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    haishima_ryo

    @haishima_ryo

    二次創作の絵をアップします。
    うたプリ(イチゴ組、蘭カミュレン)
    FGO(龍竜、高ぐだ子)
    DC(松萩)
    PSYCHO-PASS(槙島聖護)
    たまにFF(ラグナ、神羅カンパニー)
    あといろいろ

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    haishima_ryo

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    イチゴ組がパリでスイーツを食べながら距離を縮めていくお話。
    ピクシブで掲載していたものです。

    ##イチゴ組(腐)
    #イチゴ組(腐)
    strawberryGroup

    伯爵様と御曹司の7日間スイーツパリの旅UGUISUMOCHI


       1

     神宮寺レンは、機内食をしかめっ面で義務的に咀嚼している伯爵様の横顔を眺めていた。
     型にはめて焼き上げたようなオムレツを一口食べた時の、眉間の皺。整った鼻筋から額へと続く通過地点に、渓谷ができあがる。小さな窓から射し込む陽の光が渓谷に陰影を作り出し、朝焼けに映えるピレネー山脈のようだ。その眉は高原を埋め尽くすリノンの花か。

     幼少の頃から美しいものを観て、聴いて、感じ取ることは好きだった。それなりに、目利きは養えていると自負している。その上で、美しさとは表面だけでは感じ取られないものとも知っている。黄金比、もしくはスフマートや透視図法のような技術を用いて表面だけを美しく見えるように彩っても、中身が伽藍堂では胸を打つ美しさとは言えない。まるでaddictionのように、その美しさを感じたくて仕方ないという執着心が湧き上がったときこそ、渇望が満たされるのだ。
     つまりは、ずっと眺めていても飽きることがない。美しい横顔を持つその人、カミュ。
     レンは今でも、こうして彼と共に空の旅を満喫していることが不思議でならない。
     事務所の先輩であり、永久凍土の国シルクパレスの伯爵にして世間を魅了する多忙なスターだ。自分も仕事は増えてきたとはいえ、やはり後輩としてまだまだ敵わない。心から尊敬してやまない彼が、隣で機内食を世界の終焉を目の前にしたような顔で食べている。


    夢や夢 うつつや夢と わかぬかな
            いかなる世にか 覚めむとすらむ


     これもまた夢ならば、彼の存在する世で目覚めたい。



     横顔をのんびりと眺めながら、瞼が重くなってきたところで水宝玉の瞳と重なった。
    「なんだ?」
     着飾りのない低い声が耳に心地よい。
    「バロンを見ていたんだ」
    「なぜ」
     機内食を途中で放棄し、持参した練乳をコーヒーに入れながら彼は訝しげに訊いた。
    「バロンとこうしてパリ行の飛行機に乗っていることが夢みたいだからさ。夢ならバロンは消えてしまうだろう? だから、ずっと見ていた」
     伯爵様は、ふんと鼻で笑う。
    「ならばその夢を存分に楽しむといい」
     練乳たっぷりのコーヒーを、ゆっくりと口に運ぶその姿もまた、ルネッサンス期に描かれた絵画のようだった。

       2

     二ヶ月前に遡る。同じ事務所の先輩後輩の対談という企画で、レンの先輩であるカミュと仕事が重なった。その楽屋でのことだった。
     伯爵様はいつものように、通常より甘くした紅茶とクッキーを嗜みながらスイーツ特集が組まれた雑誌を読んでいた。あまりにも熱心に読んでいるので、レンは興味本位で横から覗き込む。どうやら日本ではなくパリのスイーツ特集のようで、店の住所も通貨単位もパリ仕様となっていた。
     思わず洩れる、伯爵様の呻く声。
    「海外のスイーツを特集したがる編集部の気がしれんな。まだ日本で手に入るものならば大目に見てやるが、パリ本店限定とはどういうことだ。なぜ日本の雑誌に掲載するのだ」
     目に見えぬ雑誌の企画者に対して抗議をいれる伯爵様を見ていたレンは不思議そうに首を傾げる。
    「行けばいいんじゃないかな」
     レン自身も、この手の雑誌の特集から影響を受けて、ふらっと海外へ赴くことがある。そのための特集なのだと思っていた。
    「ふむ、それもそうか」
     伯爵様は納得したように頷く。
    「行けばいい、それは理解できる。だが俺は情報を手に入れたならば、すぐにでも行動したいのだ」
    「日本なら今からでも買いに行けるからね。うん、確かに」
     レンは伯爵様から雑誌を奪い、パラパラとめくって内容を確かめる。パリの有名なショコラティエの限定スイーツなどが目に飛び込んでくる。これは伯爵様のお怒りはわからないでもない。
     ざっと目を通したところで、レンは雑誌をテーブルに置いた。
    「なら、一緒にパリに行かないかい? 雑誌の情報は忘れてしまって、現地で新たに情報を収集しよう。そのほうが情報の鮮度も高いし、すぐに手に入る」
     どうかな? と視線で返答を求める。できるだけ緊張を隠すように、視線は固定した。
     しばらく考えていた伯爵様は、レンの提案自体は気に入ったようで顔が少し緩んでいた。だが、すぐに険しい表情に変化する。
    「なぜ貴様もついてくるんだ」
     やはりそうきたか。予想の範囲内の返答だっただけに、動揺は最小限におさえられた。刹那だけ伯爵様の貫くような視線から逃れ、再びアクアマリンの瞳をやわらかく見つめる。
    「ほら、オレは海外旅行に慣れているし、こう見えてパリのお菓子事情は得意分野だよ。いつもレディたちにプレゼントしているからね。それに運転もできるし、日本食が恋しくなった時は作ってあげることもできる。きっとバロンの役に立つよ」
     セルフプレゼンテーションが得意のレンは、いかに自分と過ごすことで相手に利益があるかと一気に述べた。多少、早口になったのは焦りもあったのかもしれない。
    伯爵様の反応は悪く無い。彼は嫌なときは早々に拒否反応を示す。まだ、レンのプレゼンテーションを吟味しているようで考え込んでいる。
     呼吸を整えて、今度はゆっくりと声のトーンを落として話す。
    「一週間ぐらいの休みがとれるなら、ショートステイするのもいいね。ホテルじゃなくて、アパルトマンを借りて。チェックインやベッドメイクの時間を気にしなくて済む。とても気楽な旅だ。オレはときどき、そんなふうに部屋を借りて現地を楽しむんだ。その国に住んでいる人たちと、とても近いところで風景を眺めるとね、その国の本当の空気を感じるんだ」
     そう言って、両手でファインダーを作り伯爵様を囚えた。口でシャッター音をきる。
    「そういえば、お前はカメラも趣味のひとつだったか」
     自分の趣味を覚えていてくれたことに、思わず頬が緩む。
    「そうして撮った写真は、違うと感じるか?」
    「もちろん」

     この一言で、二人きりのパリ旅行が決まった。



       3

     機内食を下げさせた伯爵様は、どこからともなく桜色の箱を取り出した。テーブルに箱を置き、両手で蓋を開ける。薄い梅の模様が浮き彫りにされた和紙が現れ、伯爵様はそっと大切そうに和紙を観音開きにした。ひとつひとつ敷居で区切られた部屋の中におさまる緑色の餅が見えた。
    「バロン、それはもしかして、鶯餅かな」
    「左様、銀座の菓子処の鶯餅だ。この時期にしか販売されん。予約が必要なのだが、俺は顔見知りだから朝から作ってくれたのだ」
     和菓子屋に顔が知れ渡っているのか、いやその前に有名人なのだから知っているのは当り前なのかもしれない。伯爵様はもう少し自身の知名度について認識をしたほうがいいのでは。などと思考をしていると、伯爵様は鶯餅を鷲掴みにしてもぐもぐと食べ始めた。機内食のときとは違い、目元に幸福感が滲み出ている。
    「もしかして、和菓子の食べ納めをしている?」
    「そうだ、よくわかったな神宮寺」
    「パリにも和菓子があるらしいよ」
    「今回の旅の目的ではない」
     それはそうだ。と思いながら、ふと、伯爵様の口元を見やる。
     薄い唇の端についた鶯色の粉を、舌先で舐めとるしぐさ。
     思わず顔を背けて、用もないタブレット端末の電源をつけた。
    いつからだったか、空の上でもネットの海に潜れるようになったのは。今はそれがとてもありがたい。

    「神宮寺」

     SNSクライアントを開いたところで、搭乗してから初めて伯爵様からお声がかかった。
    「そんなに見てもやらんぞ」
    「オレは甘党じゃないから安心して、バロン」
    「ならばよし」
     すでに箱の中の部屋が半分ほど空室になっている。全部で九部屋あったはずだ。今度は胸焼けがしそうになって、目を背けた。


    Ren:今は快適な飛行機の旅だよ


     プライベートなアカウントで、レンは呟く。


    AI:甘い匂い、大丈夫? ランマルは酔ってたよ



     すぐさま美風藍が返してきた。


    Ren:匂いはしないから大丈夫


    AI:なるほど、和菓子を持っていったね


    Ren:あたり。さすがだね


     甘ったるい香りはしない。ただし、その量で胸焼けがする。さらに、おかわりをした紅茶にも砂糖を投入している。レンは紅茶に沈みゆく砂糖の量を数えないようにした。
    何度も見ている光景だが、何度見ても慣れない光景ではある。


    AI:Bon Voyage


    なぜか新幹線の中で死んだように眠っている黒崎蘭丸の画像が送られてきた。マスクとサングラスをして腕組をしている。眠っているのではなく、隣から香る甘い匂いに堪えた勇姿なのかもしれない。
    オレもこうなるのだろうか、と少し慄く。
     伯爵様は、最後の鶯餅を淋しそうに口に頬張っていた。

      4

     パリ国際空港に到着したのは、現地時間で十二時前だった。ちょうどランチタイムだったが、二人は先にアパルトマンへ向かうことにした。
     伯爵様はクラシカルなトランクケースひとつだけを持ってきていた。レンは軽量タイプのスーツケース。どちらも一週間の滞在にしては身軽な姿だ。
     なければ現地で調達すればいい、と提案したのもレンだった。それがレンの旅をするときのスタイルだった。
     タクシーを手配して市内を回る。レンは運転手にアパルトマンの住所と地図が記載されたメモ用紙を渡した。英語で話すが、あまり通じているとは思えない。日本語よりマシだろう、程度だった。

    パリの気候は東京と似ている。東京よりも、乾燥がひどい。その程度だ。映画やドラマでは雪に降り積もられるパリの都がよく出てくるが、現地ではそこまで雪は降らない。ときおり、積雪して東京と同じように交通機関がマヒするぐらいだろう。
     それでも、鼻先が赤らむぐらいには、この時期は寒い。
     後からタクシーに乗り込んだレンは、冷えた両手に息を吹きかけて温めた。それを見ていた伯爵様は、お前は寒さに弱そうだな、と言った。
    「バロンは寒さに強そうだね」
    「故郷の寒さはこの比ではない」
     たしか永久凍土でありオーロラが見えると言っていた。シルクパレスはまだ未踏の地だが、オーロラを観るためにカナダに行ったことはある。キャンピングカーを借りて気ままに旅行をしたが、寒さに脱落したようなものだ。


     ショートステイ用に貸し出されていたアパルトマンは、築年数が百年を超える古い石造りの建物だった。分厚い木製のドアを開けると、螺旋階段があるエントランスが広がる。古いアパルトマンは、エントランスが贅沢に使われているようだ。だが、どうやらエレベーターの姿が見当たらない。
    「部屋は三階なんだけど、バロン荷物持てるかい?」
    「これぐらいなんともない」
     ひょいと軽々しくトランクを抱えて、螺旋階段を登っていく。レンも後から続いた。
     三階には二部屋存在する。そのうちのひとつ、「三〇二」とプレートのかかったドアに、あらかじめ受け取っていたキーを差し込んだ。鍵穴の奥で、重く錠の開く音がした。ペンキの塗り直したばかりのドアを開けると、すぐにリビングとダイニングが見えた。
     床は年季の入った木製で、ワックスが綺麗にかけられている。テーブルも食器棚も備え付けだ。ただ、どれも古びていて、チェストのペンキはところどころ剥がれ落ち、地の木肌が露出していた。
    「こういう雰囲気の部屋、映画で見たことあるね」
    「だが『アメリ』ほど派手ではない」
    「そうだね、それでいて『パリ3区の遺産相続人』ほど高級でもない」
     レンはダイニングの奥の、二つ並んだ扉の前に立った。まず左側を開けてみる。どうやら角部屋のようで、窓が二つある。午前中は朝陽で部屋を照らしてくれるだろう。隣の部屋は窓がひとつ。路地を挟んで向かい側にも似たようなアパルトマンがあるため、日当たりはいいとは言えない。
     どちらの部屋も置いてある家具に変わりはなかった。真鍮のベッドがひとつ、チェスト、一人がけのソファ、クローゼット。
     それに、各部屋には名も無き画家の絵画がいくつか飾られている。
    「バロンはこっちの部屋が良さそうだよ? 日当たりもいいし、気持ちよさそうだ」
     角部屋に伯爵様を案内して差し上げる。伯爵様は部屋に入り、まず大通りに面した窓を開けた。向かい側にオープンカフェのテラスが見える。昼時のせいか、店は満席だった。どこからか甘い匂いがする。隣のアパルトマンの一階がパン屋になっているようだ。
    「ふむ、気に入った」
    その一言を聞いて、レンは心から安堵した。
    「よかった、じゃあオレは隣を使うね。支度をしたらランチを食べて買い物に行こう」
     伯爵様の頷く姿を見届けてから、レンはややステップを踏みながらこれから自室となる部屋へと荷物を運んだ。


     チェストに衣服を詰め込み、タブレット端末に充電器を差し込んだ。それから、長年の相棒となる一眼レフカメラを取り出す。
     レンにとっても、今回の旅には大きな目的がある。
     それは、初めて会った時から熱望していた願いだった。
     思う存分に、カミュという人間をファインダーに収めたい。
     普段のプライベートならば叶わない願いも、旅先でなら許されるであろう。そう思って、念入りに相棒の手入れをしてきたところだ。
     試しに、室内を撮影してみる。
     相棒の気分は良いらしい。思い通りにシャッターを切ってくれる。
     これで最後かもしれない。
     この旅が最初で最後かもしれない。
     パリの滞在日数は実際のところ、五日間である。その間、刹那とも無駄にしたくはないとレンは思っていた。
     相棒のレンズに蓋をして、ネックストラップを首にかけた。
     まずはランチタイムを撮影しよう。パリの街並みはカミュを美しく迎えるだろう。

    軽くターンをきめてから、浮足立った脚で部屋を出た。


    GUIMAUVE


       1

     カミュは天井に映し出された波形の光を眺めていた。
     太陽の陽を浴びた海の水面のように、天井で揺らめいているその波紋の合間に魚の影まで見える。魚は気持ちよさそうに天井を泳いでいた。
    まだ夢を見ているのかと思い、ベッドから身を起こすが、どうやら頭ははっきりと覚醒しているらしい。ルームシューズを履き、カーディガンを肩からかけて窓辺に近寄った。カーテンの向こう側から飛んできた波紋が、カミュの瞳を照らす。窓を開けて下を覗き込むと、大きな水槽が見えた。手押しの荷台に積まれた水槽には、水色と朱色の熱帯魚が泳いでいた。
     水槽ごと運搬するなど、魚にとってはストレスの溜まる運び方だ。おそらく業者の仕業ではないだろう。カミュは窓を締めて、そのままキッチンへと移動した。

     キッチンにはある程度の調理器具と食器も用意されていた。中には高価そうなアンティークのティーセットもある。ここの家主は年老いた老夫婦だと聞いた。エレベーターのないアパルトマンの生活は老体には優しくはない。一軒家のある息子夫婦のところに移り住み、ここは気ままに貸し出しているのだという。
     昨日、近所のスーパーで買ったばかりの缶を開け、ティーポットに茶葉をワンスプーン入れた。そこに熱湯を注ぎ入れて、ティーコゼーを被せて少しの間蒸らす。その間にティーカップと角砂糖が山盛りにされたシュガーポットをダイニングテーブルに運んだ。
     玄関の扉に英字新聞が挟みこんである。アパルトマンのすぐそば、日本でいうところのコンビニのような雑貨店のカウンターで暇そうにしていた少年に、五日間だけ毎朝届けるようにと駄賃を渡したのだ。少年はその駄賃で新しいゲームソフトを買うと喜んでいた。

     ダイニングテーブルに着席し、ティーポットで蒸していたお茶をティーカップに注ぐ。今朝の角砂糖は七つ。昨日の旅疲れのぶんも込みだ。一口飲んでアールグレイの香りを楽しみ、愛用の眼鏡をかけて英字新聞を広げる。
     一部をのぞけば、世界はわりと平和らしい。

    二杯目の紅茶を味わっていながら、スマートフォンを手にした。現在日本時間は十五時半。SNSクライアントを呼び出し、プライベートアカウントを覗くと気持ちよさそうに眠っている愛犬の画像が飛び込んできた。思わずレスを送る。


    Camus:よく眠っているようだな


    Haruka:さきほどお散歩から戻ってきて眠ったんです


    Camus:世話をかける


    Haruka:もふもふです


    Camus:?


