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    aaaaa_oshi

    おウマさんのみ。🗾🔕が9割。

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    aaaaa_oshi

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    毎日記憶がリセットされても尚、私の事を忘れないでいてくれた彼女を、お揃いのキーホルダーの鈴が消し去った。まるで海へと沈めるかのように。

    さようなら、さようなら。

    行かないでと嘆くことは貴女の為にはならないと思ったから、声には出さないことにした。

    ※この小説には特殊表現が含まれます。
    ※幸せな🗾🔕がいない。
    ※何か問題があれば削除致します。
    感想等貰えたら嬉しいです🙏

    初めましてをもう一度。何も知らない私を彼女が抱きしめた。もう少しでもう一人を犠牲者にしようとしていた踏み切りには、既に電車が線路沿いに勢いよく通っていた。

    夏がそろそろ終わる。そんな呑気な事を考えれてしまうほどには、私は生きることに執着はしていなかった。
    こうして抱きしめてもらっても尚、記憶は溢れていくのに。こうして彼女の体温を、声を貰っても尚、それは溢れ落ちていくのに。

    分からなかった。彼処からどう打開したらいいか。まず「死ぬ」ということまで考えられなかったから。
    あのまま放置していたら私は消えていた。この夏から、消えていた。そこを彼女は私の為に命を懸けた。
    どうしてだろう。分からない。涙すら出ないのだ、憶えていないから。

    ────恋人だから?

    ……嗚呼、違う。
    彼女の背中に手を回した。抱きついた訳では無い、抱き返した。あの頃のように。
    私は決定的な勘違いをしていたみたいだった。

    ありがとうございます。その一言で全て伝わるかは理解することが今の私には難しいが許して欲しい。
    大好きだ。貴女が大好き。愛してる。ありがとう。
    今こうして、たったミリ単位の記憶を追憶したところでまた消えていってしまうけれど、それでも嬉しかった。
    この温もりが、この記憶が、どこかへ行かないように。大切に空っぽな胸に閉じこめる。

    涙が、自然と溢れていた。











    初めましてをもう一度。















    炎天下が隠れて、空が暗くなってきた頃。蝉達の声は落ち着いてきて、騒音があまり聞こえなくなった。

    つまらない白の壁に囲まれて配置された一つのベッド。その上に腰をかけて、 お気に入りの小説を静かに見つめているのは、たった一人の、私の大切な恋人。

    「スズカさん、これ…なんて読むんでしたっけ…?」

    彼女はそう私に声を掛けると、こてんと小さく首を傾げ、小説内の縦書きされた文字を指さす。

    「失念、かしら…。そのまま読むのよ。」
    「…しつ、ねん。」
    「ええと…うっかり忘れること、とか、そう言う意味だったと思うわ。」
    「なるほど!ありがとうございます!やっぱりスズカさんは天才ですねっ!」
    「ふふ、そんな…天才なんかじゃないわ。でも、ありがとう…。」
    「いえいえ!事実を言っただけですよ。」

    ふるりと首を振った後に、彼女の柔らかく温かい手がコップに触れる。そのコップの中に入っていた氷は、水と体温によって体積を減らし、からりと涼しい音を鳴らした。

    夏はまだまだ終わらない。少し冬が恋しいけれど、夏休みがある。
    夏休みなら、より彼女とお話することが出来る。そうポジティブに捉えれば、暑く騒がしい夏も好きだなと思えたり。

    そんなことを考えている私の目の前で、喉の乾きを潤している彼女を見つめた。
    綺麗で可愛い顔をしているなと思う。どうしたらこんなに可愛くなるのだろうか。

    「スズカさん、大好きです。」
    「…、ふふ、私も大好き。」

    柔らかな笑みを無邪気に此方へ見せてくるから、そこに私も笑みを乗せる。そして彼女の髪を優しく撫でるのだ。
    その行為に特に意味なんてない。これが通常運転なのだから。

    ふわっとした会話で時を流していれば、時計は面会時間がそろそろ終わるぞと私に伝えるかのように音をカチカチと鳴らした。

    「そろそろ、時間ね…。」
    「…!ほ、ほんとですね…あっという間です…。」
    「ふふ、そんなに落ち込まないで…?また明日も来るから。」

    しょんぼりと頭を下げている彼女の頬に手を添えると、桃色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
    すればころりと顔は変わって、今度は先程のような満面の笑みに。

    「明日…。待ってますね。絶対絶対、来てくださいねっ!…あ、でも…体調が悪くなっちゃったら、無理しないでくださいね…。」
    「大丈夫よ。規則正しい生活はしているし…スペちゃんのこと考えたら、元気になってきちゃうもの。」
    「ほ、本当ですか!?えへへ…嬉しいです!」
    「本当よ。…それじゃあ、また来るから。ゆっくり休んでいてね。」
    「はい!えへへへ…また、また明日!」
    「ええ、また明日…」

    荷物が入った鞄を大切に手に持って、小さく手を振る。

    また、明日。

    頭にその言葉がリフレインする。

    …また、明日、ね。

    ほんの少しだけ空いた窓から、鴉の声をするのを聞いて、扉を閉めた。















    走り込み等の最低限のトレーニングを終えて、一言声をかける。

    「そろそろ、帰りますね。」

    「おうよ!スズカ帰るってよ〜!まったな〜!ゴッゴゴッゴゴッゴゴッゴゴッゴゴールシ〜、
    ゴルシ〜ゴルシ〜…
    っておいおいマックちゃん!そりゃないぜ〜…!まさかゴルシ星を乗っ取る気か〜!?」

    「先程からうるさいですわゴールドシップ!…スズカさん、お気をつけてお帰りくださいまし。」
    「えーーー!?スズカもう帰っちゃうの〜!?後でまた併走しようと思ってたのに〜っ!」
    「ふふ、それはまた明日ね。それじゃあ、またね。明日もまた走りましょう。」

