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    haishima_ryo

    @haishima_ryo

    二次創作の絵をアップします。
    うたプリ(イチゴ組、蘭カミュレン)
    FGO(龍竜、高ぐだ子)
    DC(松萩)
    PSYCHO-PASS(槙島聖護)
    たまにFF(ラグナ、神羅カンパニー)
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    haishima_ryo

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    パリ旅の続編です。

    ##イチゴ組(腐)

    伯爵様と御曹司の7日間パリの旅 Eternal Loveようかん

       1

     カミュは早々に機内食を下げさせ、鞄から羊羹を取り出した。
     書道であつかわれる墨のような形をした羊羹は持ち運びしやすく重宝している。
     箱から押し上げるように先端を突き出し、さらに包装を破く。すると、機内灯に照らされ、艶を帯びた黒い素肌が現れた。黒糖と寒天と小豆で作られたそれは、見ようによっては磨かれた鉱石のようでもある。視覚的に艶を楽しんでから、カミュは素肌に噛り付いた。
     黒糖の深い甘みが噛むほどに口に広がる。硬さ小豆の比率もいい。あえて軟かさではなく硬さと評する。噛んだときに不快さを与えずに食感を楽しめる羊羹は数えるほどしかない。出立の直前にわざわざ銀座で購入した甲斐があったというもの。
     すぐに一本を平らげ、二本目よりじっくりと味わった。三本目でようやく落ち着いて食せる。消えゆく羊羹とともに、遠く離れる日本の和菓子にしばしの別れを告げた。

    「手持ちの羊羹はそれだけかい?」
     隣でワインとチーズを嗜んでいる神宮寺は、ヘッドホンを外して言った。
    「そうだ、これでラストだ」
    「禁断症状が出ないか心配だ」
     親密な関係になって三年が経つが、恋人からどのように見られているのか改めて理解してしまう。反論しようかとも思ったが、旅の始まりでつまらないことは言いたくはない。
    「和菓子は今回の旅の趣旨ではない」
    「たしかに。以前もそうやって和菓子の食べおさめをしていたね」
     納得をした神宮寺は、あのときは鶯餅だった、と思い出している。そう、神宮寺に口づけをするほんの六日前のことだった。
    「せっかくのパリの旅なのだから、上等なスイーツを楽しむ。砂糖も少なめに、だったな」
     乗務員が持ってきた紅茶に控えめの砂糖を淹れ、スプーンで混ぜる。
    「うん、覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」
    「忘れるものか」
     神宮寺は「楽しみだね」と言ってカミュの手を握り、そして離した。
     飛行機でのコーヒーは不味いため、紅茶がマシという通説は昔からある。それでも高度を飛ぶ機内では、気圧と湿度の関係上、お湯は一〇〇度まであがりきらない。一〇〇度のお湯で抽出して初めて本来の茶葉の香りが出るのだが、機内の紅茶は諦めるしかない、と思われていた。
     だが、とある紅茶会社が研究した結果、高地で栽培された茶葉、セイロンやアッサム、ケニヤは風味を落としにくいと判明し、それ以降は機内の紅茶の味もマシになった。そのため、カミュは空の旅ではできるだけコーヒーよりも紅茶を選ぶ。
     なにより、和菓子と紅茶はよく合う。日本茶で楽しめる甘味は紅茶とも親和性が高いとカミュは思っている。
     コーヒーも嫌いではない。パリでは紅茶は嗜好品であり、日常的に好まれるのはコーヒーである。腕のいいバリスタも日本以上に存在する。うまい豆がたくさん輸入されている。
     それでも、スイーツに合うのは紅茶だと確信がある。コーヒーの風味に負けないスイーツがあるならザッハトルテだろう。他の生クリームやカスタード、フルーツを主体としたスイーツは紅茶と合わせる方が無難だ。
     今回の旅の趣旨になぞらえるならば、紅茶がいい。旅の始まりならばなおさら。
     神宮寺はミント系のガムを噛んだ後、ヘッドホンとアイマスクをして「Good Night」と眠る体勢に入った。夜更かしをする男にしては早い就寝だ。カミュも紅茶を下げ、膝の上の本を鞄にしまい、アイマスクをした。
     目を覚ませば、そこはもうフランスに到着しているだろう。




       2

     初夏にまとまった休暇がとれそうだから、海外へ行こうと言い出したのは神宮寺だった。カミュの映画の撮影も終わり、神宮寺も東京と大阪のライブツアーを終えたところでタイミング良く長期休暇がとれたのだ。
     ならばパリへ行こう、と言ったのはカミュだった。
     以前は冬だったため、今回は夏のパリもいいだろうと。同じ街でも季節が違えば見える景色も違ってくる。
     夕食の後、ソファに座って神宮寺は手持ちのタブレットで旅の記憶を呼び醒ましながら、今回の旅行の計画を建てた。レコードから流れるドビュッシーの「月の光」は、エッフェル塔の隣で輝く月を思い出させる。
     祖国に居た頃、ヨーロッパの社交場はフランスで行われることが多かった。女王陛下と共に赴くこともあれば、カミュ自身だけで各国の要人たちと情報交換をしていた。セキュリティの問題もあり、街を散策することができない女王陛下の代わりにパリの名店を端からまわったこともある。あれから数年、花の都パリといえども、二百年続く老舗の店が消えてなくなることも少なくない。三年前ですら、女王陛下が愛した名店のうちいくつかは別の店に変わっていた。
     老舗だろうとも、今行かなければ二度と出会えなくなる。
    「次に来たらバロンと一緒に食べたいと思っていたジェラートの店があってね」
     甘味についてはあまり得意ではない神宮寺だが、店舗情報に関してはカミュより鮮度が高い。回り回って自分のためになるとはいえ、直接的に利己の心で情報を集めているわけではないのは明らかだ。記憶力もいいが、好奇心も強い。役に立つのかはともかく、情報を受信してしまうのは性分なのだろうと思っていた。
    「雑誌をめくっていると、このケーキを食べたらバロンはどんな表情をするんだろうと考えるんだ」
     ある日、何気ないときに神宮寺は言った。ドライブ中だった気がする。
    「お前はいつも、そのようなことを考えながら雑誌を読んでおるのか」
    「そうかな、そうかも。昔はスイーツだけだったんだけどな」
     昔はスイーツだけ、今はスイーツだけではない。
     全て聞かずとも、神宮寺の想いが伝わる台詞だっただけに覚えていた。

     運良く前回と同じショートステイ用のアパルトマンが空いているということで、さっそく予約を入れる。長らく一人旅をしていた神宮寺は、旅において手慣れていた。全て従者が手配をしていた貴族とは違う。神宮寺も財閥の三男ではあるが、それだけ自由でもあったのだろう。
    「楽しみだな、またしばらく頑張れそうだ」
     タブレットをテーブルに置き、神宮寺はカミュに口づけをする。食後のブランデーの香りがした。


       3
     アパルトマンに到着したのは正午を過ぎた頃だった。石造りの建物に似合いの分厚い木製のドアを開け、見覚えのある螺旋階段を上る。部屋は三階、「三〇二」とプレートのかかったドアを鍵を使って開ける。
     すぐにリビングとダイニングが目に入り、ワックスで磨かれた木の床。年季の入ったテーブル、食器棚、ペンキの剥がれ落ちたチェスト。三年前と変わらない、時が止まったかのような空間。
    「もうひとつの我が家に帰ってきたようだよ、バロン」
     神宮寺はいそいそと自室の扉を開いて天井を見上げた。雨漏りのチェックをしているのだろう。カミュも神宮寺の背後に立って天井を見上げる。
    「また雨が染みだしたら、俺と共にすればよい」
     はっと振り返った神宮寺は、「うん、そうだね」と言った。初日から緊張もせずに安心しきった表情を見せる恋人は、前回とは違う。この部屋は時を刻んではいないが、自分たちは確実に変化している。
     変化という言葉は、使う者によってポジティヴにもなりネガティヴにもなる。
     神宮寺と自分との差違は、そこだろう。
     この旅の、本当の趣旨も、時を刻んで変化した心も、彼とは違う。
    「荷物を片付けたら、買い物に出かけようか。ランチも兼ねて」
     クラシカルなトランクケースからベッド横のチェストに着替えを移した。日用品は現地で調達するつもりだったので、着替えと充電機器ぐらいしか持ってきていない。本も古書店街で買い足すつもりなので、飛行機で読む分の一冊だけだ。
     このあたりは神宮寺の影響が出たな、と感じる。
     六月のパリの気候は穏やかだ。時間や場所によっては肌寒く感じることもあるため、スプリングジャケットは羽織っていく。神宮寺もカーディガンにストールというセットだ。
    「相棒は持っていくのか」と問うと、「こっちのリトルレディをね」とコンパクトカメラを見せた。このあたりは変わっていないらしい。
    「スーパーで日用品を買って、マルシェでブランチと食材の調達だね」
    「旅の疲れもあるだろう。食材を買ったら一度戻り、夕飯は外で食そう」
     優しいね、バロン。と、神宮寺は数歩近づくとカミュの頬に近づいた。普段からスキンシップの多い男ではある。パリの街中ならば、いつでもどこでもキスをしてくるかもしれない。
     出かける前に忠告しておくか、とも思ったが、カミュはやめた。
     この街では自由に愛を分かち合える。誰かが勝手にスマートフォンで撮影してくることもなければ、ネットに晒されることもない。事務所の一部しか知らない関係性でも、誰も二人の愛を邪魔する者はいない。
     行くぞ、とカミュは恋人の手を取った。温かい指のひとつに、カミュが贈った指輪の感触がした。
     手を離さないカミュを、驚いた表情で見つめていた神宮寺だが、部屋を出るとプライベートでしか見せないほころんだ笑顔を浮かべていた。