    Haruka:もふもふで癒やされています


     一度でいいから丸一日もふもふと過ごしたい、と申し出てくれた七海春歌に預けられた愛犬は、一時的な飼い主にちゃんと報酬を支払っているらしい。思わず笑みが洩れる。
     ティーポットが空になっても、同居人の気配がしない。今日は朝からマルシェに出かけると言っていたはずだが、部屋からは物音ひとつしてこない。ティーセットをキッチンに運び、同居人の部屋のドアをノックする。一度目は控えめに、二度目は強く叩くが反応がない。ならばと躊躇いなくドアを開けて部屋に脚を入れる。ベッドの傍に寄って、まだ夢のなかの同居人を見下ろした。
     なぜか上半身をあらわにして眠っている。
     アパルトマン内は常に温水が循環されている、セントラルヒーティングによって室内どころか廊下も暖かい。とはいえ真冬ではある。それに、どこか甘い香りも漂っているようだ。
     カミュはしばらく考え、半ば驚かそうと一気シーツをめくってやった。
     予想通り同居人は驚きの声をあげて飛び上がる。
     が、カミュ自身も彼の一糸まとわぬ姿を目にして、思わず「服を着ろ愚民が!」と怒鳴っていた。

    「ひどいよバロン、寝起きを襲うのは」
     服を着用して出てきた同居人は、キッチンでミルクを立ち飲みしながら弱々しく言った。
    「語弊が生じる言い方はやめろ。お前はいつも寝るときはあのような姿なのか」
    「それこそ語弊があるね、ちゃんと着ているよ」
     眉をひそめて同居人を見据えると、彼は肩をすくめた。
    「昨夜は薔薇から抽出したオーデコロンをね」
    「お前はマリリンモンローか」
     ため息をつきながら、カミュはチェスターコートを着込んでストールを肩に巻いた。同居人もトレンチコートを羽織ってから小さなミラーレスカメラを首から下ろした。
    「またカメラを持っていくのか」
     昨日から、同居人は常にカメラを携帯している。そのときによって、ハイエンド機とコンパクトなミラーレスカメラを使い分けているようだ。
    「これから荷物も持つだろうから、こっちの相棒にしたよ」
    言いながらシャッターをきる。趣味というだけあって、相当のめり込んでいるようだ。
    「ほら、これもなかなか良くて、オレの思うように撮ってくれるんだ」
     ディスプレイをカミュに見せる。こちらをじっと見つめる自分の姿が映しだされていた。自然光にふんわりと包まれる中、揺るぎない意志の視線を寄越している。グラビアのときの創りだされた自分とは違い、ありのままのカミュがそこに居た。同居人から見るカミュを見た気がした。
    「よく撮れている」
     素直に吐露した感想に、同居人は心底嬉しそうに微笑んだ。

       2

     晴れ渡った空の下のマルシェは、人で溢れていた。
     石畳の広場にいくつもの露店が立ち並ぶ。日本では見られないような野菜や、数多くのトマトが色鮮やかに店先を彩っている。恰幅のいい女主人の店先に立ち止まり、フルーツトマトを物色するカミュの隣で同居人はさりげなくカメラを構える。シャッター音とともに、同居人の口元へフルーツトマトをねじこんでやった。
    「ん、甘い。美味しいね、これ買っていこうよ」
     口の端から垂れるトマトの雫を親指で拭い、同居人はフルーツトマトを大量に買い込んだ。二人揃って「メルシー」と言う。「ボンジュール」ではじまり「メルシー」で終わる、マルシェのマナーだ。
     マルシェは曜日と場所によって、売られている商品が大きく異なる。食料品のイメージが強いが、衣料品や骨董品がメインのマルシェも多い。今回はオーガニックがメインとなったマルシェのようで、無添加で作られたパンスタンドもあった。焼きたてなのか、香ばしい匂いがする。
     モーニングがまだだった二人は、時間的にブランチにすることにした。
     カミュはクロワッサンにサラダとチキンを挟んだものとクリームパン、同居人はピザ風のホットサンドを頼んで簡易的な折りたたみ椅子に座った。小さな丸いテーブルいっぱいにパンとコーヒーが広がる。クロワッサンの皮はパリパリとして、それでいて中身はバターのしっとりとした風味が広がる。香草チキンの味に負けない香りだった。
    「クロワッサンはパン屋で焼きたてを買うに限るな」
    「、『クロワッサンで朝食を』だっけ。パリパリのクロワッサンでないと朝を迎えられないというおばあちゃん」
    「あの映画でゆいいつ同調できたセリフだな」
     以前から感じていたが、同居人はよく映画を知っている。ただ鑑賞しているのではなく、分析も行っているようだ。例えば、Aの映画はBの映画のオマージュ的な演出をしているなどの知識が豊富で、カミュもまた学ぶことが多い。特に邦画にいたっては、日本人である彼のほうが得意のようだ。
     同居人と過ごして二日目。彼のことに関して新たな発見はまだある。
     鏡や自身が映る硝子があれば、かならず髪の毛を整えている。そして顔の角度を変化させてチェックし、最後に微笑んで立ち去るのだ。過剰がすぎるとはいえ、身だしなみに気をつける細やかさは嫌いではない。
     そして、他の者たちが言うほど、女性に対して執着があるように見えなかった。ときおりフェミニストな部分は見えるが、女を見れば手当たり次第口説く、というほどではないようだ。単に好みの女がいないだけかもしれない。

    「ねえ、バロン……」
     カプチーノに四つめの砂糖を放り込んだところで、同居人から声がかかった。
    「今から、その甘そうなクリームパンを食べるんだよね」
    「そうだが、なんだ?」
     問い返すと、同居人は青い瞳を左右に震わせてから、躊躇いがちに口を開く。
    「バロンは甘いものが好きなだけではなくて、敬意を払っているとオレは思っている」
    「もちろん、そのとおりだ」
    「だから、せっかくのこのクリームパンの甘さを、そのまま味わったほうが楽しめるんじゃないかなと思ってね。ねえ、バロン、今回の旅では飲み物を甘くしすぎるのを控えてみないかい?」
    「ぬ……」
     同居人の提案に逆らいたい気持ちもあるが、一理もあるだけに否定ができない。たしかに、飲み物を甘くすれば、菓子の本来の甘さが薄らいでしまうのも事実だった。
    「今度いつパリの甘いスイーツを味わえるかわからないだろう。最高のパティシエたちが作ったスイーツの本来の甘さを楽しもうよ、バロン」
    「この俺に甘さについて意見をするとはいい度胸だな、神宮寺」
    「そりゃ……」
    と、同居人は自分の首を親指で横一文字に切るような所作をしながら「覚悟しながら申し上げているよ」と言う。
     五つ目の砂糖を摘んでいた指先を、カプチーノの中ではなく自分の口の中へと放り込んだ。軽く噛み砕いてから、温かなカプチーノを飲む。六つ目の砂糖には手を出さなかった。
    「お前のその覚悟に免じて、この旅では砂糖を減らすよう努めよう」
    「ほんとかい、バロン、できるの?」
    「お前が言ったんだろう」
    「そうだけど、ほんとにこの提案を受け入れてくれるとは思っていなかったからさ」
     たしかに、これが日本のカフェで言われたのならば、「NO」と即答していただろう。
     カミュも旅先でのパリの雰囲気に飲まれ、浮かれているのかもしれない。
    「そういう遊びもあっていい、これは仕事ではない」
     そう言って、クリームパンを頬張った。しっかりとした甘さのあるカスタードクリームが、ほどよく舌の上でとろけていった。
    「ありがとう、バロン」
    「ん……」
     同居人の前髪が揺れ、目元を覆った。うつむき加減でコーヒーを啜る同居人の瞳が、前髪の隙間から刹那的に繰り返し覗く。寒さのせいか頬が赤くなっており、瞳が潤んでいる。早めに暖かい場所に移動したほうがよさそうだと、カミュはクリームパンを味わいながら思っていた。





       3

     マルシェからの帰り道は、来た道とは違うルートで散歩がてら歩いてみた。マルシェでの戦利品が入ったエコバックを肩から下げて、同居人はニコニコとついてくる。カフェやバルがポツポツと並ぶ中に、ショウウィンドウをカラフルに飾り付けしている店が目に入った。同居人も同時に気づいたようで、カミュの裾を引っ張る。
    「バロン、あれ、バロンの好きなギモーヴ専門店だよ」
    「そのようだな……、しかしお前、俺がギモーヴに熱心なのをよく知っておるな」
    「雑誌のインタビューでよく言ってるからね。ギモーヴのようなふわふわな感触にハマっているって。あとはなんだっけ、羊羹は携帯に便利とか」
     事務所の先輩のインタビューまで読み込んでいるとは噂に違えぬ勉強熱心なやつだ、と妙に感心していると、同居人が先に店に入っていく。カミュも続いて店に入り、店内をぐるりと眺めた。
     袋に無造作に詰められたギモーヴはカラー別にディスプレイに置かれている。雛壇には美しい化粧箱で着飾ったギモーヴも並んでいた。カウンターには大きなガラス瓶の中に、それぞれフレーバーごとに入れられている。
     カミュは、この宝石のように瓶に詰められたギモーヴに心惹かれた。この瓶を抱えて、もぐもぐとギモーヴを永遠に食べ続けていたい。
    「バロンはどれ買う?」
    「すべての種類だ」
    「え、全部? 十一種類あるよって、バロンならそれぐらい食べられるね」
    「もちろんだ」
     十一種類を二個ずつ、透明な袋へと入れてもらう。同居人はカウンターに並んだギモーヴを見定めているようだ。味見をしてから、気に入ったものだけを買う気らしい。甘味があまり得意ではないと言っていたから、あっさりした香りのものを選んだようだ。
     
    「マシュマロとギモーヴの違いを知っているか」
     アパルトマンに帰り、冷蔵庫に野菜や肉を詰めている同居人の背に向かってカミュは問うた。
    「そういえばなんだろうね。ギモーヴのほうが果物の香りが強いというイメージだけれど」
    「それはな……、厳密にはない」
    「ええ? そうなのかい?」
    「元は古来エジプトで食べられていたものだ。その頃に使われていた原料である植物の名前が、そのまま菓子の名前になった。マシュマロがEnglish、ギモーヴがFrenchだな」
    「へえ、言い方の違いだけ?」
     カミュは袋詰されたギモーヴを金で縁取りされた白い陶器の器に盛り付けながら続けた。
    「現代では違いには諸説あり、マシュマロはメレンゲにゼラチンを、ギモーヴはフルーツピューレをゼラチンで固めたもの、という分け方が一般的になっているようだ」
    ダイニングテーブルに腰を下ろすと、同居人がティーセットを持って向かい側に座った。
    「なるほど、フルーツピューレを固めているから、モチっとしていてフルーティーなんだ。でもコーラ味なんてものもあるね。ランちゃんが好きそう」
    「あいつには肉味のギモーヴを食わせておけば良い」
    「おやおや」
    同居人もカミュのマネをして、自分で買ったギモーヴを器に並べはじめた。パッションフルーツとライム味の色をしたギモーヴを交互に並べていく。
    「これ、オレとバロンの色だね。今気がついたよ」
     パッションフルーツはオレンジのものより濃い目の燈色をしていた。ライムは薄い水色だ。
    もしやと思い、手元のギモーヴを見る。ひとつ、薔薇の香りがする赤をつまんだ。
    「ならば、これは一十木か」
    「そうだ、そうだね、これはイッチーだよ。紫だから、葡萄だね。それにこのピンクはおチビちゃん」
    「……緑のピスタチオは寿か。真紅はたしかコーラ味、薄紫はブルーベリーだったか」
    「すごいね、みんなのカラーがある」
    同居人はスマートフォンでギモーヴを撮影し、SNSに投稿したようだ。
    「みんなも驚いているようだよ、バロン。お土産に買って帰ろうかな」
    「お前らは仲がいいな」
     黄緑色を口に頬張る。舌の上でとろけながら、洋なしの香りが口の中いっぱいに広がった。
    「ブッキーも買って来てって言ってるよ、バロン」
    「貴様が対応しろ、俺は知らん」
     紅茶に砂糖を入れかけて、カミュは手を止めた。誘惑に負けそうになるので、シュガーポットの存在を忘れておく。ストレートの紅茶を飲むのは久しぶりだが、ギモーヴの甘さが惹き立ち、フルーツの酸味とよく交わっている。
    「ときどき……」
     しばらく黙々とギモーヴを楽しんでいたが、同居人が静寂を破った。
    「バロンは、他人に興味があるのかないのか、よくわからなくなるときがあるよ」
    「まるで俺が他人に興味があることもある、と言いたげだな、神宮司」
    「あるよ、バロンは。……オレがそう思いたいだけかな」
     一通りの種類を味わって、カミュは二杯目の紅茶を注いだ。
    「神宮寺、お前はどうなんだ。俺に興味があるのか」
    「ないなら、一緒にパリに来ないよ。旅はいつも独りさ」
     それは意外だった。この優男だ、特定の相手ではない女とふらふらと海外旅行を満喫しているものだとカミュは思っていた。
     同居人はパッションフルーツ味を摘むと、そっとカミュの唇に押し付けた。弾力のある感触が唇に伝わり、ふわりと甘酸っぱい香りがした。
    「食べて、バロン」
     ギモーヴを頬張ると、同居人の指先が触れかけたところで、すっと唇から遠ざかっていった。
    「オレは臆病だからね、平等に興味のあるフリはできるさ」
     そういう同居人の口元には、自嘲じみた笑みが浮かんだ。

