吸血鬼と鮫の人魚④ 攫われて目が覚めて、ぐちゃぐちゃになった俺の頭に残ったのは、このクソ砂の思い通りにはなりたくない!という想いだった。でも唯一の武器である暴力は通じないし、逃げ場もなく勝ち目もないこの状況で、無駄な足掻きは吸血鬼には逆効果だ。ならばアイツの望む、俺が楽しいと思うことを絶対にやらない!これしかないと思った。でも、実は決意したと同時に行き詰まっていた。
そもそも俺には楽しいことが何かわからない。それが「吸血鬼」であったのは先日のあの一瞬だけだ。今は逆に俺を悩ませる害悪でしかない。そうか、楽しいをしないってのは楽しくないをすればいいんだよな、なら目下俺の楽しくないはこの吸血鬼だ。クソ砂のしたいことを全部やれば、それは俺の楽しくないになるじゃねぇか!あれ、なんかおかしい?もういいや考えるの疲れた。アイツが俺に飽きるまで付き合ってやればいい。例え終わりが死だとしても、それはそれだ。
楽しんでいると思われない為に、基本無気力かつ無関心な感じを装った。海での立ち振舞を思い出せばそんなに苦じゃない。でも、ここには初めてがいっぱいで、感情が抑えられないことがすぐ起きた。
人間の作る食べ物、料理。知識はあったけど、実物を見るのも食べたのも初めてだった。水槽から顔を出した瞬間に嗅いだことのない匂いの虜になってしまい、盛大にお腹が鳴って恥ずかしかったことも忘れて、一口分を差し出されればもう我慢できなかった。温かいのも複雑な味も全部初めてなのに美味しいと脳が叫ぶ。涙まで溢れてきて、こんなの無関心を装うなんて無理な話だ。
ドラルクが真逆のことを口走るからすぐに否定して、素直な思いを伝えてみたら、何故かドラルクまで泣きそうな顔になった。この吸血鬼はクソ雑魚のくせにいつも自信に満ちていて、常に楽しそうに振る舞い何を考えているのかわからなかったから、今初めて感情が見えた気がする。この顔は、嬉しいんだなとわかった。
でも、なんで嬉しいのかはよくわからなかった。自分で食べないのに料理をして、俺に食べさせて何の得があるんだ?あ、餌を与え育てて利益を得る養殖が近い気がする。
「そうか、上質な餌を与えて俺の肉を旨くしてから食べるってことか!」
「えっ?何でそういう発想になるの、食べないよ!」
ぎょっとされたけど、俺にこんな美味しいものを与える理由なんてそれくらいしか思いつかない。腑に落ちない顔をすれば何度と何度も否定してくる。何度言われたってわからないから俺は無視して料理をたいらげた。
「お粗末様」
空になった皿を見て、俺の口元を布で拭いながらドラルクが言った。
「え?うそ、俺、何か粗末にした?」
粗末ってよくない意味だろ、美味しいものを食べさせてもらったのに、なにか間違っていたのだろうか。俺の不安そうな顔を見て、ドラルクが慌てて否定する。
「違う違う、これは食べてくれてありがとうっていう意味だよ。粗末ってのは大したものじゃないけどってことだから、君が悪いことをしたわけじゃないよ。」
「大したもの、じゃない?なんでそんなこと言うんだよ。あ、俺が何も知らなすぎるだけか、餌だもんな。」
なんだか悲しい気持ちになったけど、なにが悲しいのかはよくわからなかった。
「待って待って!そうじゃない、この料理は君のために腕によりをかけて、美味しいと言ってもらいたくて作ったものだ、餌なんて悲しいこと言わないで。」
え、俺が悲しいことを言ったのか?
「お粗末様っていうのは料理を提供した側の挨拶だから、私も君も何も粗末にしてないよ。」
挨拶と聞いてはっとした。そうだ、食べるときの挨拶、食事はずっと一人でしていたから忘れていた。
「ご、御馳走様!」
突然叫んだから、ドラルクは驚いて砂になってしまった。え、驚いただけで?大丈夫かなコイツ。
「突然でビックリしちゃった、ありがとう。」
一瞬で元通りになって、微笑まれた。この顔は目を覚ました時にもしていたけど、あの時は目が笑っていない気がして怖かった。でも今は、あったかく感じた。
「食べられなかったらと思って一品だけにしたけど大丈夫そうだし、デザートも持ってくるね、ちょっと待っててね。」
心底楽しそうに、ドラルクは食器を持って足早に階段を降りていった。食事は生きるのに必要だし、表に出てしまう感情は美味しい料理への誠意だ。別に楽しんでるわけじゃないからこれはいいんだと自分に言い聞かせた。
ドラルクが去って訪れた静寂に一息つく。ここに連れて来られてから初めて心と身体が落ち着いた気がする。何もない時間を過ごすのは苦じゃない、むしろそれが日常だったから安心感さえある。時折起こる変化を潰して、世界を変えない為に生きてきた。ここは変化がありすぎて消耗が激しい。何日か食べなくたって平気な身体だから、お腹が鳴ったのも、空腹を満たす幸せを実感したのも初めてだった。
ドラルクは自分では食べないのに料理を作る。俺のために作られる料理、口に入れたことのないものばかりで、俺が全部食べられるかなんてわからない。せっかく作ってくれた料理なのに、食べられないものがあったらどうしよう。
どうしよう?どうするんだ?もうずっと初めてなことばかりだったけど、これが一番削られた。変わらない、変えないことが俺の役割だ。こんな気持ち悪いのは知らない。ここには俺が守るべき「不変」はなく、俺の存在理由がない。たくさんの初めてに目が眩んで、こんな当たり前のこともわかってなかった。
これが不安なのだと理解した、でもこんな想いとても耐えられない。涙が溢れて力が抜け、俺の身体はゆっくりと水槽の底へと沈んでいった。月明かりが揺れる水面がだんだん暗くなり、ぶつりと何かが断たれる音がした。
俺は「不変」を司る人魚。今まで海の環境保持にのみ力を注いでいたけれど、どうやら自分自身にも力を使えたらしい。俺の心は、ここに来てからドラルクによって与えられ変化をリセットした。