワだらけのジーパンとパーカーを着て、色んな人から「浪人生みたい」と言われる厚手のコートを羽織る。最低限の身だしなみを整えた後、俺は早々に家を出た。折角の2連休だったが、2日とも家を出る事になってしまった。これは全くの計算外だ。
真一郎くんは昨日俺をアパートまで送った後、何ちゃんだか分からないが、女の子のお友達の家へと向かっていったので家には誰にもいない。玄関の鍵を閉めたことを確認して、階段をいつものようにゆっくりと降りると、表で働く工事現場の何人かに挨拶をされた。気の良さそうな人達だ。俺はその挨拶に軽く会釈をするだけで、足元の悪いひび割れたコンクリートや砂利道を足早に抜けてアパートを出た。
歳を取るたびに、段々と愛想がなくなるのが嫌だ。いつからこんなに拗らせたんだろう。
道にあった小石を履き古したスニーカーで蹴飛ばすと、勢いを無くした石はやがて側溝な落ちて見えなくなった。