     
     華やかな舞台の袖で、そのオーシャンブルーの瞳が仄かに薄暗くなる瞬間をカミュは知っている。太陽の色を持ち、誰にでも気さくに話しかけ、誰からも愛される男。カミュとは正反対の存在のはずだった。しかし、心の奥底に眠る孤独感は、似たものなのかもしれない。

     俺が孤独だと? まさか

     同居人を分析していたはずが、なぜか己の心を覗こうとしていたことに気づいた。すかさず、そっと閉じる。

    「バロン、今夜のディナーはオレが作るよ」
     そう言った同居人は、いつもの緩やかな微笑みに戻っていた。




    CLEME BRULEE




       1

    「ギリシャ彫刻と謳われるその肉体をさらけ出すのは、貴様の言うレディの前だけにせんか」

     朝シャワーを浴びたレンは、シャツの前を大きく開いた格好でリビングに出てきた。真冬のパリだが、セントラルヒーティングで温まった室内は暖かい。シャワーの後ともなると、できればバスローブ一枚で過ごしたいところを、伯爵様の前では気を遣ってシャツを羽織りちゃんとボトムまで穿いている。
    「ごめん、シャワーの後は暑くて」
    「馬鹿者、今ではない。貴様の就寝時のスタイルについて言っている」
     今朝も、寝坊したレンは早起きの伯爵様に起こされる形で起床した。一糸まとわぬ姿で寝ぼけながら「おはよう」と言ったが、伯爵様は非常に険しい顔をしていた、ように思う。
    「どうもナイトウェアを着て眠ると、寝た気がしなくてね。ますます寝坊してしまうよ。そうなったら、洗濯物は山積みになるしご飯も作れないだろう」
     キッチンの流しの下に備え付けられている洗濯機が回っている。レンは親指で洗濯機を指しながら肩をすくめて言った。
     伯爵様は何か言いたげにレンを睨めつけたが、諦めて紅茶を飲みながら新聞に視線を戻した。
     明日からできるだけバロンに起こされる前に起きよう、そう誓って洗い終わった衣類を自分の部屋に干していく。ただでさえパリは乾燥ぎみなので、部屋干ししたほうが室内が加湿されていい。黒崎蘭丸からおすすめされた部屋干し用洗剤を日本から持ち込んでよかったと安堵する。
     量も少ないので洗濯はすぐに終わり、次にブランチを作ることにした。
     マルシェから買って来た野菜をキッチンの作業台に並べる。半分ほどは腐っていたり萎びていたりしたので、廃棄することにした。どうやら観光客相手の接客をされたようだ。マルシェでは常連にならなければ、良質の野菜を売ってくれないことがある。これもパリを楽しむ醍醐味のひとつだと思うレンはあまり気にしていない。
     冷蔵庫から調味料を取り出そうと中をあさると、スーパーで買ったアーモンドショコラのドリンクやプティングに油性ペンで落書きがしてあるのを見つけた。手にとってみると、「camus」という記名の隣に、かわいい羊の絵が描かれている。
     レンはニヤニヤが止まらない。冷蔵庫の前でうずくまって、心のなかで何度も「かわいい」と呟く。
    「そこで何をしている」
     背後から声をかけられて、レンはさっと何事もなかったかのように立ち上がった。努めて冷静に振り返る。
    「バロン、オレはバロンのものを横取りなんかしないよ」
     プティングに書かれた名前を相手に見せて言った。
    「わからんだろう。愚民どもはすぐに冷蔵庫の中のオヤツを誰のものか確認しないまま横取りする」
    「何度も被害に遭っているんだね、バロン」
     カルテットナイトのメンバーか、それともルームシェアをしていた後輩か。思い浮かべたがどちらも犯人になり得そうだったので納得した。

     生ハムとアボカドのサンドイッチを作り、コーヒーをテーブルに並べる。
     パン・コンプレというハード系のパンを使ったサンドイッチで、全粒粉の香ばしい匂いが生ハムとアボガドに程よく合う。
     伯爵様も気に入ったようで、目元が和らいでいた。
     外国人らしく、伯爵様は感情を顔によく出す。美味しくない時は顔全体で「マズイ」と表現するし、美味しい時は幸せそうな笑みを浮かべる。日本人にありがちな、美味しくもないのに気を遣って嘘を言うことはなかった。
     嘘のない関係性、それはレンにとってとても心地よい繋がりでもあった。



       2

     ブランチのあとは、セーヌ川を散歩しながらルーブル美術館へ行こうという提案を出すと、伯爵様は上機嫌で支度を始めた。メガネケースをコートのポケットに入れている。レンは相変わらず相棒の一眼レフを持っていくことにした。
     帽子も、サングラスも、マスクもせずにのんびりとセーヌ川を歩く。空はあいにくの曇り模様だが、くすんだ景色はパリの鬱々とした影を表現しているようで、悪くはなかった。日本のメディアではパリを華やかな街と伝えるが、レンからしてみればパリという街はフランス映画そのものだ。美しいだけではなく、汚れた部分もあり、静かなところもあれば、騒がしくて耳を塞ぎたくなるときもある。何を表現しているのかわかりづらい混沌とした街だが、妙に癖になる。
     厚い雲に遮られた陽の光が、弱々しく伯爵様をセーヌ川を背景にして街の中に浮かび上がらせる。レンは一瞬のチャンスを逃さぬように、ファインダー越しに伯爵様をデータに書き残す。
     ファインダーの中で、伯爵様が振り返った。プラチナの髪が揺れる。
    「神宮寺、お前はこのパリで自分の時間を過ごしたいとは思わんのか」
     カメラから離れたレンは、伯爵様の気遣いに嬉しくなり微笑む。
    「今回の旅は、バロンのスイーツの旅だろう。オレは伯爵様の従者なんだよ。一人の自由な時間を作るなんて恐れ多い」
    「cortegeというよりphotographeだろう。よく飽きもせずに俺ばかりを撮る」
    「バロンは綺麗だからさ、飽きない」
    「美しい男より、美しい女を撮るほうが貴様にとっては有意義な時間なのではないか」
    こればかりは、多少なりともレンは内心ショックを隠せなかった。しかし、顔に出ないように取り繕う。普段の己の行為を振り返れば、仕方のないイメージだった。
    「たしかにオレはレディたちのことを愛しているけれどね。バロン、ほら美術館に行こう」
     バロンの背を軽く押して、ルーブル美術館のチケット売り場へと向かった。人はほどほどに混んでいるようだ。

    館内は、モナ・リザのような有名な絵画の前を除けば、わりと空いている部屋もあった。
    古代ギリシア・エルトリア・ローマ部門の部屋では、様々な彫刻が展示されている。特に、伯爵様は《サモトラケのニケ》を長く鑑賞していた。
    「不完全なものでありながら、完全な形よりも美しいとされている。不思議なものだ」
    「きっと、あの天使の顔を、自分好みの女性の顔で想像しているからだろうね。それぞれの心の中の天使ってことさ」
    「本来の顔が出土しないほうが、あの天使は皆に愛される。まるでアイドルのようだな」
     館内ではフラッシュは禁止だ。できるだけカメラは構えない。が、今の伯爵様の横顔を、残しておきたいという欲望が湧きでた。
    「オレは、オレのまま、レディたちを迎えているよ。バロンは違うのかい」
    「執事の俺も、俺ではある。嘘偽りはない。だが、見えないようにしているものはある」
     顔のない天使の前から遠ざかる伯爵様は、ふと振り返って「お前には見せているがな」と言い残して、奥の彫刻群へと歩いていった。
     レンは目を大きく見開いてから、急に全身の力が抜けたような気がした。その場でへたりこみたい気分だ。
    「バロン、それは、恋人に言うセリフだよ……」
     本人には聞こえないように呟いて、伯爵様の後を追った。

     すべてを見まわるには時間が足りない。空いている部屋をさっと回って、午後のティータイムに差し掛かる前に美術館を出た。公園を通り過ぎ、高級ブランド店が並ぶ通りを歩きながら見つけたカフェで休憩をとることにした。
    テラス席を外側に向かって座る。態度の悪いギャルソンにカフェクレームふたつを頼む。日本とは違い、すぐに持ってきてはくれない。
    「バロン、さっきの話だけど、美しいものに性別は関係ないって、オレは思っているんだ」
    「それは理解している」
    「だから、オレはバロンと一緒にいると満たされるんだ。食欲や睡眠欲とは違う、別の欲求がさ。それはきっと、芸術を眺めていて満たされる欲求と似ているかもしれないけれど、また違う。カミュという人間と会話をして、時間を共有しているときにだけ満たされるものなんだ」
     自分らしくない、ストレートな言い方だとレンは思う。今まで、女性を口説くときどうしていたかなど思い出せなかった。
     しかし、目の前の男に対して、着飾った言葉など通用しないことはわかる。彼の瞳を覗くとき、不純物のない地底湖の中を覗き込むときに感じる恐れにも似ている。透き通る綺麗なその水も、湖底に沈んだ不純物が舞い散ればとたんに透明度を失う。静かに、そっと、近づくしかない。
     ようやく運ばれてきたカフェクレームを飲みながら、伯爵様は深い息を吐いた。
    「俺は自分のことをくだらん人間とは思ってはおらん。俺に興味がある者も多いだろう。それでも―」
     彼の親指が、カップの縁をなぞらえた。
    「お前が俺にそこまで関心を示す理由がいまいち掴めん」
    「なら、もっとシンプルに言うよ。バロンと一緒にいると楽しい」
    「そんなことを言うのはお前だけだ、神宮寺」
    「ふふ」
     カフェクレームは少し甘ったるい。ミルクが濃いのだろう。
     心なしか、伯爵様のまとう空気がふわりと柔らかくなった気がした。
    「バロンと一緒にいると、楽しんだ。オレは」

       3

     そのカフェでは種類は少ないがケーキも売っていた。中でも伯爵様の目を引いたのはクレームブリュレだった。聞くと店の看板メニューなのだという。テイクアウトするためにオーダーすると、カスタードクリームの入ったカップに粗目の砂糖をふりかけてバーナーで炙ってくれた。一時間以内に食べないと表面のぱりっとした食感がなくなると説明を受けたせいか、帰り道の伯爵様の歩き脚が幾分早かった気がした。
     家につき、コートを脱いでさっそく箱からクレームブリュレを取り出す。レンはセイロン茶を淹れる。香りの強いアールグレイよりセイロン茶のほうがクレームブリュレに合うと思ったからだ。
     テーブルにティーセットを運ぶと、伯爵様はスプーンでクレームブリュレの表面を軽く叩いていた。その姿に、なにか既視感を覚えると考えていたら、冷えた夜の翌日、バケツの表面に張った氷を叩いて遊んだ自分の姿を思い出した。
    「バロン、それ、固いのかい?」
     とても軽く叩いているせいか、表面のカラメルはなかなかひび割れない。
    「かなり粗い粗目の砂糖を使っていたからな。カラメルの層が厚いようだ」
     コツコツと叩いてから、今度は本気でスプーンを押し込む。レンの耳にもカラメルの割れる音がした。バケツの氷が割れる音とよく似ていた。
    カラメルは伯爵様の口の中からも音が聴こえてくる。
    「ふむ、カスタードクリームの甘さのあとに、カラメルのほろ苦さが口の中に広がる。それでいて、カラメルの食感が心地よい。薄い飴を噛み砕いているような」
    「バロンって、飴玉を噛むタイプ?」
    「いや、基本的には最後まで噛まないがな」
     レンは堪えきれずに満面の笑みを出してしまうと、伯爵様は訝しみながら視線を向けた。
    「なんだ?」
    「いや、美味しいものを食べるとき、バロンは幸せそうな顔をするなあと思って」
     と、言い訳する。飴玉を最後まで噛まない人の口づけは、とろけるほど優しい……そんなことを心の中に秘めながら。
    「貴様はいつも、俺の咀嚼する姿を見ているな」
     そう言いながら、伯爵様は二口目を堪能する。
    「バロンが幸せそうにしていると、オレも幸せな気持ちになるからさ」
    「俺の顔を眺めているより、実際に食べたほうが幸せを感じるぞ」
    「うん、美味しいものを食べた時は幸せだ。でも、バロンがそういう顔をするのは、オレの前だけだって知ってるよ」
     伯爵様の動きが止まる。何かマズイことを言ってしまったのだろうかと、レンは焦りながら弁解を考えた。しかし、弁解の前に伯爵様が先手を打つ。
    「クレームブリュレはいつ頃生まれたと思う?」
    「へ? ええと、いつだろう……」
     予想外の質問に、レンはマヌケな答えを出してしまった。
    「クレームブリュレには、正当な起源はない。気がつけば、民間にレシピが出回っていた」
    「へえ、それは、それだけ古くから存在したってことだよね」
    「そうだな、カスタードクリームに砂糖を乗せて焦げ目を付けるだけの簡単なレシピだからな。難しいことではないし、もしかすると同時多発的に発生したのかもしれん」
     伯爵様は淡々と説明をしながら、クレームブリュレを味わう。
    「神宮寺、お前もまた、気がつけば俺の傍にいるな」
     がたん、と窓がしなった。急な突風が窓をノックしていったらしい。レンは音に驚き、ざわりとした不安が胸の中に浮かび上がった。
    「もしかして、オレは邪魔かな」
    「誰もそんなこと言ってはおらん」
     浮かんできた不安が、再び沈んでいく。目の前の彼は嘘など言わない。少なくとも、くだらない嘘はつかない。レンは彼の真摯な眼差しを信じているからこそ、たった一言で不安が消えてなくなるのだ。
    「ひとつ言っておく、心から嫌いな奴とプライベートで一緒に過ごそうとは思わん。ましてや、旅行など死んでも来んわ」
    「自分でプレゼンしておいてなんだけど、便利だから傍に置いておいてくれているのかと思っていた」
    「便利だからと海外旅行にまで連れて行く、お前はそんな男と一緒に居るのか。目の前にいる男がそんな人間ならば、お前はいますぐ立ち去るべきだな」
     クレームブリュレを食べ終えた伯爵様は、目を閉じてセイロン茶を飲んだ。少し、怒っているような素振りにも見える。だが、伯爵様が怒っているというのに、レンは嬉しくて今にも泣き出しそうだった。
    「バロンは、そうじゃないと信じているよ」
    「ならばよし」

     残ったクレームブリュレは冷蔵庫に冷やしておいた。甘いモノが続いたせいか、レンは酷く辛いものが食べたくなったので、ソファでのんびりと読書している伯爵様に今夜のディナーはスパイスの効いたものでいいかと問うた。
     伯爵様は面白そうに笑って
    「お前の好きなもので」と答える。
     伯爵様はどこまでの辛さに堪えられるのだろうか、という好奇心が湧く。辛味を調節できるメニューにしようと、レンは調味料を眺めてレシピを考えた。