    ボンボン

       1

      初日から寝過ごしてしまった、と悔やみながら着替えてダイニングに行くと、すでに紅茶の香りが満たされていた。眼鏡をかけて新聞を読んでいたカミュがレンに気が付くと「おはよう」と穏やかに朝の挨拶がなされた。
    「おはようバロン。例の彼に新聞の配達を頼んだのかい」
     前回も近所の雑貨店で店番をしていた少年に、毎朝新聞を届けるよう依頼していたのだ。少年は新聞配達で得た資金でゲームを買うと言っていた。
    「ああ、同じ少年に頼んだ。かなり成長していたな」
    「今度はどんなことに駄賃を使うんだろうね」
     レンは冷蔵庫からプレーンヨーグルトと蜂蜜、そしてオレンジジュースを取りだしてテーブルに置いた。小さなガラスボウルにヨーグルトを食べる分だけ移してから味見をすると、かなり濃厚で蜂蜜はいらないなと判断したレンはそのまま食べることにした。
    「貯蓄するんだそうだ。留学したいそうでな」
    「へえ、いいね。もうそんな目標を持っているなんて」
     少年はまだ十四歳のはずだ。自分はその頃、夢はあったが目標はあったか定かではない。
     朝食はヨーグルトとオレンジジュースで軽く終わらせる。これから食の街を歩くのだ。どんな誘惑でも迎え入れられるようにしておかなければならない。カミュも同じ考えらしく、紅茶とクッキーしか口にしていない。二人とも、パリに期待しているのだ。
     食後は食器を洗浄機に入れ、身支度をしてから玄関で待ち合わせだ。今日の相棒は一眼レフ。
    「行きたいところある? バロン」
     パリの旅はいつも行き当たりばったりだ。そのときに感じたことを行動に移す。
    「六区の古書店街に行きたい」
    「なら、リュクサンブール公園を通っていこう」
     Oui,Monsieur と返事をもらい、レンはカミュの後に続いて部屋を出た。
     本日のパリの上空はぼんやりと白がかっていた。朝に流れる風はまだ少し冷たく、レンはストールを巻き直した。すでにマルシェに向かう人や仕事に向かう人、または観光地に向かう人でアベニューはそこそこの賑わいがあった。
     歩いている途中で、六区は大学や高校などの教育機関が集まっており昔から学生街とも呼ばれていることをカミュから聞いた。学生が多いから古書店も増えるのだろう。日本なら早稲田や神田がそうだ。残念ながらレンはあまり訪れたことのない街だが、本が好きなカミュや一ノ瀬は休日にふらっと訪れているようだ。
     リュクサンブール公園はとにかく広大だ。街の憩いの場としてニューヨークのセントラルパークに近いものがあるが、あきらかに違うものがある。それは公園から覗くパリの町並みだ。セントラルパークの周囲はビルの摩天楼で囲まれているが、リュクサンブール公園はパリの様々な景色が公園の中からも見えるのだ。
     ここもランナーや犬の散歩をしている街の住人から、自分たちのような観光客で人が溢れていた。特に元老院の議事堂として使われているリュクサンブール宮殿のシンメトリーな建築デザインは圧巻だ。ヴェルサイユ宮殿のような絢爛豪華とは反対に、荘厳に静かな佇まいは辺りの華やかな草花たちと上手く調和されていた。
     新緑だった葉が元気に育ちきったこの時期の公園は、木々たちの歌が聞こえてきそうなぐらい生命力に溢れていた。どこからか音楽も流れてくる。池の傍ではバイオリンとチェロとクラシックギターのアンサンブル、レストランの近くではアコーディオン演奏、木陰の中ではフルートの練習も見られた。
    「ローマやフィレンツェ、ロンドンやニューヨークでも歩いているといろんな音楽が聴こえてきたけど、やっぱりパリで聴こえてくる音楽は途切れることがないね」
    「お前はいろんな場所へ旅をしておるな」
    「いろんな景色と、風と、人々と、あとは彼女たちをフィルムにおさめたくて」
     ちょうど前を通りかかった彼女をファインダーにおさめる。美しい黒猫だった。
    「バロンの国でも、彼女たちは散歩しているのかい」
    「いや、あの寒さの中で冬を越せる動物は少ない。外で見たことはないな」
     カミュはベンチを占領しているキジトラ猫の頭をなでた。人に慣れているのか気にするわけでもなく目を閉じて眠ろうとしていた。
    「でも、バロンは猫が好きだ」
    「そうだな、愛してやまない奴にも似ている」
     猫の頭からレンの顎へと手をやりくすぐってくる。くすぐりに弱いと知っていてやってるのだ。
    「ふふ、だめだよバロン」
    「うちの猫はパリの猫より反応がいい」
     まったく、と肩をすくめるが、レンはこうやってカミュから構われるのが好きだった。


       2

     リュクサンブール公園を通り抜け、ヴォージラール通りを歩いていくといくつかの書店とパン屋が目につく。気になる書店に気軽に入っていくカミュ。レンは他に客がいなければ店主の許可をとって店内を撮影したりする。気さくな店主たちが多く、「俺も撮るか?」とおすすめの本を手にして笑顔を向ける。
     恋人がご執着になった古書店が小さな交差点にあった。真夏の深い空のような色をした入り口をした古書店の文学作品の充実さと、店主のマダムの豊富な知識に感銘を受けたらしい。Frenchで話すカミュをレンはカメラで写していく。
     Frenchは日常会話程度だ、と言っていたカミュだったが、実際はかなりの話者だとレンが知ったのは付き合ってから数日しないうちだった。よくよく考えれば、一国の女王との謁見権利を持つ貴族階級を持つ人が、ヨーロッパの社交場で必要不可欠なFrenchを習得していないわけがない。
     手にした本も、古いフランス文学だった。
    「サルトルかヘミングウェイかヴィクトル・ユーゴーか」
     古書店を出たカミュは、どうやらどのカフェに行くか迷っているらしい。このあたりは過去の文化人たちがサロンにしていたカフェが現在も残っている。
    「そろそろお腹が空いたから、今目の前にあるカフェに入りたいな」
    「ならばらそうしよう」
     テラス席に座り、カミュがウェイターを呼んでカフェ・クレームとチーズオムレツ、レンはエスプレッソとハムサンドを頼んだ。かなり愛想の悪いウェイターが返事もなく奥に引っ込んだ。
    「フランスは美しいがウェイターは嫌いだ、という話をよく聞くな」
    「そうだね、オレも前は痛い目にあったしね。ああ、でも、バロンが傍にいると不当な扱いは受けない」
    「そんなことはない、俺もフランスに初めて来たときはシルクパレス訛りを馬鹿にされたものだ」
    「けれど、そのあと猛特訓したんだろう」
     恋人は肯定も否定もせずに、ただ中世絵画の中のモデルのように微笑んだ。
     人も増えてきたので、のんびりと待つことにする。
     大学も近いせいか、通りは学生らしき若者がよく歩いていた。
     隣の夫婦は今夜の友人たちを招いたパーティーで用意するディナーの相談をしている。大きな声で話していたので、自然と耳に入ってきたのだ。それぐらいのヒアリングはできるようになっていた。
    「そういえば、映画観たよ」
     旅行前に、カミュが出演している映画を観たことを伝えた。米日共同制作の映画で、殺人を犯した主人公を追いかける刑事役をオーディションで掴んだという。主人公は同性のパートナーを殺され、犯人に復讐するためにアメリカへと行く。同性婚が認められていない日本で、殺されたパートナーをパートナーとして認められないことや、自分が容疑者として扱われた怒りと哀しみを抱く主人公を追いかける刑事役という難しい役を見事に演じていた。
     気難しいと言われる映画監督の中でも、さらに気難しいと言われる有名な監督の元でカミュは弱音一つもらさずに演技に没入していたようで、その時期はあまりレンとも顔を合わさなかった。もっとも、撮影をするために渡米していたのもあるが。
    「素晴らしかったよ。ストーリーはもちろんだけど、アカデミー俳優に負けない存在感だった」
    「あちらは日本語を流暢に話せてそこそこ演技ができる白人男性が欲しかったのだろう。だが、それだけではつまらんからな」
    「愛する人が殺されたのに、日本ではパートナーと認められず、本当の真犯人はアメリカへ逃亡。そんな主人公に自分の人生を重ねてしまう刑事。すごく難しい役だったと思う。ラストシーンの、主人公を追い詰めるときの表情が胸にきたよ。ここまで追い詰めた達成感や焦りよりも、追い詰めてしまったという後悔が見えていた」
    「さすが、どの評論家よりもいいコメントだ」
    「ありがとう。でも、一番ぐっときたのは刑事役のキミすべてさ。すべてがセクシーだった」
     カミュは嬉しそうに微笑み、手を伸ばしてレンの唇に指先で触れた。その指を己の唇へ口づける。そして何事もなかったかのように、運ばれてきたカフェ・クレームに砂糖を入れた。
    「まいったな、すでにやられている」
     レンは熱を持った頬を撫でた。
    「この七日間は、全力でお前を愛そうと思ってな」
    「全力で? それはとても嬉しいけど、なら普段は?」
    「長距離を走り切るにはマイペースを保つほうがいい。マラソンランナーのようにな。しかし、ランナーは決して手を抜いているわけではない」
    「うん、わかるよ。それが日常だね」
     ナイフで切り取ったオムレツからチーズが漏れ出す。香りの強いチーズを使用しているようだ。
    「ここにいるときは短距離ランナーだ」
    「なるほど、それで全力でってことだね」
     レンもハムサンドを食べる。空腹だったので大きくかじった。さすがにパンとハムはうまい。
    「でも、短距離ランナーは、走ったあと、立ち止まるんじゃないかな」
     雑音のボリュームが上がった。通りすがりの足音すら響く。遠くで鳴らされたクラクション。まるで映画館での音響のようだ。
     次の言葉まで時間がかかった気がした。本当はほんの数秒だったのかもしれない。しかし、レンにとっては長い時間がかかった。
    「立ち止まるんじゃない」
     カミュは一度視線をレンに寄越すと、すぐにオムレツに戻した。
    「少し休憩するんだ」