    ある程度の準備を終えて病院へと歩き出す。
    居残りはしない。彼女と話すために。

    居残りをしても、彼女と一緒に出来る訳でもないし…、居なくても出来るけれど、もう慣れてしまったから、なんだか退屈になってしまうのだ。

    今日も昨日と変わらない、蝉がうるさく暑い日だった。
    日傘を差している人を少し見かけるくらいには。
    …ほんの少しだけ喉が渇いた。脱水症にならないように、後で水でも飲もうかなと、頭の隅には入れておく。
    今は何をしているんだろう。本でも読んでるのかな。外の景色でも眺めているのかな。


    なんて事をぼんやりと考えていれば病院は目の前に。何気に近いものなのだ。私達からしたら。
    センサーを察知して勝手に開く自動ドアを通り、ナースステーションでいつものように声を掛けて、彼女が待っている病室へと向かった。









    「スペちゃん、入るわね。」

    コンコンコン、三回ノックをして扉を開く。
    一番最初に見えたのは、昨日の本を手に、あまり開いていない窓から硝子越しに快晴を見つめる彼女。

    「…!あ、スズカさん!?来てくれたんですね!ここ、ここ座ってくださーい!」

    私の存在に気付けば、隣にある椅子を、ここに来て、ここに来て、とぽんぽんと叩く。その誘いに乗って彼女の隣に足を運び、その椅子に体重を預けた。

    「ふふ、今日もスペちゃんは元気ね…」
    「はいっ!今日も元気百倍スペシャルウィークです!」

    自分の胸をグイッと叩いて元気よく頷くものだから、やっぱりいつも通り元気なんだなぁ、と呑気に思考する。
    正直、彼女自身が元気でいてくれるのならそれで良かった。

    「スペちゃん、林檎…食べる?」
    「..!食べたいです!えへへ…あ、そうだ!スズカさん!…えっと、教えて欲しいものがありまして〜…」
    「…?どうしたの?」

    袋から真っ赤な林檎を取り出す。この時の為に、林檎の皮むきを猛特訓したのだ。まだ少し形が悪かったりすることもあるけれど、最初よりかはかなり良くなった。

    「…これ、なんて読むんですか?」

    …昨日と同じ小説。昨日と同じページ。指されたのは昨日と同じ漢字。

    嗚呼。

    林檎を持つ力をほんの少しだけ強める。…ほんの少しだけだけ。

    スペちゃんは…、スペシャルウィークは、治療法が見つかっていない、難病にかかっている事が約七ヶ月前に判明したのだ。

    何かがおかしいと医師に相談してからは流れは早かった。
    この病は治療法が見つかっていない、難病だと一番最初に宣告されたのだ。
    内容は嫌な程に単純で、一日一度記憶がリセットされてしまうというものだった。
    それを聞いた彼女に、いつもの笑顔を作ることは不可能だった。













    医師は言った。

    「この病にかかった患者はたった一つの大切なもののみ、憶えていられることができる」

    と。
    それが私だった。でも喜ぶことなんて出来なくて、ただただ彼女に付き添うことしか出来なかった。

    その中、彼女はこう言った。

    「またレースに戻ることは出来ますか、」

    すれば医師は冷静に告げた。

    「走り方を忘れてしまうでしょうね。」

    「このまま症状が進むようならきっと復帰は不可能です。」

    と。

    絶対に治してみせると彼女は無理に笑みを私に見せたが、治ることなんてなく、症状はみるみるうちに悪化して行った。

    そのうちシリウスの仲間ですら忘れてしまったのだ。彼女自身も憶えていないと、申し訳ないと頭を下げたが、仲間達は大丈夫だと頭を撫でて笑った。
    また思い出せばいいと。

    それでも思い出すことは無かった。

    何もかもが、彼女を作っていたものがぽろぽろと崩れていった。
    世間には出していないが、彼女の引退が視野に入っていた。
    トレーニングを何ヶ月も出来ていない上、症状も酷くなっていくばかりだから。

    それに何より、彼女自身がもう夢を定義出来なくなっていた。

    “日本一のウマ娘”自体を達成してはいた。今度は“皆に夢を見せられるようなウマ娘”を目指していた筈なのに、それを彼女自身がわからなくなってしまっていたのだ。




    それでも彼女は気にせず笑っていた。





    なにも憶えていないから。










    「スズカさん、昨日言っていた予定って、」

    「スズカさん、昨日のトレーニングって、」

    「スズカさん、スズカさん、」




    「思い出せない、です、」




    彼女がそう言うようになったのは一月の最初…年が明けた頃だった。
    皆が少し不安になった頃、最初は物忘れだと彼女が済ませていたが、彼女が帰り道を忘れたことが病院へ通う…否、入院をするきっかけとなった。

    彼女自身、皆が勝手に寄ってくるようなお人好しで、色んな人から信頼を集めていた為、お見舞いにくる人数はかなり多かった。

    それでも憶えていない人ばかりだったらしく、

    「病室間違えてますよ!」

    と殆どに言ってしまったと聞いた。次の日には本人が忘れてしまっていたけれど。

    そこにはちみー好きの少女が来たが、先程のものと同じようなことを言われてしまったらしい。
    笑顔で済ましていたらしいが、私と話す時、少し青い顔でこう言うのだ。

    「ごめん。」
    「力になってあげられなくて、ごめん。」

    絡みが多かった分、忘れられてしまってショックだったこと、でもそれは彼女が悪いことではないこと。
    何かこの病から抜け出せる方法を一緒に見つけ出せない無力さを私に伝え、必死に謝罪してきた。何も悪くないのに。