    CANELE


        1

     日の出すぐにカミュは目を覚ました。
     朝陽が射し込むほどではなく、部屋は仄暗く浮かび上がっている。
     夢を見ていたような気がした。珍しいことだ。目覚めがいい分、悪い夢ではなかったらしい。そんなことを思いながらベッドの中で微睡んでいると、外からクラクションがけたたましく聴こえてきた。この時間のパリはまだ眠っている。貴重なパリの静寂を邪魔するとは、愚かな行為でしかない。カミュはカーテンを開けて荒々しく窓を押し開き下界に向かって「Bruyant!」と叫んだ。
     アパルトマンの目の前に白いFIATが停車していた。同居人が外から運転席に手を伸ばしてクラクションを鳴らしている。カミュの姿に気がつくと、満面の笑みを浮かべて手を振った。
    「バロン! おはよう! さあ、はやく乗って!」
     言いながら再びクラクションを鳴らす。あまりの突拍子さにカミュは怒りを通り越えて、はやくこの騒音を鳴り止ませたくなった。
    「その音を止めんと今日一日中部屋で甘いものをたらふく食して過ごすからな」
     同居人の両手を上げて「もうしない」というポーズを見届けてから、カミュは急いで支度を始めた。またパリの静寂を騒音でかき消されることを思えばの行動だった。

     近くで見るFIATは予想よりも小ぶりだった。馬力は十分とは言えこれに大人二人が乗車すると、車内は暑苦しそうだ。
    「鉄道関係がストを起こしているそうでね、なら車を借りようと思ったんだけど生憎とこの可愛いレディしかオレたちの旅に付き合ってくれなかったんだ」
    「フランスでイタリア車とはな。それで、このお嬢様と何処へ行くのだ」
     同居人は助手席に回り込み、ドアを開けて中へ入るように促してくる。
    「カヌレが食べたいって言ってたろう? カヌレと言えばボルドーさ」
     カミュが助手席に座ると、レンは運転席に乗り込みシートベルトを締めた。
    「ボルドー? まさか、ボルドーまでこの車で行くのではないだろうな」
     やや狭い足元を見やってから、眉をひそめる。パリからボルドーまではオートルート(高速道路)を使っても五時間はかかる。
    「高速鉄道がストを起こしていない日に改めてはどうか」
    「それが明日から天候があまりよくないらしい。それに、フランスのオートルートは一度走ってみたかったんだ。景色もいいし、いいドライブになると思うよ」
     同居人は言いながらどこからともなく温かいカフェクレームとクロックムッシュを取り出してカミュに手渡した。カフェクレームはカミュ好みの味付けになっている。久しぶりに通常の砂糖の量が入ったコーヒーを飲んだような気がする。
    「出発するよ、バロン」
     見た目とはギャップのあるエンジン音をたてて、白いお嬢様は走り出した。サスペンションが利いていて乗り心地は不快とまではいかない。それでも、五時間座りっぱなしで堪えきれるのか、いささか不安はあった。

     フランス人の運転技術は日本人の比ではない。オートルートを走る車のほとんどは時速一二〇キロをゆうに超えているであろうスピードを出す。小さな白い車の横を高級スポーツカーが時速一七〇キロに近い速度をあげて追い越していく。
     そんな中、小型車にもかかわらず同居人の運転は賞賛すべきものだった。速度はまわりに合わせつつ、追い越そうとしてくる車に煽られないように上手く車線を変更しながら臨機応変に対応していく、安全かつ精神的にも快適なドライビングだった。車の運転というものは、型にとらわれ過ぎるとかえって危険なこともある。自由気ままだがまわりに合わせることが得意な同居人は、ドライバーとして向いているのかもしれない。
    「といっても、育てたのはこの俺だがな」
    「ん? なにが?」
     軽快なジャズに乗りながら指でハンドルを叩きリズムをとっていた同居人が助手席をチラリと見る。
    「よくもまあ、こんな小さな牝馬を滑らかに扱いならす、と思ってな」
    「そりゃあ、バロンが鍛えてくれたからね」
     フランスのオートルートは日本の景色とはだいぶ異なる。広大な畑が広がる中に、ぽつんと街が現れたりする。街の中心部から伸びる塔は修道院だろう。真冬のせいか、緑は少ないが、同居人がフランスを走ってみたかったというのも頷ける。
     休憩がてらにサービスエリアに寄ることにした。店の中は日本のサービスエリアと変わりない。土産コーナーがあり、軽食も売っている。カー用品も充実していた。
     カミュはミルクチョコレートとオレンジジュースを、同居人はレモネードとミント味のラムネを買った。FIATのバックドアを開けて荷台に二人して座る。
    「あれ、バロンはチョコレートだけ? てっきりずっと眺めていたマフィンを買うのかと思ったよ」
     同居人はペットボトルの蓋を開けながら言った。
    「隣にいた家族連れの奥方が、そのマフィンは美味しくないと言ってたのを聞いてな」
    「バロン、いつの間にフランス語を習得していたんだい」
    「日常会話のヒアリングぐらいはできる。スピークはまだまだ、だがな」
    「さすがだね、バロン。Frenchは諦めたよ」
    「シャンソンぐらいなら歌えるぞ」
     パリから離れた空は、青の中に小さな雲が流れていた。風もほとんどなく、冬の暖かな日差しが足元に影を作り出している。カミュの歌声は、異国の地にもよく合う。「パリの空の下」という名曲が、少しの間だけフランスのサービスエリアに華をもたらしたようだった。一番だけ歌い終わると、通りすがりの老夫婦に小さな拍手をいただいた。カミュはオレンジジュースを軽く持ち上げて礼を言う。
    「バロン、オレ、今すごくバロンにキスしたいぐらいだ」
     カミュは呆れたように笑いながらも、片手を差し出した。片手を受け取った同居人は、指先に口付けを贈る。それはまだ、親愛とも忠誠ともとれる口づけだった。

       2

     いつの間にか眠っていたらしい。目が醒めた頃にはすでにボルドーの市内を走っていた。パリと同系列のレンタカーショップにFIATを返す。同居人は別れ際、長旅を共にした白いお嬢様に「おつかれさま」と言って頭を撫でていた。たしかに、小さな体躯のわりに長距離走行を耐えぬいたと思う。
     ボルドー市内はトラムで移動することになった。
     ガロンス川に沿って三日月形に栄えたボルドーは別名「月の港」とも呼ばれる。ワインでも有名だが、港街ということもあって海鮮料理も名物のひとつだ。
    いわゆるフランスをイメージする古い街並みはユネスコに登録されるほどで、ここ数年で観光客も増えたらしい。あきらかに現地の民ではない観光客がよく目につく。
     ボルドーきっての名所である水の鏡は冬の間は凍結防止のため水が張られていない。念のため水の鏡がある証券取引所の前に行ってみたが、やはり水はなくコンクリートがむき出しのままだった。一八世紀ころに建てられた調和のとれたシンメトリーな建物を映し出す水の鏡はとても美しかろう。
     同居人はあまり観光名所を積極的にカメラに収めようとしない。どちらかといえば、その街の日常的なシーンにカメラを向けている気がした。よって、歴史的な建造物よりも、その建物を眺めて歩くカミュを撮影している。ときおり、カメラ目線で笑顔を向けると、同居人の深い蒼の瞳が三日月型になる。
    「今のバロンの笑顔、オレ知ってるよ。営業スマイルだね」
    「たまにはお前にもサービスしてやらんとな」
    「でも、そうやってオレをからかってるときの意地悪そうな顔も素敵だよ」
     思わず苦笑してしまう。最近は慣れてきたが、同居人の口説き文句には敵わないと時々思わせる。
     しかもこの男、社交辞令ではなく本心から言っている。カミュには社交辞令など通用しないと知っているからだろう。
    「お前は俺を気分良くさせるのが上手いらしい」
    「またバロンはそんなことを言う。けど、それってオレと一緒に居て楽しいってことでもあるんだね。嬉しいよ」
     カミュは否定も肯定もせずに歩き出した。しかし、同居人は嬉しそうに笑っているところを見ると、肯定とみなされているようだ。

     一一世紀に建築されたという教会を見学した。かなりの観光客が見学をしていたので、教会の厳かな雰囲気は感じられなかったが、それでも長い歴史を刻んできた風格を味わえる。細かな彫刻がなされた石造りの柱などは、まさにそれだけでも芸術品とも呼べるものだ。
    「こういう教会で結婚式を挙げたらレディは喜ぶだろうな」
    「なんだ神宮寺、カソリックだったのか。それともプロテスタントか」
    「日本人は宗派にかかわらず、好きなところで式を挙げるんだよ」
    「よくわからんな」
    「バロンは似合うだろうな、花嫁姿。白いベールにマーメイドドレスがいい」
    「は?」
    「え?」
    「なぜ俺が花嫁衣装を着なければいかんのだ」
    「似合うだろうと思って。美しい人はどんな姿でも美しいものだよ。それがたとえ花嫁姿でもね」
     そういえばこの男、女装したところでその自信は萎えることがない根っからのナルシストでもあった、ということを思い出したカミュは小さく息を吐いた。

     街をぶらぶらと歩いていると、甘い香りに誘われていた二人は(主にカミュが)カヌレの有名店を見つけた。イメージカラーであるボルドーレッドの扉を開けて中に入ると、綺麗に山積みされたカヌレが目についた。ショーケースには通常のサイズとミニサイズのカヌレが並んでいる。
     焼きたてのカヌレをひとつ買い、味見をする。かりっとした表面に、中はしっとりとした生地だ。焦げた外側のキャラメルのような味わいのあとに、ラム酒とバニラの香りがほどよく混じりあって口の中に広がる。美味い。
    「ときに神宮寺、カヌレはどのように生まれたのか知っているか」
     問われた同居人は、いつもと違い少し自信ありげな笑みを浮かべて答える。
    「一七世紀ぐらいかな、ワインの清澄作業に卵の蛋白だけ使われた。余った黄卵を再利用するために作られたお菓子、だったと思うけど」
    「ふむ、今回は調べてきたな」
    「バロンに負けてられないからね」
     購入したカヌレは、ボルドーレッドの箱に入れられた。全部で八個。カミュの単純計算では明日の朝までにひとつ残っていれば良いほうだ。
     夕方に近づき、小腹も減ったのでワイン酒場でボルドー・ワインとシーフードを楽しんだ。運転手であるはずの同居人まで、ワインをたらふく飲んでいる。
    「まさか、飲酒運転するのではあるまいな」
    「はは、ご心配なく。帰りはゆったりとTGV(高速鉄道)の旅だよ」
     そう言って、同居人はTGVのチケットを取り出して見せた。発車時刻はあと一時間半後となっていた。

       3

     本日の高速鉄道のストは午前中だけで終わったらしい。幸運にもほどがある。丸一日ストのせいでTGVには乗れなかったかもしれない。そうなれば同居人はきっと、ならボルドーに一泊すればいい、と言うだろう。
     土産にボルドー・ワインを買って、TGVに乗り込んだ。
     発車して間もなく、同居人は隣で寝息を立て始めた。朝早くから車の運転をしていたせいか、さすがに疲れたのだろう。カミュは自分のコートを同居人に掛けてあげた。風邪を引かれては困る。

     フランスに滞在して四日目、同居人はプレゼンの内容通りに役に立っている。いくら博愛主義のフェミニストとはいえ、男である自分にこれまで尽くす理由がわからなかった。
    昨日、同居人は言った。食欲や睡眠欲とは違う、何かを満たしてくれる、と。
     芸術を鑑賞したときに埋められる欲求や、感動的な映画を見た後に訪れる余韻に似たものを、人から与えられることがある。それはアイドルという存在もそうだろう。容姿や歌、演技などでお嬢様がたを魅了し、彼女たちの生きる糧となる。そしてアイドルもまた、ファンから愛されることで自尊心や自己顕示欲、また言葉に出来ない心の空間が埋まるのだ。
     しかし、カミュは同居人に対してアイドルとして接しているわけではない。
     むしろ、愛想をふりまくこともなく、先輩として厳しく説教をすることもある。
     それでも、自分と一緒にいると嬉しそうに笑い、楽しいと言う。
     先輩として敬われているのか、友人として楽しんでいるのか……
     カミュは持参してきていた文庫本のページが止まっていることに気がついた。行は目で追っているが、どうも内容が頭に入ってこない。もう一度ページを遡り、読み返そうとしたとき、同居人にかけていたコートが床に落ちた。拾い上げて、再び同居人に掛けてやる。
    「ん……」
     起こしてしまっただろうか。今はできれば寝かせてやりたい、という気遣いが生まれていたカミュは同居人が起きてこないかそっと顔を見つめて伺った。
     口元が動いている。なにか寝言を言っているようだ。
    「バロン」
     かすかに、自分の名を呼ぶ声が聴こえた。夢の中でも自分の世話をしているのかと思うと、少し同情が芽生える。
    「バロン……」
     再び、名を呼ぶ。今度は儚げに。
    「―バロン」
     三度目は、甘ったるく。
    「……バロン」
     そして、そのまま愛の言葉を重ねそうな艶めかしい声で。
     カミュの悪戯心が疼き、顔を近づけて耳元で低く「神宮寺」と囁いた。
     同居人は、幸福に満ち溢れたような笑顔をその均整の取れた顔に映し出す。
    「バロン」
     列車の音にかき消されそうなぐらいの、小さな言葉は、はっきりとカミュに届いた。
    「バロン、すき……だな」

     列車は日が落ちた夜の帳の中を走っていく。
     空は星空から一転して、厚い雲に覆われていた。
     パリの空は嵐の前の静けさに満ちていた。
     空模様は芳しくないようだ。



    ECLAIL


       1

     なぜか、幼い頃の自分が目の前にいた。
     いや、これは水面に映しだされた姿だ。自分の顔に手をやると、目の前の幼い自分も同じように顔に手をあてた。どうやら、数年分、若返ったらしい。
     肩まで伸びていた筈の燈色の髪は短く、幼い体躯にも合うようにこしらえた上等なスーツを着込んでいる。ああ、これはもしかすると、どこかのお屋敷のパーティーに呼ばれたのかもしれない。
     覗き込んでいた水面は、中庭の噴水のようだ。白い石膏で作られた噴水は、今は水流を止めている。噴水から水が出ていないことに残念に思い、パーティーに戻ろうかどうかと悩む。戻らなければ怒られるだろうか、いや、そんなことはない。自分はいなくても、滞り無く会場は楽しい雰囲気に呑み込まれたままだ。むしろ、自分などいないほうが、いい厄介払いができたと思うのではないか。
     そんなことを思っていると、突然、噴水から水が吹き出した。シャワーを逆さまにしたような、細かな水滴が降り注ぐ。屋敷から溢れてくる淡い光が細かな霧状の水滴に反射し、スパンコールのように煌めいている。噴水は勢いを増し、気がつけば自分の足元まで水が溢れていた。水かさはどんどん増していき、地平線はやがて水平線へと変化する。腰まで水に浸かりながら、辺り一面に広がる水面に映しだされた満月を眺めていた。
     屋敷から聴こえていた歓声も途絶え、降りしきる水音だけが木霊する。
     満天の星空と、望月に照らされた一帯の水たまり。そして、なおも水を噴き出している噴水。
     それをただ、静かに眺めている自分。