       3

     それからまた足を伸ばして7区まで歩んだところで、「これは」とカミュはとある店の前で足を止めた。テラス席のあるカフェの隣、青い門構えの店に入る。
     どうやら老舗の飴専門店らしく、小さくて宝石のような飴が、海を思わせる缶に目一杯入っていた。
    「レン、ヴィクトル・ユーゴーって知っておるか」
    「ええと、「ノートルダム・ド・パリ」あと「レ・ミゼラブル」だよね」
    「そう、そのヴィクトル・ユーゴーが愛したボンボンがある。一度は店を閉め、オーナーが変わって店を移転したと聞いたことがあったが、ここだったか」
     珍しく興奮した様子でカミュは店内を見回している。味が変わっていなければいいが、と店主に小さな橙色の飴をひとつもらい味見した。
    「うん、これだ。変わってはおらん」
    「前にも食べたことがあるのかい」
    「まだ幼い頃にな。土産でもらったことがある。ちょうど「レ・ミゼラブル」を読んでいたときで、この飴が作者のお気に入りだったと知ったときは感動したものだ」
    「思い出のボンボンだね」
    「そうだ」
     劇場が並ぶとおりで飴を売り出したのが始まりだと言われている。観劇中の咳止めとして、客たちに飴が流行ったのが二百年前。
     その間に、ヴィクトル・ユーゴーもこの店のボンボンに幸せを与えられていた。
     そこまで語ったところで、カミュは悩みに悩んで青い飴缶を二つ、そして瓶詰めされたマロングラッセを購入した。
     帰り道、さっそくカミュは青缶から紫の飴玉を取り出して口に放り込んだ。これならお前も食せるだろうと、同じ色の飴をレンに渡した。ブルーベリーの香りがする。なるほど、とても香りがするのに人工的ではない。甘さもしつこくはない。あまりにも自然な存在感のある飴だった。文豪が夢中になってしまうのもわかる。
    「新愛なるボワシエよ、我々は喜んであなたの足元にひれ伏すだろう、なぜならば人はボンボンで強者を捕え、ボンボンで弱者を捕えるからである。と、この一文でヴィクトル・ユーゴーが愛したことが世間に知れ渡ってしまったが、おかげで不死鳥のように甦った」
    「よっぽど気に入ったんだね。いや、もしかして、このボンボンに人生を救われたのかもしれない」
     何気ないもので、人生が変わることがあるのをレンは知っている。それは甘いボンボンだったり、母の歌だったり、人だったり。
    「ああ、俺も救われていた。この甘さに」
     嬉しそうなカミュの横顔を眺め、レンも嬉しくなる。
     この旅が始まる前から、カミュの様子がいつもと違っていることにレンは気づいていた。それが良い予兆なのか、悪い予感なのかまではわからなかったが、なにか、このパリをきっかけに変化がありそうな気がしていた。
     閉店にまで追い込まれた老舗のボンボン専門店は、オーナーが変わり、マーケティングの手法も変えて復活を遂げた。これは良い変化だ。だが、このパリでさえ老舗の店が消えていくことは珍しくはない。
     しかし、レンは三年前とは違うという確信があった。三年前のような臆病な自分ではない。これは良い変化だ。
     バロンが何を企んでいるのかはわからないけど、オレのバロンへの気持ちは変わらない。
     レンは、幸せの甘い飴玉を口に含んでいる恋人の横顔をフィルムに焼き付けた。



    ゴーフル

       1

     アラームが鳴る前に目が覚める。なにか夢を見ていた気もするが、眠っているのだからなにか夢ぐらい見るだろう。
     隣で眠る夜更かし気味の恋人を起こさぬようにベッドから出て、カーディガンを羽織る。寝る前にネットでなにか調べていたらしく、タブレットが枕の下に敷かれていた。寝落ちるギリギリまでネットサーフィンしたりゲームしたりするのは相変わらずだ。
     朝は少し冷える。
     冷蔵庫から取り出したベーコンの塊を刻み、ココット皿に入れる。さらに、瓶詰めの炒め玉ねぎ、購入時にすでに泡立っている生クリーム、パリの卵は大きいので黄身だけ、胡椒、最後にチーズを削る。ベーコンとチーズに塩がきいているので塩は入れない。
     オーブンで十五分、ちょうど半熟になる時間。
     洗面所で顔を洗い、キッチンに戻るとテーブルに皿とカトラリーを用意する。オレンジジュースを入れるガラスコップも忘れずに。紅茶のためのお湯を沸かしているうちにココットが焼き上がる。チーズが溶けていい香りだ。
     再び寝室に行くが、恋人はまだ眠っていた。試しにドアを叩いて音を出してみるが変化はない。ならばとうつ伏せで眠っている恋人を仰向けにひっくり返し、寝ぼけた声を出すその口にキスをする。しばらくキスを続けると、バロン降参だよ、とカミュの背中を軽く叩きギブアップの意思表示をする。
    「チーズのいい匂いがする」
    「早く来ないと冷めるぞ」
     神宮寺が急いでルームウェアを着込んで顔を洗ってからリビングにやってきた。そこには焼き立てのココットとオレンジジュースが並ぶ。
     仕上げに昨日買ったバゲットの状態を見るが、やはり硬い。フランスではバゲットに保存料をいれてはいけないという法律があるらしく、その日買ったバゲットはその日のうちに、がモットーだとか。それでも残ってしまったバゲットはテーブルの角で叩くといい音が出るようになる。
     バゲットをパン切りナイフで切り、霧吹きをしてからアルミホイルで巻いてトースターで温める。すると、ふんわり感が少し復活する。コツは霧吹きをしすぎないことだ。
     紅茶を蒸しつつ、ココットにフォークを立ててみる。潰れた卵からとろりと黄身が流れて、生クリームと混ざり濃厚なソースとなった。バゲットにつけて食べると、塩加減もちょうどいい。
    「ん、美味しいなあ。ワイン用に買ったチーズだけど最高だね」
    「香りが強いからな。ベーコンの風味にも負けん」
    「かといってお互いに主張し合っているわけでもなく、うまくバランスが取れているのが不思議だ」
    「それは俺の腕だな」
    「ふふ、偉大なる我がシェフ」
     濃い目に蒸した紅茶をティーカップに注ぐ。ラベンダーとアールグレイの茶葉を使用したので華やかな香りが広がる。フランスでは紅茶は嗜好品であるため,フレーバーティーが人気だ。イギリスでは日常的にお茶を飲むのでシンプルな香りの茶葉が多い。
     朝食をぺろりと空にしたレンは「本日のご予定は?」と聞く。
    「今日はマレ地区あたりで食べ歩きだ」
    「そうなのかい? 朝からけっこう食べてしまったよ」
    「お前ならまだイケるだろう」
    「イケるだなんて、いつの間にそんなはしたない言葉遣いになられたのですか伯爵様」
    「お前の影響でございますよ、レンぼっちゃま」
    「あっは! ジョージですら言われたことないのに! ぼっちゃま!」
     言われたことがないのか、とカミュは大笑いするレンを怪訝な目で見つめた。
     汚れた食器を食洗機に放り込み、そして洗濯機も回した。乾燥機もついているので放っておけばいい。
    「バロン、こっち来て」
     着替えが終わったレンは両手首にパルファムをつけ、それをカミュの耳の下あたりにこすりつけた。自然とレンの顔が近づく。
    「この香り、バロンにも似合うよ。今日はお揃い」
     長いまつげが何度か震え、蒼玉の瞳が潤った。身長もほぼ変わりないため、キスがしやすい。レンも拒むことはない。好きなときに好きなだけキスができるのは恋人の権利である。
     レンとのキスは心地よい。唇が触れ合うだけで、すでに心が満たされてしまう。
    「バロン、どうしたんだい」
     唇を離して瞳を覗き込んでくる。なんでもない、と言って、カミュは春用のジャケットを羽織った。