    この病は、色んな人を傷つけるんだ。

    そう思った。

    それでも、治せる方法なんてなかった。処方された、大して効果も無い薬を飲ませる以外に方法が。



















    林檎の皮むきを終えて、食べやすいように小さくする為、丸く形を作っているそれを等分する。
    隣でぺら、とページを捲っていた彼女の指が止まった。

    「スズカさん、」

    林檎を八等分にし終わった瞬間に、聞き慣れた声が名前を呼ぶ。
    そのタイミングに被せるかのように、空いた窓からどこかの家の風鈴の音がからん、からん、と聞こえてきた。

    「私、退院することになりました。」
    「……え、」

    自然と声が出ていた。症状は良くなっていないのに。どうして、

    「症状は悪化し続けてます。…、もう昨日の出来事すらも思い出せません。
    でも、言われたんです。このままここに居てもただ寂しいだけでしょうって!なので、また帰れます。……その、一緒に寝ていた寮?に!」

    変わらず彼女の笑みは途絶えることなんてなかった。なかなかに哀しいことを言っているのにも関わらず。
    けれど退院出来たのは良かったことなのかも。外の景色を見たら何か思い出せることが増えるかもしれないから。




    「…それで、お願いがあるんですけど!」
















    「と〜り〜あえず 今日は ! 薔薇の 花に 〜 」

    「今日は日が落ちる頃に会えるの〜…? 」

    「ここには誰もいない ええそうね 〜 」

    「笑いあって さよなら 。」

    「幸せなはずの結末を 〜 !」

    「おひさま ぱっぱか 快晴レース!」




    「スズカさん、私ジュース取ってきますね!」
    「私も、一緒に行くわ。…ねぇ、歌うの、本当に私だけでいいの…?」
    「はい!…その、私歌詞おぼえられませんし!スズカさんの歌声聞いてるだけでとっても楽しいんです!」

    彼女のお願いは退院したすぐ後、歌って欲しいという内容だった。ウイニングライブの私の歌声を憶えていないから、もう一度聴きたいと言うのだ。



    『えっと、ういにんぐらいぶのスズカさんの歌声、憶えていなくて、』
    『…あの、歌えるところ…ええと…あ、からおけ!カラオケで歌って欲しいです!一時間だけでいいので!』

    約束は約束だからとカラオケ屋に連れて行って歌うが、彼女は全く歌う気配がない。
    何も憶えていないから。
    それでも私の声を忘れないようにとスマートフォンで録画をしていた。いつでも追憶ができるように。それでも「スマホの使い方忘れたら終わりですね!」なんて言うから、背筋がふるりと謎に震えた。

    「スズカさん!何飲みます?」
    「…ええと、カルピスウォーターでお願いするわ。」
    「はい!分かりました!」

    私の事は、忘れないで欲しい、なんて言えるわけないのに。













    「ただいまです!病院以外のベッド…!」

    寮の部屋の扉を彼女が開けるのを見るのは久々だった。やっと戻ってきてくれたんだなと思うと少し感動する。…きっと、「戻ってきた」という感覚ではないと思うけれど。

    「ふー!疲れましたぁ…」

    ぱたり、と横になる彼女にふふ、と肩を揺らせばそれと比例するかのように彼女の耳がぴこぴこと揺れた。
    この前のように優しく頭を撫でる。おかえりという意味も込めて。

    何も覚えてはいないけれど、スペシャルウィークという存在がここに帰ってきた、ここにあるのは間違いない。たとえそれが本人の心じゃなかったとしても、ここにあるのは変わりない。誰かに伝わらなくてもいい。私がわかっていればいい事だった。

    「スズカさん、好きです。」
    「……えぇ、私も好きよ。」

    何度も紡がれたはずの会話。けれどそれは今の彼女からしたら、初めてなのかもしれない。私は何度目かも分からないのに。不思議だなと呑気にも思う。何か現実から逃れようとするためだ。

    「スズカさん、」

    名前を呼ばれて手を広げられるので、それを断ることもなく素直に正面から彼女の布団へと身体を持ち寄った。
    久々に感じる彼女の体温。ここに、いる。彼女はきちんとここに存在する。

    自分の中でそう自答しておかなければ、私まで忘れてしまいそうな気がして。
    ほんの少しだけ怖いのだ。でもきっと、毎日記憶を失ってしまうと自覚をしている彼女の方が何十倍も辛いだろうし、もっともっと怖いはずだ。

    「スペちゃん、」
    「…スズカさん、…すき。忘れない、忘れたくないです。」

    電気はついていない。つける意味がなかったから。…でも、カーテンは全て閉じきっていた。そのせいか薄暗い。
    その中、何かを求めて私の背中に触れてくる者がいる。……彼女だ。

    どこか、その行為に急いでいるような、そんなに雰囲気が出てくる。

    「…私、も、…だけど、なんでそんなに急いで、」
    「追憶。」
    「…、。」
    「また、この場所で触れたら…記憶が戻ってきてくれるかもしれないからです。
    それに、スズカさんを求めたいから。」

    薄暗い部屋の中で、一つ寂しくそう呟いていた。既に死んだ彼女の中の記憶は蘇ることはきっとゼロに近い。
    …それでも、それでも受け入れたい。追憶をしたいのならすればいい。私を求めたいのなら求めればいい。

    「…やり方は、覚えてるの。」
    「さっきスマホで調べました。」

    ベッドに二人して沈んでいく。
    溺れて、何も考えられないほどに沈む。相手を必死に求め合って。忘れないように。何かを探るかのように。

    このまま二人永遠に眠っていられたら、なんて。













    目を覚ますと横には彼女がいた。まだ午後の七時頃だった。何気に時間が過ぎるのも遅いな、なんて思ったり。

    「起きました?」
    「うん…全然日付変わってなかったのね…」
    「ふふん、まだ覚えてますし。…、でも、そうですねぇ…」

    毛布から脱出した彼女が椅子へと腰をかけた。
    変わらず電気はついていなかったが、カーテンは全開になっていた。
    かなり暗いが、彼女の様子くらいはすぐに把握出来る程度には夕日が此方を覗いていた。流石夏だ。