     目を覚ましたレンは、頬を濡らした水を片手で掬い取った。冷たい。部屋はまだ暗く、明かりはほとんどない。時間を確認しようとサイドボードに手を伸ばしかけた瞬間、シーツからさらけ出された肩と腰に水滴が落ちてきた。思わず飛び起きる。脚を動かすと、ぐっしょりと濡れたシーツの重みを感じた。
     レンはガウンを羽織って部屋のスイッチを入れようとした。だが、スイッチを押しても、部屋の電灯は明かりを灯さない。目を凝らしてみると、どうやら天井から水滴が落ちてきているようだ。手探りでベッドを確認すると、シーツだけではなく、マットレスの部分にまで水が滲み込み、この上で眠れるような状態ではない。
     とりあえず、サイドボードで充電中だったスマートフォンとタブレットを回収する。電子機器は幸運な事に濡れてはいないようだった。
     時刻はまだ午前三時、こんな夜中にじたばたと足掻いても仕方がない。朝を待ってみて管理会社に連絡を入れれば良い。レンは電子機器をリビングに避難させて、クローゼットから予備の毛布を取り出した。リビングの二人掛けのソファぐらいしか、ベッドの代わりになるものはない。ソファの上に毛布を置いてクッションを枕代わりにしようとした。その前に、伯爵様の部屋は無事だろうかと不安になる。起こすのも忍びないので、こっそりと伯爵様の部屋の中を覗き見た。伯爵様は静かに寝息を立てている。どうやら、水浸しの被害を被っているのはレンの部屋だけらしい。ほっと胸を撫で下ろして、ドアを閉める。
     ガウンからルームウェアに着替えて、ソファに寝転んだ。どう姿勢を工夫しても、脚がソファからはみ出てしまう。これもまた、致し方なし。レンは諦めて、目を閉じた。

       2

     身体の痛みで二度目の覚醒をした。さすがにサイズの合わないソファで眠ると身体が悲鳴をあげるらしい。あまりにも酷く痛めてしまって仕事に支障がでるのは避けたい。起き上がって、じっくりとストレッチをする。痛むのは腰と首だが、放っておけば治りそうだった。今夜の寝床がソファでなければの話だが。
     壁掛け時計を見て、レンは一気に血の気が引くのを感じた。時刻は午前十一時を過ぎようとしている。
     慌てて伯爵様の部屋のドアをノックする。予想通り、中からの返事はない。ドアの隙間から中を覗くが、人の気配はなかった。シャワールームにもいない。念のため自分の部屋も開けてみたが、天井から滴り落ちる水と、濡れたベッドしかなかった。
     いつもより少し冷える気がして、リビングの窓から外を伺う。ちらちらと、白い毛玉のような雪が降っていた。アパルトマンの前に停車している車も、カフェテラスのテントも、人が行き交う道路も、すべて真っ白に染め上げられていた。天井からの水漏れのせいで、てっきり雨でも降っているのか思い込んだが、まさか雪が降るとは想定外だった。ボルドーの旅を昨日のうちに決行していてよかったと思う。
    この雪の中出かけたのだろうか、と心配になるものの、元より雪国育ちの伯爵様である。レンよりも雪に慣れている。自分が心配するのもおかしな話だと、気を持ち直す。
     無意識のうちにテーブルに置き手紙がないかと探してみるが、見当たらない。スマートフォンにも連絡はないみたいだ。書き置きするほど遠方へ出かけたわけではなく、散歩にでも行ったのだろう。
     ともかくまずは管理会社に連絡しなければならない。幸いなことに、管理会社はショートステイを専門とする日本の企業のため、二十四時間体制でヘルプサポートを行っている。連絡すると、すぐに担当に繋がった。事情を説明すると、慣れているのか担当者はすぐに状況を察してくれて地元の水道工事会社に連絡してくれることになった。しかし、返ってきた言葉の先行きは良くない。
    「運が良ければ今日中、もしくは明日には工事に来てくれるでしょう」
     レンは窓の外で舞う雪を見ながら、良くて明日かなと絶望を感じた。

     冷えた身体を、シャワーで温め、それからホットコーヒーを作った。食欲はあまり湧かないが、なにか身体に入れておこうと、バケットにマスカルポーネチーズを塗って食す。伯爵様がいないと、どうも朝食に手を抜いてしまうようだ。
    もうすぐ正午となる。そろそろ、伯爵様がお腹を空かせて帰ってくるだろうか。それとも、どこかでランチを終えてくるのだろうか。一人でどこまで出かけたのか。いや、伯爵様のことだ、もしかするとフランスに知り合いがいてもおかしくはない。この機会に会っているのかもしれない。
     自分でも馬鹿らしいと思えるほどの妄想に近い思考が、頭の中をぐるぐると回る。
     せめて、帰宅時間ぐらい聞いたほうがいいだろうか。それは相手のプライベートを侵害することになりそうだと思ったレンは、連絡をすることを控えた。
     遅くまで寝坊してしまったから、呆れて一人で出かけてしまったのか。いや違う、きっと昨日の長旅のせいで疲れたんだと気を遣ってくれたのだ。悪い方向へと思考が傾きそうになる度に、レンは伯爵様の言葉を思い出す。

     目の前にいる男がそんな人間ならば、お前はいますぐ立ち去るべきだな

     こうして部屋でじっとしているとますます思考がネガティヴへと曲がりそうだったレンは、コートを羽織ってマフラーを巻き、部屋を後にした。
     セントラルヒーティングは建物全体を温めている。そのために、廊下までもが暖かい。だが、ひとたびエントランスを出てみると、足の裏から迫り来るような寒さだった。手袋を忘れてしまったことに気づくが取りに戻るのも面倒だったレンは、コートのポケットに手を突っ込んで歩き出した。
     数分歩けば肩を白くするぐらいには雪は降っているが、パリの人々は滅多なことでは傘を差すことはない。傘を買うことはやめて、せっかくなのでパリジェンヌらしく雪の中を歩いた。相棒のカメラは留守番だ。
     できるだけ人が多い通りを歩くと、身体を動かしたせいか、どこからともなく漂ってくる香りのせいか、小腹が空いたような気がした。朝食は味気ないバゲットを少し齧っただけ。せっかくだからランチでもしようと、ガーリックの香りがする店に入った。昼時のせいか、店内はやや混んでいる。レンはいつものように勝手に空いている席に座ろうかと店内を見渡していると、奥からやってきた愛想の悪いギャルソンに入口で待つように言われる。見たところ、空いている席はあったし、ギャルソンに入口で待つようになどと言われることが珍しかったため、レンは言われるがままに入口に戻った。
     すると、入れ違いに地元のパリジェンヌと思われるカップルが入店し、レンが狙っていた席に座った。予約でもとっていたのかと思ったが、reserveの札もない。証拠に、その後入ってきたパリジェンヌの女性も、すぐさま空いている席に通される。
     もしや……、と、レンは悟った。
     そして、静かに店を出ていき、再び雪の中を歩き出す。
     なにも、不当な扱いを受けたのはパリだけではない。各国を旅してきたレンは、幾度なく似たような経験はしてきたはずではある。しかし、今日は反論する気力も湧かない。
     雪とともに風も強くなり、逃げるように駅に入りメトロに駆け込んだ。
     メトロに揺られながら、パリに来てからのことを思い出す。そういえば、パリに来てからは、ずっと伯爵様と共に行動してきた。もしかすると、伯爵様のおかげで自分は不当な扱いをされずに済んでいたのかもしれない。
     自分は伯爵様を守る従者のつもりではあったのかもしれない。役に立っていると思い込んでいただけで、伯爵様は自分などいなくても、旅行は楽しめただろう。

     レンはドアに身体を預けて、通り過ぎるコンクリートの壁を眺めていた。いくつかの駅に停車し、そしてまた発車する。部屋に戻っても、またあのソファで眠るのは辛い。それならば、近くのホテルに宿泊したほうがいいだろうか。いや、それが良いホテルなら、そっちに伯爵様を案内したほうがいいかもしれない。自分はあの部屋に残って、工事会社の人が来るのを迎えなければ。
     睡眠の質が悪かったのかもしれない、頭がまだぼんやりしている。
     レンは元の駅に折り返そうと、次に停車した駅に降りることにした。
     目の前のドアが開かれたことに、反射的に降りようと身を乗り出した時だった。
     強く腕を掴まれた。
     驚いて振り返ると、伯爵様がそこに居た。
    「危ないぞ神宮寺。パリのメトロは停車せんままドアを開ける」
     言われてみれば、ドアが開かれてから数秒して完全に停車した。あのまま降車していたら転倒していたかもしれない。
    「さっさと降りるぞ」
     掴んでいた腕が離されて、伯爵様が先に降りる。レンは慌てて後に続いた。
    「あんなにボサッと突っ立っていたら、スリのいいカモだな」
    「ごめん、バロン」
     反対車線のホームに向かい、伯爵様はくるっと振り返る。手にはケーキの箱を持っていた。
    「あまり眠れんかったのだろう。管理会社には連絡したのか」
    「え、ああ……うん。明日には工事にくるだろうって」
    「明日か、日本じゃ考えられんな」
     ふふっと笑う伯爵様を見て、レンは泣きたくなるほどの安堵を感じた。少なくとも、呆れてはいないようだった。
     すぐにやってきた列車に乗り、二人してドアの付近に立つ。
    「オレがずっと寝ているから、バロンは呆れて一人で出かけてしまったのかと思ったよ」
    「まさか。お前の部屋の惨事を見て、寝不足だろうと思ってな。当初の予定ではすぐに帰るつもりだったが、たまたま立ち寄ったカフェでみっつ隣の駅に美味いエクレール屋があると聞いて足を伸ばしてしまった」
    「そうだったんだ。でも、また先の駅に行こうとしたのはなぜなんだい」
     レンは明らかにみっつ先以上の駅まで乗車している。
    「もう少し先の街にも美味いエクレール屋があると聞いた」
    「それは、行かなくていいのかい」
    「工事の者が来るんだろう」
    「それは明日だよ」
    「わかっておる」
     それから、元来た駅に戻るまで、二人は静かに窓の外を眺めていた。

       3

     ダイニングテーブルに、チョコエクレアと、もうひとつ桜色のコーティングがされたエクレアが平皿に並んでいる。レンは目の前の二食のエクレアをぼんやりと見つめていると、目の前に紅茶が出された。
    「あ、ごめん、紅茶淹れようと思っていたんだけれど、バロンに先越されちゃったな」
     伯爵様は何も言わずに、レンの隣に座る。いつもは向かい側に座るはずが、なぜか隣に座っている。
     いつもと違う行動をとられると、なにか理由があるのではないかと、レンは勘ぐってしまう。そしてそれは今日のように気分が落ち込んでいる日ほど、ネガティヴに捉えてしまうのだ。
     ティーカップを両手で包むように支える。温かなぬくもりが、冷えた手を温めた。
    「バロン……」
     昨夜見た夢を思い出す。誰もいない、満天の空の下。笑っても泣いても、そこに存在するのはただ一人。
    「今夜、さすがにソファで眠るのはきついから、近くのホテルに泊まろうかと思うんだ。もし、ちょっと良いホテルに空室があれば、バロンはそっちに泊まったほうがいいんじゃないかなって、思って。ほら、従者もいないこの部屋にバロン一人置いていくのは気が引けて……」
    「神宮寺」
     言葉の途中で、伯爵様がレンの名を重ねてきた。「なに?」と顔を上げると、伯爵様はエクレアが乗った皿をレンのほうへ滑らせる。
    「そっちのピンクのコーテングがしてあるエクレアは苺味だ。そこまで甘くはない。俺には物足りない甘さだからいらん。貴様が食せ」
     なかなかの強引さである。が、彼らしいとも言える強引さで、レンは素直に苺味のエクレアを手にとった。
    「ありがとうバロン。いただきます」
     一口齧ると、すぐに苺の甘酸っぱい香りを感じた。イチゴミルクのようなクリーミーさよりも、ペースト状にした果実を食べているような、自然な甘さだった。これはレンの好みではあるが、伯爵様の舌を満足させられるものではないだろう。
     伯爵様はもうひとつの、ショコラエクレアを食べている。
    「バロン、美味しい?」
    「うむ、ちょうどよい甘さだ。それでいてちゃんとカカオの風味も劣っておらん。ときおり、砂糖臭いだけのエクレアもあるが、これは甘さを活かしながら、コーティングしたビターなショコラで中和しているようだな」
     さすが、スイーツ関連のレポートの仕事をしているだけはある。的確なコメントに舌を巻いていると、伯爵様はぺろっとエクレアを平らげてしまった。
    「この苺のエクレアも美味しいよ。すごく美味しい」
     おそらく、彼は店で試食をしたのだろう。この苺のエクレアならば、レンでも美味しく食せるはず……、そう判断し土産として購入した。その経緯を想像しただけで、レンの中に巣食っていた青緑色の心が洗われていくようだった。
    「神宮寺、今夜は俺の部屋で寝るといい」
     エクレアが口の中にまだ入っていたら、思わず吹き出すか喉に詰まっていたかもしれない。レンは、聞き間違いかなと思い、ゆっくりと紅茶を啜っている伯爵様の顔を覗いた。
    「バロンの部屋で? ベッドはシングルしかないよ」
    「狭いベッドが窮屈で敵わんというならば、他をあたれば良い」
     レンは首を大きく横に振った。
    「オレより、バロンのほうが窮屈だろう」
    「それはお互い様だ」
     嬉しい。素直な気持ちに頼れば、「嬉しい」その一言に尽きる。だが、ここで彼の言葉に甘えてしまっていいのだろうかと、悩んでしまう。
     こんな風に、共にベッドで眠れる機会は二度とないかもしれない。きっと、伯爵様は友人ですら、同じ布団で眠るのを嫌がるだろう。緊急事態でもなければ。
     思い切って、甘えてみようか。言い出したのは彼のほうだ。ならば、甘えても許されるだろう。
    「なら、今夜はお邪魔しようかな。ありがとう、バロン」
     ティーカップをソーサーに置いた伯爵様は思い出したように「ああ」と呟いた。
    「ひとつ条件がある。寝るときはナイトウェアを着用することだ。守れんならば追い出す」
     そんな条件ならば容易い。
     レンは微笑んでから「もちろん」と答えた。

       4

     再び、満天の星空の下にいた。一面の水はどこかへ消えて、草原が地平線まで続いていた。リンドウの花が咲いている。黒天鵞絨の暗幕に穴が空いたかのような、大きな満月がレンを見下ろしていた。
     冷たかった水ではなく、どこからか生ぬるい風が吹いてきてレンの短い髪を巻き上げた。
     また、ここで独りなのか。
     孤独を感じないように、心を閉ざさなければならぬ。
     リンドウの花が風に揺れた。
     すると、足元に咲いていたリンドウの花弁の中から、ランプのように光が灯った。その光は隣のリンドウへ、また隣のリンドウへと広がっていき、気がつけば辺りすべてのリンドウが青白く輝き、レンを真下から照らした。
     それは人工的に創りだした光とも違う。優しく温かな、光だった。
     その荘厳な景色に見とれていると、どこからか微かにチェロの音が聴こえてきた。
     心に安寧を生み出すような低く落ち着いた弦の音。
     奏者を探すために、レンは光り輝くリンドウの花畑を走った。
     目印はパンくずではなく、そのチェロの音色のみ。
     時折立ち止まって、音源の方向を確認する。
     また駈け出してみると、満月の方へと向かっていた。
     やがて、レンは奏者に出逢う。
     しかし、レンは奏者が誰なのか、思い出さずに朝を迎えるだろう。
     