       2

     パリで流行を知るには? と聞かれれば必ずマレ地区と答える人が多いだろう。パリだけでなく世界に流行をもたらしているこの優美な地区は、旧市街の名残りがある昔の様式美建築物が現存しつつ、近代アートやブティック、スイーツなどが並ぶ。工場地区をリノベーションした箇所には日本の有名ファストファッションや雑貨屋も並んでいた。
     しかし早めに街に来てしまったせいかどの店もまだ開かれてはいない。まずはバターと小麦粉の香りを漂わせているパン屋でパン・オ・ショコラを買う。レンはバゲットと同じ生地で作られたタバチュールというパンを吟味しながら「これなら持ち歩けるかな」と二つ買っていた。
     店の外でさっそくパン・オ・ショコラにかぶりつく。む、これは、と思わず唸るほどの繊細な表面がはらはらと口の中で崩れる。そしてクロワッサンの芳香と混ざり合うビターなショコラ。うまい、と素直に口走ってしまう。
    「フランスのブーランジェリー(パン屋)はどこも上手くてかなわんな。もちろん日本のパンも美味だが、方向性が違う。日本でもフランスパンは人気になっているがな」
     フランスでブーランジェリーと名乗っていいパン屋は一定の条件がある。冷凍処理を行わずに店内で小麦粉から練って生地を作らなければならない。個人店舗ならまだ可能だが、チェーン店となると、普通ならセントラルキッチンという工場を作り、そこから各店舗へパンを運ぶほうがコストがかからない。
    「さっきの店は、ブーランジェリーと名乗っていたね」
    「そうなのだ。狭いパリの店で生地をこねる場所を確保するだけでも大変だろう」
     パンを食べ終わり軽く散歩していると、そろそろと他の店も開け始めるのが見えた。基本的に時間厳守ではない街なので予定の時刻よりものんびりとした開店準備のようだ。
     トリュフがうまいと評判のショコラトリーにも入ってみる。いくつか味見をして、結局はトリュフよりも世界各地のカカオ豆が比較できる板チョコのセットを購入した。
     レンは「やっぱり産地によってかなり味は変わるものなのかい」と言うので「一度食べ比べたらいい」と意地の悪い返事をした。「オレの苦手なものって知ってるくせに、そういうこと言うんだよバロンは」と苦笑する。
     次は一種のシュークリームしか売っていないシュークリーム専門店に入る。日本でもこの手の一種類しか商品がない店が増えつつあるが、無駄ながなくていい。焼き立てらしくシューの皮がパリッとして歯ごたえがあった。フランスのシュークリームは全体的に日本よりも噛んだときの感触がしっかりしている気がする。
    「天気が良くてよかった。まさに食べ歩き日和だ」
    というレン本人はあまり食べてはいない。
     甘いものが苦手なやつに無理やり食べろとは強制できないため、甘くない店にも連れて行く。
     その店はいつも行っても列ができているという名店だが、テイクアウトが多いために回転は早い。列に並ぶとパリでは珍しい愛想の良い店員が先に注文を聞いてくるので「fallafel」と伝え、その場で支払も済ますと「fallafel」にチェックの入った紙をくれる。その紙を順番が来たら窓口に渡し商品をもらう。
     ファラフェルとはひよこ豆やそら豆を潰したコロッケと野菜を薄いナンのようなパンで巻いたもの。渡される直前に「ピーカンはどうする?」と聞かれたので、レンはすかさず「たくさん」と答えた。渡されたファラフェルには白いシーザーソースの上に赤いピーカンがたっぷりと振りかけられていた。容赦がない。
     肉を一切使用していないが、かなりのボリュームがあるためにカミュはレンから少し分けてもらうだけにした(できるだけピーカンを避けて)。
     サラダには紫キャベツにトマト、きゅうり、揚げナスが入っていたが、この揚げナスがサラダだけの物足りなさを補っていた。豆のコロッケもスパイスがたくさん使用されており、肉がなくとも食べごたえがある。レンも気に入ったようで、これは美味しい、とすぐに食べきってしまった。こいつの胃袋は未知数だ。
     喉が渇いたのでスーパーマーケットで水を買う。
     本日のパリは晴天なり。雲も途切れがちに流れていないため、正午ともなると太陽の光が降り注ぐ。初夏ではなるが、場所によっては陽光が熱いと感じることもあるため水を飲みながら日陰に避難する。
     さて、これからどうするか。さすがに腹が満たされているので少し歩きたい気分だった。
     近くに美術館がたくさんある中で、ピカソ美術館に行くことになった。
     さすがに芸術の街にある世界一有名な画家の美術館だけあり観光客がすでに入口で渋滞を起こしていた。しかし中に入ってしまえばゆっくりと鑑賞できるほどのゆとりはある。
     ゲルニカのあるマドリードのピカソ美術館ほど大型の絵画はないが、青の時代と呼ばれる青年期に描かれた絵画がいくつもあった。もとは親族が所有していた作品ばかり集めた美術館だけにマニアックな作品が多い。
    「ピカソのフルネームを言えるか、レン」
    「すごく長いというのは知ってるけど言えないなあ」
    「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picass(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ)」
    「バロン、なんで言えるんだい」と笑うレン。
    「この間ちょうど寿がクイズ番組でえ答えられなかった問題でな。調べて覚えていた」
    「今聞いても覚えられないよ」
    「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picass(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ)だ。言ってみろ」
    「Pablo Diego José Francisco……」
    「もっと早く」
    「Pablo Diego José Francisco de Paula……、無理だよ」
     鑑賞中に笑わせてくるのはナシだよ、と窘められたので大人しく鑑賞する。
     美術館を出てからは、ピカソはなぜ一人の女性を愛し切ることができなかったのか、という議論をしながら、どうせならカルナヴァレ美術館にも行こうということでトリニ通りを歩く。
     そして、ゆるくカーブがかかった道沿いを歩き三叉路に出たところの角に、運命の店と出会ってしまった。
    「ゴーフルの名店ではないか」
    「なら入ってみるしかないね」
     黒を貴重とした門構えに金字で店名と誕生年が描かれていた。一七六一年創業という老舗のゴーフル屋だ。本店は北フランスのリールという街にある。
     店内はショコラやケーキもあるが、やはりメインのゴーフルを真っ先に見定める。レギュラーはバニラらしい、他にもピスタチオ、アーモンド、ラズベリーなどのフレーバーが揃っていた。
     ひとつから購入可能ということで味見のためにバニラを購入。
     日本でいうゴーフルというとぱりっとした薄い煎餅にクリームが挟まったものを思い浮かべるが、フランスのゴーフルは基本的にはワッフル生地だ。ただ、この店のワッフル生地は薄く焼かれているが、硬い食感も残しつつふんわりとしている。間に挟まったクリームはしっかりとバニラビーンズが見え甘い。だが、シャリシャリとした食感もある。不思議な食べ心地だが、素直に美味い。
     せっかくだから全てのフレーバーがセットになった箱入りを購入した。
     店を出る時「すごく幸せそうな顔をしている」とレンに指摘された。


       3

     それからもヴィクトル・ユーゴー記念館に行き、道すがら美味しそうな店があればふらりと立ち寄って、夕刻には川沿いに到達した。パリの恋人たちはいつもセーヌ川を渡る。
     日本ならば夕陽に染まってもおかしくない時間帯だが、パリでは日没はまだ先になる。
     川面をきらめく光は幾千も前から変わらない。それは三年前とも同じ煌めきをカミュの瞳に反射させていた。穏やかな流れの上を、初夏の風が滑っていく。
     二人はしばらく川の流れを眺めながら雑談をしていた。
     今夜の夕飯は家にしよう、お土産はキャラメルにしようか、明日の予定は……、そんな話が続いたあとに、ふと二人の間に静寂が訪れる。
     レンはくるりと川を背にして橋の欄干にもたれた。
    「バロン、オレね、この旅が始まるとき、ちょっとした予感みたいなものがあったんだ」
     先に静寂を破ったのはレンだった。
    「もしかしたら、バロンはこの旅で終わらせようとしているんじゃないかって」
     二人の物語を。
     そう言われて、カミュは改めて恋人の他人の心の動きに対する敏感さを思い知らされた。よく見、よく感じている。
    「三年も一緒に過ごしてきたから、嫌われたり愛想を尽かされたりしたわけじゃないなってことはわかる。だからこそ余計に理由がわからないんだ」
    「理由か。確かに、俺は今回の旅から帰ったらお前に話そうとしていた。始まりのこの場所で、終わりにしようと」
    「そんなの一人で決めちゃってサ。とても身勝手だよそれは」
    「離れることで別のまっとうな幸せを与えることもできる。それもひとつの愛だろう」
    「それは否定しない。けれど、オレはイヤだね。オレの人生を勝手に決められるのは」
     レンの主張はまともだ。間違ってはいない。
    「オレはイヤだからね。諦めの悪さだけは学んできたもつもり。どうしてもバロンがオレから離れたいのなら、話し合いたい。二人で決めて、納得したい」
    「そうだな。お前の言うとおりだ」
    「別れたいと思った理由はなに?」
    「単純ではない。いくつもの理由が存在する」
    「オーケー。ならひとつずつ解決していこう。時間はまだある」
     まず確認しておきたいんだけど、とレンはカミュの手を取った。
    「オレのことは、愛してる?」
     答えのわかったことを聞く。それでも確認しておきたいのだろう。
    「ああ、もちろん」
    「そこで愛していないって言えば、すんなり別れられたのに」
    「くだらん嘘は言いたくはない、お前にはな」
    「バロン、だから離れたくないんだよ」
     レンは軽く手を引き寄せるとカミュを抱きしめた。
     この街では無名でもあり、そして同性だろうと誰も恋人たちのハグを邪魔する者はいない。
    「なら、オレが一番不安になっていたことを聞くよ。別れる理由に、セックスは含まれるのかい」
     その質問は想定済みだった。なぜなら、二人は付き合ってから一度も身体を交わしたことがない。
    「恋人同士だからとセックスが必須ではない。あくまでも愛情表現のひとつにすぎん。俺はお前とキスをしたりハグをしたり、それ以上に共に過ごす時間で心が満たされてしまう。たが、これは俺が勝手に満たされているだけで、お前も同じとは限らない。それをわかっていながら放置していたのだ」
    「それはオレも同じことだよ」
    「どこが同じなのだ」
    「今、バロンが言ったこと全部。これでも愛の伝道師なんで二つ名があったんだよ。そんなオレが、恋人とキスやハグだけで満足しちゃうなんて。自分でもしばらくは信じられなかった。だから、同じだよ」
    「無理はしておらんのだな。我慢しておらんのだな」
    「してないよ、本当。だって、バロンも男の子ならわかるだろ。好きな人を目の前にして三年も我慢できるかい?」
    「ふむ、たしかに」
    「だから、我慢しなくても自然とオレたちは過ごせたんだ。セックスがなくてもね。それに、同性同士では珍しくないんだって聞いたよ」
     カミュの腰に巻き付いたレンの腕に力が入り、二人の間に隙間が消えた。
    「バロンのね、声とか、匂いとか、ぬくもりとか、オレを抱きしめる力加減とか、一緒に過ごしているときの空気感とか、そういうのが好きなんだ」
     離れたくないな、と耳元に吐息がかかる。
     そうだな。
     もうちょっと、一緒に居たい。
     それはどのくらいだ。
     飽きるまで、とか。
     それは難題だ。
     ここまで話して、カミュは気がついた。三年も過ごしてきて、お互いに未来に繋げるための話題を避けてきた気がすると。今だけかもしれないと、半ば諦めていたのだろうか。
    「ひとつは解決できたかな」
     レンがカミュから少し離れて顔を覗き込んでくる。
    「そうだな、心に刺さっている釘が一本抜けた気分だ」
    「うん、なら旅が終わる前にその釘を全部抜き取ろう」
     全て抜き取れたら、今度は未来に向かって歩めるのだろうか。
     それは愚問に感じて声には出さなかったが、カミュはレンの手を握りしめた。
     二人で決めたい、未来を。
     その言葉がどれだけカミュを救ったのか、今の二人はまだ知る由もない。



