ポーカーフェイス◇◇◇
「…テメノスさん、無理してませんか。」
そう声をかけたのは、旅仲間と杯を酌み交わした後。夜も更け帰路につくところに護衛を名乗り出た僕は、隣を歩く人に小さく尋ねた。
護衛など方便でしかない。この人の強さを知っている者からすればきっと笑われてしまうだろう。でも酒場でのこの人の様子がいつもと違う気がして、ついていこうと決めたのだ。
しかし、返ってきたのは素っ気ない返事だった。
表情は窺えない。返事の中の違和感はわずかで、本当に隠すのが上手い人だと思う。
大抵、こんな時は表情から何から一切を読み取らせない。旅仲間にさえ大事な感情は薄らと匂わせる程度にしか残さなかった。
酒場に面した色街を、疎らにたむろしている柄の悪い者たちの隙間を縫うように通り抜けようとした時。隣を歩く人の歩調が少しだけ鈍くなった気がした。歩幅を合わせつつ、さりげなく周囲の視線から庇うように位置取って気を配る。
無事に抜けられますようにという祈りもむなしく、一人の酔客が声を掛けてきた。半歩程前を歩くその人の肩が揺れたように、見えた。
「おお、可愛い顔してんなぁ。一晩どうだ。リーフならあるぜ。今日はたんまり儲けたからな…そこの兄ちゃんよりもいい思いさせてやるよ!」
こちらの様子を気にするでもなく、低俗な言葉を羅列する男。下世話極まりない発言に、その場で斬り捨ててやろうかと思ったが騒ぎにはしたくない。自分もこの人も心得がない訳でもない。構う時間ももったいないと、その横をすり抜けようとしたところで前を歩いていたその人にぶつかってしまった。
「すみません、お怪我は…」
声を掛けて覗き込んだ顔は、噤んでいたであろう唇が血の気を失って白い。接触したことではっとした彼は、何故かこちらを向いた。そして、不敵に笑うと首に腕を回される。
「すみませんね、あいにく今夜は朝まで埋まってまして。他をあたってください。」
酔客はお熱いねえ、なんてケラケラと笑いながらその場を去っていった。急なことで驚く反面、回された腕が震えていることに気がついてしまった。姿が見えなくなったところでもういいでしょう、とその人の腕をそっと外してまた歩き出す。
黙々と宿までの道を辿る。頭の奥で、彼の行動や感情が噛み合い始めていた。実は表に出さないだけであるんじゃないか。確信めいたものが手汗と共にじわりと浮かんでくる。
わかりづらい人だけど、感情がないわけじゃない。
あの小さく震えていた腕は、確かに怯えていたのに。
そう思うと、この人を守りたくて仕方なくなる。どろどろに甘やかして、この世のあらゆる穢れから貴方を遠ざけたい。その事ばかりが心を占めた。ふつふつと言葉が湧き、心のままに告げて。
「不快そうでした。酒場のときも、今も。」
想定よりも語気が強くなる。もともと愛らしいような瞳をくるりと丸く見開いて、僕の言葉を聴いていた。
そして、ぴたりと足が止まる。
立ち止まったまま微動だにしないものだから『また炎の中に消えたのか』なんて、的はずれな疑念を抱いたがそれは杞憂だった。
翡翠の奥底が戸惑いの色にゆらめく。
反射的に、けれどできるだけ優しく。薄い手を掬い取った。
「貴方が傷ついたんじゃないかって、心配で……気が気じゃなかった。もっと僕を、神の剣を頼ってくださいよ。」
くちづけはしない。振りだけだ。けれど吐息がかかるほど近くに、彼のすらりとした指を寄せる。
少し屈んで瞼を伏せると、小指の先がぴくんと跳ねた。ひんやりとした指先にじわじわと微熱がともっていくのを感じる。
「きみ……ちょっと酔いすぎですよ。」
「一滴も飲んでません。」
逃げたそうに引かれた手を、咄嗟に手繰り寄せた。
今、どんな表情をしているのだろうか。
気になって薄目を開けると、視界に飛び込んできたのはポーカーフェイスの罅が深くなって、割れた瞬間。
「ああもう、なんで気づいちゃうんですか。ずっとずっと、隠してきたのに。なのにきみは……っ」
初めて見たこの人の素顔。顔立ちもあいまって幼さすらある。
ようやく見られた素顔は、苦しみと悲しみとが折り重なって傷だらけだった。まるで自分事のように痛んだ胸がぎりぎりと締めつけられる。
思わず寄せてしまった眉根をすこしだけひらいて微笑んでみせた。
「守らせてください、貴方の笑顔を。」
色素の薄い睫毛に弾かれた雫がこぼれおちる。耳から頬からうなじから、今までの表情が嘘みたいに燃えていく。これがこの人の素顔。仮面の下に隠されたありのままの貴方。
ずっと、ずっと守ります。
どうか苦しみを隠さないで、僕だけには。
END