    「…明日の私に、あとは任せるかなぁ、なんて。…一日ごとにリセットってことは、その日の私死ぬってこととあんまり変わらないじゃないですか。」
    「そう思うと、なんだか哀しいなぁって。今日の記憶はあるのに、スズカさんのことを好きだと心の底から思っているのに、明日の私に奪われちゃうなんて。」
    「ふふ、おかしなことだとおもいません?」

    ころん、ころん。彼女の瞳の中の光がくるくる回る。
    …今日の彼女に、今生きている彼女に、プレゼントを与えることにした。

    「スペちゃん、これ。」

    肌蹴た服を整えて袋からとあるものを取り出す。
    お揃いのキーホルダーだった。親指ほどのサイズのガラス玉の中に、海の小さなジオラマが詰め込まれているものだ。
    そこに鈴が着いている。商品説明によれば、どうやら特別な鈴らしい。

    「…いいんですか、今の私に渡して、」
    「えぇ、今、スペちゃんに渡したいの。」

    静かな部屋にからりと鈴が音を奏でる。すれば彼女の手がキーホルダーに触れた。いつもの笑みは何処かへ、今は何処か哀しいような、寂しいような色が此方を覗いた。

    「ありがとうございます…ふふ、スマホのカバーに付けられるところがあるので…つけますね。」
    「お揃い、だから…ふふ、その…ね?このキーホルダー、ずっと一緒にいられるって意味が込められているの。だから…」

    窓の隙間から風が入ってくる。彼女の長すぎない髪が控えめにゆらり、と揺れた。何かに気付くかのように。

    「えへへ…!じゃあ、ずっとずっと…一緒にいられますね…。スズカさんセンスいい…!大好きですっ!」
    「……ふふ、そんなことないわ。店員さんが教えてくれたの。
    私もすき。だいすきよ…ずっと。」

    ほんの少し照れくさいけれど、その言葉に応える。
    何かを掬うかのように。どこかへ溢れ落ちないように、両手を差し伸べた。


    ずっと共に、貴女と居られたら。



















    『今いる場所が分かりません。迷っちゃったかもです。』

    そんなメールが送られてきたのは、もう少しで夏が秋へ攫われる頃だった。

    暇だったので散歩をしていたら道に迷ってしまっただなんて、この病を抱える前からそうだったような気がする。 方向音痴なのも機械音痴なのも、全部全部前から変わらない。

    そして、必ず連絡してくる。「迷っちゃいました!」と、猫や犬の絵文字を付けて必ず送ってくるのだ。

    彼女がこの病にかかる前、私達が初めて出会った時と全く変わらない。
    時間が止まったかのような感覚だったのに、気付いた頃にはページはあっという間に捲られてしまっていて、
    もう、あの頃へは戻れなくなってしまっていて。

    『植物みたいなのがあって、近くに椅子があるんですけど、何処でしょう此処、、。』

    『すぐ迎えに行くから、そこにじっとしていてね。』

    今は一人弱音を吐いている暇もない。

    大体場所の目星もついている。考え事を何処かへと洗い流し、外着へと着替えて外へ飛び出した。数が減ってきた蝉の声を無視して空からの光が雲に隠れた下、世界に迷った彼女を探しに走り出す。

    …もう一度、先程のメールを確認する。
    猫や犬の絵文字は、もうついていなかった。












    「スペちゃん、」
    「…!スズカさん!よ、良かったです…!はぁあ…すぐ迷っちゃうの、どうにかしたいなぁ…」

    予想通り白いベンチに腰掛けている彼女がいた。キーホルダーがついたスマートフォンを大切に抱えて。
    此処はよく来た場所だ。…毎回、彼女は此処で迷子になるのだ。ここは道が少し複雑だから、分かりにくいと言っていた。

    きっともう憶えてはいないのだろうけど。

    「…スマホ、使い方分かったの…?」

    それが不思議だった。毎日記憶を失くしているのにも関わらず、彼女はスマートフォンを使えているのだ。
    最初はあんなにも慣れていなかったのに、どうしてだろうか。

    「大丈夫ですっ!このマニュアルに書いてあるのでっ!」

    そう言えば柔らかい手でただのノートを取り出した。どうやら、スマートフォンの使い方や今の状況などを記録しているらしい。

    …書いているところなんて見たことないけれど。

    「スズカさん、帰りましょっ!!」
    「えぇ、そうね。」

    ベンチから彼女の繊細な手を取り返す。

    ────私が道を覚えていればいい。そうしたら、彼女は帰ることが出来る。

    「スズカさんスズカさん、」
    「どうしたの…?」
    「お出かけしたいですっ!ふたりで!」
    「スペちゃんは…二人でどこに行きたいの?」
    「うぅ〜んと、合宿に行っていた海に行きたいです!」

    バチッ、と頭が殴られたような衝撃が走る。何故、合宿のことを覚えていたんだろう。
    返事をしない訳にも行かなくて、急いで口を開く。

    「…ふふ、行きましょうか。夏の内に。」

    …どういうことなんだろう。この子は一体何を考えているんだろう。

    それが兎に角分からなかった。



















    『スズカさん、迷っちゃいました。』

    『帰り方が分かりません』

    『スズカさん、ここどこでしたっけ』

    彼女が道に迷う頻度が高くなった。毎回あのベンチで迷ってしまうのだ。「迷った」と毎回毎回連絡を送ってくるが、一度だけ、「迷った」ではなく、「分からない」と送られてきたことがあった。
    何か理由があって来た筈なのに、帰り方もその理由も分からなくなってしまったと言うのだ。

    完全に、症状が悪化していた。
    本人は触れていなかったが、忘れることの範囲も広くなってきた。

    ……どうして、彼女の病は治らないのだろうか。
    ただただそう思ったのは、もう夏が残り少ない、暑苦しい気温が段々と過ごしやすくなってきた頃だった。










    「スズカさん、」

    枕に埋まっていた顔が此方を向いた。ほんの少しだけ、眠たそうに瞳が潤んでいる。
    然しそれは最近はあまり見れていなかった真剣な瞳だった。真っ直ぐ、一つのものだけを見つめるような、そんな瞳。