    グラス

       1

     彼がいつからそのように考えていたのか、最近なのか、それともキスをしたあの時からすでに終わりを見据えていたのか。
     レンは雨漏りの染みが抜けない天井を眺めながら思考に耽っていた。
     早くに目が覚めたが、この時期のパリは日が昇るのも早い。まだ少しベッドの中で身体を休めたいと思い、ぼんやりと宙を見ていたつもりだが、脳は勝手に昨日の恋人との会話を思い出す。
     恋人は別れたがっていた。それも、その別れこそが愛することだと信じている。
     なぜそうしたいのか、レンも気づいてはいた。お互いの立場がそうさせていることも理解はしている。
     アイドルとしての二人。
     男性同士の二人。
     異国の二人。
     みっつも壁があるんだな、と実感させられた。
     おそらく、ひとつだけでも乗り越えるのは大変な壁がみっつもある。
     それでも、レンは諦めたくはない。
     両手で顔を覆い目元をマッサージする。一人で考えていても仕方がない。これは二人の未来がかかっている変化だ。そう、変化しようとしている。それも悪い方向に。だから二人で軌道修正しなければいけない。
     だいたい「別れよう」と言われて「そうだね」と言うとでも思ったのだろうか。どうやって諦めさせるつもりだったのだろう。
     沸々と、絵筆を洗って汚れた水のような汚水が、心の奥を流れていく。あまりよくない傾向だ。現在の感情につられるように幼少期の感情も引き上げられてしまっている。
     これはよくない、気分を変えていかないと。
     大きく身体を揺すって起き上がると、樫の木を組み合わせた床が鳴った。
     すでにカミュが起きているかもしれないので、ルームウェアに着替える。裸体のままで眠っていると知られたら叱られてしまう。
     リビングには意外にも誰もいなかった。が、カミュは寝室にもいない。どこかへ出掛けているのかもしれない。
     さて、朝食はどうしようか。冷蔵庫と在庫のパンを確認するが、減っていたのはジュースとヨーグルトぐらいだった。もしかすると昨日買い込んだスイーツをモーニングセットに組み込んだかもしれない。
     念の為、二人分のバゲットを切り分け、溶き卵と生クリームをあわせたソースに漬ける。その間にハムを切り、ブルーチーズをスライスしておく。バゲットにソースが染み込んだらバターを溶かしたフライパンにバゲットを両面焼き、ハムとチーズを挟んでチーズが溶けるまで温める。バゲットからチーズが垂れてきたら取り出しの合図だ。
     平皿に載せ、さらにベビーリーフとプチトマトを添える。ブルーチーズだから蜂蜜が合うだろうが、レンは塩胡椒をしてからオリーブオイルをかけた。
     朝食を食べながらカミュが毎朝読んでいる新聞をてにとってみたが、やはりFrenchを読むにはまだ修行が足りないらしい。
     半分ほど食べ終わったところで、カミュが帰ってきてテーブルにキーを置いた。
    「おかえりバロン。お散歩かい」
    「ああ、早くに目が覚めたんでな。近所のカフェで甘いココアを堪能していたら寿から連絡があって対応していた」
    「へえ、ブッキーが?」
    「新曲のプロモーションについて確認事項があると言ってな。緊急だからプライベートの連絡先を知っている寿が連絡をよこしたらしい。本当はお前が起きる前に帰ってくるつもりが遅くなってしまった」
    「それはかまわないけど、あ、バロンも食べる?」
    「そうだな、いただこう。そうだ、七海が預かっているアレキサンダーも元気にしているらしい」
    「それはよかった。レディには特別なお土産を買っていかないとね」
     言いながらレンはすでに出来上がったバゲットに挟まれたチーズが再び溶けるまでフライパンで温め直した。そして皿へ移す。思ったとおり、カミュはオリーブオイルではなく蜂蜜をたっぷりとかけている。
    「今日はキミと一緒に行きたい場所があるんだ」
    「ほう、お前からそんな誘いが来るとはな」
     早めに出て早めに帰ってこよう、という提案に、カミュは承諾してくれた。


       2

     旅行をするとき、二人は現地をあちこち歩き回ることが多い。普段から鍛えているせいもあるが、体力だけは自身があった。
     今日も朝食の後にすぐにシテ島に向かう。
     プティ・ポン通りを抜け、橋を渡ればすぐにノートルダム寺院が見えてくる。この景色を見るのも三年ぶりとなるのだ。
     そう、三年前はカミュに使いを頼まれてこの辺りを散策したのだ。
     当時は建物の外側だけを鑑賞しただけなので、今日は中にも入ってみようということになった。
     広場にはすでに多くの観光客が集まっており、さらにノートルダム寺院の入口からは長蛇の列が見えた。さすがに有名な観光名所である。これでは寺院特有の厳かな雰囲気は感じられないだろうな、と思いつつ、最後尾に並ぶ。
     並んでいる間に建物の細部までを観察してるカミュの横顔をこっそり覗き見る。
     おそらく、審判の門と呼ばれる入口の周囲を飾る彫刻は、蘇った死者をミカエルと悪魔が天国と地獄に振り分けているシーンで、両手を広げている男性の像がイエス・キリストを囲むようにマリアとヨハネの像がある。と観察しているのだろう。
     こうして持っている知識と見ている世界を照らし合わせているときの横顔が好きだった。すっと鼻筋が流れるように、それでいて先端が誇り高く美しい。意志の強い瞳。
     そういえば、付き合う前からこうして彼は彼の美しさを眺めていた。
    「また見ておるのか、よく飽きんな」
     油断しているとすぐに目があってバレてしまう。ときどき、見ていることをわざと気づかないふりをしてくれることもある。
    「バロンは、好きな芸術品を眺めていて飽きないだろう」
    「飽きないな」
    「そういうことだよ」
    「そういうことか」
     カミュは「ふむ」と考える仕草をしてから
    「俺はお前の寝顔はよく眺めているが、たしかに飽きないな」と言った。

     いよいよ寺院の内部に入ったが、中も人で溢れていた。やはり厳かな雰囲気は諦めたが、それでも長らく人々の信仰を受け取ってきた建物は記憶や想いが漂っている。
     大きなアーチを描くように柱が天井に伸び、かの有名なバラ窓を囲んでいる。
     外からの光を取り込み、幾多の色の硝子を透き通り、周囲の壁に色とりどりの光を散らしていた。
     観光客が多いが、中には長椅子に座り祈りを捧げいる姿を見ると、やはりここは信仰の場だと感じた。
     レンはカミュの手を握りしめる。軽くだが、握り返してくれた。
    「以前、花嫁姿がいいと言ったな」
    「え?」
     唐突に話し始めた内容に、レンは過去の記憶を漁りだす。
     ああ、これはもしや。
    「白いベールにマーメイドドレスだったか」
    「よく覚えているね、バロン」
     記憶力に恐れ入った。
    「なぜそこで花嫁なのだ、とは疑問に思ったが、あれは実際に花嫁衣装を着せたいというよりも、お前の気持ちが抽象化した結果、出てきた表現なのだろう」
    「うん、いや、うーん、思い出すと少し恥ずかしいな」
    「そのあと、すぐに誤魔化したがな」
     乾いた笑いしか出てこない。
    「オレは、バロンをレディの代わりにしたいわけじゃないよ。それだけは伝えておく……」
    「わかっている」
     カミュに引っ張られるようにして寺院の中を歩いていく。
    「だが、俺は似合うぞ。前に女装をする企画があってな」
    「知ってる。四人とも似合ってた」








       3

     ノートルダム寺院を出たあとは、さらに橋を渡りサン・ルイ島へと渡る。 
     サン・ルイ島はアイスクリーム島とも呼ばれているぐらいにアイスクリーム屋が多い。とにかくアイスクリーム屋の看板があちこちにあるので目移りしてしまうが、あまり食べすぎるとお腹が冷えてしまうから一店舗だけにしようとカミュと約束を交わした。そのかわりに、レンも食べることでシェアをするという折衷案を飲む。
    「どの店にするか悩んでしまうね」
    「この店が一番有名どころだ。こういうときは人気店から攻めるに限る」
     目標をつけた店は入口から列が形成されていた。今回の旅はどこへ行っても列に並んでいる。
     並んでいる間に「アイスクリームの起源は古い」という話をカミュはし始めた。
     遥か遠く、中国は殷の時代にはすでに食されていたと言われている。天然の氷や雪に味を加えていたのだろう。人間は古代から氷菓が好きなのだ。だからこのパリの発祥の地と言われるサン・ルイ島にアイスクリームを求めて人々はやってくる。
    「バロンの国でもアイスクリームは人気があったのかい」
    「いや、そもそもアイスクリームを売っている店があまりなかった。今はわからんがな。砂糖すら自由に手に入らない国だ」
    「そうか、それでバロンはすごく砂糖が好きになったんだよね」

    「子供の頃に我慢していたことって、大人になると歯止めが効かなくなるって聞いたことあるよ」
    「否定はせん。幼少期に埋められなかった穴は大人になっても埋めることは難しい」
    「それは、絶対に埋まらないのかな」
    「どうだろうな」
     順番がやってきて、カミュは塩バターキャラメル、レンはオレンジ系のアイスクリームをオーダーした。
     オレンジのアイスクリームは自然なフルーツの甘みと酸味が舌の上で溶けていく。甘いものが苦手なレンでも美味しく食べられるアイスだった。
     カミュも気に入ったらしく、濃厚な風味を堪能している。
    「さっき絶対に埋まらないと言ったことを撤回する。これは、美味い」
    「うん、このアイスクリーム美味しい。人気店になるのもわかるね」
    「他のフレーバーも試したい」
    「今日はだめだよ、バロン」
     また来ようね、と言い掛けて、レンはアイスクリームと共に飲み込んだ。

    「このワッフルコーンも美味しいね」
    「そうだな」


    「今日も、釘を抜いてくれるのか」
    「もちろん、どの釘を抜く?」
    「そうだな。例えば、結婚に関してだろうか」
    「ふむ、バロンは結婚したいの」
    「形式にこだわっているわけではないが、不便だ。日本の病院ではオペの書類は親族にしか書けないからな。それに」
    「それに?」
    「最期のとき、看取ることもできん」
     他にもある、とカミュは滔々と書類上でパートナーになれないデメリットを並べていった。
    「日本では一部の地区ではパートナーシップ条例はあるけれど、正式な結婚とは違うしね」
    「ああ、そして俺の国でも同性婚は前例がない」
     まだ、決まったわけではないが、とかミュは前置きをする。
    「俺は、いつかは母国へと帰ることになる。日本に永住する権利はない。そして、いつ帰国命令が下るのかもわからん。そのとき、たとえお前が一緒に来ると言っても、お前はシルクパレスに永住はできん。そして結婚もできん」
     そこに、二人の未来が見えない。
     カミュはそう言いたいのだ。
    「長く共に過ごすには、不便ではあるよね」