     夢の中で、その曲が「アヴェ・マリア」だと知っているのは、奏者のみだが、奏者もまた、それはレンに伝えることなく、夢の中の出来事として胸の中に仕舞っておくのだった。




    FLORENTINS



       1

     どうやら神宮寺レンは想像以上にInsecureだと言える。
     浅く積もっていた雪が解け、濡れた石畳みを歩きながらカミュはその結論に至るまでの思考をこなしていた。
     吐く息はまだまだ白い。だが、この程度の寒さは慣れている。
     隣を歩く同居人はストールを首元に巻きつけているが、背は丸めておらずに姿勢よく歩いている。たとえ神宮寺レンをアイドルとは知らない異国の地といえども、隙を見せることのない佇まいだった。職業病、というよりも、幼い頃から培ってきた育ちの良さ。そして、同居人のネガティヴな一面であるInsecureのせいでもある。
     他人の目を異常なほどに気にしすぎている。
     同居人をよく知らぬ者からすれば、ただのナルシストに見えるかもしれない。だが、カミュは知っている。同居人は己の姿よりも、他者の心をよく視ている。
    「バロン、昨日はありがとう」
     滞在中のアパルトマンからメトロに乗って、セーヌ川を渡り、下車したところで同居人が言った。
     セーヌ川を背にして、一四区に向かって歩き出す。
    「ふん、貴様はすやすやとよく眠っておったわ」
    「そうかな、そうかもしれないね。こんなに良く眠ったのは久しぶりかも。あ、でも、バロンは眠れなかっただろう。ごめん」
    「この仕事を始めて得た特技ができた」
    「なんだろう」
    「どこでも眠れる、というどうでもいい特技だ」
     実際に、過酷なスケジュールの際は隙間を狙ってできるだけ睡眠をとるようにしていた。よって、ロケバスはもちろんのこと、外ロケの待ちの間に座っているディレクターズチェア、船の甲鈑の隅、様々な場所で眠れるようになってしまった。しかし、誰かにそれを悟られることはない。黒崎蘭丸のように、人目もはばからず眠るような愚かな行為はしていない。が、どこでも眠れるというのは、この職業には欠かせないものなのかもしれない。
    「それなら、よかった。バロンは他人と一緒に寝るというタイプじゃなさそうだから、眠れないのかと思ったんだよ」
     そう言われて、ふと、最後に誰かと床を共にしたのはいつだったのだろう。と、思い返す。思い浮かぶのは、腹を空かせて起こしにくるアレキサンダーの顔ばかりだ。
    「俺の国では、赤ん坊の頃から親とは別々のベッドで眠る。誰かと一緒に眠った記憶はないな」
    「ああ、欧米ではそうらしいね。自立心を促すためとか」
    「そうだ、珍しくもない」
     空はいまだに厚い雲で覆われている。この辺りは人も閑散としている。葉をつけていない街路樹が並ぶ石畳みの道は、鬱蒼とした空気を纏わせていた。
     人気のなかった道だったが、なにもないところに突如、観光客で賑わう一角が現れた。見た目は地味な一八世紀に建設されたと見られるかつて市門だった石造りの建物だ。
    「バロン、行きたいところがあると言っていたけれど、もしかしてあそこ?」
    「そうだ」
    「あれは、何の建物なんだい」
    「カタコンブ」
     カミュの言葉を聞いた同居人の顔がやや引きつる。
    「まさか、あの?」
     パリの古い建物は、ほとんどが石造りだ。では、その資材となる石はどこから採掘するのかというと、パリの地下というご近所である。何世紀にもわたって掘り出された地下は、たちまち迷宮のように入り組んだ穴だらけになってしまった。この地下トンネル、昔は魔術師の仕事場、フリーメイソンの集会場、第二次世界大戦中はレジスタンスの隠れ家にもなったそうな。しかし、現在はこのカタコンブ以外の入口はすべて塞いでしまったらしい。
     カタコンブ、つまり「納骨堂」だ。
     このパリのカタコンブは市営納骨堂である。一八世紀の頃に、パリ中の墓地からあぶれた無縁仏たちがこの地下トンネルに集められた。その数はおよそ六百万人分。
     今ではパリの奇妙な観光名所として有名だ。
    「バロンがこういう、ちょっとオカルトちっくな場所に興味があるとは思わなかったよ」
    「そうか?普通の観光ではつまらんだろう」
     意地悪そうに微笑むカミュの前に、同居人は頬を赤らめると諦めたように歩き出した。

       2

     黄泉への入口は、百段以上の螺旋階段から始まる。
     二〇メートルもの深い穴の中へ潜っていく感覚だ。
     カミュは時折後ろを振り返りながら、階段をくだっていく。階段では流れが悪いせいか、見物客たちで騒がしい。
     地下に降り立ち、一本道を歩いて行く。気温常時十四度。ところどころにしかない灯りと、前を歩く見物客たちを頼りに進むしかない。薄暗いトンネルの天井から、水滴が落ちる。背後から「冷たい」という声が聴こえた。
     曲がりくねった道の奥に、死の門が現れる。
    「ふむ、『止まれ、ここが死の帝国だ』か。洒落た文言を刻んでおるな」
     カミュの隣に立った同居人は、門を眺めてから深く息を吐いた。
    「バロン、本当に行くのかい」
    「ここまで来たら引き下がれんだろう。早く行かないと、人気のない道を歩くことになるぞ」
     前を歩いていた見物客はどんどん奥へと進んでいく。人の気配がしなくなった灯りの乏しいトンネルは、不気味さをいっそう引き立たせた。
    「わかったよ、歩けばいずれはゴールに辿り着く。……と信じていいんだよね」
     仄暗い闇の中で、不安そうにする蒼い瞳が鈍く光る。無理に連れてきた手前、早く勧めと急かすわけにもいかない。
     と、ここまで考えたところで、いつもの自分らしい思考ではないと気づく。が、時はすでに遅い。
    「亡者たちに腕を引っ張られぬようにな」
     カミュは冷えきった同居人の手を取り、門をくぐった。

     写真で見るのと実物では相当に圧倒的な違いがあった。赤銅色の人骨が、両側の壁一面に積み重ねられている。それも、規則的に整頓された具合で並べられており、まるで人骨そのものが建造物の装飾の一部のようだった。
     人骨の頭部の両目は真っ黒な空洞だ。だが、人の骨と思うだけで、視線を感じるような気さえする。
     同居人も同じことを感じ取ったのか、握られた手に力が入った。
     壁だけではなく、柱にも骨、いくら進んでも、あるのは骨のみ。
     これが千メートル以上もずっと続く。
    「バロン、オレ、さっきから気になることがあるんだ」
    「なんだ」
    「骨にも表情があるということ」
     言われてみれば、笑っているように見えたり、憤怒しているように見えたりするものもある。これだけの感想が言えるぐらいには、同居人は人骨だらけの空間に慣れてきたということだろうか。
    「あと、美人もときどき見かける」
    「お前の骨も、美しかろうな」
    「や、やめてくれよバロン……」
     いつの間にか前方を歩いていた見物客の姿が見えなくなっていた。どうやら引き離されたようだ。背後からも人がやってくる気配はない。聞こえるのは天井から落ちてくる水滴と、足音、息遣いだけだ。
     静かに歩きながら、カミュは「さて、なんと報告すべきか」と考えあぐねていた。カミュとて、興味本位だけで納骨堂など訪れようとは思わない。主からの依頼であった。
     主は気軽に市営納骨堂など訪れることが困難な立場にある。しかし、どこかでこのカタコンブのことを耳にしたらしい。たまたまパリに旅行へ行くというカミュに、代わりに見てくるようにという主命が下されたのだ。そのため、報告義務が否応なしに発生する。
     報告内容を考えていた思考が跳びに跳んで、いつの間にか神宮寺レンについて分析をはじめていた。手の温もりに誘われたのかもしれない。
     こうまで神宮寺レンの分析に時間を費やすことになるとは思ってもみなかったことだ。おそらく、神宮寺レンの分析をしてしまう原因のひとつに、一昨日の彼の寝言があると思われる。

    ―バロン、すき……だな

     この「すき」とは、どのような意味が含まれるのだろうか。like、favorite、love、単純に英語に置き換えても三通りの意味に変化する。共に旅行をしようと言い出したのだから、無関心ではないことは感じていた。好かれてはいる、だろうが、神宮寺レンは誰とでも波長を合わせることが得意のようだった。カミュ自身、特別とは思ってもいなかった。
     カミュの心情は他所に、同居人は人骨たちの感想を述べながら着いて行く。何か話していないと、人骨たちの無音のお喋りに堪えきれないのだろう。確かに、静かになると、どうも騒がしい気配がより強く感じる。同居人はさすがにカメラを構える気にはならないらしい。一度もファインダーを覗こうとはしない。
     カミュは恐怖もなければ、見知らぬ死者を弔う気持ちもない。ただ、幾年にもわたって積み上げられてきた「死」を眺めている。
     「死」という言葉には確定された意味がある。
     命を失うということ。それ以外の意味はない。
     少なくともlike、favorite、loveのように大きく違う意味を持つことはない。
     カミュは自嘲気味に笑う。
     たかが寝言だ。夢の中では思ってもみないこと口走ることもある。脳の情報処理にいちいち気にする必要はないだろう。
     気にする必要がないことを、気にしている。
     それも、一昨日からずっとだ。
     そして、確かめてみたいとさえ、企んでいる。
     トンネル内の気温、常時十四度。
     カミュは握りしめた同居人の手を、己のコートのポケットに入れた。

       3

     随分と長い道のりを歩いて、ようやく出口にたどり着く。出口には土産屋があり、ドクロをモチーフにした雑貨などが売っている。広場を抜けて、カミュの本来の目的である洋菓子店を目指した。カタコンブの出口にほど近いところに、その洋菓子店はある。
     同居人の手はポケットに突っ込んだままだ。口数はうんと減り、カミュから話しかけてやっと返答する、といった具合だった。カタコンブから脱出しても、同居人はカメラを構える隙がないようだった。
     目的の洋菓子店は、薄暗い路地にあった。店のウィンドウから洩れる光だけが、あたたかく感じる。店内に入るとドアベルが鳴り響き、焼き菓子のバターとアーモンドの香りが鼻に飛び込んできた。店内は大人二人がくっついたまま歩き回れる広さではない。自然と手が離れた。
    「すごく、甘くて、いい匂いがする」
     久しぶりに同居人から話し始めた。しかしいつもの気さくさは息を潜めて、よそよそしさはある。
    「この店の名物はフロランタンだ」
    「フロランタン、ああ、だからナッツの香りがするんだ」
     円形のフロランタンが、無造作に透明の袋で包装されている。底はチョコレートでコーティングされており、表面は薄く切ったナッツが琥珀色に煌めくキャラメルで覆われていた。一週間ほど日持ちがするというので、五つ入りを四袋購入する。
    「バロンは甘いものを手に入れる時、とても大胆になるよね」
     店を出て、カミュは買ったばかりのフロランタンに齧り付く。ナッツとキャラメルの香ばしさのあとからオレンジピールの爽やかな香りが後から追いかけてくる。その裏で、甘さ控えめのビターチョコレートのほろ苦さが舌の上でとろけた。
    「そんなことはない、俺とて躊躇うこともある」
     すると同居人は心底驚いた表情になってカミュを覗き込んだ。
    「おかしいな、オレはまだ見たことがない」
     今現在ちょうど躊躇っている、と言いかけてカミュはやめた。とても意味深な言葉に思えてならなかったからだ。

     アパルトマンに戻ると、同居人の部屋の水漏れ工事が終わるところだった。同居人の荷物は全てカミュの部屋に移しており、さらに部屋に鍵もかけている。念のため、ということだ。何かあれば、お互いに嫌な思いをするだけならば、防犯に越したことはない。
     同居人の濡れたマットはすっかり乾いている。今晩からでも自室で眠れるだろう。
     同居人は自分のベッドメイクを終えてから、キッチンで紅茶を淹れた。ティーカップを持ってソファに座り、カミュに差し出す。
    「フロランタンという名前にはいくつかの説がある」
     紅茶を受け取ったカミュは、おもむろに語り出す。
    「フロランタンには『フレンチェの』という意味があり、イタリアから伝わったとされる説。そして、パリの洋菓子職人フロランが発祥という説」
    「そうやって、同じ言葉から二つの意味があるのは興味深いね」
     名前はひとつ、だが、抱えているペルソナはいくつもある。それは菓子の名前に限ったことではない。カミュという名の中には、アイドルと女王陛下に仕える伯爵の二つのペルソナが混在している。そして神宮寺レンも同じく、アイドルと神宮寺家三男という二面性がある。便宜上、二面性とは言ったが、もっと細分化すれば数多くのペルソナが存在するだろう。人は菓子よりも複雑だ。
     だが、どんなに複雑な内面性をはらんでいようとも、確かなものはある。
    「説は数あれど、この甘さは変わらぬ」
     一袋食べきったところで、カミュは満足そうに微笑んだ。フロランタンは日本でも名店といえる店で買ったことは何度もある。同じフロランタンでも、店はもちろんのこと、国も違えば味も違う。どれも甲乙つけがたい甘みだ。
    「……バロン」
     幸せそうに食べ終わったカミュの横顔を見つめていた同居人が、じっと見つめてきたかと思うと、手を伸ばしてくる。
    「口元に、ナッツがついてるよ」
     同居人はカミュの口の端についたナッツの欠片をひょいと摘むと、指先を舐めとるようにナッツの欠片を食べた。そして、悪戯をした後の子どものように微笑む。
     神宮寺レンはInsecureだと、カミュは思っている。だが、臆病さを微塵も感じないほどの大胆さも持ち合わせている。そうでなければ、カミュという人間と数日共に過ごそうとは思わないだろう。
    「バロン、近所に羊の肉の美味しいお店があるんだ。ディナーはそこにしないかい」
    「そうだな、そろそろBEEFとPOKEにも飽きてきた頃だ。いいだろう。それに……」
    「それに?」
     同居人は首を傾げてカミュの台詞の続きを待つ。
    「お前の選んだ店は、俺の舌によく合う」

     ソファに座る二人の距離は、確実に近づきつつあった。
     睫毛の毛先から、青い瞳の虹彩まで視認できる。
     間近で見る神宮寺レンの嬉しそうな満面の笑みを見ながら、
    「やはり、この者の骨は美しかろう」
    と、カミュは想像するのだった。