    「明日、行きましょ。海。」

    何かと思えば、この前出た話題だった。合宿で行っていた海に行きたいと本人が言っていたのだ。まさか、憶えていたなんて。
    本気にはしていたが、彼女がもう一度行きたいと言わない限り話題には出さないつもりだった。行きたい時に行かないと意味が無いからだ。無理矢理連れて行ってもつまらないだろう。

    「…明日…?」
    「トレーナーさん達にもお願いしてきましたから。」
    「…分かった。ふふ、二人で?」
    「はいっ!ふたりで、です!」

    元気よく彼女が頷いた。それと同時に、彼女が暖かい毛布から出てきて、私の身体に体重を預けるかのように抱きついた。

    後日、メールを確認するとチームの皆から『楽しんできて!』と来ていて、私達は何て優しい仲間を持ったんだと、一人で感動していたのは内緒である。


















    泊まるわけではなかったから、海に着いてからの流れは早かった。大荷物を持っている訳でもないし、ただ海を観光するだけだと思っていたからだ。

    久々に見る海は、あのキーホルダーの中よりも物凄く広くて、この上を走って行けたらななんてありえないことを考えられる程には綺麗だった。
    海の近くに踏み切りがあって、電車が通るのを見れるのも何気に気に入っていた。
    音は大きいけれど、なんだか静かな田舎に来れたかのような安心感があったからだ。

    …やっぱり、素敵な景色は好きだ。この近くを走れたらどれだけ楽しいんだろう、と一人わくわくしてしまう。
    でも、景色が変わらなくても、彼女は変わっている。それがなんとも寂しくて哀しくて。
    また戻ってきてくれたら、あの頃に戻れるのかな。
    あの夏に、戻れたのなら。彼女の記憶が戻ってきてくれたのなら、この病の治療法が見つかっていたのなら、この病がこんなに重くなかったら。

    一人考え事をしていると、隣にいた彼女は此方を見つめてこういうのだ。

    「海、足だけでもいいから入りましょうよ!」

    「え、は、入るの?」

    そう声を返した頃頃には荷物は端の方に置かれていて、靴が無理矢理にも脱がされていた。
    手をグイッと引かれて綺麗な海が近付く。やっぱり、元気なところは変わらないな。彼女は変わらない。ちゃんと、私の大好きな────

    びちゃ、と水の音が鳴る。膝下までが海水に浸かった。
    夏合宿に今年は来れていなかった為、こうして海水に触れるのは一年ぶりだ。…きっと去年の今頃は、彼女とトレーニングでもしているだろう。

    「えへへ…スズカさん、冷たくて気持ちいいですね!」
    「…そう、ね。ふふ、冷たい…」

    冷たい、脚を飲み込んでいる水面は二つの影を映した。その影はどこか楽しそうで、思わず気分が高まって笑みが溢れてしまうほど。

    もう一度、水面を見つめる。水面の空も、世界の天井にある空も、圧倒的快晴だった。
    遠くにある雲が此方を向いている。真っ白な顔で、ずっとこっちを眺めてくるのだ。
    それを見ていれば、いつの間にか小さな波が此方へ走ってくる。
    ばしゃ、と音が鳴り響くと、スカートの裾がほんの少しだけ海水に濡れた。

    「わッ!?…ぬ、濡れちゃいましたね…。」
    「そうね…でも少しだし、きっとすぐ乾くわ。…走って乾かして来ようかしら…。」
    「それ寒くないですか!?」

    なんて平和な会話を彼女と紡いで、数十分程無邪気な子供のように遊んだ。水を掛けたりするだけの、ただの遊び。
    それだけでも楽しくて仕方なくて、こうやって彼女と二人きりで遊ぶことがどんなに幸せか、思い知らされた。

    暫くして海水から脱出すると、鞄に入っていたタオルで足を拭く。未だ楽しそうに笑顔の絶えない彼女を見ながら、此方も微笑んで。

    靴を履いて荷物を持てば、次は「お買い物にいきたいですっ!」なんて今まで以上に幸せそうに言い出してくるものだから、近くのお土産屋等を周わりに今度は走り出した。
    買い物なんて滅多にしないけれど、今日は特別楽しめた。なんだか夢の中のような気持ちだ。だってこんなに幸せな事なんて走ることくらいだと思っていたのに。

    そろそろ帰ろうと何方かが声を掛けて、手を繋いで駅へと戻る。
    途中、綺麗な花畑を見つけて夢中で二人で眺めた。夏の花が沢山という言葉では表せないほどに咲き誇っていた。
    いつの間にか手は離れていて、
    カンカンカンカン、電車がそろそろ来るぞという警告をする音が近くから鳴り始めた。
    赤い小さな光が点滅をする。何か不安を煽るかのように。

    「…あれ、」

    嫌な予感がした。傍にいた影が居なくなっていた。
    震える身体を振り向かせる、
    踏み切りの中に、影…、彼女がいた。分からない顔をして、これから何が始まるのかを理解していない瞳をして。

    「スペ、ちゃ、!…そこから出て…!」

    既に踏み切りから人を助けるはずの柵は下がっている。
    そんな状況でも、紫掛かった影は首を傾げる。何も知らないから。
    動かない、影はそこから動かない。…電車はあと数十秒後にここを通る。その数個の把握だけで、この後の展開なんて死ぬ程に理解出来た。