    「最期のときは、病院でなくてもいいんじゃないかな。自宅なら……。手続きは面倒らしいけど。あと、オペの書類はどうなんだろうね」
    「最期のときまで考えているなど、馬鹿らしいとは言わんのだな」
    「言わないよ、真剣なんだから」

    「死がふたりを分かつまで、なんて言うけど、現実を見るととても難しいね」
    「なんの障害のない夫婦でさえ離婚することもある。障害だらけの俺たちでは、死の前に二人が分かつだろう」
    「バロン、例えばだけど、同性カップルだったら、長い間一緒に暮らしている人たちもいる。シルクパレスでも、異国の人と結婚している人もいる。そういう人たちから、ヒントを貰うってことはできるんじゃないかな」

    「オレたちだけで考えても解決できないことは、すでに経験のある人や、もしくは法律のプロと相談したほうがいいかもって、思うんだよね。ここで解決策が見つからなくて、別れるのは悔しいな。オレたちが知らないだけで、どこかに解決策があるのかもしれないのに」
    「……お前の、言うことは一理ある」
    「まずは、探してみようよ。二人で生きていける方法をさ」
    「それでも見つからなかったら」
    「また探す。探して探して、なければまた探す。考える。それでもなくても、オレとバロンが諦めなければ、いつでも愛し合える」
    「なぜ、そこまで苦労して共にいようとするんだ。もっと、異性を愛すれば楽になるのにな」
    「そんなの、バロンを愛してるからに決まってる。失うことに比べたら、そんなこと苦なんかじゃない。たったひとつの愛を失うことのほうが……苦しい」

    「解決にはならなかったけど、少しは釘抜けたかな」
    「少しはな。解決というより、お前の愛に胸を打たれた、といったところか」
    「オレの愛を思い知ったかな」


    タルトタタン


       1

     本日も晴天なり。
     驚くほどに雲ひとつない永久の青に染まった天蓋に、太陽が存在感を示すかのように輝いていた。ツバの広い帽子を持ってきて正解だとカミュは自分を褒める。
     開けた空間の中、足元に広がる白い砂が陽光を反射して色素の薄い瞳を刺激する。胸ポケットからサングラスを取り出して鼻の尾根に載せた。
     円形の闘技場の真ん中に立つと、自分が剣闘士になった気分になる。思わず、幼い頃から身体に叩き込まれた剣術の構えをする。すると、隣からピューと口笛が鳴った。
    「さすが、すごく様になってる」
    「決闘を申し込む」
     空の切っ先をレンにつきつけると、彼は両手を軽くあげて「遠慮願いたい、剣で勝てる気がしないよ」と笑った。

     リヨン駅からTGVで五時間程度、ヴィンセント・ヴァン。ゴッホの静養地として有名になった街アルルへ到着したのがつい先程。そこからとりあえずは世界遺産巡りをしようということでこのコロッセウムにやってきた。
     ローマにあるコロッセウムよりも百年ほど古く、世界最古と言われている。
     まだ朝のためか観光客はまばらだったが、アルルもまた観光地として栄えている。
     実際に街中を歩いていると、あちこちにゴッホの絵のモデルとなった箇所に解説つきのモニュメントが立てられており、全国のゴッホファンが聖地巡礼しやすい。
     モデルとなった風景のほとんどは変化してしまったが、それでも当時のまま残っているものもあれば、ゴッホの絵を参考に失われたものを再現した場所もあった。
     次に古代劇場に寄ってから、近くのレストランで朝食を摂る。
     アルルは古代ローマより主要港として栄えてきたこともあり、地中海の海の幸を利用したレストランが多い。このレストランもそのひとつで、生牡蠣、ムール貝、エビやイカなどがふんだんに使用されている。
     庶民的なレストランで地元の人も食事を楽しんでおり、店員の夫婦もフレンドリーで居心地がよかった。
     魚介ブイヤベースのスープはもちろん、サーモンのタルタルステーキ、イカのフライ、白身魚のソテーはどれも絶品で舌鼓を打つ。
    「行き当たりばったりで選んだけど、このレストラン最高だね」
    と恋人もご満悦で、本来の大食いが発揮されどんどん皿が空になっていった。
    「デザートはソルベか」
    「さすがにそれだけじゃ足りないだろう。デザートおかわりするかい?」
    「いや、メインディッシュはアフターヌーンティーに置いておこう」
     レモンのソルベで口の中が爽やかになったところで、再び街を探索する。
     アルルは紀元前から主要港として栄えてきたが、鉄道が発達したことで港を介しての貿易が廃れてしまった。それから街の発展も途絶えてしまい、時間が止まったような和やかな雰囲気がある。美しくも雑音が多いパリから、静かな時を刻むアルルに長くとどまったゴッホの気持ちもわからないでもない。
     かつて栄えただけあって規模は大きい街だが、とにかく全てが緩やかに流れている。
     街の中心では人通りも増え、日本でも目にしたことのある有名店も見かけた。自然派化粧品店でハンドクリームを買い、ショコラトリーではカラフルなショコラを少量買って歩きながら頬張る。
    「バロンはどんなフレーバーのハンドクリームを買ったんだっけ」
    「バニラだな」
     すると、レンはカミュの手を取ると自分の鼻先に近づけた。
    「ほんとだ、甘い匂い」
     蒼い瞳と視線が重なり、カミュは、ぎゅっとレンの鼻をつまんだ。
    「ふにゃ」
    「油断しておったぞ、神宮寺レン」
    「まいったなあ」
    「次どこに行くかな」
    「あそこ行ってみよう。ほら、ゴッホの跳ね橋」
    「いいな」


       2

     カフェ・クレームをテイクアウトし、タクシーを拾って「ラングロワの橋」と運転手に伝えるとすぐに車を走らせた。街の中心部から少し離れたところにあるため、この橋へ行く観光客はみなタクシーを利用しているのだろう。
     陽気なタクシー運転手は走らせながらゴッホのゆかりのある場所を案内してくれた。余分に走らせて料金を上げる魂胆だとわかってはいるが、トークが面白いためにむしろ降車時にチップをはずんだ。「Merci」とにこやかな笑顔で去っていった。
     ゴッホが何度も絵のモチーフにしたという橋は、もとは別の場所にあったが現在は近代的な橋に変化したため現存はしない。しかし、「ラングロワの橋」まだ存在する。ただし、橋として使われることはなく、観光用のモニュメントとして。
     橋の傍にレンと並んで腰を落とし、カフェ・クレームにたまに口づける。
     プロヴァンスの気候は冬は暖かく、夏は比較的暑いが空気が乾燥している。そのため年中過ごしやすいだろう。
     風が川の匂いを運んでくる。
     パリのセーヌ川とは違った風を運んでくる。気持ちが良い。
    「こういう街で、いろんなことを忘れてのんびり過ごすのもいいね」




    「ここで、釘を抜いていくかい?」
    「釘か……、今日の釘はな、とても、子供のわがままのようでな」
    「良いじゃないか、オレだって、いつもワガママばかり言っているよ」


    「この間、別の事務所のアイドルがタブロイド紙にすっぱ抜かれていただろう。恋人がいると。あれが羨ましくてな」
    「オレたちだと、事務所の先輩後輩だったからね」
     二年前にカミュとレンもパパラッチに盗撮されたことはあった。そのときの見出しは「プライベートでも本当に仲が良かった」というもので、拍子抜けしたものだ。
    「アイドルは基本的に恋愛は禁止だ。発覚した途端に仕事が減るケースも少なくはない。スポンサーに迷惑をかけることもある。恋人がいると公言しても上手くやっている奴もいるがな」
    「上手くやっている。そうだね、異性のカップルなら、だろう?」
    「ああ、もし俺たちがカミングアウトすれば、どれだけ周囲に迷惑をかけることになるのか、想像しただけで胃が痛くなりそうだ」
    「そこで真っ先にみんなのことを気にするのがバロンらしい」
    「お前の立場も危うくなるだろう」
    「神宮寺家での? そんなことはないよ。オレは三男坊だし。あるとすればボスに叱られるぐらいかな」


    「十年、ずっと隠し続けている恋びちたちもいるが、俺は嫉妬深いんでな。お前に悪い虫が付きそうならポロッと言ってしまうかもしれん」
    「ポロッと、か、うーん、ふふ」
    「何を笑っておる」
    「ごめん、嬉しくてさ。ジェラシーあるんだね」
    「それなりにある。お前ほどではない、とは思う」
    「どうだろう。オレは相当嫉妬深いのは自覚はあるけど。自覚のない人間ほど激しいかもしれないよ。それこそ、本当に何かの弾みで口が滑ってしまうぐらい。わざと」
    「今の所、完全に否定できんところがな。十年隠し通せたとして、次は何年だ。二十年? もしかすると引退したあとになってか? それまで、誰にもお前の愛を語ることはできない」
    「バロン……」

    「こればかりはオレたちだけで勝手に決められないね」
    「そうなのだ。だから頭を悩ませている」
    「……、バロンは、ずっと考えていてくれたんだね」


    「オレたちは職業柄、どうしても仕事に関わってくる人たちのことを考えてしまう。それは当たり前のことなんだけど、もう少し自分勝手になってもいいのかな」
    「なんとも言えんな」
    「そうだね」