    FONDANT AU CHOCOLAT



       1

     この旅も明日で終わる。朝の飛行機に乗り遅れないように今日中に荷物を整理していたレンだったが、伯爵様からお使いを頼まれることになった。
    「ここのフォンダンショコラは絶品だという。それでいて冬季限定商品だそうだ。ぜひ食してみたいが俺はやらなくてはいけない用事がある」
     店の地図と住所が書かれたメモ用紙をレンに渡しながら伯爵様は用件を伝えた。地図を見るとメトロに乗った方が早そうだと思ったが
    「そのルートは景色も良い。歩いて行くがいい」
    と伯爵様からすすめられ、レンは相棒のカメラを持ってアパルトマンを出た。実際に、地図に沿って歩いていると、パリの隠れた名所とも言える街並が視界に入って目を楽しませてくれる。あの伯爵様はいつの間にこんなルートを見つけてきたのか。
     セーヌ河沿いに広がるチュイルリー公園を抜けて橋を渡り、シテ島に行き着く。
     シテ島はセーヌ河の中洲になる小さな島だ。パリ発祥の地ともされ、古代には紀元前一世紀頃すでに人が住んでいたという歴史のある中洲とも言える。このシテ島を有名にしたのは、ノートルダム大聖堂の存在だろう。パリ観光には外せない土地だ。
     レンはマフラーに顔をうずめるようにしてノートルダム大聖堂を見上げた。ゴシック建築の最高峰といわしめるその外観には圧倒されるしかなかった。建物の正面であるファザードの縁にも細かな彫刻がされており、そのうえにはユダヤとイスラエルの王二十八人の彫像がずらりと並んでいる。
    十二世紀から十三世紀、建造年数は二百年を要した。歴史ある聖堂だが、フランス革命以降、たびたび破壊、略奪があったという。それから百年近くもの間、このノートルダム大聖堂は廃墟と化していた。
     その廃墟を大幅改装するきっかけとなったのはヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」である。今ではパリを代表する観光名所のひとつとなっている。
     レンも「ノートルダムのせむし男」は映画で見たことがあった。なるほど、映画で印象的だったガーゴイルが塔の上から見下ろしている。

     ぼんやりと上を向いていたレンは、咄嗟に身をよじって背後に立つ男から逃れた。同時に、乱暴なフランス語で「向こうへ行け」と怒鳴る。男は肩をすくめて、さっと人混みの中へ逃げていった。
     プロのスリだ。
     このあたりは観光客も多く、その分スリも集まってくるのだという。
     運良くスられたものはないが、隙を作っていた自分を悔いた。いつもならありえないことだ。
     どうも、昨夜からのぼせ上がった頭がなかなか冷静にならない。
     ノートルダム大聖堂の大きなバラ窓を見ながら、アクアマリンの虹彩を思い出す。
     このパリに来てからというもの、少しずつだが、カミュと自分との距離が縮まっている感覚はあった。それは精神とも肉体ともいえない、存在そのものが近づいている、レンはそう感じている。
     しかし、だからといって、それ以上のことはない。
     レンは、湧き上がる欲望を自制する。

    「夜になるとトイレの水は流さない」という近隣住民に気を遣いながら生活せざるを得ないほどの小さなシテ島だが、カフェやスイーツの店もよく目につく。これは真冬でなければ食べてみたいジェラートの店を見つけた。夏に来た時にはぜひとも味わってみたい。
     伯爵様が望むフォンダンショコラのある店は、このシテ島にあるという。少し入り組んだ道の奥に、それらしき店を見つけた。あたりにショコラの香りが漂ってくる。間違いないだろう。
     フォンダンショコラは、あのスイスのチョコレートメーカー「リンツ」で、チョコレートの製造過程の失敗によって生まれたという。失敗はしたものの、食べてみると意外と美味しかったということだろう。
     失敗を失敗として終わらせるか、それとも別の何かに昇華させるかは受け取り方次第だ。レンも、今回の旅は万事成功とはいえないとは思っている。
    「それでも、いずれ未来のどこかで、あのパリの旅は面白かったと言ってもらえるといい」
     フォンダンショコラを二つ購入して、レンはセーヌ川を眺めながら歩き始めた。

       2

     予想よりも遅くにアパルトマンに着いた。途中で街並みや公園を撮影していたせいもあるだろう。
     フォンダンショコラは、自宅で温めなおすようにと言われた。レンジで簡単に焼きたてのフォンダンショコラが蘇るのだそうだ。二つ購入したが、どちらも伯爵様のものになる。一つならきっと不機嫌になっていたに違いない。そう考えながら、エントランスから螺旋階段を上ると、食欲のそそられる香りが漂ってきた。ビーフシチューに似た香りだ。どこかの家の夕飯はシチューらしい。
     しかし、その香りは三階に来たところでより強くなった。もしかして、と、半ば期待しながらドアを開けると、はっきりとしたビーフシチューの香りとともにキッチンに立つ伯爵様の姿が見えた。小柄のスープ用の小鍋をお玉で掻き回していた伯爵様は、レンの姿に気づくと振り返った。
    「予想より早かったな。だが、運良くディナーは完成している」
     調理中暑かったのか、伯爵様は白のシャツだけ羽織って袖をまくっている。
     ディナーを作ったのは誰なのか、訊くまでもなかった。
    「まさか、バロンにディナーを作ってもらえるとは感激だな。ビーフシチューかい?」
     レンはフォンダンショコラが入った紙袋を伯爵様に手渡す。受け取った伯爵様は中身を確認せずに頷いて作業台に置いた。
     ここでレンは、お使いに行かせたのはこのためか、と悟る。
    「似たようなものだが、これはボルシチだ。ビーツという赤カブのような野菜を使う。さて、少し早いが今夜はのんびりとディナーを楽しもう」
     レンはマフラーとコートを脱いで、テーブルについた。目の前にはすでに生ハムとレモンのグリーンサラダ、ピロシキとワイングラス、それにキャンドルカップまで並んでいた。セッティングも美しく、カラトリーもひとつひとつ正確に並んでいる。
     伯爵様はそれぞれの平皿にボルシチを注ぐ。仕上げにサワークリームの塊を乗せる。そして、グラスに赤ワインも注いだ。ボルドーで買ったワインだった。
     伯爵様も向かい側に座ると、グラスを持ち上げた。
    「Happybirthday Ren」
     次の瞬間、レンの脳内は思考が迷走した。
     たしかに、今日は自分の誕生日だ。しかし、なぜそれを伯爵様は知っているのか。知っていたとして、これは誕生日だから用意してくれた祝いの席なのか。
    「どうした、飲まんのか?」
     思考停止したレンを面白そうに眺めながら、伯爵様は先にワインの味見をした。レンもワインに口をつける。それからボルシチをスプーンで掬って食べた。
    「美味しい」
     レンは味わいながら、ボルシチのスープ、柔らかく溶けた牛肉、ビーツを口に運んだ。
    「すごく、美味しい、バロン」
     少しスパイスの効いたボルシチだった。おそらくレンの好みに合わせたのだろう。ピロシキにもとても良く合う。
    「こんなに美味しいロシア料理は初めてだ」
     レンは溢れる涙を抑えることなく、瞳から流した。ここでは、この涙が最高の賛辞だと思ったからだ。伯爵様は満足そうに笑み、ワインを飲み干した。

    「さて、そろそろデザートの時間だな」
     ボルシチを食べ終わった伯爵様は、キッチンに向かいフォンダンショコラを温め始めた。皿に盛り付けて、生クリームを添える。それを自分の席に置くと、レンの前には苺のタルトを置いた。
    「これもバロンが作ったのかい?」
    「まさか、タルトだけ市販のものだ。飾りつけは俺がした」
     グラスワインやボルシチの皿が手際良く片付けられ、その間に蒸らしておいた紅茶もデザートの隣に添えた。
    「いただきます」
     フォークで苺から食べる。甘酸っぱいが、苺の独特な風味が強い。生クリームと良く合う。下のタルト生地までフォークが及ぶと、先端に硬いものが当たる感触がした。なんだろうとフォークでほじくりだすと、小さな王冠が現れた。摘んで、フォンダンショコラを味わう伯爵様に見せてみる。
    「ティアラが出てきたよ」
    「ああ、それはフェーブというものだ。本来は公現祭の日に食べるガレットの中に入っている。フェーブを引き当てた者は王冠をかぶり、一年間幸福が続くんだそうだ」
    「それって、子ども向けのイベントじゃないのかい?」
    「大人がやってはいかんという決まりもない。今日一日、お前が王だ」
     伯爵様は姿勢良く坐り直すと、片手を胸元にあてた。
    「何なりとお望みを、我が王」
     レンは戸惑いながらも、自分の望みはなんだろうと考えた。今のところひとつしか思い浮かばない。
    「本当に、何でもいいのかな?」
     日本には無礼講といいながら、その実まったく無礼講ではないことがある。そのための確認だった。
    「私に二言はございません。火の中水の中、行けといえば行って参りましょう。はたまた蓬莱の玉の枝を取って来いと言うのならば、喜んで羅刹那に参りましょう」
     そこまでの覚悟があるならばと、レンはフォークを置いてゆっくりと息を吐いた。
     何度目かの呼吸のあとに、ようやく声が出る。
    「なら、今夜一緒に寝てもいいかい?」
     胸の中で、鳥が暴れているように激しい鼓動が聞こえた。
     伯爵様はじっとレンの顔を見たまま、無表情を崩さない。これは少し踏み込み過ぎただろうか。そう不安に駆られそうになったが、伯爵様の表情がふわりと柔らかい笑みに変わった。
    「もちろん、王が望むならば喜んで」

       3

     いくら王とて就寝時の着用は義務付けられている。シャツとスウェットパンツを穿いたレンは枕を持って伯爵様の部屋に向かった。緊張しながらドアをノックする。すぐに中から返事があり、レンはそっとドアを開けて中に入った。
     室内はすでに照明が落とされて、チェストに置かれたランプの下、伯爵様は眼鏡をかけて読書中だった。
    「お邪魔します」
     断りを入れてから、伯爵様の隣へ潜り込む。枕に頭を埋めると、ちょうど目の前には伯爵様の腰が緩やかな曲線を描いている。
    「眩しいなら消すが」
    「大丈夫だよ。何を読んでいるんだい」
    「プルースト『失われた時を求めて』その第四編だ」
     名前は聞いたことあるが、読んだことはない。たしか、とても長い小説だったとしかレンには記憶が無い。しかし、小説の冒頭、主人公が紅茶に浸したマドレーヌの香りから昔の記憶を呼び覚ますというシーンが描かれている。そのことから、匂いと記憶が深い結びつきがあり、香りを嗅ぐことによって思い出が蘇ったり、記憶が引き出されたりすることをプルースト現象と呼ぶことは知っていた。
    「ボルシチの香りを嗅ぐたびに、今日のことを思い出すんだろうね、オレは」
    「食べたくなったらいつでも食わせてやる。だが、ボルシチは時間がかかる料理だからな。早めに言え」
    「わかったよ、ありがとうバロン。それに、今日のディナーも嬉しかった。誕生日を覚えていてくれたことも」
    「最後の日ぐらいは、従者に礼をせんとな」
    「ふふ、バロンに着いてきた旅だったけど、オレにとって最高の旅になったよ」
     読書の邪魔をしてはいけないと思い、レンは口を閉ざした。目の前にある腰にすがりつきたい衝動がある。この腰を抱きしめたら、とても温かいだろう。女性とは違い、少しかたいかもしれないが。
     うとうとし始めてきたところで、伯爵様は本を閉じてランプを消した。布団の中に潜り込む気配がする。
     心地よい眠気の中、伯爵様の吐息が鼻にかかったような気がした。半分夢のなかに入っているのだろうか。前回、一緒に寝た時、伯爵様は背を向けていた。今回もまた、背を向けているはずだ。
     しかし、どうしても人の息遣いがとても近くに感じる。レンはそっと目を開けた。
     窓から月が覗いている。月明かりの下で、薄いアクアマリンの瞳が光を放っていた。
     レンの眠気が消えた。代わりに、胸の鼓動が早くなる。
     目と鼻の先で、淡い水色の瞳がこちらを見ている。レンは、その瞳から逃れられずに、見つめ返していた。
     吐息が鼻にかかる。脚を動かそうにも、相手の脚にぶつかりそうで身動きがとれなかった。
     いつから、伯爵様はこれだけのパーソナルスペースに入ることを許してくれたのだろう。もしかすると、まだ、もう少しだけ、許してくれるのかもしれない。
     レンは高鳴る鼓動を抑えながら、ゆっくりと顔を近づけた。どんどん、自分の枕の端にまで辿り着く。
     鼻先が触れそうな距離だ。それでも、伯爵様はレンを突き放すこともなく、逃げることもなく、じっと見つめてくる。
     ここまで許されたのなら、上等じゃないか。
     自分に言い聞かせ、眠ろうと目を閉じた。
     刹那、唇が触れ合った。
     しかし、もうレンは驚くことはなかった。この距離感は、自然と二人にしかるべき行動をとらせたのだ。
     はじめは確認し合うように、やがて、お互いの気持ちが交じり合うキスを繰り返す。
     甘い香りがした。甘いものばかり食べているせいで、体中に砂糖が溶けきっているような甘さだった。
     レンはボルシチだけではなく、甘いものを食べるたびに、この一夜を思い出すのだろう。
     抱きしめたカミュの身体は、予想よりもかたく引き締まっていたが、誰よりも安らげる温度だった。




    BOUL DE NEIGE




       1

     今日のパリは平和だった。
     パリ国際空港ではストライキもなく、スムーズに飛行機に搭乗できた。カミュは隣で眠る元同居人を眺めながら、パリの街で買い込んだおやつを食べていた。空は限りなく快晴。澄んだ青の中に、機体が吸い込まれていく。
     チョコレートを食べつくしてから、また新たなお菓子をテーブルに広げた。袋からころころと、白磁と薄紅色の丸いものが転がる。カミュは白磁の玉をひとつ摘んで口に放り入れた。玉を包み込む白い砂糖の粉が口の中でふわふわと広がったあと、柔らかいクッキーのようなさくさくとした食感に変わる。甘くて香ばしい、アーモンドと小麦の香りだ。
    「ブールドネージュ」。今朝、せっかくだからとアパルトマンの隣にあるパン屋へ赴いたとき、ちょうどできたてのブールドネージュが店頭に並んでいるところだった。カミュが何かを言う前に、元同居人が出来立てのブールドネージュを手にしていた。
    「バロン、飛行機の中で食べるだろう?」
     言いながらすでに支払いを済ませていた。
     そのままアパルトマンに戻り、最後の荷支度をする。なぜか、トランクに衣服を詰め込む姿を、元同居人は傍で撮影していた。
    「神宮寺、見せてみろ」
     二人はベッドに座り、一眼レフカメラのディスプレイを覗いた。
     日本の空港の売店で、カミュがお菓子を買い込んでいる姿からはじまる。それから、このアパルトマンに移り、マルシェでトマトを物色している姿、ボルドーへ行く道、助手席で眠っている姿と順にこのパリの旅の時間がカメラのディスプレイの中で進んでいく。中には、いつ撮影したのか気づかないカミュの姿まであった。
     ディスプレイの中で時が進むにつれて、自分の表情が変化していることにカミュは気づいた。おそらく、撮影していた元同居人はもっと早くに気づいていただろう。こんなにも楽しげに微笑む自分がいることを。
    「あと数時間後には日本か……わかってはいたけれど、淋しいものだね」
    「お前は、会いたい奴がたくさんいるのではないか」
    「もちろん、みんなに会いたい気持ちはあるよ。でも……、こうしてバロンを独り占めできる時間はないのかもしれないなって」
     カミュは、翳りを見せる元同居人の横顔を見た。
    「なんだ、今回みたいにこの俺を餌付けすればよかろう」
    「餌付けって……、この旅にそんな意味はないよ」
    「そうか? てっきり、餌につられてノコノコついてきたと、思っていたのではなかったのか」
    「バロンは……相変わらず意地悪だな」
     ディスプレイから視線を上げた元同居人は、困ったように笑った。褐色気味の唇から、白い歯が溢れる。カミュは、半ば無意識に親指で相手の唇を撫でた。
    「日本に帰っても、俺の心はお前の傍にある、レン」
     元同居人はさらに嬉しそうに破顔すると、カミュの手に自分の手を重ねた。
    「敵わないなぁ、バロンには」
     そうして、二人はその部屋での最後のキスを交わした。