    ───駄目だ、夏が、彼女を攫おうとしている。

    気付けば身体が動いていた。いかせまいと、海の向こうへ流させないと。勇気を出すこと自体を忘れ、踏み切りへと飛び出した。
    何も知らない彼女の手を取った。何からも連れ去られないために。踏み切りの中から連れ出す。
    全身から暑さとは違う理由で汗が吹き出していた。怖いからでは無い。
    身体は震えていた。先程以上に。それでも怖いからでは無い。
    彼女を失うのがそれ以上に嫌だったのだ。私の傍にいて欲しかったのだ。

    後ろでは人を簡単に吹き飛ばしてしまうであろう速度の電車が横に流れていた。線路を伝って。
    少しでも遅れていたら…とでも思ってしまえば心臓の音は更にうるさくなった。

    「スズカさん、」
    「……な、に。」
    「…ありがとうございます。…私、分からなくて、」
    「彼処からどうしていいか、分からなかったんです。あの音の意味も分からなくて。…スズカさんが守ってくれなかったら、私、」

    離れないように彼女を抱きしめる。もう何処へも行かないように。もう二度と迷子になってしまわぬように。
    帰らぬ人となってしまわぬように。

    うるさい心臓を胸に、彼女の背中を優しく撫でた。

    彼女は泣いていた。

    何かを思い出したから。













    寮について数時間が時計と世界の中で過ぎていた。

    もう少しで門限なのにも関わらず、部屋の中に彼女は居なかった。
    きっと近くの花壇で花を眺めているんだろう。その様子を見に階段を降りて、寮の外へ歩き出した。
    人を照らすそこらの光を無視しながら、彼女の元へ向かう。
    やはり、夜の中一人花壇を見つめているのは彼女だった。

    「スペちゃん、」

    声を掛けると彼女の背中はぴくり、と跳ねた。何かに気づくかのように。
    隣に並んで花壇を見下ろす。然し特別変わったもの等はなく、何故ここで今、彼女が花を眺めているのかが分からなかった。理由はないのかもしれないが。

    「スズカさん…どうしたんですか?」
    「…何か、面白い花はあった…?」
    「面白い花…ええと、…、。…そういうのはなくて、ただ眺めて時間が過ぎていくのを待っているだけ、というか。」
    「そう…?…、中、戻らないの?」
    「そろそろ戻ろうかなって思ってます!…スズカさんは、帰らないんですか。」
    「えぇ、スペちゃんと一緒にいたい。」

    こんなことを自分から言うことはなかったけれど、ただ伝えたくなって素直に口に出す。
    すれば彼女は驚いたかのように此方を向いて、少し経った後に柔らかい笑みを浮かべた。

    「…スズカさん、」
    「どうしたの、」

    「スズカさんは、私をどう思ってますか、」

    「…大切な人、だと思ってるわ。…恋人だから、というのもあるけれど…この関係になっていなくても、きっと私の大切な存在だったと思う…けど、スペちゃんは?」

    「えへへ…ありがとうございます。私、は……うぅん、私も、同じです。…こうして隣に居てくれるの、とっても嬉しくて…だいすきです。」

    暑い夏でも関わらず、ぎゅう、と抱きついてくる彼女を受け止めた。
    笑っているはずなのに、何処か切なそうで。無闇に触れたら壊れてしまいそうな瞳をしていて。
    とにかく受け止めなければいけないと思った。最期まで、彼女の隣にいなければと思った。

    「スズカさん、私…もう、何も憶えられなくなってきていて。…ゴールドシップさん達に聞いたんです。スズカさんとの過去とか、全部、全部。…合宿〜とか、お勉強会〜とか。…幸せそうだなぁ、なんて思ってしまいました。」

    「この身体で、体験してるのにも関わらず。…とにかく、本当に何も憶えられなくなってきてます。海の出来事だって、きっともうすぐ忘れちゃう……。このキーホルダーの意味だって、毎日のように忘れては思い出してを繰り返していて、それで、」

    次の言葉が出てくる前に、私よりほんの少しだけ背丈の低い彼女の頭を撫でた。大丈夫だと、落ち着かせるかのように。
    どうなったっていい。全部忘れたっていい。そうなったとしても、私は貴女の隣にいるから。

    「…戻りましょっか。スズカさん、」
    「えぇ、そうね…。」

    こんな大人ぶった顔をしているけれど、声は震えていた。
    …本心では、忘れて欲しくないと言いたい。それでも言えるわけない、から。彼女をこれからも支えるつもりだ。

    寮に戻ることにした。













    今日、また彼女は迷子になった。今度は連絡なんて来なかった。きっと連絡をする方法を忘れたんだろう。ノートという存在すらも忘れてしまったから。
    寮に連絡が来た。迷子になってしまった学生がいると。それが彼女だった。
    どうやら事故に遭いそうになっていたらしく、危なかったと注意が先に来た。

    肝心の彼女は戻ってきたが、特に何も語らなかった。ただ一つ説明をしてくれたのが「どうすればいいか、憶えていなかった。
    自分が病気なこと忘れていた。」という内容だった。そろそろ本格的に危なくなってきて、もう一度入院させるか皆で話し合ったが、彼女自身は大丈夫だと言い張った。

    この事を病院に相談しに行ったが、きっともうすぐ、全てを忘れてしまうだろうと医者は言った。私の事も、自分のことも。全部、全部。

    それでも、私の元に戻ってきてくれたらいい。忘れたってまた出会えばいい。

    ぽつり、窓に何かがあたる。

    雨だった。……今年の夏に雨が遊びに来るのは、これが十数回目だった。












    何処か道へ迷っても、あのベンチに彼女がいる。だから、トレーニング終わりに必ずそこへ寄っていくことにした。

    もう何十回もそれを繰り返したが、全く変わらない。そこにいることも、彼女が記憶を失っていることも、全部、全部。
    会話は毎回の如く変わったが、まるで一日を何度も繰り返しているようだった。
    そんな中でも、キーホルダーの鈴は鳴る。どんな不幸が舞い降りようと。
    特別でもなんでもない。何も幸運も舞い降りなかった。
    ……もう、期待することすらをやめた。