       3

     アルルに来られたのも、たまたま三ツ星のホテルに空き部屋をとれた幸運があったからこそだ。さすがに日帰りではゆっくり観光もできぬ、ということでホテルにチェックインに行く。三ツ星といっても四階建てのホテルにしては小さい。十二世紀頃の民家を改装した建物で、古さは残しつつ部屋は清潔であった。ベッドメイキングもよくされている。
    「ダブルベッドだ。広いベッドで眠れるね」
     そう言って、レンはベッドに寝転ぶと両手を広げて「こっちおいでよバロン」と誘った。
     誘われるがままにカミュはレンの腕の中へ収まる。
    「夕飯まで少し時間あるね」
    「そうだな」
    「しばらくこうしてていいかな」
    「ああ」
    「ねえ、あのときパリに行こうって誘わなければよかったのかな」
     レンの声はカミュの鼓膜を振動し、音は言葉へと変換させられた。脳が言葉の意味を分析した刹那、体内の血管が縮み脳に十分な酸素が届けられずに軽い眩暈までした。
     心臓が正常に動いているのか疑わしくなるぐらいに、激しく鼓動したかと思えば急に静けさを取り戻す。
     体中でエラーを引き起こしている。
     そう、望んだ結果ではないからだ。
     恋人を抱きながら、パニックになりかける脳を落ち着かせる。
     別れはどんな形でも相手を傷つけてしまう。それを失念していたわけではない。
     ただ、未来のことを見すぎて目の前の恋人の気持ちが霞んでいた。
     なんてことを言わせてしまったのだろう。
     後悔させたかったわけではない。
    「レン……」
     名を呼ぶが、返答の代わりに寝息が届いた。
     まだ、安心して眠ってくれるのか。
     頭部に鼻を埋めて、自身も目を閉じた。

     夕刻に目が覚めた二人は、ディナーのためにホタルのレストランに向かった。
     仄暗い室内の中、硝子コップの中でキャンドルの淡い炎がテーブルを照らしている。
     席に座るなり食前酒を頼む。プロヴァンス地方で作られたスパークリングワインはほどよい辛さで目覚まし代わりに良い。
     プロヴァンスのフルコースを楽しんだあと、運ばれてきたデザートを見てカミュは「これは」と感嘆した。
    「ホテルのレストランでタルト・タタンを食せるとは」
     タルト生地の上に美しく整然と並んだ砂糖とバターで炒めたリンゴにナイフを入れる。タルト生地にナイフが到達すると、一気にサクッという音と共に切れた。添えられた生クリームを少し撫で付け口へ運ぶ。
     キャラメルの香りの中にリンゴの甘酸っぱさが広がる。表面は熱で溶けたリンゴも、中の芯はしゃきっと残っている。そして歯ごたえの良いタルトの甘さがいい。
    「タルト・タタンはタタン姉妹が経営しているホテルで生まれた。生まれ方は諸説あるが、アップルパイを作ろうとしていたが炒めていたリンゴが炒めすぎて失敗し、リカバリするためにタルト生地を上にかぶせてフライパンのままオーブンで焼いた。いわゆる偶然から生まれたタルトではある」
    「スイーツって、失敗から生まれたものも多いね。フォンダンショコラもそうだろう?」
    「ああ、よく知っておるな」
    「バロンと一緒に居ると、いろんなものと触れ合えるからね」
     それは、俺も同じだ。
     お前がいなければ、パリを心から楽しむこともしなかったろう。
     恋人が作ったケーキを食することもなかったろう。
     誰かと同じベッドで眠ることもなかったろう。
    「バロン……?」
    「いや、あまりの美味しさに言葉を失っていた」
     そうして、カミュは生クリームの追加をウェイターに頼んだ。


    パリブレスト

       1

     列車の中ではほとんど眠っていたために、どのあたりから天候が変わったのかは気づかなかった。アルルを発つときは澄み渡る青空に綿菓子のような雲が散らばっていたはずだ。
     リヨン駅に降りるなり、頭の上から重苦しい曇天が覆いかぶさってくる気配がした。湿気も高くなり、空気も重い。
     昨日は少々感情的になっていたかもしれない、とレンは感じていた。
     アルルという街に吹く風がレンの心を浚っていったのだ。パリに戻ってみれば、心の中の泥は再び溢れ、天にまで影響を及ぼしている。
     頬に雫が垂れて、やがて雨となった。レンとカミュは慌ててタクシーに乗り込む。
     アルルで出会った運転手とは真逆に沈黙の中アパルトマンへと着く。
     荷物を各部屋に仕舞い、小腹が空いたなと冷蔵庫を見る。まだ食材が残っていたので、ハムや人参などを刻み、フライパンでコンソメスープの素と共に炒めた。それから溶いた卵を流し入れてスパニッシュオムレツを作る。仕上げにチーズを削り散らす。残ったハード系のチーズは日本へ持ち帰れるが、フレッシュ系は食べきったほうが良いだろう。ブルーチーズをスライスしてオムレツの横に並べた。そしてワイングラスもテーブルに飾る。
    「豪華なランチだな」
     レンがオムレツを作っている間に洗濯機を回していたカミュがリビングに戻ってきた。
    「昼間からワインを嗜むのもパリらしいだろう?」
     グラスに赤のワインを注ぎ、重ね鳴らす。澄んだグラスの音が響く音で、レンの意識は白昼夢のような不安定な意識に飲まれた。
     浮遊感のある身体、夢の中にいるような現実味のない世界。
     オムレツをナイフで切り、フォークで食べるカミュの姿が霧がかっている。
     雨が降っている。
     窓に水滴がついている。
     水滴はどんどん増えては流れ落ちる。
     洗濯機の洗浄が終わり、乾燥に移る。
     ああ、そうか。
     ここに居ると、本当のパートナーになった気分になれるのだ。
     料理を作り、衣服を洗い、買い物に出かける。
     誰もが二人を恋人だと認識している。
     手を握る、キスをするからだ。
     二人で生活をしている。
     何気ない日常の断片。
     憧れの生活を思う存分に体験できる街。
     今日で終わるかもしれない、この思い出。
    「どうした、食欲がないのか」
     オムレツに手をつけないレンを訝しんだカミュが尋ねる。
     このままでは、終わってしまう。
     レンは手にしていたフォークとナイフをテーブルに置くと立ち上がってジャケットを羽織った。
    「ごめん、ちょっとだけ出掛けてくる。すぐ戻るよ」
     呼び止める声も耳に入らぬまま、レンは部屋を飛び出していた。
     いつも朝食のクロワッサンを買うパン屋、新聞を届けてくれる青年がいる売店、スーパー、ショコラトリー、ブティック、それは映画のフィルムようにレンの視界から流れていく。
     自分でも何を求めているのか定かではない。ただ走って終わるかもしれない。
     なにも探せないのかもしれない。
     それでも、レンは走った。
     石畳の道を走るのは容易ではない。知人の俳優は毎朝かかせないランニングをパリでも行ったところ、脚を挫いたという。洒落にならない。
     それでも歩くことを拒否した身体は走り続けた。
     酸素が足りない。酸素を欲する。呼吸をする。
     汗がにじむ。
     もし、終わりだったら。
     これで終わりだったら。
     執着なのか愛情なのかは後で考えればいい。
     雨は止まずに、濡れた髪が頬にくっつく。
     薄暗い路地裏の通り道。
     その先に、光が見えた。
     実際には店のイルミネーションだったのだろう。
     だが、レンにとっては、いつか見たリンドウの光のように見えた。


       2

     部屋に戻る頃には下着の中まで濡れていた。普段はあまり何事にも動揺を見せないカミュですらレンの姿を見た途端に、慌ててタオルを取りに行ったぐらいだ。
    「レン、一体どうしたというのだ」
     レンの頭からタオルを被せながらカミュは聞く。
    「これを、キミに渡したくて……」
     自分は濡れてもこれだけは濡れないように抱え込んでいた箱をテーブルに載せた。カミュは箱に記載されたパティスリーの名を口に出す。
    「ケーキを買ってきたのか?」
    「そう、いや、そうなんだけど、これが目的じゃなくて……、なんというか、これを食べてほしくて」
    「要領が得んな」
    「オレもそう思う」
     タオルを頭からかぶせたまま、レンはそっとリボンを解き、蓋を持ち上げた。
     中には、大きなリング型のシュー生地。平行にカットされた中に挟み込むようにカスタードクリームと生クリームが見えている。リングを彩るようにイチゴ、ラズベリー、ミントが飾られていた。
    「パリブレストか」
    「そう、パリブレスト。キミなら起源も知っているだろう?」
     パリからブレストまで往復するブルベ最高峰のサイクリングイベント、PBP(パリ・ブレスト・パリ)。一二〇〇キロメートルの道のりをひたすら走り続ける過酷なラリーだ。
     選手は制限時間内に完走することを目標とし、そして参加するたびにゴール時間を短くしていく。
     仮眠の間もひたすらペダルを漕いでいるという。
     それでも、ライダーたちはチャレンジを辞めない。
     そんなイベントを記念して作られたのがパリブレストというシューリングケーキだった。
     リング型のシュー生地が自転車の車輪に見立てられたという説が濃厚だ。
    「今、切るよ」
     キッチンからパン切りナイフと皿を持ってくると、シュー生地に刃を立てた。さくっと香ばしい音がする。あまり圧をかけすぎると中のクリームが飛び出してしまうので、スライドして切るほうがいい。切り分けたパリブレストを皿に載せて、カミュの前に差し出した。
     初めこそ怪訝な面持ちでレンの所作を観察していたカミュだったが、大人しく椅子に座るとナイフとフォークを持った。そして、ナイフを入れ、フォークで食す。
    「この国のクリームにしてはあっさりした風味だ。しかしバニラビーンズはしっかりと効いている。シュー生地の膨らみと硬さもいい。いくら食べても飽きない味だ」
     いくつか食べたあと、カミュはなにかに気づいたように口の中から掌に吐き出した。
     そこには、磨かれたプラチナのシンプルなリング。
    「エンゲージリングの起源は知ってる? バロン」
     レンの言葉にカミュの反応はない。しばらく指輪を見つめると、レンの手を取ってソファに移動した。
    「やっぱり、必死過ぎるかな、オレ」
     自分でも落ち着こうとしているのに、どうも焦りが出てしまう。それでも、カミュはそんなレンを諌めることはなく、慈しみのこもった瞳で見つめてくる。
    「レン、風邪をひく、まずはシャワーを浴びてこい。それから話をしよう」
     その声音も柔らかく、レンの不安を解そうと努めてくれているのがわかる。
     わかったよ、と言うとレンはシャワーを浴びてから乾いたばかりのシャツとボトムに着替えた。その間も、カミュはソファで静かに待ってていてくれたようだった。
     隣に座ると、カミュはすぐにレンの手を握ってくれた。
     窓の外ではまだ雨脚の強まる気配がする。今夜はずっと降り続けるのだろう。
    「温まったか?」
    「大丈夫、ごめん、心配かけて」
     それでもカミュは怒ることなく、それどころか困ったように微笑んでレンの頬を撫でた。
    「お前はいつもベストを尽くす。努力家だな」
    「バロンもそうだろう」
    「どうだろうな。俺は諦める癖もついている。だが、お前は違う」
    「諦めの悪さは自覚してるよ」
    「俺も、お前のその努力に報いるよう努めなければならん」
     カミュはプラチナリングを薬指にはめ、レンの前に掲げた。
    「どうすれば長く永く共に居られるのか。目一杯、二人で考えよう。引き裂けようとする者が立ちはだかろうとも、そやつに負けてはならぬ。まだ、愛し合っているなら……」
    「ああ、そうだよバロン。その通りだよ。少なくとも、諦める時は今じゃない」
    「せっかくの楽しい旅なのに、不安にさせてしまったな」
     泣きそうになる顔をカミュの肩に埋めると、大きな掌で後頭部を撫でてくれた。


