遠い意識の表層で、心地よい風が吹いているのがわかった。
そして誰かが呼ぶ声。――ばじ、ばじ、と。
あの声は、俺の幼馴染だ。いつも気の抜けた、だが無茶苦茶に強い男。
あいつがこんな声で俺を呼ぶなんて、きっと何かあったんだろう。
仕方ない、帰ってやるかと。その時はそう思えた。
ただ、あいつに会いたいと。そう思ったのだ。
❖ ❖ ❖
「ばじ」
今にも消え入りそうな声に、ゆっくりと瞼を開く。どれほど寝ていたのか、あまりにも身体が重くて指一本動かせない。まるで宇宙飛行士が地球に帰ってきた瞬間、みたいだ。
見知らぬ白い天井。視界を取り囲む薄緑のカーテン。枕元で断続的に鳴る電子音は心臓の動きを知らせているようだ。ああ、と思う。死ななかったのだ、俺は。
とっくに陽は落ちているらしく、窓の外もこの部屋も薄暗かった。微かに差し込む月の光だけが、ぼうっとベッドを浮かび上がらせている。
持ち前の根性で、どうにか頭を動かした。人一倍重力を感じる身体はぎしぎしと軋んで、首がもげてしまうかと思う。しかしそんな痛みも、そこに居る存在に気付いた瞬間に吹き飛んでしまった。
――マイキー。佐野万次郎。俺の幼馴染。
マイキーはベッドの脇に置かれたパイプ椅子へ腰掛けて、シーツに突っ伏して寝ていた。こちらに向けられた寝顔は真っ白で、時折聞こえる微かな寝息が無かったら、こいつは死んでいるかもしれないと思っただろう。
マイキー はどうしてここにいるのだろうか。兄を殺し、チームを裏切った男なんかのところに。
声を掛けようとして、やめた。墨を塗ったような隈が気になって、今はまだ寝かせておきたいと思ったのだ。
そうして、どれくらいの時間が経ったのだろう。不思議とこいつの寝顔に飽きることはなかった。死人のように眠る顔を眺めながら、己のしてきたことに想いを巡らせる。
あれから抗争はどうなったのだろう。稀咲は、半間は。トーマンは。――一虎は、ちゃんと生きているだろうか。あれから何日経過しているのかすらわからなかった。
「ん、――……」
寝言かと思えば、隙間なくびっしりと生えた長い睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がった。青みがかった黒い瞳はまだぼんやりとしていて、半眼のままどこかを揺蕩っていた。
「ば、じ……?」
夢でも見ているかのように名を呼ばれ、思わず笑ってしまった。腹筋が引き攣れて死ぬほど痛い。そうだ、俺は自分の腹を刺したんだったと今更ながら思い出すことになった。
「なんだよ、マイキー」
喉から出た声は隙間風のようで、酷く掠れていた。久しぶりの発声に喉がついていかない。けほ、と咽ればまた酷く腹が痛んだ。
現実を認識したらしいマイキーの瞳は、すぐにまん丸に見開かれる。がばりと身体を起こすと、瞬間移動かと思うほどのスピードで枕元に顔を寄せてきた。掴みかかりたいのを、怪我人だと思い出してどうにか押し留めた、そんな風に。
「場地……? 場地⁉」
「うるっ、せ……耳元で騒ぐんじゃねえよ」
「起きたんだな、よかった!場地……!」
マイキーの震える手に握られたシーツは可哀想なほど皺が寄っている。それを見て、どうしようもない気持ちにさせられた。俺なんかに、そんな風になるな。
「俺、どれくらい寝てたんだ?」
「一週間」
「げえ、まじかよ」
「医者に意識が戻るかわかんねえって言われて……血ぃすげー出てたし、病院運ばれた時にはほぼ死んでた」
「はは、ヤッバ」
「マジで笑いごとじゃねえから。笑うな」
突然の冷えた空気。確かにマイキーは少しも笑わない。何がそんなに許せないのか、静かな怒りを滲ませながら、ただ俺の瞳がちゃんと開いて自分を映しているのをじっと確認しているようだった。多分、俺の何もかもが許せないんだろう。
「一虎は、生きてんのか」
「……」
「マイキー」
「……生きてるよ」
それを聞いて、ほうと胸を撫で下ろした。一虎にとっても、マイキーにとっても良いことだ。
「殺さなかったのか。偉いな」
「……っ、場地が、そうしたんだろ……!」
どす、と拳が枕の横に打ち込まれる。殴ってくれたら良かったのに。
「ごめんな、マイキー」
「何だよそれ。何に謝ってんだよ」
「……全部だよ。俺がしでかしたこと、全部」
「俺を残して死のうとしたことも?」
「ああ、それも」
怒りに燃えるマイキーの手が、俺の髪を掴む。びり、と走る痛みに顔を顰めると、すぐに唇を塞がれた。まるで気が立った獣に喰われるみたいな、そんな感覚。乾いてひび割れたそこを乱暴に暴かれ、ぬるついた舌が捻じ込まれた。俺がついさっき意識を取り戻した怪我人だなんて、こいつの頭からはすっかり抜け落ちてしまったらしい。それほど、怒っている。置いて行こうとしたことに。
「ん、っ――、は……」
「ばじ、ばじ……」
まるで譫言のように繰り返される己の名前。それを遠くで聞きながら、久しぶりに味わう男の唇に翻弄されていた。
マイキーの舌は冷たくて、薄くて、よく動く。これでもかと歯列をなぞられ、舌を吸われ、唇を食まれた。今起きたばかりだというのに、その気持ち良さにまた気絶してしまいそうになる。とろりと蕩けた世界の中で、耳に届く電子音が速度を増していった。いやこれめちゃくちゃ恥ずかしいな、と思う。
甘んじてそれを受け入れていると、慣れた唾液の味に混ざって微かに鉄の味がした。その不味さに顔を顰めていれば、それはどんどん濃くなっていく。仕方なく男の袖を引いた。
最後に、ちゅ、と音を鳴らして、長ったらしい怒りの主張が終わった。マイキーは覆い被さっていてた身体を起こすと、見せつけるように己の濡れた唇を舐め、乱れた髪を掻き上げる。その瞳に宿っていた怒りは、いつしか熱に変わっていた。
「相変わらず、場地の八重歯は凶器だな」
「……お前ががっつきすぎなんだろ」
ただでさえ俺の八重歯は鋭いのだ。あれだけ舌を出し入れすれば、そりゃ切れると思う。
「ばじ、抱きたい」
ぽつりと零された言葉。内容の割に悲壮感に満ちた声音をしていて、どくりと心臓が鳴った。
「お前、俺を殺す気かよ」
「今じゃねえよ。だから、早く元気んなって」
そう言うと、マイキーは再びこちらに圧し掛かり、我慢できないというように唇を落とした。無理やり捻じ込まれる舌に、また切ってもしらねえぞ、と思う。
ぐしゃりと皺が寄ったシーツ。冷たい唇。ぽつりと頬に落ちた水滴には、気付かないふりをした。
この男は、俺の心臓が動いていることがまだ信じられないのだろう。だから呼吸を乱して、身体の熱を感じて、理解したいのだ。
こいつが満足して俺の生を信じられるようになるまで、何だってしてやる。
俺がしてやれることは、きっともうそれくらいしかないのだ。
了