    そして今日、何処か様子のおかしい彼女と、また明日が来るのを待っていた時だった。
    雑に机に置かれたノートを見つめて、彼女はただ立っていた。何かを察するかのように、何かを悟ったかのように。

    「スペちゃん、」
    「…っ!……は、はい!」

    やはり、おかしい。何かに焦っているかのような瞳をしていた。何故そんなに焦っているのだろう。

    「電気、消す?」
    「…はい、消します。……スズカ、さん、今日は…一緒に寝てもいいですか。」
    「…?えぇ、別に…良いけれど…。」

    小さく頷くと、元気を消して毛布に入る、筈だったけれど、ここで眠ってしまったら何かが起こってしまうような気がして。

    「スペちゃん、さっきから…どうしたの。」

    毛布の中に入ろうとしていた彼女の手を取った。

    「スズカさん、」
    「…どう、し、」

    たの、と、この二つの音を出す前に唇が塞がれた。決してどこかで求めている愛の誓い等ではなく、違う何かを何かを求めるかのような、そんな口付け。

    両者が離れ合っても変わらない。何も変わらない。月明かり以外の光のない部屋の中は暗いままなのだ。
    そんな中、二つの桃色が此方を覗く。それは喜でも楽でもない。絶え間なく哀色だった。

    「スズカさん、スズカさん、なんで、なんで私はこんな病を抱えちゃったんでしょうね。スズカさん、」
    「…スペ、ちゃ。」
    「こんな病、なければ、スズカさんとの思い出も、今の、この世の色も、全部全部憶えていられたのに。」
    「…スペちゃん、落ち着い」
    「落ち着けません、スズカさん、スズカさん、嫌だ。嫌だ…っ、」

    哀色はこぼれ落ちた。何かと共に、溢れて消えていく。失っていく。
    胸を切り裂くかのような、何よりも哀しい彼女の表情を見つめる。

    こんなの、見た事がない。だって、いつも彼女は笑っていて、皆を笑顔にしていて、それなのに、

    「嫌だ、嫌です、もう嫌。…分からないんです。溢れていく。全部、全部。いくら掬おうと手を伸ばしても、どこかへ行っちゃうんです。」
    「…うん。」

    相槌を打って彼女を抱きしめる。その背中を撫でる。溜め込んでいた毒を吐き出せるように。彼女がこれ以上何も失わない為に。
    私には、たったそれくらいのことしか出来なかった。
    情けない。もどかしい。彼女がこんなにも苦しんでいるのに、私は目尻から涙を流すことしかできない。

    「スズカさん、スズカさん、嫌です。…もう、全部全部忘れるのが嫌だ…いまだって、いまだってスズカさんとの思い出が、きえていっているのに。なんで、なんで。なんで…、なんで、こんな、こんな、…っ、」

    この小さな部屋に、苦しみと嗚咽がこぼれた。涙が光を浴びて中に浮く。それでもそれ以上の光は現れない。まだ夜は開けていないから。

    その時、鈴虫が鳴いた。

    夏、が終わる。

    恋が、終わる。根拠なんてないけれど、そんな気がした。
    彼女がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。
    だめ。行かせない。夏に彼女を奪わせる訳にはいかない。
    …それでも、季節には抗えない。どんな人類でも、それは不可能な事だから。

    「もう、忘れてください。」
    「…え、?」
    「私の事、忘れてください。…そうすれば誰も苦しまずに済む。スズカさんは、他の人と幸せになればいいんです。
    …だって、私が…唯一憶えていられたスズカさんを、私が心の底から愛せた、愛して貰えた相手を、私の全ての、スズカさんを忘れたら…死んだのと変わりません。」

    「だから、忘れて。私の中のスズカさんが死んじゃった時、スズカさんの中の私を殺してください。あの時の踏み切りに、私をつきとばして、」

    無理矢理に作られた笑顔。絶対に見たくなかった彼女の表情。
    決めた。私の中の、たった一つの選択を。
    夏の中に連れ去られようと、私は彼女を一人にしないことにする。必ずや幸せになる、幸せにしてみせると決めたから。

    「スペちゃん、それはね…聞けないお願いなの。」
    「…、やっぱり、」
    「スペちゃん、」

    涙がもう溢れないように、何も連れていかないように、彼女の目尻の下に口付けた。

    「…私はスペちゃんを、貴女を忘れない。貴女と幸せになったこと、貴女とこのキーホルダーをお揃いにしたこと、貴女とこの夏を歩いたこと、全部全部。」

    「スペちゃんが全てを忘れたって、私が憶えていればいい。私が貴女を忘れなければ、私の中で幸せにいられるでしょう?」
    「でも、そうしたら、スズカさんが…」
    「おあいこ。どっちかが苦しむのは嫌なの。…だから、一緒に半分こ。ね?…約束。」

    彼女の温かくなっていた手を握り締める。

    「…はい、はい…ありがとうございます、ありがとうございます…っ、約束、約束です…!」

    暫くして、彼女はカーテンの隙間からの光にライトアップされる。…否、私も同じだ。二人一緒でライトアップされていた。
    …それはこの約束と、同じなのかもしれない。一人だと勘違いをしているだけで本当は…、

    夜が明けようとしている。明日が此方へ波のように押し寄せた。それを押し退ける事さえ出来ないから、二人また眠って明日を受け入れるしかないのだ。
    何かの恐怖から彼女を解放するかのように、優しくまた抱き締めた。
    二つ用意されたベッドのうち、一つのベッドに二人で入り込んで。
    明日にはもう消えているかもしれない。泡になっているのかもしれない。

    叫べるのなら叫びたい。助けてくれ、と。何故私達がこんな目に遭わなければいけないのだと。悪いことなんて何もしていない。
    人を殺している人なんてそこら中にいる。
    それなのに、この不幸は私達を選んだ。何故なんだろう。それが未だにわかっていないのだ。