       3

     日が沈むと雨の勢いも弱まり、静かな音色となって辺りを包んだ。その雨音が聴きたくて、レンはカーテンを閉めずにカミュのベッドへ入る。本を読んでいたカミュは眼鏡を外して、サイドテーブルのランプを消した。だが、カミュは上体を起こしたまま、臥せる気配がない。
    「バロン、眠れないのかい?」
    「いや、そうではない。レン、ナイトウェアを着ておるのか」
    「もちろん、キミと眠る時の条件だからね」
    「今夜は脱いで良い」
    「バロン?」
    「脱いで良い。俺も脱ぐ」
     窓からの仄かな街の明かりを背にし、カミュのシルエットがシャツを脱ぎ始めた。レンも上体を起こし、ナイトウェアを脱いでいく。
    「まさか、インナーも?」
    「お前はいつも寝る時は何を身につけているのだ」
    「その日の気分のパルファムかな」
    「今はこれしかない」
     サイドテーブルに置かれていた香水瓶を手にすると、カミュは自分の手首に振りかけ、次にレンの胸元へ振りかけた。柑橘系の爽やかな香りを着込んだようだった。
    「たまには、お前のスタイルで眠るのも良い」
     全ての衣服を脱いだ二人は座ったまま向き合い、微かに見える顔の輪郭をなぞりあった。視界が悪いほど、相手の体温、呼吸、その存在が感じやすくなる。
     親指の腹で鼻を、唇に触れる。耳の形を確かめ、眉の上を滑らせた。
     一定のリズムで落ちていく屋根に溜まった雨の雫と、二人の鼓動が重なり合う。
     初夏の冷えた夜の空気に熱が加わる。
     闇を纏っているとはいえ、恋人の裸体を間近に見るのは緊張した。
     レンの日焼けした手が、カミュの白い胸板を撫でる。
     しきりに愛で合ったあと、顔を近づけた。
     僅かな光に溶けそうな錦糸の髪と燈色の髪が絡み合う。
     鼻先同士で何度か擦り、やがて唇が触れる。
     浅く戯れ、深く繋がる。
    「一度弱音を吐いた俺でも、まだ共に居られるか」
    「もちろんだよ。変わらぬ愛を、キミに」
     愛している、と伝えると、愛している、とエコーする。
     そしてまた唇を重ね、抱き込みながら横になる。
     どこに触れようとも恋人は受け入れた。
     ほら、ここも、ここも、お前のものだと言うように。
     カミュと、神宮寺レンという人間が、別の場所で生まれ、別の場所で成長し、別の経験をし、別の細胞分裂を繰り返しているうちに、いつしか同じ交差点で出会い、同じ道を選んだ。
     全く違う人生を歩んできた恋人が、腕の中にいる。
     奇跡のような出来事に、レンは幸福を感じずにはいられなかった。
     

    サブレ




     朝から冷蔵庫の中身を空にし、簡単に掃除してから荷造りをした。
     帰りの荷造りほど頭を悩ませるものはなく、明らかに初日とは体積が違う内容物をなんとか収めなくてはならない。
     いくつかの甘味はレンの鞄に移動となり、ようやく蓋がしまった。
     忘れ物がないか最終チェックをして、玄関に集まる。
     アンティーク調の古びた家具、使い込まれた食器、歩けば軋む床板、水漏れした天井。
     狭いバスルーム、マッチで点火するガスコンロ、差し込む朝焼け、夜の喧騒。
     三年前この部屋から始まり、そしてまた、ここから始まる。
     終わりではなく、始まるのだ。
    「バロン、また来られるといいね」
    「そうだな」
     レンの顔が近づき唇が触れると、カミュの黒縁眼鏡が少しずれた。

     パン屋に寄ると、焼き立てのサブレが並んだところだった。袋詰にされたサブレを購入する。パン屋を出ても、バターと小麦の香りが手元から漂ってきていた。
     タクシーに荷物を突っ込み、空港へと運転手に伝える。
     帰路につく車の後部座席から見るパリの景色は、途端に他人事のように見えた。
     自分の母国はシルクパレスだが、日本も第二の故郷に近い。それならばパリは別荘か。
     帰ってきた、と思うより「やってきた」と思っているうちは故郷になりえないのだろう。
     そういう意味では、日本はやはり故郷には違いない。
     運転手にチップをはずむと、荷物を気前よく下ろしてくれた。人の良さそうな運転手だったため、チップがなくても手伝ったのかもしれない。
     空港では先に荷物を預け、搭乗手続きをしてからラウンジで時間を潰すことにした。
     窓辺のソファに腰を掛け、次々と飛びだっていく飛行機たちを見送りながらサブレを食す。まだ温かいサブレは口の中でほろほろと崩れ去り、バターとバニラの風味で満たされた。
     ワインを手にして戻ってきたレンは、「美味しいって顔してるね」と言った。
    「ああ、あのパン屋はなんでも上手いな」
    「サブレってクッキーとは調理法が違うんだっけ」
    「そうだ、ベーキングパウダーを使わず、バターたっぷりと使用して砂のように解ける食べ物だ。名前の由来には諸説ある」
    「地域によって名称が違ってくるのは混乱してしまうな」
    「まあな、それも旅の面白さでもある」
    「そうだね、自分たちの常識が曖昧になってくるよ」
     口の中に残ったサブレの甘さをチーズで緩和してから、ワインに口をつけた。
    「レン、日本に帰ったら報告せぬか」
    「ん、何をだい?」
    「俺たちの関係をだ」
    「それは、カミングアウトするってことだね」
    「そうだな。まずは事務所に話さねばならん。時期もお前と相談せねばな」
    「リューヤさんはともかく、ボスからは無茶なミッションを突きつけられそうだ。まだ学生だった頃にも何度も経験したな」
     苦い経験を思い出したのか深く嘆息するレンを、ワインの香りを脳内で詩的に見立てながら見ていた。
    「早乙女は知っておるぞ。気づいていると言ったほうが正しいな」
    「そうなのかい? なら、なぜ何も言わないのだろう」
    「見極めているのやもしれんな。俺たちがどう選択するのかを」
    「それはアイドルとして?」
    「アイドルとして、人間として」
     ここまで話していてカミュは気づいたことがあった。
     どんな理由があろうとも、ふたりともアイドルを辞めるという選択肢を出さないことだ。
     カミュは、もしかするとレンは引退すると言い出すのではないかと懸念していた。彼の母親がそうしたように。
     しかし、レンの口からは一度も辞めるという言葉は出てこなかった。
     いつかは引退することもあるかもしれない。それでも、それが今ではないと知っているからだろう。
    「カミングアウトすることで、アイドルを辞めろと言われる可能性も否定はできんぞ」
    「辞める気はないんだろう?」
    「俺たちにその気はなくとも、事務所の命令ならば従うしかない場合もある」
    「なにかを手に入れるために、なにかを失わなければならない。その法則を壊したいって思うのはエゴかな」
    「そうかもしれんな。だが、愛を貫くというのは、エゴの塊だ」
    「できれば、祝福される形でエンドロールを迎えたいね」
    「同感だ」
     バロン、今すごく、歌いたい気分だな。
     帰ったら、俺が演奏してやろう。
     バロンも一緒に歌うんだよ。

     パリで過ごした日々が、いつしか、それが日常となれるよう。
     二人は、歌い続ける。


     

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    🍏🥝🍣現遂🍣🥝🍏

    PAST〈法庶04〉
    【ふたりハミング】
    いま見たら全年齢じゃなくて法庶だなと思った。
    あと、ほせ殿にサラッと高度な事?をさせてる気がする。
    通りすがりに一度聴いただけの曲、その場で覚えて、知らないその後の部分に即興で別パートメロディ作って一緒に歌うって……
    でも、この二人で歌ったら声とか意外と合いそうで妄想が楽しいです。
    徐庶が最初は法正の事が苦手だったって場面設定もあまりやってなかったかも
     「♪♩♬♩♫〜〜……」
     書庫の棚の前に立って資料整理をしていた徐庶は、何となく曲を口ずさんでいた。何日か前に街で耳にした演奏が印象的だったのか、メロディが自然と鼻歌になって出てしまう。沢山あった仕事が片付いてきて、気が抜けていたのかもしれない。
     ふと気配に気付いて横を見ると、いつからか通路側に法正が立っていて徐庶の方をじっと見ていた。外の光で若干逆光になった彼の姿に少したじろぐ。
     この人に鼻歌を歌ってる所なんか見られてしまうなんて……

     徐庶は法正のことが少し苦手だった。
     諸葛亮と彼の反りが合わず空気がギスギスした時は仲裁役になる場面もしばしば、用があって何言か言葉を交わしたこともある。しかしそれ以上はあまり関わりたくないと、苦手意識を持つ男だった。
    1964