       2

     機内映画は有名なアメリカのスパイものアクション映画だった。それを見ながら、かつて自分もスパイを演じたことを思いだす。そう、元同居人も同じ組織のスパイだった。あの公演時期もよく元同居人に車で送ってもらっていた。
     そういえば、と、ブールドネージュを嗜みながら、さらに思い出す。
     元同居人は、いつから自分のことを特別な存在だと認識したのだろうか。
     まともに話し始めたのは、おそらくシャッフルユニットの頃から。あれから、二人で出演する仕事も増えた。
     よく美味いスイーツの店があるからと茶に誘われていた。あれは、元同居人が誰にでも気さくに話しかけるような人間だったから、不思議に思わなかったものだ。だが、もしかすると……
     カミュがそう考え込んでいると、隣で眠っていた元同居人が目を覚ました。静かな機内の中、エンジン音と、微かな乗客たちの寝息。そして「バロン」と小さく囁く声。
     隣の、元同居人はカミュの姿を確認すると、安心したように寝ぼけた顔のまま微笑んだ。彼はよく笑う、とカミュは思う。
     そして、その笑顔を見ると、彼の望むことを叶えたくなる衝動にかられる。そうして、また、新しい彼の笑みを見たいのだ。
    「眠れんのか?」
     カミュは身を寄せて、耳元で訊ねた。しかし、元同居人は「いや……」と首を横にふる。
     元同居人はじっとカミュを見つめたまま、手を伸ばしてきてカミュの手を捕らえた。優しく握りしめて、親指でその存在を確認するかのように、手の甲をなぞる。
     夕陽のような橙色の髪、その間から覗く、オーシャンブルー。
    「お前を見ていると、次は南国の夕陽を眺めたくなる」
     寝ぼけた顔の元同居人は、不思議そうな表情を滲ませた。
    「そうかな、なぜだろうね。オレって南国っぽいイメージかな」
    「南国も似合うだろうさ」
     果てなく続く水平線、真っ赤に輝く太陽を背にして、夏至南風が彼の髪の毛を揺らす。
     また、凝りもせずにファインダーを覗くのだろう。
     カミュは、目の前の情景を心の底から見てみたいと望んだ。
    「次は、南国へ行こう、レン」
     元同居人は頷いた。
    「とても素敵な場所を知っている。また、オレに任せてくれるかい」
    「もちろん、お前が美しいと思う場所に行きたい」
     
     あと四時間もすれば、日本に到着する。
     元同居人だった恋人は、アイドル神宮寺レンへと還る。
     それでも、二人で会うときは、このパリで過ごした時が戻ってくるのだろう。



    TARTE AU CITRON



       1

     レンは、胸の前で十字を切ってから両手を握りしめて神に祈った。
     そして、オーブンの扉を開いて、そっと金属の取っ手で天板を引き出して中身を確認する。メレンゲの状態は良好だ。心から安堵して、メレンゲが壊れないようにテーブルに敷いたコルクマットの上に天板を置いた。粗熱が取れてから冷やしたほうがいい。
     もう一度、レンは息を大きく吐き出してから、髪を結いでいたゴムを解いた。ソファに寝転んだところで、心配そうにアレキサンダーが覗き込んでくる。
    「ふふ、今度は上手くいったよ」
     両手でアレキサンダーの顔を思いっきり撫でてやる。アレキサンダーを構ってやるというより、自分が癒されたいだけとも言う。存分にもふもふを堪能してから、アレキサンダーを抱き上げて添い寝の態勢に入る。
     三度目の正直だった。初めて作ったものは、焼きすぎてメレンゲが焦げすぎた。画像をSNSにアップしたら、各方面から「キクラゲか?」とコメントをもらい、レンは意気消沈する。味は悪くないが見た目が悪い。二度目は上手くいったが、自宅からカミュの部屋まで運んでいる間にメレンゲが割れてしまった。それならばと、カミュが日中仕事で不在な間に、キッチンを貸してもらうことにした。できるなら、perfectな状態で食べてもらいたい。
     信じてもいない神にすら祈りたくもなる。
     まずまずの完成度で作られたタルト・オ・シトロンに満足して、レンは目を閉じた。

     パリから戻ってきたカミュは自宅へ向かう車の中で「あ」と声をあげた。
    「タルト・オ・シトロンを食べ損ねてしまった」
     助手席で落ち込むカミュを見て、レンは首を傾げる。
    「タルト・オ・シトロン、食べたかったのかい?」
    「ああ、日本じゃ販売している店が少なくてな。有名どころは食べ尽くした」
    「食べ尽くした……さすがだね、バロン」
     ハンドルを切りながら、パリでのスケジューリングを思い出す。どう考えても毎日のようにスイーツを食べていたあの生活の中に、新たなスイーツの入る隙などなかったような気もする。それでも、無理やりねじ込んで食べてしまうのがカミュなのだろう。隣で唸る姿を見ていると、相当悔やんでいる。
    「なら、オレが最高のタルト・オ・シトロンをバロンにプレゼントするよ」
     カミュの自宅前に車を停めて、シートベルトを外す。
    「ほう、お前がセレクションするのなら楽しみではある」
    「その代わり」
     レンは身を乗り出して、カミュに顔を近づけた。
    「ご満足いただけましたら、ご褒美を……バロン」
     距離を詰めてもカミュは逃げようとはしない。レンはそのまま唇を重ねて、チョコの香りが残るキスを味わった。
     日本で初めて交わしたキスだった。


       2

     目を閉じた後、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。室内は薄暗く、夜の帳が忍び込んでいる。ローテーブルに放置されていたリモコンで明かりを灯す。アレキサンダーも目を覚まし、膝の上に顎を乗せて上目遣いでレンを見つめる。
    「もしかして、お腹が空いたのかな」
     頭を撫でてやると、尻尾を千切れんばかりに振り回す。レンは起き上がって、アレキサンダーにご飯を用意した。自分の腹部を撫でる。こちらはあまり空いていないらしい。
     粗熱が取れたタルトを冷蔵庫に仕舞い込んで、レンはコートを羽織った。玄関の前で口笛を吹くと、ご飯を食べ終えたアレキサンダーが飛んでくる。扉を開けると、まだ冬の残り香が漂っていた。吐く息も白く染まる。
     カミュの住む屋敷の周りは広大な森に囲まれている。私有地のために人は寄りつかない。おかげでマスクもサングラスも装着することなく、気ままに散歩ができた。アレキサンダーもハーネスを付けることなく、自由に森の中を駆ける。ただ、すでに陽は沈んでいるため、屋敷の光が届かない奥までは深入りしないようにした。
     傍にあった切り株に腰を据えて、携帯端末を取り出す。カミュからの連絡はない。収録の予定時刻はとうに過ぎているが、予定通りに終わることはまず少ない業界だ。それに今日はカルテットナイトの四人で番組に出演すると聞いた。そんな日は収録が押すことも珍しくない。それは同じ業界に身を置くレンだからこそ、理解できることでもある。
     だがしかし、理性はわかっていても、本能が追いつかないこともある。
     焦る気持ちを落ち着かせようと、今頃は執事モードであの柔らかで完璧な笑顔を作っているのだと妄想した。サモトラケのニケの前で言っていた、アイドルとしてのカミュ。そしてアイドルとしての神宮寺レン。カメラの前では、お互いに完璧にペルソナを被っている。
     帰国してから一度だけ、収録が重なったことがある。生放送の歌番組だった。事務所の先輩でもあるカルテットナイトの控え室にスターリッシュ全員で赴き挨拶をした。部屋の入り口で音也が先頭に立って並ぶ。当たり障りのない挨拶のあと、寿嶺二が後輩の緊張を解そうと場を和ませる。黒崎蘭丸が叱咤激励をくれる。美風藍はその様子を眺めている。その間、カミュはずっと紅茶を飲みながら栗羊羹を食べていた。少し淋しく思いながらも、ここでは事務所の先輩としてのカミュなのだと思い直して自分たちの控え室へ戻った。
     レンが鞄の中から携帯端末を取り出したと同時に、メッセージが届く。

    Camus:噛むなよ

     自然と笑みが浮かび上がる現象をレンは体験した。口元を片手で隠す。

    Ren:オレが噛むのはバロンの首だけ

    Camus:馬鹿者

     その後の収録中、司会者に「今日はずっと楽しそうだね」と言われて、そこでようやくペルソナが剥がれかかったままカメラの前に立っていたことに気がついた。
     あの時、満足そうに微笑んでいたカミュの顔も忘れられない。


       3

     夜風で身体が冷えてきたので、レンはアレキサンダーを呼んで屋敷に戻った。玄関に入ると、どこからか紅茶の香りがする。アレキサンダーが尻尾を振ってダイニングに駆け込んでいく。レンもアレキサンダーの後を追ってダイニングに向かう。
     アレキサンダーはすでに主人に頭を撫でられていた。レンもソファに座るカミュの後ろから抱きつくと、頭を撫でられた。
    「まるで犬が一匹増えたようだな」
    「お利口なワンコだろう」
     そうしてカミュの頬に唇を当てた。
    「遅くなってすまないな。収録が長引いた」
    「連絡くれたら迎えに行ったのにな」
    「お前が待っている家に戻りたかった」
     この一言だけで、会えない日々の淋しさが埋まってしまう。掌の上で転がされている気もしたが、それも悪くないとレンは微笑む。
    「バロン、完璧なタルト・オ・シトロン食べてくれるかい?」
    「ついに完成したのか」
    「おかげさまでね、ちょっと待ってて。切り分けて持ってくるよ」
    「そうだな、今日中に観ておきたい映画がある。観ながら食そう。多めに切り分けてくれ」
    「承知したよ」
     レンはコートを脱いでから、冷蔵庫から取り出したタルトを大きめにカッティングした。皿に乗せてから、ミントの葉と生クリームでデコレーションする。小さなフォークを添えて、ダイニングへと戻りローテーブルに置いた。
     カミュはテレビに向かって操作していたリモコンを置き、代わりにタルトが乗せられた皿を手にした。
    「ふむ、見た目もいいな」
    「そうだろう、初めからここのキッチンを借りればよかった」
     フォークを手にしたカミュは器用にタルトを小さく切ってから先端に突き刺す。
     そして、口の中に入れて、目を閉じて味わった。
     ほんの数秒だったが、レンはカミュの一連の優雅な所作を眺めながら、胸の中が暴れるのを感じた。
    「ふむ、メレンゲのふんわり感とタルト生地の硬さがちょうどいい。甘さとレモンの酸味のバランスも悪くはない」
     レンは「悪くはない」と聞いて、緊張から解放された。それはカミュにとっては最高の賛辞のひとつだ。
    「ホールひとつ分作ったから、たくさん食べられるよ」
    「ならば遠慮なくいただこう」
     レンはカミュの隣に腰を下ろして密着した。
     部屋の明かりを落とし、映画を流し始める。次の仕事で演じる役の勉強にと「戦場のピアニスト」という映画を観ることにしたらしい。レンもカミュも一度は視聴済みだったので、俳優の演技や台詞を考察し合いながら楽しんだ。
     時折、タルトを咀嚼するカミュの口端に口づけする。すると、映画に集中しているのかと思えば、不意にカミュから口づけを返してくる。そしてまた視線を画面に戻す。
     映画ファンには叱られるかもしれないが、エンドロールではすでに二人とも画面を見ていなかった。テーブルの上には冷めた紅茶と、二度目のお代わりをした皿が置きっぱなしだ。   二人の足元で、アレキサンダーが丸まっている。
     レンは失敗したタルトは全て自分で食べきっていた。そのため、正直言えばもうあと何年かは食べたくないと思っている。
     しかし、カミュの舌の上で溶けたレモンの風味は格別だった。あれだけ食べて飽きたはずのレモンの味が、今はもう離れ難い。吐息の時間さえも惜しい。
     約束通り、褒美をカミュから与えられ、レンは努力が報われる快感をも味わった。そうしてまた、カミュという男にどんどん深く嵌っていく。
    「バロン、本当は日本に帰ってきたら、魔法が解けるような気がしていたんだ」
     カミュが意外そうな表情を作ってから、何か企みのある笑みを浮かべる。
    「それで、魔法は解けたのか」
     レンは小さく首を横に振った。
    「魔法はもっと強く、オレにかかってしまった」
     血色の良いレンの頬を、カミュは親指で撫でる。
    「俺もだ、レン」


     二人で過ごすこの時間は、あのパリで過ごした日々と同じように、甘くとろけてカミュとレンを包み込む。
     誰も知らない、ペルソナを脱ぎ捨てた二人だけの素顔を晒して。




























    とある日の夕暮れ時






























    Ren:バロンバロンバローン

    Camus:貴様はネットの世界でもやかましいな

    Ren:今日は返信が早いね、とても嬉しいよ

    Camus:たまたま読書に一区切りついたところだったからな

    Ren:タイミングが良かったんだね

    Camus:偶然にな

    Ren:ねえ、バロン

    Camus:なんだ、用件を早く言え

    Ren:バロン

    Camus:早く言え

    Ren:好きだよ

    Camus:それはすでに知っている

    Ren:初めてバロンの歌声を聴いたときから好きだった。
    これは知ってた?

    Camus:それは知らなかった

    Ren:心奪われた。でも、それを恋だと自覚するのはもう少し後のお話さ。同性を口説くのは初めての経験だから、まだ手探りだけれどね

    Camus:愛の伝道師と息巻いていたのは見栄か

    Ren:オレのチャームポイント

    Camus:話を終えるぞ

    Ren:待って、バロン。あのね、だからオレは決めたんだ。
       ストレートに伝えようってね。オレの気持ち

    Camus:ほう

    Ren:だからね、バロン。
       好きだよ

    Camus:たしかにストレートだ

    Ren:そうだろう。
       こうやって真っ直ぐに伝えると、心に響かないかい

    Camus:潔い

    Ren:好きだよ、バロン。この間の新曲もすごく良かった。毎日聴いてるよ。ブレスの使い方がすごくエロティックだ。それに低音がとても綺麗に流れている。オレも低音パートだから、勉強になるよ。

    Camus:ふむ、そのような賛辞は悪くはない

    Ren:バロンはオレに優しいね。そこも好きだ

    Camus:神宮寺

    Ren:どうしたんだい、バロン
    Camus:愛している、レン

    Ren:バロン、ちょっと今、上手く文字が打てない

    Camus:たしかにストレートに伝えると効くらしい

    Ren:バロン、ありがとう、オレも愛している

    Camus:うむ

    Ren:ところで、ディナーができたよ

    Camus:ネットでいちいち言うな、そして前フリが長い

    Ren:驚かせたくって

    Camus:今、下に行く

    Ren:待ってるよ

     


















                          了                     




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