    涙が出そうな程に心の中で全ての罵詈雑言でも何でもを放った。明日を綺麗に迎えるために。


    「大好き。」

    何方かの声かは既に覚えていない。















    結果的に言えば、起きた時には暑苦しいベッドの中に彼女はもういなかった。
    携帯を見てもメールなんて届いている訳もなくて、彼女の今の居場所が掴めなかった。
    すこし…否、かなり焦り始めて、冷や汗が背筋を伝ったころ。
    あまり使われていなかった机に何かが置いてあるのを発見した。
    置き手紙では無い…が、彼女の、この前使っていたノートである事が発覚した。
    ところが居場所や目的が書いてあるわけではなかった。
    どのページにも、何も書いていない。

    しかし最初のページの端っこに小さく書いてあるのだ。

    『私が忘れたら、またスズカさんと出会って、スズカさんの恋人になりたい。』

    と。

    それを見て、何かが胸に刺さったような気がした。
    もたもたしている暇なんて一秒もなくて、とっとと準備を済ませて部屋を出た。

    行く先はチームが待っているトレーニング場だった。

    「スペちゃんがいない、」

    そう伝えれば雲が一斉に動き始める。
    風の強い日だった。

    皆の笑顔なんてさっと消えて、早く探せと言わんばかりにばらばらに動き出す。

    時計は既に午後12時を示していて、それでも彼女はどこにも居ない。居ない。病院の近くの椅子にも、花壇にも。

    電話なんて出ない。…きっと、憶えていないから。携帯という存在を忘れてしまっているから。
    とある場所を向かう最中、この前のカラオケ屋の前を通ったが、どうやら潰れてしまったらしい。もう看板が白く塗りつぶされて、シャッターがしまっていた。












    今日も、ただの日常になる予定だったはずなのだ。

















    白いベンチにただ一人、人工植物をなにも知らない、桃色の宝石が見つめている。
    それこそ、私が探している彼女だった。

    よかった、よかったと何度もうわ言のように心で呟いた。二度とは見られないと私が勝手に勘違いしていた彼女を、見つけることが出来たから。

    静かに、ただいつものように歩み寄る。何も変わらないままに。

    「…?」

    植物に興味をなくしたそれは此方を向く。
    覚えている筈の、知っている筈の私の存在を認識する。
    その刹那、彼女のスマートフォンについていたキーホルダーの鈴が、からりと響いた。

    「わ〜っ!!ウマ娘さん!!初めて見ましたッ!その、私…道に迷っちゃって…
    えへへ…、えっと、えっと、と、とりあえず握手してください!」




    唇をあの時よりも強く噛む。血が出ようと関係ない。今度こそ、私が知らないような声が漏れ出てしまいそうだったから。

    ──嗚呼、そうだ。彼女はいつも、道を忘れていた。

    然し私までもを忘れたのだ。それでも仕方の無い、時間の問題だったのだから。

    私が死ぬ訳でもないのに、走馬灯が溢れ出した。彼女との旅路もこれで完結する。全て全て。
    『こんな病、なければ、』
    そんな彼女の声が耳を突き刺す。

    夏は無情にも白い肌の、私が愛した少女を消し去っていった。
    今まで手繰り寄せられていたそれは空へ消えてゆく。
    行かないで、行かないでと叫んで手を伸ばしてももう届くことは無い。その事実に胸が殴られたかのような痛みを突きつけられる。
    やめて、やめて。もうやめてよ。そう訴えてもなお、この事実はもう時は戻らないと、もう追憶なんてされないと私にぶつけてくる。
    だって、もう彼女はそのキーホルダーの意味を知らないから、

    ふぅ、と一つ息を吐く。これは深呼吸でもため息でもない。
    震える何かを誤魔化すための呼吸だ。
    目尻が熱くなっても、何も出さない。声も、涙も、涙を拭う腕も。もう要らないから、覚悟を決めたから。

    彼女は最初出会った時、綺麗な人だと言った。今は思ってくれているのかな、なんて考えれば自然と笑えてきた。

    昨日、彼女を優しく抱きしめた。何も失わない為に。
    今からそれを離すのだ。
    嫌だ嫌だと泣いていた彼女は、私を見つめて手を振っているから。

    さようなら、さようなら。

    止めることは無い。既に届かない時へと足を運び出したから。
    それでも一人にはしない。
    彼女の昨日言った。絶対に忘れないと、
    それを今から実行するのだ。約束を守る為に。彼女の為に。
    私は彼女を忘れるなんてことをしようと思うことはないだろう。この小さな人生の記憶の中で幸せに生かすことにするのだから。
    お疲れ様、と。優しく頭を撫でるのだ。最後まで、愛すると決めたから。

    さようなら。そしてお疲れ様。

    また最初からやり直そう。ページをゼロに戻した。

    「道、良ければ案内しますよ。…貴女が今、行きたい場所に。」

    今、再び彼女の温かい手を取る。

    彼女は知らない。過去の私を、過去に愛した人を、過去に愛された人を、過去の自分を。 過去に、約束をした人を。
    それを知るのは、その思い出を支えているのは今この時間と私の記憶だけだ。それを忘れてはいけない。

    空を一秒見上げる。変わらない、何も変わっていない、雲のひとつない青空だった。
    残酷な世界なんてここに置いて、今の彼女を見つめる。たった一人の少女としてだ。

    「…!ありがとうございます!ふふ、またお友達が増えちゃったかも…!…あ、挨拶がまだでした!」

    過去の哀しみや愛情、喜びはこの世界から全てあの海へと流されてしまったが、今の私は今の彼女を愛すると誓ったから。

    傍で見ていてほしい。私に取り憑いてだって構わない。何度忘れてしまっても、私は貴女を愛してみせるから。愛されてみせるから。

    今日からまた、始めよう。


    「はじめまして!!私の名前は、」







    初めましてをもう一度。






    Fin.







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